kenroのミニコミ

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美は独占も排除も共感も惹きおこす  ヒトラーVSピカソ 奪われた名画のゆくえ

2019-04-24 | 映画

最近ナチスの時代に絵を描くことを禁止され、不遇だったエミール・ノルデが実はナチ信奉者で反ユダヤ主義者であったとの資料が発見されたとのニュースがあった。ノルデはユダヤ人ではなかったためフェリックス・ヌスバウムのように収容所送りになることはなかったが、「頽廃芸術」の烙印を押され、描くことを禁じられた。しかし、ノルデは密かに「描かざる絵」を書きためていたという。そのノルデが実はナチ信奉者であったとは。

ナチスは「頽廃芸術」一掃運動として自己の思想に合わないとみなした「コスモポリタン的で共産主義的」な美術作品を略奪、強奪、廃棄した。その烙印を押された芸術家は、ドイツ国内の表現主義、モダンアートにとどまらず、ピカソやゴッホ、ゴーギャン、シャガールなどにまで及ぶ。ナチスの追及を避けるため、シャガールやモンドリアンなどアメリカに渡った者も多い。略奪した作品をナチスはどうしたか。実は、それら作品を国家元帥たるヘルマン・ゲーリングは収集しまくっていたのである。ヒトラーを欺いて。そしてその収集を助けた画商が当然存在した。ヒルデブラント・グルリットはナチスの宣伝相ゲッペルスに重用され、頽廃美術品を売買(もちろん買うときはとんでもない安値で)した。戦後になりグルリットは扱っていた美術品をもはや所持していないとしていたが、家族が隠し持っていたいのだった。家族が1500点もの作品を戦後ずっと隠していたが、2010年に発覚。グルリット事件として大きく報道された。グルリット(息子)に対する刑事訴追も進まぬ中、グルリットは2014年に死去。全財産をスイスのベルン美術館に寄贈するとの遺言が発表されたのだった。これを機に2017年11月にベルン美術館にて「グルリット展」が開催されたのだった。では、ナチスが略奪した60万点にも及ぶ美術品、その後行方不明の10万点の美術品の運命は。

本作は、略奪された本来の所有者や画商の子孫、作品を追跡する研究者やジャーナリストのインタビューなどで構成される。ナチスの時代を生きた人たちが確実に減っていく中で、その探索は困難を極める。しかし、グルリットの秘匿と作品の来歴が税関検査と様々な書類、作品に施された痕跡から明らかになったように、探索の手は休まることもない。しかし作品が発見され、元の所有者が判明したとしても、その返還には訴訟手続きが必要な場合など、膨大な時間と労力がかかるのも事実だ。しかし、ナチスの蛮行を暴くためにも必要な作業であるし、芸術作品を時の政権の取捨選択、好悪により選別することはあってはならないし、芸術の独立、思想信条の自由、表現の自由を侵す悪行であって、その追及の手を緩めてはならないだろう。

ナチスは、正しい芸術とそうでない芸術を色分けし、前者を「大ドイツ芸術展」として、後者を「頽廃芸術展」として開催したが(1937年〜)、後者の方が圧倒的人気であったという。そして、展示された後、秘匿された作品群。芸術作品を自分だけのものにしたい、こっそり愛でておきたいというのは芸術作品のもつ魔性であって、それに抗うことのできなかった者によって作品は現在まで保護されたというパラドクスが生じる。しかし、戦争責任と美術品保護の有用性は別に論じる必要があるだろう。でないと、戦争は自分がおこしたものではないし、あの時代は仕方なかったのだ、自分に責任はない、と認めたらアイヒマンの言で戦争犯罪人はいなくなってしまう。

ナチスの時代に限らず、戦争は美術品の略奪が行われ、作品は移動し、だから保存されたのだというのは歴史的結果であって、ナポレオンが大家帝国が様々な美術品を自国に持ち帰ったことに対し、元々の所有者(国)が返還請求することはやむを得ない。しかし、平和な時代であるからこそ、そういった返還・帰属問題について話し合うことが可能なのであるし、そういった論争があることで、より多くの人が美術(作品)や歴史に目を向けることができるなら、圧制や独裁ではない社会=民主主義の発展に寄与するのではないか。

ナチスの空爆を非難、「ゲルニカ」を描いたピカソは言う。「壁を飾るために描くのではない。絵は盾にも矛にもなる、戦うための手段だ。」

かたい内容であるにもかかわらず、スリリングな謎解き仕立てで本作は色々なことを考えさせてもくれるのだ。

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