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kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

東京美術館ぶらぶら記2 ジュリアン・オピー展

2019-08-06 | 美術

ジュリアン・オピーは多分「松方コレクション」に出てくる印象派の巨匠より、圧倒的に知名度が低い。その証拠に訪れた時はガラガラだった。画家というのは生前、大いに売れて観客がどっと押し寄せるというのは稀な例で、印象派で言えば、19世紀は画廊に展示の時代であるが、画廊にどっと押し寄せるというのはなかったに違いない。後期印象派にカテゴライズされるゴッホなどは生前売れたのはたった1点だったのは有名な話である。そう言った意味では現代美術の作家は取り上げられるという意味ですでに幸せで、かなりの有望株ということになるのであろうが、ジュリアン・オピーはもう回顧展「的」なものが開かれている。

かなり注目していた。あの簡易、平易なクロッキーは誰にでも描けると思わせるようで、そう簡単ではない。ピカソやモディリアーニがなぜすごいのかというのは、素描を中心にした展覧会に行ったことがあって、その基本的デッサン力の高さに驚いたからだ。オピーのあの平易なクロワニズムには基本的デッサン力が基底にあるに違いない。ピカソで言えば、人物をキュビスム的に表現しようとすれば本来のフィギュアを明確に捉えていないとできない、というのが筆者の持論だが、多分間違ってはいないと思う。細かい話になるが、ピカソがキュビスムを実験した当初、プロトキュビスムの参考にしたのはアフリカの工芸、プリミティスムであって、それを科学的に発展させたのが、1907年に制作された「アヴィニョンの娘たち」(MoMA)であり、これが分析的キュビスムの嚆矢となった。であるから、オピーの平板な人物像は、本質的人物把握ができていないと表現できない地平だと思うのだ。

けれど、オピーの魅力はそこにはない。極端に単純化された顔、目は点でしかない。四肢の動きは余計な要素を全て削ぎ落としても表現できるというオピーの技が光っている。例えばピクトグラムは、その土地の言語が分からなくても、あるいは字が読めなくても、トイレであるとか、そこが何を表すのか理解できるようになっている。オピーのそれはピクトグラムではないが、少々乱暴だが、大人の男女であることがすぐに分かり、そして何らかの職業や世代も匂わせる。そして、動画では、何とも好もしく全員がゆるく走っている。さらに1動画につき、登場人物はせいぜい4〜6人くらいであるのに、走る方向や色使い、他者とのすれ違い方などでもっと多くの人物が登場すると錯覚させるから不思議だ。特にゆる〜く走っている人に見とれていると、あんなに単純なタッチであるのに、時間を忘れてしまう魅力に溢れていて、そして頰が緩んでくる。まるでディック・ブルーナの絵本に見入っている子どもの視線になれるのだ。

簡単、平易なデザインは盗まれやすいし、模倣に遭いやすい。キース・ヘリングのグラフィティが、「バッタもん」商品として広く流通してしまったことは有名で、ディック・ブルーナのデザインでは、その保護と流通のための厳しい知的財産権保護の会社を設立している。オピーのタッチも盗まれることなく、まだまだゆる〜く楽しませてほしい。

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東京美術館ぶらぶら記1 松方コレクション展

2019-08-04 | 美術

近代絵画史には画商、画廊の存在が欠かせない。アカデミーなど国家が管理する芸術から、画家から買い取ったりして、市民に売り立てする商取引を成立させる不可欠なディーラーだったのだ。画家もそういった存在無くしては後世に残ったかどうかは分からない。バルビゾン派や印象派を支援したポール・デュラン=リュエル画廊、ピカソを独占的に紹介したダニエル=ヘンリ・カーン・ワイラー画廊など。だから今回の松方コレクションの展示方法は、当時の松方の興味関心とパリの画壇の勢力関係等が垣間見えて興味深いが、壁に上下並べて展示する当時の画廊のやり方といい、鑑賞者には少し分かりづらいかもしれない。

国立西洋美術館が松方幸次郎の収集した作品を展示するために設立されたのは有名だ。今回は設立60周年を記念して、コレクションの全貌の一端を紹介するとする。「一端」とは松方が購入した1万点にも及び作品のうちその多くが行方知れずで、今回の目玉は、フランス政府が戦後返さなかったフィンセント・ファン・ゴッホの「アルルの寝室」やアンリ・マティスの「長椅子に座る女」、ハイム・スーチンの「ページ・ボーイ」などが集められているからだ。

