kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

ボレロ復活  シルヴィ・ギエムwith東京バレエ団

2011-11-05 | 舞台
信仰心はとんとないが、宗教的厳かさに満ちあふれている作品にはしばし感涙してしまう。ミケランジェロ「ピエタ」、ヤン・ファン・エイク「神秘の子羊」…。そして今回、シルヴィ・ギエムの「ボレロ」。前2者はまぎれもなく宗教作品であるが、ギエムの「ボレロ」は一介のダンスにすぎない。いや、「一介の」などとは言えないのがギエムのすごいところである。
伝説の名演となった東京バレエ団での「ボレロ」を、ギエムは2005年を最後に踊らなくなった。その理由を知る由もないが、東日本大震災を見て、日本にファンが多い、ギエムが、そのボレロの封印を解き、再び踊ることになった。そのわけをギエムは「震災前にこの作品を通して結ばれた私と日本の観客との絆を再確認するため、そして日本を心から愛していたベジャールの魂を日本に連れてくるため(中略)「ボレロ」は過去の思いでとともにあり、心を奮い立たせてくれる強いエネルギーを与えてくれる作品。だから未来へ前進しなければならないいま、「ボレロ」を踊るのはとても重要だと思う」。(新藤弘子 公演パンフレット)説明は要らないだろう。震災がボレロで解決するわけではもちろんないが、ギエムなりにダンサー、アーティストとして何ができるか考えたのだろう。福島原発事故を目の当たりにして来日を中止した芸術家が多い中、ギエムは来ることを選んだのだ。
19歳でパリ・オペラ座のエトワール、ヌレエフの秘蔵っ子、数々の名演は言うに及ばず、その元となる類希な身体能力、「超」超絶技巧…。ギエムを表現することは容易いが、ギエムのその時々のパフォーマンスを説明するのはそれほど容易くはない。しかしこれだけは言えるだろう。あの研ぎすまされた肉体、それは、まるで乳房以外はすべて筋肉で、皮膚のすべてが筋肉と化したあの作品。そうギエムの身体そのものが作品で、その作品を使って新たな作品、パフォーマンスを生もうとするのだから、それはもう贅沢というほかない。
ギエムのアートを見て涙が落ちたのは、美しかったからの一言につきる。ボレロは作品の成り行き自体が、妖艶な美神にひれ伏す男どもか、孤高のシャーマンを崇める凡俗どもかと表されるが、ギエムはシャーマンであり美神である。美神=ミューズは、安置されることによりその美神性を確認することになるが、ギエムは進化する肉体であり、その伝説は進化する(まさに「進化する伝説」 シルヴィ・ギエム http://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/49ab52fd043341d9fd82d1b063ce307b)。繊細にしてヨーロッパ人らしく大柄な、というより、カマキリのように長い手足、を自由に操るとき、暗闇にその四肢で無駄なく弧を描くとき、ギエムはもう人ではない、アートの結晶である。時空を超えたアートの完成品に出会うとき、この一瞬あるいはその時々の美しさを感受したとき、その美を表現する前に涙は落つることをゆるしてほしい。(ポスターは2005年公演のもの。ただし、ギエムの鮮烈さはなんら変わらない)

コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 美術館を野生化する 榎忠展... | トップ | 一点に拘泥しない完璧さ  ... »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
てーさん、ありがとう (kenro)
2011-11-07 23:04:54
「美しきもの」を感受する力が失せたとき、人はマイナスな感情に苛まされるのかもしれませんね。そういう意味では、私はまだまだノー天気な楽天家かも。
返信する
やっぱり難しいけど… (てーさん)
2011-11-07 17:33:05
Kenroさんの感動が、すごく伝わってきました。


文面から察するに、もう「人」を超えてしまっている美しさなのですね。


それだけの感動に出会えるというのは、うらやましく得難い幸せですよね。
返信する

コメントを投稿

舞台」カテゴリの最新記事