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マルクス/レーニン小伝(連載第11回)

2012-08-16 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第2章 共産主義者への道

(5)『共産党宣言』まで

ブリュッセル亡命
 マルクスはルーゲと共同で創刊した『独仏年誌』をルーゲとの決裂により失った後、パリで亡命ドイツ人たちが発行していた『フォーアヴェルツ』という左派系新聞に寄稿するようになっていたが、同紙はプロイセン批判の急先鋒であったため、プロイセン当局はこれを危険視し、フランス政府に厳重な取り締まりを要請してきた。
 当時のフランスはルイ・フィリップのいわゆる7月王政末期に当たり、選挙法改正運動や労働運動、社会主義運動も高まりを見せる中、政府内では保守的な歴史家でもあった外相ギゾーが実権を握っていた。そのため、フランス政府としてもプロイセン政府の要請を容れ、マルクスら同紙関係者のフランス追放を決定した。
 1845年1月、フランス内務省から一週間以内のパリ退去を命じられたマルクスは2月、知人と共に隣国ベルギーへ出国した。当時のベルギーは30年にオランダから独立したばかりの新興国で、まだ自由な気風があったからである。
 ただ、次女ラウラを身ごもっていたイェニーとパリで生まれた第一子の幼いジェニーはしばらく残留し、後からマルクスに合流することになった。早くも波乱の人生の始まりが予感された。

共産主義者としてのスタート
 マルクスが理論上も実践上も共産主義者として本格的なスタートを切るのは最初の亡命地ブリュッセルにおいてであった。
 45年4月にはエンゲルスもブリュッセルへ移転し、二人の本格的な共同研究が始まる。その手始めは、マルクスによれば「ドイツ哲学のイデオロギー的諸見解に対するわれわれ(マルクスとエンゲルス)の対抗的見解を共同して作り上げること、実際上はわれわれの以前の哲学的意識を精算すること」を目的とした共同著作の執筆であった。これが今日『ドイツ・イデオロギー』として公刊されている二人の代表的な共著である。
 ただ、この作品は予定していた出版社側が断りを入れてきたため、未完の草稿のままに終わり、結局二人の生前には公刊されなかった。そういうわけで、この著作は今日でも十分に整理されないまま公刊されているが、その中心は先のマルクス自身の総括にあるように、ヘーゲル以来のドイツ哲学(ドイツ・イデオロギー)を批判すること自体よりも、マルクス‐エンゲルス自身の以前の「哲学的意識」―ドイツ・イデオロギーの圏内にあったヘーゲル左派―を精算して、いよいよ唯物弁証法及びそれを歴史に適用した唯物史観に基づく新しい共産主義思想―それこそがプロレタリアートの精神的武器となるはずのもの―を提示することにあった。
 こうした課題を担った同書が完全な形で公刊されていればマルクス‐エンゲルス(特にマルクス)の共産主義思想に関する基本書となったはずであるが、残念ながら未整理のために、この著作はマルクス‐エンゲルスの著作中最も読解困難なものとなっている。
 とはいえ、いくつかの断片的な形でマルクス(及びエンゲルス)の共産主義の特徴的な命題を引いてみよう。

☆実践的な唯物論者すなわち共産主義者にとっては現存する世界を革命的に変革すること、眼前に見出される事物を実践的に攻略し変革することこそが問題である。

☆共産主義とは、われわれにとって創出されるべき一つの状態、それに則って現実が正されるべき一つの理想ではない。われわれが共産主義と呼ぶのは現在の状態を止揚する現実的な運動である。この運動の諸条件は今日現存する前提から生じる。

☆共産主義は経験上、主要な諸国民の行為として一挙的かつ同時的にのみ可能なのであり、このことは生産諸力の全般的な発展及びそれと連関する世界交通を前提とする。

 こうした理論的な活動と同時に、二人は共産主義運動の実践にも取り組んだ。『ドイツ・イデオロギー』を書き上げた後の46年2月、彼らはブリュッセルに「共産主義者連絡委員会」を設立し、ヨーロッパ各国の共産主義運動の連帯を目指す。マルクスとエンゲルスがこのような組織を設立したのは、冒険主義的な革命運動でも抽象的な思想運動でもなく、まさに『ドイツ・イデオロギー』の中で提示したような「現実的な運動」としての共産主義を広めるためであった。
 ドイツ人による共産主義運動としてはつとに「正義者同盟」なる秘密結社があったが、一部冒険主義者の起こした無謀な反乱事件に連座して壊滅状態に陥っていたところ、ロンドンで活動していたその残党からマルクス‐エンゲルスの路線に沿った組織再建の相談を受けた二人はこれを承諾し、先の共産主義者連絡委員会も新たな組織「共産主義者同盟」に加盟することになった。
 早くも金欠状態で47年6月に開かれた同盟の第一回ロンドン大会には出席できなかったマルクスであったが、8月には同盟ブリュッセル支部長に推された。そして今度はマルクスも出席した11月から12月にかけての第二回ロンドン大会は、マルクス‐エンゲルスの立てた綱領原則を採択したうえ、大会宣言の起草を二人に委託したのである。この宣言文書があまりにも有名な『共産党宣言』として世に出ることとなった。


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