そして今回松方自身のヨーロッパでの美術品渉猟には松方が日本軍のスパイ活動を隠すための行動だったのでないかとのその本当の目的も話題だ。確かに川崎造船の社長であり、第1次世界大戦での船舶需要を見込んでストックボート(受注生産ではなく予め製造しておいて売却)で富を得た松方が、単に美術愛好家としてだけ動き回ったとは考えにくい。ただこれには確かな証拠が発掘された訳ではないそうでもある。しかし松方が日本の若い芸術家に本物を見せたい、美術館を造りたいと考えたのは本当だろう。実際、松方が全福の信頼を寄せていたイギリス人画家フランク・ブラングインに美術館の設計図まで依頼していたのであるから(共楽美術館)。だが、関東大震災と金融恐慌でその計画は頓挫し、松方のコレクションも四散することとなったのは周知のとおりである。

富豪がその財をして美術品をコレクションし、美術館建設によって社会に還元するというのはよくあることで、アメリカのバーンズ・コレクションは製薬業、ゲティ・センターは石油王、ライトの建築で有名なソロモン・グッゲンハイム(美術館)は鉱山王である。最近では不動産業で富を得たブロード夫妻のコレクションを集めた美術館がLAにオープンした。かの国の大統領も不動産業で金持ちになったらしいが、その使い方は?それはさておき、だから富豪が美術館建設を構想するというその意思は尊重されるべきものとしても、その前提として大きな収奪があったことは見逃せない。そして松方の場合、戦争特需を見越してというのであるから兵器弾薬を売った訳ではないから「死の商人」とまでは言えないかもしれないが、そういう姿勢であったのは間違いない。例えば人気の高い歴史上の人物として坂本龍馬を好む人は多いが、坂本が薩長戦争に目をつけて、スコットランド人武器商人トーマス・グラバーから大量の武器弾薬を買い、売りさばいた「死の商人」であった事実も忘れるべきではないだろう。

絶対王政がなければルーブル美術館もなかった。美術品が後世に残されているという現実はこれらの史実とセットとして考えなければならないし、戦後、松方コレクションが和平の証としてフランス政府から返還されたというのもまた史実である。そしてナポレオンや大英帝国の例をあげるまでもなく、美術品の真の所有者は誰か?という本質的な問いを美術の世界は常にはらむし、その交渉、経緯を通して平和が持続するという営みも同時にあり得る。さらにコレクションの一つひとつをじっと楽しむことができるのも、今回のような企画がなされた要諦であるというのも実感する。

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シベリアを知る、ヒロシマを伝える 四國五郎展

2019-06-17 | 美術

実は四國五郎という画家は、私が関わっている家庭科の男女教習をすすめる団体が母体となった雑誌(家庭の男女教習は1993年中学校で、94年高等学校で実現)「We」を応援するWeの会主催の「Weフォーラム(筆者もずっと参加している。「We」はフェミックス(http://www.femix.co.jp)発行)in広島」で永田浩三さんのお話を聞いて初めて知った。永田さんは、元NHKのディレクターで広島での経験も長い。お話には広島市で清掃作業員として働きながら、自己が日常使う清掃用具や広島の風景などを太い、濃い筆致で描いてきた職業画家ではないガタロさんも同席された。ガタロさんが最も影響を受けたのが、日中戦争に従軍し、敗戦後シベリアに抑留され、その間3歳下の弟を原爆で失った四國五郎である。原爆を描く画家といえば、丸木位里、丸木俊が浮かぶが、四國五郎の画業も見過ごすことのできない迫力だ。

四國五郎の名前は知らなくても峠三吉はもっと知られているだろう。「ちちをかえせ ははをかえせ」の『原爆詩集』の挿絵は四國五郎である。四國五郎は、シベリア抑留中の記録を豆日記に記して靴下などに隠し、飯ごうに仲間の名前を刻み、上からペンキを塗って日本に持ち帰った。当時、ソ連より抑留時代の記録を持ち帰ることは厳に禁じられていたから、凄まじい執念と機知である。後にその記録は「わが青春の記録」として大部にまとめられている。その四國が抑留から解放され帰国した1948年、最も可愛がっていた弟が18歳で原爆で亡くなったことを知る。原爆を実際に経験していないのに原爆によって肉親を奪われ、住み慣れた街を破壊された四國。四國は経験していない原爆の図を描き始める。

