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世界共産党史(連載第13回)

2014-06-24 | 〆世界共産党史

第6章 アジア諸国共産党の功罪

3:文化大革命とカンボジア大虐殺
 共産党が成功を収めたアジアでは、それゆえに共産党が犯した歴史的な誤りも見られた。その一つは、60年代後半から70年代半ばの中国社会を混乱に陥れた「文化大革命」(文革)であった。
 これは毛沢東の晩年期に早くも資本主義への接近を示す改革派が中国共産党の実権を握ったことに端を発し、毛やその側近の保守派がこれら改革派排除を狙って仕掛けた大規模な粛清キャンペーンであり、スターリン時代のソ連で起きたような、言わば中国版大粛清であった。
 しかし、その社会的な広がりが尋常でなかった。スターリンの大粛清とは異なり、文革はその名に象徴されるとおり、単なる党内粛清ではなく、文化を根こそぎ変革するという趣旨で、一般民衆をも動員する大衆運動としても展開されたため、社会総体を巻き込んでいった。この時期には毛親衛隊として結成された紅衛兵が跋扈、横暴を極め、教育制度を含む社会的諸制度の多くが正常な機能を停止した。
 この戦後中国にとっての歴史的なトラウマを形成する大粛清は、76年の毛の死去後、党内クーデターにより毛側近「四人組」が逮捕されてようやく終息に向かったが、その全容はいまだ解明されておらず、1000万人以上とも言われる正確な粛清犠牲者数もなお不明である。
 こうした文革をよりいっそう狂信的な形で組織的に実行したのが、カンボジアで75年から79年まで政権を握ったクメール・ルージュ(カンプチア共産党)であった。クメール・ルージュが政権に就いたのは、後で述べる近隣のベトナム、ラオスでも発生したインドシナ連続革命の一環であったが、ポル・ポトに指導されたクメール・ルージュは毛沢東主義に強く傾斜していた。
 かれらは、資本主義と言わず、西洋文明そのものを否定し去り、農業を軸とした原始共産主義社会の建設というイデオロギーを奉じ、実際に都市文明を破壊し、知識人を大量殺戮した。また都市住民を農村に送り、過酷な農作業に従事させるなどし、大量の死者を出した。これはもはや大粛清にとどまらない、大虐殺の域に達していた。
 こうした極端な農本主義政策の現実的な背景として、インドシナ戦争の過程での米軍による農村爆撃でカンボジアの主産業であった農業生産が壊滅的な打撃を受けていたこともあり、米国の間接的な責任も免れない。
 クメール・ルージュ政権は79年のベトナム軍の侵攻によって終わったが、その政策は約4年の間に、当時人口600万人ほどの国で最大170万人とも言われる犠牲者を出し、特に知識人が絶滅対象となったことから、現在に至るまで、社会的な諸制度の運営に支障を来たす後遺症を残した。
 この二つの国家的悲劇は、いずれもスターリン主義のアジア的・農本主義的な発現と見ることもできる。同時に、それは各国の共産党組織に共通する激越な理論闘争、異分子排除、首領制といった非民主的な要素の極端な現れでもあったと言える。

4:インドシナ同時革命
 先に述べたように、カンボジア大虐殺の実行者となったクメール・ルージュの支配は、70年代半ばにおけるインドシナ三国で起きた同時革命の一環でもあった。
 インドシナでは戦後、ベトナムがホー・チ・ミンを中心に独立すると、間もなく他名称共産党としての労働党を支配政党とする社会主義体制が樹立された。しかし、第一次インドシナ戦争の結果、南部が反共・親米の南ベトナムとして分離され、南北分断国家となると、北ベトナムは南ベトナムの解放を掲げて南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)を支援したことから、米国はドミノ倒し的な共産主義の拡散を抑止するという「ドミノ理論」に基づき、インドシナ半島全域への介入に踏み切る。
 この頃、近隣のラオスでも王党派と共産主義を掲げるパテート・ラオに中立派を加えた三派が内戦に突入しており、北ベトナムと米国双方がこれに介入していた。ベトナム戦争に巻き込まれたカンボジアでも70年のクーデターで親米軍事政権が樹立されると、これに反対するクメール・ルージュが勢力を拡大し、米軍に支援された政府軍との内戦に突入する。
 このような戦線の拡大から第二次インドシナ戦争とも呼ばれたベトナム戦争が、北ベトナムの事実上の勝利という形で終結し、南ベトナムの首都サイゴンが陥落すると、それに前後して、カンボジア、ラオスでも共産主義勢力が政権を掌握した。カンボジアでは先述したとおり、クメール・ルージュの大虐殺が始まるが、ラオスでは人民革命党(他名称共産党)の一党支配体制が構築された。
 南北統一後のベトナムは、労働党から改称された共産党による全国規模の一党支配体制が樹立されるが、79年には国境紛争を抱えていたカンボジアに侵攻し、クメール・ルージュを駆逐して親ベトナムの人民革命党(穏健な他名称共産党)政権に建て替えた。これによりクメール・ルージュを支援する中国との関係が悪化し、両者は軍事衝突に至った。
 こうして、ベトナム戦争後のインドシナ三国ではまさにドミノ倒し的な同時革命により共産党支配体制が樹立されていったのである。 
 その後、カンボジアでは人民革命党政権とゲリラ組織化したクメール・ルージュを中心とする反政府勢力の間で内戦が続くが、92年の和平後、憲法上は立憲君主制の下での複数政党制による議会制民主主義に移行した。しかし、共産主義を放棄し、人民革命党から改称した人民党はファッショ傾向を強めつつ、なお支配政党であり続けている。

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