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マルクス/レーニン小伝(連載第7回)

2012-08-01 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第2章 共産主義者への道

(3)在野知識人へ

『ライン新聞』発禁
 『ライン新聞』に対する当局の締め付けはついに発禁処分にまで発展した。プロイセン政府は1843年1月、同紙を同年4月1日付けで発禁とすることを決定した。創刊からわずか1年余りである。
 もっとも、出資者であるブルジョワ層の株主たちは論調を穏健化することで再刊の道を探ろうとしていたが、安易な妥協を嫌うマルクスはそうした延命策を拒否し、辞職の道を選んだのであった。
 この決断について、後年マルクスは「『ライン新聞』に下された死刑宣告を取り消してもらえると信じている同紙経営陣の錯覚をむしろ率先して利用し、公の舞台から書斎に退いた」と述懐している。と言えば25歳での優雅な隠居生活のようにも聞こえるが、実際にはこれ以降マルクスが有給の定職に就くことはなく、在野知識人としての迫害と窮乏の後半生が始まるのである。
 ただ、その前に、彼は長く待望されていた一つの仕事を済ませておく必要があった。

結婚とパリ移転
 マルクスは『ライン新聞』編集主幹を辞職した後の1843年5月、7年間も待たせていた婚約者イェニー・フォン・ヴェストファーレンとクロイツナハで結婚した。クロイツナハはトリーアの東にある小さな温泉町で、イェニーは前年に父ルートヴィヒを亡くした後、母とともにこの地に移り住んでいたのだった。
 こうしてカール25歳とイェニー29歳のマルクス夫妻はクロイツナハで新婚生活を開始する。しかし、マルクスは温泉町で優雅に思索にふけるような人間ではなかった。新婚生活は5ヶ月ほどで早々切り上げ、43年10月、マルクスはイェニーを伴いパリへ移転した。これには新たな友人ルーゲも同行し、マルクス夫妻と同居を始めた。
 この時のパリ移転はまだ亡命ではなく、一種の「留学」であった。前にも述べたように、マルクスは「自由人たち」がかぶれ始めていたフランスの社会主義・共産主義に関する素養の欠如を痛感していたため、自ら本場パリへ赴いて直接に学ぶ決意をしていたのである。

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