ザ・コミュニスト

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領土騒動と生活不安

2012-08-25 | 時評

暑い夏をいっそう熱くする領土騒動━。遺憾にも、東アジア―極東までせり出すロシアも含め―が現在、領土をめぐって揺れている。ここで「騒動」と呼ぶのは、幸いにして現状、紛争としては先鋭化―つまりは戦争の可能性―を示してはいないからである。

それでもこのあたりで頭を冷やすために、視座を転換してみよう。すなわち領土騒動を表面的に受け止めず、その裏に隠された関係当事国民衆の生活不安という共通根を見据えることである。

目下の領土騒動の当事国を見ると、90年代以資本主義的経済成長を達成した韓国―比較的冷静であるが、台湾も同様―、「社会主義市場経済」の名において事実上の資本主義的経済成長の道をひた走る中国、ソ連解体後、再資本主義化路線に舵を切り一定の成功を収めつつあるロシア、そして近年斜陽とはいえ、GDP規模では世界第三位を維持する日本と、いずれも豊かであるか、豊かになりつつある諸国ばかりのように見える。

だが、そうした豊かさの影で、格差拡大による不公平感をも伴った生活不安が上掲各国で増大している。いわゆる「豊かさの中の貧困」問題である。一方で国家は生活保障機能を喪失しており、そのことへの民衆の不満の捌け口として、国家支配層が「領土」を利用しようとしているのだ。

この点では日本も決して例外ではない。日本は現在、周辺各国の領土侵犯にさらされた被害者の役を演じようとしているが、近年、日本国自身が長くあいまいにしてきた領土の画定方針を明確に打ち出し、領土に関する政府見解を疑うことなく生徒らに刷り込むような教育にも乗り出しているのである。

こうしたことの結果、当事国民衆が領土主義的に煽られ、互いに反目し合い、分断されつつある。このような不穏な状況を抜け出す出口は、抽象的な“友愛”理念に基づく「東アジア共同体」構想―それはしょせん支配層同士の利害共有団体でしかない―ではない。それよりも、民衆の生活不安の共有、いわば不安の連帯である。

そこから進んで、3・11に絡めて昨年の拙稿「国家の無力」でも指摘した国家という無力化した政治的枠組みそのものへの懐疑とその超克―世界共同体―への展望をも民衆間で共有できれば、領土騒動は支配層同士のドタバタ喜劇として落ち着いて観覧できるようになるに違いない。


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