大阪大学総合学術博物館で開催されている「四國五郎展 〜シベリアからヒロシマへ〜」(7月20日まで)は、四國の足跡を順を追って伝える。初年兵として1944年10月に広島の第五師団広島西部第10部隊に入営した四國は、間も無く中国戦線に送られ、関東軍に入隊。45年8月9日、長崎に原爆が投下されたその日にソ連軍が参戦、四國は抑留されることとなる。広島の同じ部隊にはあの福島菊次郎がいたが、福島は部隊中に怪我をして中国行きなどをまぬがれた。抑留の3年間で仲間はどんどん斃れていく。その様もスケッチし、四國自身、大病を患い、命の危機もあったが、それ故入院し生きながらえることができた。一方、同じく抑留されたのに日本軍の上下関係そのままに横暴に振る舞う上官への反発から、民主化運動が起こる。当時の社会主義思想からソ連の思惑もあったに違いないが、四國はそれにのめり込んでいく。広島に戻り、弟の死を知った四國は、反戦運動や原爆の記憶の継承にずっと取り組む。詩人でもあった四國は、「辻詩」(同じ画面に画と詩を描いた。画は四國、詩は峠が書いたが、四國が書くこともあった)で戦争と原爆の実相を描き続けた。

転機と言えるものがあるとすれば、1974年。一人の老人がNHK広島放送局に画用紙に書いた絵を持ち込んだ。原爆の凄まじい体験をどうしても伝えたくて、サインペンで書いたという。原爆投下からまもなく29年。その老人、小林岩吉の圧倒される話に、当時の広島局員が番組にして、市民が描いた体験談、原爆の絵を広く募集することになったのである。その番組に深く関与したのが四國である。6月8日の放映には絵を持ち込んだ小林と四國が登場した。悲惨な体験、負の記憶を募集なんてできるだろうかと四國は消極的であったという。しかし幾度もの放送を経て、翌75年にかけて市民から寄せられた絵は2225枚。展覧会ではこれらも紹介されている。

四國の基本姿勢はもちろん反戦平和である。原爆という弟や広島だけで20万人の命を奪った大量殺戮兵器のみならず、1960年代のヴェトナム反戦運動にも関わる。四國を最も有名にしたのは1979年に出版された絵本『おこりじぞう』である。原爆で火傷を負った女の子を助けられなかった地蔵がその無念さ故、怒った表情になって地蔵は頭が丸い石と胴体に別れてしまったというお話だ。その挿絵を担当した四國は「こわい絵本を書くことは難しい…こわいものなど、描きたくないのだが、こわいものを地上から無くすためには描かなければならない」とあとがきで述べる。

「ヒロシマを伝える」四國の生涯のライフワークを伝える本展をぜひお勧めしたい。なお、シベリア抑留経験後、日本での住民運動や抑留被害者救済運動に携わることになった父親の聞き書きを丹念に著した小熊英二さんの『生きて帰ってきた男 ある日本兵の戦争と戦後』(2015 岩波新書)は必読である。

(四國の伝記やエピソードは全て『ヒロシマを伝える 詩画人・四國五郎と原爆の表現者たち』(永田浩三 2016年WAVE出版)を参考にさせていただいた。)

 

 

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近代ロシア美術を満喫 「ロマンティック・ロシア」展

2019-05-18 | 美術

印象派の展覧会であるとか、フェルメールのそれであるとかに観客がわっと押し寄せるのは見慣れた光景であるが、ロシア美術となるとどうか。筆者の含めて多くの美術好きも詳しくはないのではないか。であるからかもしれない。本展はBunkamura ザ・ミュージアム以外は山形、岡山、愛媛とわりと地方の美術館ばかりの巡回展である。ところがこれがなかなかの見応えである。

