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世界共産党史(連載第12回)

2014-06-23 | 〆世界共産党史

第6章 アジア諸国共産党の功罪

1:共産党の成功
 アジア地域は、全般に共産党が最も成功し、定着した地域と言える。その理由をひとことでまとめることは容易でないが、中央指導部を頂点とした垂直構造の権威主義的な党運営は元来権威主義的な文化を持つアジアの政治風土にマッチしたということが考えられる。
 実際、現時点でも中国、ベトナムが強固な共産党支配体制を維持しており、ラオスも他名称共産党(人民革命党)が支配する。(北)朝鮮も近年共産主義を党規約から削除するまでは、他名称共産党(労働党)が支配する体制であったが、政体上はなお共産党一党支配に準じている。
 共産党は共産主義的無神論と鋭く対立するイスラーム圏にも広く波及した。中でもインドネシア共産党はアジアで最初に結成された合法的な共産党であり、独立後の政治でも主要な勢力となった。
 共産党があまり定着しなかった中東でも、1950年代にはイラクで共産党が連合政権の形で与党となった。1967年に英国から独立した旧南イエメンでは、他名称共産党である社会主義者党が90年の南北イエメン統合まで、アラブ世界で唯一マルクス‐レーニン主義を掲げる一党支配体制を維持した。パレスチナ解放闘争では、共産党という形ではないが、マルクス‐レーニン主義を掲げる左派組織が過激な武装闘争を展開した。
 アフガニスタンでは、他名称共産党である人民民主党が1979年の革命で、親ソ政権を樹立した。しかし、この政権はその後、内紛に乗じたソ連の軍事介入下でイスラーム勢力との10年以上に及ぶ内戦に突入し、ソ連解体後の92年に崩壊した。
 議会政党としての成功例は南アジアに見られ、インド共産党(マルクス主義派)は議会で地歩を築き、一部の州レベルで長期政権を担った。南アジアの最貧国ネパールでは90年代の専制王政に対する民主化運動の過程で、分裂状態だった共産党が統一され、2008年の共和制移行後は二大政党の一つに台頭している。野党勢力としては、日本共産党も議会政治に定着している。
 アメリカの影響から反共主義の気風の強いフィリピンでは共産党は69年以降、毛沢東主義の武装ゲリラ活動を展開している。毛沢東主義はネパールでも強力で、貧しい農村を支配して武装革命闘争を展開した共産党毛沢東主義派は共和制以降後、議会主義に転じ、08年総選挙で第一党となって首相を出し、穏健な共産党マルクス‐レーニン主義派とともに連立政権を発足させた。その後も毛派は統一共産党に次ぐ共産系政党として議会政治で地歩を築いている。
 インドでも、遅れて04年に結成されたインド共産党毛沢東主義派は貧しい農村を拠点に急速に支持を拡大して武装ゲリラ活動を展開、2010年代になって政府治安部隊による掃討作戦が活発化するなど、インドの国内治安を脅かす存在となっている。
 こうしたアジアにおける共産党の成功は時に体制による弾圧を招くこともあった。その最も悲劇的な例は、インドネシア共産党に対する軍部による大弾圧である。
 先に述べたように、インドネシア共産党は独立後、民族主義・イスラーム主義・共産主義三者の融和を説く初代スカルノ大統領の下で有力な政治勢力であったが、65年に共産党に近いとされた左派系軍人の起こしたクーデター事件(9月30日事件)が軍部主流によって鎮圧された後、事件の背後にあるとみなされた共産党を壊滅させる目的から、大々的な共産党員狩りが全土で展開された。これにより共産党シンパとみなされた者を含め、100万人が殺害されたとも言われるが、今なお真相は不明である。

2:ジャパノコミュニズム
 日本共産党は、アジアの共産党中でも独自の軌跡をたどった。元来はコミンテルンの傘下にソ連共産党と密接であったが、戦後はいち早くソ連離れをしていく。戦後占領下での党員公職追放が解除された後、宮本顕治が実権を握った50年代以降は武装革命路線を放棄し、議会政治への参加を追求した。
 ハンガリー動乱、チェコ侵攻、核実験とソ連が覇権主義的な傾向を強めると、日本共産党は平和主義の立場から次第に公然とソ連批判を展開し、ソ連共産党とは明確に対立的な関係となった。その後の中ソ対立期には、中国共産党とも距離を置き、自主独立路線を採る。
 こうした議会を通じた社会主義の展望という路線はユーロコミュニズムに近いが、冷戦期のユーロコミュニズムがNATOを容認して事実上西側陣営に吸収されていったのとは一線を画し、日本国憲法9条の非武装平和主義を擁護し、非同盟中立に軸を置いた点で日本共産党独自の、言わばジャパノコミュニズムの特質を持つ。こうした路線確立の過程では、激しい分派抗争を生むと同時に、国際共産主義との連携が希薄となり、一国共産党として孤立的な存在となった。
 しかし、地域福祉活動に根差した選挙戦術によって、地方政治では確実に地歩を築き、70年代には国政でも社会党に次ぐ野党第二党に躍進した。80年代以降は退潮傾向が見られるものの、ソ連解体後も、ユーロコミュニズムの旗手だったイタリア共産党のように党名変更(事実上消滅)することもなく存続している。近年は中国共産党との関係改善・接近傾向も見られる。


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