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世界共産党史(連載第10回)

2014-06-11 | 〆世界共産党史

第5章 冷戦時代の共産党

1:冷戦の開始と東西共産党
 スターリンのソ連共産党を指令部とするコミンテルンは第二次世界大戦中の1943年、独ソ開戦を機にソ連が米英仏の連合国側に加わったことで解散されていたが、戦後の47年には後身組織としてコミンフォルムが結成された。これはスターリンの提唱により結成された東西欧州をまたぐ共産党の国際連絡機関であったが、その真の目的は米国に対抗するソ連を中心とする勢力圏の設定にあった。
 かくして、東西冷戦の開始にも共産党は深く関与している。単純化してみれば、冷戦とはソ連を総帥とする共産党対米国を総帥とする保守党の国際的なせめぎ合いであったとくくることもできる。事の発端は、第二次世界大戦では米国とも陣営を共にしたソ連が、東ドイツを含む東欧のソ連占領地域で、直接間接の干渉によって次々とソ連の衛星諸国を作出していったことにあった。
 このドミノ倒しのような東欧のソ連化の過程で政権を掌握したのが、各国の共産党(他名称共産党を含む)であった。それらの多くは、戦前期コミンテルンを通じたスターリンによる粛清の手が及んでおり、スターリン主義政党としての素地はすでに出来上がっていた。
 特に最初期の冷戦舞台となった東ドイツではナチス時代に禁圧されていたドイツ共産党と東ドイツ地域の社会民主党の一部が合同し、他名称共産党としての社会主義統一党が結成され、支配政党となった。同党は以後、ソ連に最も忠実な支配政党として、東独を独裁統治する。
 同様に他名称共産党が支配政党に就いたのは、ポーランド(統一労働者党)とハンガリー(ハンガリー勤労者党、後に社会主義労働者党に再編)であった。両国では、支配政党内にソ連への従属に抗する民族主義者が存在したことから、後に反ソ暴動・動乱の要因ともなる。チェコスロバキア、ルーマニア、ブルガリアでは文字どおりの共産党が支配政党に就いた。
 戦間期に議会政治で地歩を築いていたチェコスロバキア共産党は46年の総選挙で第一党に躍進し、首相を出したが、これは共産党が民主的な選挙で政権を獲得した世界最初の事例であった。しかし連立政権であったため、48年、共産党は超法規的な手段を用いて他政党を政権から排除し、一党支配体制を確立する。
 この時期、西欧諸国の共産党にも政権に参加する動きが見られた。フランスでは対独レジスタンスで功績のあった共産党が選挙で躍進し、連立政権に参画した。ムソリーニのファシスト政権時代に弾圧を受けて解体されていたイタリア共産党もファシスト政権からの解放で重要な役割を果たし、戦後の挙国一致政府に参画するなど、イタリアの戦後民主化に足跡を残した。

2:スターリン後のソ連共産党
 戦前戦後にかけて30年近く君臨してきたスターリンは53年、死去した。大粛清によって党内の多くの人材が失われており、絶対的独裁者が去った後の常として、際立った後継候補者は見当たらなかった。
 そうした中で、ウクライナ出身のニキータ・フルシチョフが台頭してくる。党第一書記に就任した彼は56年の秘密報告で、いわゆる「スターリン批判」を展開し、スターリン時代の終焉を宣言した。ただし、この「批判」では専らスターリンの個人崇拝政治と粛清の罪悪に焦点が当てられており、スターリン時代に確立された抑圧的な共産党支配体制の基本的な変更には及ばなかった。
 とはいえ、当時は秘匿されていた大粛清の事実が明らかにされ、絶対者スターリンが公然批判されたことは、党内外のスターリン主義者に強い衝撃を与えた。この時期、スターリン主義に忠実な支配体制を構築しつつあった毛沢東の中国、ホジャのアルバニアではフルシチョフを「修正主義者」と規定する強い反批判が出され、ソ連との関係悪化につながった。
 一方で、スターリン批判は民族主義派を抱えていたポーランドやハンガリーでは反ソ暴動の導火線となった。ポーランドでは56年6月、ポーランド西部の都市ポズナンのスターリン名称金属工場で起きたストをきっかけとする暴動を機に、いったんは民族主義派として追放されていたゴウムカが政権に返り咲き、一党支配の枠内で一定の民主化に着手した。
 このポズナン暴動は、同年10月にはハンガリーに飛び火し、より大規模な反ソ動乱を引き起こした。ここでは革命的状況に発展し、反ソ的なナジ政権の成立を見るが、ソ連のフルシチョフ指導部は軍事介入で応じ、結局動乱は翌月、武力鎮圧され、親ソ派政権にすげ替えられた。かくして、ソ連共産党がスターリン後も東欧で覇権を維持しようとする強い意志が示されたのだった。
 フルシチョフ指導部は、対外的には米国との緊張緩和、国内的にも秘密警察組織の改革や一定の経済分権化などの改革を実現したが、元来フルシチョフの党内基盤は磐石でなく、農業問題での失政などもあり、64年の党内クーデターで失墜し、政権を追われた。
 代わって、党内クーデターの仕掛け人でもあったレオニード・ブレジネフが新しい共産党指導者となるが、彼は党内官僚の権化のような保守的な人物であり、以後スターリンに次ぐ18年の長期に及んだブレジネフ指導体制下のソ連共産党は安定しながらも官僚組織化の度を強めていく。

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