ザ・コミュニスト

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国家の無力

2011-09-11 | 時評

3・11から半年。いくらか落ち着きを取り戻したところで、この出来事から引き出せる教訓について考えてみたい。

直入に言うと、それは「防災対策」でも「安全神話」でもない、「国家の無力」だ。

時の政権の無策はもう散々に酷評されてきた。それには一理も二理もあるとはいえ、他の政権であれば快刀乱麻のごとく鮮やかに対処できたかと言えば、そういう保証もない。事はもはや、特定の政権、政党、政治家の資質の問題などではなく、国家というシステムそのものの問題だからだ。

要するに、国家はマンモスのように巨大になりすぎて身動きできなくなってしまったのだ。それでも、マニュアル対応可能な平常時はまだよい。マニュアル対応できないまさに「想定外」の非常時に、国家は無力ぶりをさらけ出す。

こう言えば、「小さな政府」論を想起させるかもしれないが、「小さな政府」論の問題性は、福祉削減云々ということよりも、マンモスをいくら減量しても競走馬のように疾走することは不可能だということにある。マンモスは減量してもマンモスだ。

他方、震災後、少なからぬ避難所では住民の自治的な運営組織が立ち上がり、混乱の中から秩序を作り出した有能さには目をみはらせるものもあった。

もし国の無力に業を煮やした被災者らが避難所を拠点に横につながって「被災者評議会」のような対抗的自治権力を樹立すれば、ちょっとした「革命」になったところだが、万が一にもそんな事態にならないよう、避難所は早々と閉鎖され、被災者らは仮設住宅へ押し込められ、ばらばらにされてしまう。国家にとっては被災者たちが覚醒して自立するよりも、親鳥を待つ雛のように受身でいていただく方が好都合なのだ。

そろそろ国家というシステムへの幻想をきっぱりと断ち切るべき時だと思うが、人々の間には依然、強い国家(指導者)への甘い期待が伏在しているように見える。そうした期待に便乗する形で、国家支配層も「復興」を口実にかえって国家への権力集中体制を再構築しようと企てている気配もある。

そういう方向に流されないためにも、国家なき社会運営のシステムを考えるべき時だ。

ただ、国家なき社会運営などと言えば、ユートピアと思われるかもしれないが、決してそうではない。すでに考えるヒントは提出されている。

その一つは地方自治。とりわけ、市町村自治だ。震災のような非常時には最も身近な生活関連行政最前線の市町村自治体(コミューン)の重要性が再認識された。ただ、国家の家臣のような自治体では十分な力は発揮できない。国家の重しを取り除いてはじめて自治体は真の自治権を回復できる。

もう一つは地球村という考え方。国家という分裂的な枠組みでは対処し切れない環境問題のような地球的課題に立ち向かうには、地球全体を包摂する共同体(コモンウェルス)が必要である。それはまた、災害時の救援や復興にも大いに寄与するだろう。

国家の無力は日本に限らず、世界中で露呈している問題である。偶然にも今日が十年の節目である米国の9・11でも、米国という世界一巨大な国家の中枢が国家形態を取らないアメーバのような武装集団に痛撃されたのだった。

ただ、9・11のように犯罪でなく、自然に痛撃された3・11後の日本人は今、国家の無力を最もリアルに感得できる立場にある。そういう意味で、日本発の新たなアイデアが誕生することを期待できるのである。 


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