「ロマンティック・ロシア」。なぜロマンティックなのか。それは膨大なトレチャコフ美術館の収蔵品の中から帝政ロシア末期の「移動派」を中心とした風景画、肖像画、風俗画にスポットを当てて集中的に集めているからだ。ロシア美術、それもロシア美術だけを集めるトレチャコフ美術館であればビザンツ美術の名品も展示されていて当然であろうが、今回は上記に絞っているからだ。狭い島国の日本 ―と言っても、行ったことのない土地が圧倒的に多いことから十分に広いと感じてはいるがー からすればあまりにも広大なロシアの大地を描くとはどういうことか。長い冬のイメージで春や夏などあるのか、といった偏見を超えて、彼らは描き続けた。それはおそらく狭いアカデミズムの一側面、と彼らが見なした、のとは違うロシアの自然、環境、人々の営みをリアリズムの視点で描きたかったからに違いない。イワン・ニコラエヴィチ・クラムスコイ、イワン・イワーノヴィチ・シーシキン、イサーク・イリイチ・レヴィタン、イリヤ・エフィーモヴィチ・レーピンといった「移動派」の画家らは、革命前後を通じてロシア画壇の重鎮を占めることになるが、それ以前はアカデミーに反発するかのごとく各地を移動展示せざるを得なかったのである。恥ずかしながら、肖像画の名手レーピン以外の名はよく知らなかったのだが、そこに描かれている風景画は冬の厳しさを迎えるまでの春や夏、秋の柔らかで静寂な断面を言わばフォトジェニックに切り取ったように見る者を安寧の心持ちに誘う。

本展の目玉であるクラムスコイの「月明かりの夜」(1880)と「忘れえぬ女(ひと)」(1883)は、モデルが変更になったり(月明かり)、不明であったり(忘れえぬ。ちなみに本作の原題はUnknown Lady)と必ずしもこの人の肖像画という扱いではないが、その魅力が減じることはない。クラムスコイはトルストイら著名人の肖像を数多く描いている画家であるが、この2点についてはもちろん著名人を描いたものではないし、「月明かり」については何か妖精でも棲みそうな空間にたゆたう、現実には存在しない女性を、一方「忘れえぬ」では観る者を逆にきりりと見据える女性は西洋画の伝統であるファム・ファタルさえ思わせる。

「移動派」が結成されたのが1870年。ペテルブルク美術アカデミーを追放された学生であったクラムスコイらが社会主義思想に影響を受け、リアリズム作品を各地で巡回したのち、革命後はソヴィエト社会主義リアリズムの権威化されるが、画家の表現形式と現実政治が一体化した成功例と言える。しかし、美術は現実世界の矛盾を追及したり、より新しい発想で現実を変えていこうとする表現者の試みの発露でもあるはずだ。そうすると「権威化」された時点で、「移動派」の絵を純粋に美しい、素晴らしいと思い込んでいたものが途端に有名作品になった“いわく”を粗探ししたくなる感性は邪魔者だろうか。

ところで筆者はトレチャコフ美術館に一度だけ行ったことがあるが、それまでの旅程の疲れとあまりにも広いので(併設の現代美術館もすごい)クタクタになってよく覚えていないのが情けない。

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圧倒的な生の不存在  クリスチャン・ボルタンスキー展

2019-04-03 | 美術

クリスチャン・ボルタンスキーの作品群を見て、感じたのは圧倒的な「生の不存在」である。ボルタンスキーが頻繁に利用する古いセピア色の肖像写真の並列は、ホロコースト(ショア)を当然思い起こさせるが、彼はそれを肯定はしない。なぜならこの写真は強制収用所で亡くなった人たち、多くの子どもを含む、を写したものではないし、ユダヤ人ではなくスイス人の写真であったりするからだ(「174人の死んだスイス人」)。しかし、それらの写真がぎっしりと張り巡らされる時、それは生きている人たちの写真ではなく、すでに亡くなった人たちの写真であることが分かる。それは写真そのものの古さから感じるものではあるし、また、一枚一枚に映るその表情のはかなさ、それは現在のミクロの単位で写し取る高彩度の撮影技術の正反対であったとしても、稚拙なカメラ技術故でもあるだろう。さらにそれら古い写真の配置の仕方が、その被写体の生を遠ざける。例えばボルタンスキーが幾度も製作した「聖遺物箱」シリーズや「モニュメント」、「シャス高校の祭壇」。言うまでもなくキリスト教の具体的信仰物たる聖遺物はトリノの聖骸布とかが有名であるが、無数にある。それを入れる箱は装飾の粋を極め、その不可侵性は疑うべくもない。また、祭壇は教会の中で最も重要、厳かな場所である。

