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マルクス/レーニン小伝(連載第8回)

2012-08-02 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第2章 共産主義者への道

(3)在野知識人へ(続き)

『独仏年誌』と二つの論文
 マルクスはパリで同行の友人ルーゲとともに新しい理論誌『独仏年誌』を創刊した。この雑誌は結局、第一号と第二号の合併号を出しただけで終わってしまうのであるが、その最初にして最後の合併号には青年マルクスの思想的転回を画する二つの論文「ユダヤ人問題に寄せて」と「ヘーゲル法哲学批判序説」が掲載されている点で重要である。
 第一の論文はマルクス自身の民族的出自とも関わるユダヤ人解放論に引き寄せつつ、実質上別立てとなっている二つの章のうち、特に第一章においてブルジョワ自由主義との決別を宣した論文であり、それは同時に哲学上の“恩師”バウアーに対する初の公然たる批判を含んでいた。
 本章冒頭で見たマルクス17歳当時の小論にもあったとおり、彼は元来、単純に個人の自由を称揚するような個人主義者ではなかったが、青年期マルクスの思想的バックボーンには郷里トリーアの風土や家庭の気風をも反映したブルジョワ自由主義があったことは間違いない。しかし同論文で、マルクスは自らの旧来のバックボーン全体からの転回を宣言したのである。
 その際、バウアーの政教分離を通じた宗教からの解放というテーゼを批判の俎上に載せる第一章においては「ユダヤ人問題」は必ずしもメインテーマではなく、中心はあくまでもブルジョワ自由主義批判、わけても「人権」観念批判に置かれている。従って、そのエッセンスも次の命題にあろう。

いわゆる人権のどれひとつとして利己的な人間、ブルジョワ社会の成員としての人間、すなわち自己自身だけに閉じこもり、私利と私意に閉じこもって共同体から分離された個人であるような人間を超え出るものではない。

 これだけ取り出してくると、あたかも反動的な共同体論の反人権テーゼのようにも響いてしまうが、マルクスは決して人権の否定を唱導しているわけではない。むしろ人間を利己的な個人という原子(モナド)に切り刻んでしまうような観念的人権理念を通じた政治的解放(=ブルジョワ政治革命)の限界性を指摘しているのである。そのような限定された「解放」は真の解放とは言えず、かえって個人の私利私欲を規正するものとしての政治国家の強制権力による人権抑圧を招く自己矛盾―マルクスはこれを「政治国家とブルジョワ社会との現世的な分裂」と定式化する―を来たすことになる。
 こうした矛盾を解きほぐすためにマルクスが政治的解放に対置するのは、この論文の段階ではまだ「人間解放」というヒューマニスティックな抽象命題にとどまっている。
 ただ、彼が論文の結論部分でいくらか具体化して提示した「現実の個体的な人間が抽象的な公民を自己の内に取り戻し、個体的な人間でありながらその経験的生活、その個人的労働、その個人的諸関係の中で類的存在とな」る云々という叙述からすると、マルクスの言う「人間解放」とは人権の否定ではなく、人権を政治的次元にとどまらず、より高い人間的次元―人間の類的存在性―において実現することを目指すテーゼであると解してよいであろう。
 これに対して、同論文第二章は「ユダヤ人問題」を主題的に論じているが、ここではやはりバウアーの「ユダヤ人が解放されるためにはユダヤ教を放棄しなければならない」という命題を内在的に批判しながら、ユダヤ教を廃棄するためにはいかなる社会的基盤を克服すべきかを問うている。
 その際、彼はユダヤ教の基礎を実際的欲求=利己主義ととらえ、それが同時にブルジョワ社会の原理でもあるからこそ、ユダヤ教はブルジョワ社会の完成とともに頂点に達すると言う。すなわち「ブルジョワ社会はそれ自身の内臓から、絶えずユダヤ教を生み出す」。
 そうであれば、その“ユダヤ人”の源泉となるブルジョワ社会を廃することにより、「ユダヤ人問題」も消失することになる。すなわちここで先の人間解放の照準として、私利私欲に基づくブルジョワ社会体制そのものが定められているわけである。
 この「ユダヤ人問題に寄せて」の第二章には表面上痛烈なユダヤ人‐ユダヤ教批判が書き連ねられていることから、自身ユダヤ系であるマルクス自身の「自己憎悪」の表出と解釈できなくもない際どい文献であるが、マルクスの主旨は反ユダヤ主義の宣伝にあるのではもちろんなく、「ユダヤ人問題」の解を「ユダヤ人問題」として、政治的解放―今日流に言えば民族解放―という特殊命題に求めるのでなく、マルクスによればそれ自体がユダヤ(教)的でさえあるブルジョワ社会からの解放―人間解放―という一般命題に求めようとすることにあったのである。
 それではその人間解放は誰がどのようにして実行し得るのか。これを解明しようとしたのが「ヘーゲル法哲学批判序説」である。
 マルクスによれば、そうした人間解放の実現のためにはその担い手が社会全般と取り違えられ、その普遍的代表者と感じられ認められるような熱狂の一時期を自身の内部及び大衆の内部に作り出さねばならず、そのためには社会の一切の欠陥がその階級の中に集中していなければならず、またその解放が全般的な人間解放と思われるようになっていなければならないと言う。
 そのような階級こそ、プロレタリアートである。なぜなら、社会の急激な解体、ことに中間層の解体によって人為的に作り出される貧民層としてのプロレタリアートは人間性を完全に喪失させられており、人間性の完全な再獲得によってのみ自己自身を回復できるような階級にほかならないからである。そしてこのようなプロレタリアートによる人間解放に精神的な武器を提供することが哲学の任務である。人間解放の頭脳は哲学であり、心臓はプロレタリアートであるとも言う。
 こうしてこの論文の意義は、その表題にもかかわらずヘーゲル法哲学批判自体よりも―序説に続く本論が予定されていたが未公刊に終わった―マルクスによる最初の「プロレタリア革命」命題の提起にあると解することができる。ここに至って、マルクスはブルジョワ自由主義から共産主義へ向けて大きく舵を切ったのだと言えよう。

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