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マルクス/レーニン小伝(連載第15回)

2012-08-29 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第3章 『資本論』の誕生

(3)経済学研究の道

漂流からロンドン定住へ
 マルクスはプルードン批判書『哲学の貧困』を公刊した後、そこで展開した経済学的諸論点をさらに練り上げる研究へ進むはずであったが、それを中断せざるを得ない事情に直面する。マルクスとエンゲルスが『共産党宣言』を公刊した1848年、フランスでルイ・フィリップの7月王政が倒れる2月革命が勃発したのだ。
 これは急進的なブルジョワ革命であって、プロレタリア革命ではなかったが、臨時政府には社会主義者のルイ・ブランや労働者代表も参画し、国立工場の設置など部分的に社会主義的施策にも踏み込んだ点では画期的であった。2月革命に引き続いて同年3月にはウィーンとベルリンでも革命が起き(3月革命)、その余波はベーメン、ハンガリーなど東欧を含めた東西ヨーロッパに広く及び「連続革命」の様相を呈した。
 そうした中、フランス臨時政府はまだブリュッセルにいたマルクスにも招請状を送ってきたが、隣国からの革命の波及を恐れたベルギー当局は3月、マルクスに24時間以内の国外退去を命じ、マルクス夫妻を拘束したうえフランス国境へ連行・追放した。
 こうしてマルクスは再びパリへ戻るのであるが、ベルリンの3月革命を受けて故国へ帰国する決心をしたマルクスは間もなくケルンへ移る。次章で詳しく述べるように、マルクスはドイツの3月革命をプロレタリア革命に先立つブルジョワ革命ととらえ、これをプロレタリア革命へ高めるべく助長せんとしていたのである。そこで彼は共産主義者同盟の仲間たちと新たに『新ライン新聞』を創刊して理論的活動拠点とするとともに、労働者組織の結成にも尽力する。
 しかしフランス2月革命が社会主義化を恐れるブルジョワジーの反動化によって挫折すると、周辺諸国の革命も連鎖的に挫折・収束していった。ケルンでも48年7月以降、共産主義者同盟メンバーの逮捕が相次ぎ、49年5月にはマルクスにも退去命令が出された。そこでマルクスは再びパリへ舞い戻るが、前年12月に大統領に就任していたルイ・ボナパルト(ナポレオン・ボナパルトの甥)の反動体制に変わっていたフランスにもはや彼の居場所はなかった。結局マルクスは49年8月、比較的自由で多くの亡命者を受け入れていた英国のロンドンへの亡命を余儀なくされるのである。

どん底生活と精力的研究
 ロンドンに定着したマルクスが自由と引き換えに直面したのは、貧困であった。妻イェニーの言葉によると、とりわけロンドン生活初期の1850年から53年にかけては「絶えず心を蝕む不安と、あらゆる種類の窮乏、本当の貧乏が続いた」時期であった。
 ちなみにマルクス夫妻は50年から55年までの間に次男ハインリヒ、三女フランチェスカ、長男エドガーの三児を相次いで病気で失っている。いかに子どもの死亡率が全般に高かった時代とはいえ、これだけの短期間に三児を失ったところには、借金の取立てに追われ、治療代にも事欠いたマルクス一家の苦境が示されている。
 しかし同時に、マルクスの経済学研究が大きく前進したのも、このどん底生活時代であった。50年には共産主義者同盟も弾圧の中で分裂し事実上活動を停止していたから、1850年代のマルクスは政治的実践からはひとまず離れ、懸案の研究に時間をさくことができたのだった。彼は当時世界最大級の蔵書を擁していた大英博物館図書室を研究室代わりに、膨大な先行著作・原資料を読み込み、研究ノートを作成していく。
 一方、スイス亡命を経て、同じくロンドンへ亡命してきたエンゲルスは間もなくマンチェスターへ移り、父親が経営する商会で働きながらマルクスを支えるようになった。彼はマルクスが生活の足しにするため51年から寄稿を始めた米国の新聞『ニューヨーク・トリビューン』へ送るマルクス名義の原稿の相当部分を代筆さえしてマルクスが本業の研究に十分時間をさけるように配慮したのだった。


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