ボルタンスキー自身はユダヤ人を父に1944年パリで生まれた。当局の告発を避け、父親は地下室に隠れていたという。ユダヤ教からキリスト教に改宗した父親、母親はもともとキリスト教徒で、ユダヤ教からは縁遠いボルタンスキーであるが、幼い頃から同胞のユダヤ人がどのような最期にあったか聞かされていたようだ。それがホロコーストを思わせるインスタレーションに結びついているのは間違いない。しかし、見る者の受け取り方に任せ、子供の視線を大事にする。何百枚もあろうとかと言う黒いコートの「ぼた山」。あるいは一転してカラフルな衣類が壁に集積している「保存室(カナダ)」。いずれも主を失った抜け殻の衣服。アウシュビッツ国立博物館を訪れたことがある者なら、ナチスが殺戮した後のユダヤ人らから奪った衣類のコレクションを想起できる。カラフルな衣類の山をクレーンで持ち上げては落とすパフォーマンスでは子どもらはその動きをとても面白がり、そこに悲痛な感傷はない。ボルタンスキーはその子どもらの反応を楽しんでいる。そう思ってみれば、「聖遺物箱」も「モニュメント」も必ずしも、死者への敬意や厳かな心持ちは必ずしも必要ではないとも思えてくるから不思議だ。

無数の死者と言ってもそれぞれ一人ひとりの生が途絶えるまでの歴史や存在がある。それらに想いを馳せるために、ボルタンスキーはむしろ古い写真を通してその不在に気づかせようとしている。生きていた証。それは写真であったり、衣服であったりするが、その不在を気づかせるための小道具にすぎない。ひとたび死者を、死を忘れてしまえば、なぜ死者になったのか、その死がどのようにもたらされたものかが不明になる。昨今の歴史修正主義を持ち出すまでもない。ボルタンスキーが描く圧倒的な生の不存在は、むしろ西洋美術の一ジャンルたる生の儚さではなく、生の意味だと思える。本展の題名はLifetime。一生(涯)である。

 

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シンプルの正体。それは見る者の想像力の正体   ディック・ブルーナのデザイン

2018-06-28 | 美術

昨年2月に亡くなってから、関西ではおそらく初のディック・ブルーナ回顧展である。本展では、ブルーナの代名詞とも言えるあのかわいいうさこちゃん「ミッフィー」が中心に取り上げらいるわけではない。むしろ彼の生み出した様々なキャラクターやブックデザインがなぜこれほど人気があり、人々の心に焼き付いているかを究める理由、そう、シンプルの正体、を究めることなのである。

絵本作家より前にデザイナーとして出発したブルーナの仕事量はたいそう多い。絵本も多いが、なんと20年間に2000冊ものブックデザインを手がけているのだからすごい。それももちろん本の中身、テキストを確認し、その内容にふさわしいデザインを考えていたのだ。ペーパーバックの書籍は、駅の売店や書店の手前に平積みされてまず手に取ってもらうことが大事だ。だから、一目で思わず手が伸びてしまうデザインが要請される。ブルーナ・デザインはその要素を十二分に持ち、かつ、長年にわたって飽きさせない斬新さを維持し続けてきたのだ。

ブルーナのペーパーバックの代表作のなかで「ブラック・ベア」シリーズはあまりにも有名だ。彼のデザインであることを示すアイコンとなり、画面の一部や隅っこ、あるいはデザインの一部にまで登場する。一方、「シャドー」ではパイプを加えた横顔が、「セイント(聖者)」では聖性をあらわす頭上の輪っかが描かれる。実に多彩だ。

絵本では一番有名なミッフィーをはじめ、ミッフィーの仲間とも言えるクマのボリスや子犬のスナッフィーなど動物が主人公のものはきわめて平易なフォルムでカラーも少ない。ミッフィー・シリーズのブルーナ・カラーは最初4色であったが、ミッフィーの友だちである茶色いウサギを描くために2色増やしたという。それでも6色だ。ミッフィーの口はペケのまま決して開かない。お目目も閉じたりしない。そして横顔はない。けれど、ミッフィーが楽しそうにしたり、泣いていたり、心配している表情がきちんと見えるから不思議だ。ブルーナの絵本は当初を除いて、一貫して15.5センチの正方形で左におはなし、右に図柄の24ページと決まっている。おはなしは韻を踏んでいる。ブルーナによればこの長さが幼児が飽きずに集中できる体裁なのだそうだ。そして、その濃密、かつ計算されつくしたおはなしに相応したフォルムに喜怒哀楽を感じ取ってしまうのだ。それほどまで絵本のデザインも小さな子どもに入り込みやすいものとなっている。

