ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

世界共産党史(連載第11回)

2014-06-12 | 〆世界共産党史

第5章 冷戦時代の共産党

3:ユーゴ共産党の独自路線
 1947年に結成されたコミンフォルムには、当初ユーゴスラビア共産党も参加していた。その指導者チトーは前章でも見たとおり、ユーゴのパルチザンの英雄であり、独立達成後は、制憲議会選挙で勝利した共産党を中核とする人民戦線政府の首相に就いていた。
 しかし、他の東欧諸国と異なり、強力なパルチザン組織によりソ連の支援を得ず独力で独立を勝ち取った民族主義志向の強いユーゴ共産党はスターリンの不興を買い、48年に早々とコミンフォルムを除名される。
 除名後のユーゴ共産党は対外的にはソ連従属の否定、対内的には市場的要素を伴った分権的な自主管理社会主義を基本路線として採択し、ソ連とは異なる道を歩むようになる。52年には共産党の一党支配も廃され、イデオロギー的な指導機関としての共産主義者同盟に組織変更されるに至った。
 このような体制はたしかにスターリン主義体制と袂を分かつ程度には異質であったが、終身大統領チトーを頂点とする権威主義的体制であることに変わりなく、その点ではスターリン型の首領指導制の亜類型であった。また共産主義者同盟もソ連共産党のような独裁政党ではないと規定されたが、複数政党制が容認されたわけではなく、事実上は同盟が政権を独占していた。
 連邦体としては、6つの民族共和国と2つの民族自治州から成る共和国連邦という点でソ連との類似性もあったが、ソ連よりも緩やかな多様性が強調された。しかし、それも多分にしてプロパガンダの域を出ず、民族的な分離独立は厳しく抑圧された。
 こうしてソ連陣営を離れて独自の道を歩み出したユーゴは国際政治面でも、東西両陣営に属しない非同盟諸国運動のリーダーとなり、非同盟中立という第三の陣営を形成した。非同盟諸国運動はフルシチョフ政権以降、ソ連離れを始めた中国をもオブザーバーに加えて、発展を見せた。
 ユーゴの分権体制はソ連型社会主義のオールタナティブとして西側では好意的に注目されたが、所詮はチトーの個人的な権威でもって結合を保っていたにすぎなかったため、スターリンの死後も命脈を保ったソ連とは異なり、80年のチトー死後のユーゴ連邦は凄惨な内戦を伴いながら崩壊の道を転げ落ちていく。

4:ユーロコミュニズム
 西側諸国の共産党では、イタリア共産党を中心にユーゴよりも一足先にソ連離れが起きていた。イタリア共産党では、1940年代にトリアッティ書記長が議会制民主主義を通じた社会主義革命への道を理論化した。実際、イタリア共産党はこの路線に基づき、戦後民主化されたイタリアで議会選挙に参加し、勢力を伸張させ、野党ながら最大政党となって国政に地歩を築き、多くの地方自治体首長も輩出した。
 こうしたイタリア共産党の議会政治での成功は、同様に議会政治が発達した他の西欧諸国にも影響を及ぼし始める。68年のソ連軍によるチェコスロバキア侵攻(プラハの春)はこの傾向を決定づけた。
 チェコでは48年の政変以降続いていたソ連に忠実な共産党支配体制が揺らぎ始め、68年には改革派のドプチェク新書記長の下、「人間の顔をした社会主義」を標語とする体制内改革が始められた。この改革は一党支配の緩和と連邦制導入、市場経済要素の導入、検閲廃止などのかなり踏み込んだ自由化改革プログラムを含んでいた。
 これに危機感を持った党内保守派と同様の改革の波及を恐れたソ連指導部や衛星諸国指導部は軍事介入を決断し、同年8月、ワルシャワ条約機構軍がチェコに侵攻、占領したうえ、親ソ指導部にすげ替えた。
 この武力による改革潰しは西側共産党のソ連離れを加速させた。イタリア共産党はこの軍事介入を公然と非難した。西側共産党では「モスクワの長女」と呼ばれるほど親ソ派であったフランス共産党でさえ、70年代以降、マルシェ書記長の下、ユーロコミュニズムに接近する。
 こうした議会制への参加を基本とするユーロコミュニズムは一方で、西側の資本主義市場経済との妥協も意味したから、この路線は次第に西側共産党を革命的な共産主義から穏健な社会民主主義への道に転向させ、最終的にはイタリア共産党のように中道政党への組織転換・事実上の消滅へと導かれていく。

コメント