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晩期資本論(連載第62回)

2015-09-07 | 〆晩期資本論

十三 金融資本の構造(6)

 第一巻でマルクスは商品の持つ呪物的性格について、「商品形態は人間にたいして人間自身の労働の社会的性格を、労働生産物そのものの対象的性格として反映させ、これらの物の社会的な自然属性として反映させ、したがってまた、総労働にたいする生産者たちの社会的関係をも、かれらの外に存在する諸対象の社会的関係として反映させるということである。」と指摘して、商品フェティシズム論を展開していたが、第三巻で再びこの経済人類学的モチーフを援用し、金融資本を資本関係の最高度の呪物的形態と規定している。

利子生み資本では資本関係はその最も呪物的な形態に到達する。ここでは、G―G´、より多くの貨幣を生む貨幣、自分自身を増殖する価値が、両極を媒介する過程なしに、現われる。

 すなわち一般的な商業(商人)資本と対比すると、「商人資本(G―W―G´)の形態は、まだ一つの過程を、反対の両段階の統一を、商品の買いと売りという二つの反対の過程に分かれる運動を、表わしている。これは、G―G´すなわち利子生み資本の形態では消えてしまっている」。
 言い換えれば、「資本が、利子の、資本自身の増殖分の、神秘的な自己創造的な源泉として、現われている。(貨幣、商品、価値)が今では単なる物としてすでに資本なのであって、資本は単なる物として現われる。総再生産過程の結果が、一つの物におのずからそなわっている属性として現われるのである」。

利子生み資本では、この自動的な呪物、自分自身を増殖する価値、貨幣を生む貨幣が純粋につくり上げられているのであって、それはこの形態ではもはやその発生の痕跡を少しも帯びていない。社会的関係が、一つの物の、貨幣の、それ自身にたいする関係として完成されているのである。

 より具体的には、「利子は利潤の、すなわち機能資本家が労働者からしぼり取る剰余価値の一部分でしかないのに、今では反対に、利子が資本の本来の果実として、本源的なものとして現われ、利潤は今では企業者利得という形態に転化して、再生産過程でつけ加わるただの付属品、付加物として現われる」。マルクスによれば、利子生み資本の呪物的性格の正体は、こうしたかの「利潤の質的分割」にある。

貨幣資本においてはじめて資本は商品となったのであって、この商品の自分自身を増殖するという性質は、そのつどの利子率で決定されている固定価格をもっている。

 このような資本=商品にあっては、「種々の使用価値としての種々の商品の相違が消え去っており、したがってまたこれらの商品やその生産条件から成っている種々の産業資本の相違も消え去っている」のに加え、「資本によって生みだされる剰余価値も、ここでは再び貨幣の形態にあって、資本そのものに属するものとして現われる」。
 第一巻の商品フェティシズムの論述において、「商品形態のこの完成形態―貨幣形態―こそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである。」とも指摘されていたことが、ここで改めて想起されている。

☆小括☆
以上、十三では、利子生み資本について扱う『資本論』第三巻第五篇のうち、総論的な初めの四つの章、すなわち第二十一章乃至第二十四章を参照しながら、金融資本の構造的な特質について概観した。


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