ペーパーバックでも絵本でもブルーなの姿勢を貫くのはシンプルさである。シンプルは簡単とか手抜きとかではもちろんない。ここまでシンプルを貫くことで逆に想像が広がる。あなたはどう感じますか?とブルーナが訊いてくるのだ。

絵画をはじめとする美術世界には徹底的に手を入れ、細部にこだわるスタイルがある。古くは北方ルネサンスのヤン・ファン・エイクや現代日本で一定の人気を誇る写実絵画もその方向性かもしれない。それらの魅力ももちろんあるが、ことデザインの世界では、観者がすぐに惹かれる、あるいは納得する簡明さがイノチという場合も多い。見る者を惑わして考え込ましていてはデザインと言っても、別の世界になってしまうのだろう。

しかし、デザインとは違う美術の世界でも削ぎ落すことで作者の探究心、完全主義を満たす場合もある。ジャコメッティの彫刻やモンドリアンの絵画がこれにあたるだろうか。そしてデザインではないアートの世界でシンプルさがその特徴であり、価値とされる場合、そのアートはやはり(商業)デザインに近づいていくがなぜかアートから外れることはない。たとえばジャッドの抽象彫刻やアルプの造形。これらも見る者の想像力を刺激するという意味では、すぐれたデザインと同じであるし、デザイン、例えばポスター、のように道行く人万人に振り返ってもらう作品と同じかというとそうではない。おそらく見る者の側がデザインかアートかをそのシチュエーションで使い分けたり、構えたりしているからだろう。そこにあるのはシンプルの魅力だけである。

デザインでもあまりにもシンプルで模倣しやすいものは、贋作、偽物に侵食されやすいという危険性がある。若くして亡くなったキース・ヘリングの仕事はそもそもグラフィティ(落書き)が出発点であったこともあり、ライテイィング・チャイルド(光るこども)のように模倣作、「ばったもの」が蔓延した。ブルーナ作品は、彼がブックカバー・デザインとともに絵本製作でいろいろなキャラクターを編み出した際にメルシス社を設立し、ブルーナ作品の著作権を守った。その甲斐あってか、ブルーナ・デザインは模倣作が氾濫することなく、私たちの想像力を刺激し続けている。

シンプルの正体。それは見る者それぞれ、幼児から大人まで、の想像力の正体なのである。そしてそれは無限である。

 

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政治的メッセージにも挑戦か「横浜トリエンナーレ2017」

2017-10-22 | 美術

今や日本の芸術祭で「老舗」となった感のある横浜トリエンナーレは今回が6回目である。今年カッセルで開催されたドクメンタ14の紀行で日本の芸術祭の非政治性に辛口のコメントを書いたが(http://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/8b8c35c50a9086d6e2d3da90a555ee0c)、少なくとも今回のヨコトリは政治的メッセージが豊富であった。今回のタイトルは「島と星座とガラパゴス」。その意は「アートの世界だけにとどまらない現代社会の抱える課題に取り組」む姿勢である(本展あいさつ)。「現代社会の抱える課題」とは何か。それは日本以外の多くの作家が取り上げた難民の問題であり、ポピュリズムの問題である。

主会場である横浜美術館正面にはアフリカや中東からヨーロッパへ向かった難民を乗せたゴムボートが建物の壁一面に(Reframe)、使用済みの救命胴衣でできた巨大なポールが2塔(安全な通行)。作者のアイ・ウェイウェイは大がかりなインスタレーションで知られるが、自身の出身中国の厳しい検閲状況を示唆する陶器製の無数の蟹も展示した(「河の蟹」(協調)。中国語の「蟹」が政府のよく使用する言葉と同音異義語だが、同時にネット上では「検閲」の意味を持つという。)。

デンマーク出身のオラファー・エリアソンは「Green light  アーティスティック・ワークショップ」で簡単で再利用が可能な素材をいろいろなバックボーンを持つ参加者が話し合い、協働することで完成させる過程を描いている。作品で得られた収益は難民支援団体等に送られるという。

