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多文化主義の限界

2012-08-26 | 時評

昨年7月22日、ノルウェーで白人系ノルウェー人青年が「イスラームの侵略と多文化主義から国を守るため」として、政府庁舎を爆破した後、与党・労働党系政治集会に乱入し銃を乱射して両事件合わせて計77人を殺害した事件で24日、ノルウェーの裁判所は被告人に禁錮21年―10年への短縮の余地を認める―の判決を言い渡した。

日本なら被告人に責任能力が認められる限り、死刑以外はあり得ないと思われる事件で―日本で77人殺に有期懲役刑が出たら、事件そのもの以上に大騒ぎになるだろう―、半期に短縮の余地ある禁錮21年とは、刑罰をもはや「応報」とはとらえず、更生へ向けた矯正の一手段とみなし、死刑も終身刑も持たない先端的な刑事政策を擁するノルウェーならではのことであろう。

この点、自身の姉1人を殺害した発達障碍の認められる被告人に検察側求刑(懲役16年)を超えて懲役20年の判決を言い渡した日本の裁判員裁判(大阪地裁2012年7月30日判決)の後退性とは好対照であった。

それはともかく、ノルウェーの爆破・乱射事件そのものは、やはりノルウェーが率先垂範してきた多文化主義に基づく寛容な移民政策の限界―「失敗」とは言わないまでも―を象徴している。

多文化主義は移民を含む社会成員の各文化の共存を目指すが、それは一方で、各文化保持者のアイデンティティーを刺激し、閉鎖コミュニティーを生む。反面で、被告人のような社会の多数派のアイデンティティーをも刺激して、少数派への反感・憎悪を助長するのである。注 ただし、アイデンティティー構築が少数派の自己差別の療法的意義を持つ場合もあることについては拙稿『〈反差別〉練習帳』理論編六命題25を参照。

さらに多文化主義が依拠する寛容の倫理は、被告人のような多数派の非寛容に対しても寛容たらざるを得ないという自己矛盾を抱え込む。

実際のところ、欧州の主要国はまさに被告人のような思潮の興隆を背景に移民規制の強化へ動いており、多文化主義は曲がり角に来ている。そこからどこへ向うか。被告人が称賛する日本の厳しい移民規制・同化政策、外国人管理政策ではない。そうした同化・排外主義でも多文化主義でもない、人類の単一性という科学的事実に基づく包摂政策である。

それは多様な文化の存在を否定するのでは決してないが、個別の文化的アイデンティティーを高調するのでもなく、人類としての類的共通性の意識を教育を通じて育み、市民としての連帯を社会の基軸とすることである。 

多様性の無垢な称賛は、単一性への暴力的衝動を惹起する━。これがノルウェーの7・22の衝撃から引き出される教訓である。


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