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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(2)

2014-06-26 | 〆リベラリストとの対話

0:序説的対論(下)

リベラリスト:「自由な共産主義」という概念で気になるのは、「共産主義」という用語がどうしても旧ソ連やその旧同盟諸国で起きていたこと、そして現在共産党が支配している諸国で起きていることを連想させるため、「自由な」という形容詞と不調和になってしまうことです。

コミュニスト:私もその点を考慮して、それらの共産党支配体制が掲げる共産主義は真の共産主義ではないことを強調しつつ、そうした自称共産主義体制の政策とは非常にかけ離れた政策を提示したつもりです。

リベラリスト:それは理解します。ですが、一度染み付いたイメージはなかなか拭い切れないもので、「共産主義」と聞いてしまうと、それだけで耳を塞ぐ米国人も存在するでしょう。用語でも、普及させるためには、ある種のイメージ戦略は必要だと思いますね。

コミュニスト:実のところ、私も「共産主義」という言葉を使うべきかどうか、迷いました。この点、漢字の同音異字を生かして、「協産主義」という造語も検討したのですが、英訳しようとすると、適語が見当たらず、結局断念したのです。

リベラリスト:そうでしたか。私の見るところ、「自由な共産主義」はマルクス主義よりアナーキズムの影響のほうが強いように思えるので、はっきりアナーキズムを名乗ることも一考に値するように思うのですが。

コミュニスト:お言葉ですが、それはできません。アナーキズムは政治思想の側面が強く、生産様式に関してはあいまいにされているからです。やはり社会の軸となる生産様式の問題に踏み込むためには、「共産」の文字はいかにイメージが悪かろうと、落とせないように思います。

リベラリスト:前回も指摘したことですが、「自由な共産主義」はアメリカインディアンの思想に近いことに着目して、「インディアン主義」とでも名乗ってみては。

コミュニスト:興味深いご指摘ではありますが、アメリカインディアンの思想に共産主義的な要素があるとしても、それは原始共産主義に近いものだと思います。「自由な共産主義」はあくまでも、工業化・情報化という近代の所産を基盤に成り立つものですから、現代的共産主義でなければなりません。その点で、インディアン思想と直結させることには、抵抗を覚えます。

リベラリスト:貨幣も国家も否定するのに、「現代的」というのも、逆説的なアイロニーに聞こえます。

コミュニスト:近代的な所産を全否定するという単純で狂信的な思想ではなく、それを乗り超えていくというポストモダン的な共産主義と言えば、必ずしも逆説ではないと思います。

リベラリスト:そう言えば、「自由な共産主義」には一昔前のポストモダン理論からの影響も感じられますね。ということは、近代的な資本主義や議会制民主主義も全否定はしないということですね。

コミュニスト:そうです。資本主義のプラス面は認めますし、議会制民主主義の歴史的な貢献も認めたうえで、それらを乗り超えて次の段階に進もうという趣旨なのです。

リベラリスト:私としては、共産主義について対論する前に、資本主義のプラス面や議会制民主主義の歴史的な貢献について、もっと聞かせて欲しいですね。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(1)

2014-06-26 | 〆リベラリストとの対話

0:序説的対論(上)

コミュニスト:リベラリストさん、今回はお忙しいところ、拙論『共産論』をめぐる対談のため、お相手となっていただき、ありがとうございます。米国人と共産主義について語り合うめったにない機会を与えていただき、光栄です。

リベラリスト:私も、今回対談相手に選んでいただき、光栄です。あなたの『共産論』の中で「自由な共産主義」とか「アメリカ共産主義革命」といった概念を非常に興味深く思っており、対談を楽しみにしております。

コミュニスト:早速ですが、「自由な共産主義」というものに対する率直なご感想を。

リベラリスト:「自由な共産主義」という概念は、共産主義に対する一般の米国人の常識を破る非常に興味深いものだと思いますが、それだけにこの概念を本当に理解することに、一般の米国人は苦労するでしょう。私もここで言う「自由」の意味が今一つ理解できていないのです。

コミュニスト:ここで言う自由とは、単に好き勝手なことができるという意味ではなく、「・・・がない」というような意味です。英語のfreeには、こうした用法がありますよね。「自由な共産主義(=free communism)」のfreeは、特に貨幣と国家がないことを暗示しています。つまり、共産主義社会では人は貨幣と国家から解放され、自由になるのです。

リベラリスト:なるほど。しかし、そうなると、かえって不自由もあるのではないでしょうか。特に貨幣経済がなくなり、計画経済となることで、経済活動は大きく制約されます。このことは、建国以来自由経済に慣れた米国人にはむしろ「不自由」と映るでしょうね。

コミュニスト:計画経済といっても、旧ソ連のように国家の行政機関が計画して指令するというものではなくて、生産企業体自身が共同的に計画して実行する経済ですから、その点ではいわゆる「統制経済」とは本質的に異なるものです。ある意味では、「自由な計画経済」とも言えます。

リベラリスト:なるほど。それは、言わば経済界全体で生産調整をするようなものですね。資本主義経済の下でも、極めて重大な経済危機に瀕した時には、そうした全体調整をすることも例外的にはあり得ますが、そのような例外状況を日常化してしまおうという大胆な発想と思われます。

コミュニスト:計画経済というのは、単なる「調整」ではなく、「計画」ですから、規範性を持つ経済計画に基づいて生産活動が実行されるのですが、たしかに比喩としてはおっしゃるとおりかもしれません。

リベラリスト:規範性というと、そこにはやはり統制的な要素もあるということですよね。

コミュニスト:しかし、法律のような固い規範ではなく、随時修正可能な柔軟な規範です。

リベラリスト:おそらく、米国人にとっては、貨幣より国家から解放されるという話のほうがポジティブに受け取れるでしょう。米国人は建国以来、政府の役割をあまり重視しません。政府は必要悪としか考えないので、なくて済むならないほうが良いという考えです。

コミュニスト:そうですか。ただ、ここで言う国家なき社会運営とは民衆会議という会議体を通じた統治のことですから、単なる無政府主義=アナーキズムとは異なることにご注意ください。

リベラリスト:わかりました。ふと思ったのですが、あなたの構想は、「土地は無主物」という理論といい、民衆会議による直接統治論といい、アメリカインディアンの伝統思想に近いような気がするのですが。

コミュニスト:直接参照したわけではなかったのですが、結果としておっしゃるとおりであることに気がつきました。

リベラリスト:言わば、「インディアン共産主義」といったところですか。それも興味深いですね。この対談がますます楽しみになってきました。

※本記事は架空の対談によって構成されています。

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