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晩期資本論(連載第51回)

2015-06-30 | 〆晩期資本論

十一 利潤率の低下(3)

 利潤率の傾向的低下法則は、あくまでも「傾向」に過ぎないとはいえ、マルクスによれば、資本主義経済を特徴付ける一つの法則である。前回は、この法則を反対方向に作用させる諸要因について見たが、今回はこの法則が作用した際に発生し得る矛盾現象についてである。

利潤率の低下と加速的蓄積とは、両方とも生産力の発展を表わしているかぎりでは、同じ過程の別々の表現でしかない。蓄積はまた、それにつれて大規模な労働の蓄積が行なわれ、したがってまた資本構成の高度化が生ずるかぎりでは、利潤率の低下を促進する。他方、利潤率の低下はまた、小資本家たちからの収奪によって、また最後に残った直接生産者たちからもまだなにか取り上げるものがあればそれを取り上げることによって、資本の集積と集中とを促進する。これによって、他方では蓄積も、その率は利潤率とともに下がるとはいえ、量から見れば促進されるのである。

 利潤率法則に関する復習的なまとめである。利潤率低下と資本蓄積とが矛盾内在的にコインの表裏関係にあることはこの法則の本質であり、これこそが資本主義的矛盾現象の出発点である。

一方、総資本の増殖率すなわち利潤率が資本主義的生産の刺激であるかぎりでは(資本の増殖は資本主義的生産の唯一の目的なのだから)、利潤率の低下は新たな独立資本の形成を緩慢にし、したがって資本主義的生産過程の発展を脅かすものとして現われる。

 これは、上述したような内在的矛盾が次第に資本主義的生産過程の発展そのものにとって脅威となるという矛盾現象である。言い換えれば、「資本主義的生産様式が富の生産のための絶対的な生産様式ではなくて、むしろある段階では富のそれ以上の発展と衝突するようになるということを証明するのである」。この理は、第一巻でも、資本による資本の収奪を経て、資本主義の最後の鐘が鳴るという終末論的な資本主義崩壊論として示されていた。
 ただ、現実の資本主義経済においては、マルクス自身「もしも求心力と並んで対抗的な諸傾向が絶えず繰り返し集中排除的に作用しないならば、やがて資本主義的生産を崩壊させてしまうであろう」と指摘するとおり、独占禁止法の法的制約の下、規制緩和により独立資本の新興が刺激されるため、利潤率の低下が新たな独立資本の形成を緩慢にするとは限らない。このことは、現代資本主義において、無数の新興企業が日々誕生していることからも裏付けられる。
 マルクスも、利潤率低下→資本主義崩壊という単純図式を描いていたわけではなく、「過程の第二幕」として、次のような社会の消費力の限界という過程を付加する。

・・・社会の消費力は絶対的な生産力によっても絶対的な消費力によっても規定されてはいない。そうではなく、敵対的な分配関係を基礎とする消費力によって規定されているのであって、これによって社会の大衆の消費は、ただ多かれ少なかれ狭い限界のなかでしか変動しない最低限に引き下げられているのである。

 資本主義的分配関係は、資本対労働の敵対関係の中での搾取を介して成立することから、一般労働者大衆の消費力は常に最低限度に抑制されている。

社会の消費力は、さらに蓄積への欲求によって、すなわち資本の増大と拡大された規模での剰余価値生産とへの欲求によって、制限されている。これこそは資本主義的生産にとっての法則なのであって、それは、生産方法そのものの不断の革命、つねにこれと結びついている既存資本の減価、一般的な競争戦、没落の脅威のもとでただ存続するだけの手段として生産を改良し生産規模を拡大することの必要によって、与えられているのである。

 これを逆読みすれば、生産方法の不断の革命、すなわち技術革新こそ資本主義存続の条件であり、実際これまでの資本主義はそうした不断の技術革新により自己を保存してきた。

ところが、生産力が発展すればするほど、ますますそれは消費関係が立脚する狭い基礎と矛盾してくる。このような矛盾に満ちた基礎の上では、資本の過剰が人口過剰の増大と結びついているということは、けっして矛盾ではないのである。

 晩期資本主義では、こうした生産力のグローバルな拡大と大衆の消費力の限界との矛盾現象が拡大している。これがストレートに資本主義の崩壊につながるというわけではないとしても、資本主義の内部的矛盾を促進し、その体力を弱める方向に働くであろう。


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