国内の作品はどうか。自身、学校になじめなかったという風間サチコは軍事教練を想起させる組体操と富士山や戦車を対峙させた壮大な絵巻風木版画を、木下晋はハンセン病患者で詩人の故桜井哲夫の写実デッサンを、今や世界で活躍する写真家の畠山直哉は、東日本大震災で大津波の被害を受けた故郷・陸前高田を撮り続ける。

本展のテーマは「接続」と「孤立」。難民を受け入れるのが「接続」なら、それまで「孤立」していた難民を排除するポピュリズムもまた「孤立」と親和性が高いのではあるまいか。一方、難民問題が現実化していない日本は、福島第1原発の事故で、世論では原発再稼働反対が多数を占めるのに、政府・財界は原発再稼働にまい進する中、そのような姿勢に問題提起するのが柳幸典のインスタレーションである。水素爆弾によって突然変異した怪獣、ゴジラをほうふつさせるが、地下で巨大な眼ががれきの中から鋭くこちらを見つめている。同時に周囲に憲法9条のアーティクルが赤く煌く。これほど政治的メッセージが強い作品も珍しいが(柳は「日の丸」を模した赤い土を蟻が侵食していく「蟻と日の丸」も展示されている。)、これらの作品が日本最大級の美術展で、横浜市やNHKが主催となっていることに(外務省や神奈川県も後援している。)少々驚きを禁じ得ない。それほど、日本の美術展はさまざまなシーンで萎縮を見せいていたからである。

横浜美術館の順路展示の最後の「Why Are We? Project」は興味深かった。インターネットで「Why is Japan」とグーグル検索すると続いて「so safe」だとか「so cool」などと、どのような語が頻度が高いかを世界中の国名を入れて一覧にしているのだ。これはそれの国に対するパブリックイメージであるとともに、モノイメージでもある。ここ数年の強権的な政策と立法(特定秘密保護法や共謀罪など)で、国民の知る権利などが侵されていると国連特別報告者から指摘される日本は、はたして国民はsafeでcoolと実感できるだろうか。自由や民主主義といった一応普遍的な価値観のなかでガラパゴス化する日本を垣間見たような2017のヨコトリであった。(柳幸典「蟻と日の丸」)

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ドイツ中西部の旅 2017ドクメンタを中心に⑤

2017-09-22 | 美術

今回の最終目的地フランクフルトに着いた。ドイツ最大の金融の街というから高層ビルが林立するものと想像していたが、駅前からトラムが発着する親しみやすさ。ベルリンでも高層ビルがにょきにょき、ではないので東京やニューヨークがむしろ異常なのだろう。フランクフルト中央駅から大聖堂や美術館がある中心部までトラムが、街の主要交通手段なのだ。

街の中心を東西に流れるマイン川の両岸に美術館がいくつもある。南岸のリービクハウス。小さな美術館だが、リーメンシュナイダーには珍しく砂岩の聖母子像がある。ここで見つけたリーメンシュナイダーに関する新著が福田緑さん(kenroのミニコミ ドイツ中西部の旅 2017ドクメンタを中心に①参照)も入手していなかったもので新鮮かつ貴重な発見となった。リービクハウスは本当に小さく、リーメンシュナイダー以外には魅力的な作品は少ない。その隣にあるシュテーデル美術館の方が有名である。

フランクフルトの銀行家シュテーデルの寄付によって設立された街随一のコレクションを誇る。ホルバインやデューラー、クラーナハなど北方ルネサンスはもちろんのこと、バロックから近代にいたる蒐集はとくにすばらしく、レンブラントやフェルメール、フリードリヒ、そして印象派とドイツ表現主義の面々がそろう。とくにブリュッケのキルヒナーは1室があるほど。さらに広い構内には戦後美術、抽象表現主義やコンセプチュアル・アートまでありご満悦。そして、この美術館で人気なのが、併設レストラン「ホルバイン」。筆者はここで、珍しくお寿司をいただいたが、味はともかく、ツナとサーモンだけのネタの少なさが淋しかった。ただ、お寿司であるのにおいしいパンがついてくるのがドイツらしい?

シュテーデル美術館はショップも充実していて、いくつか物色した。ミュージアム・ショップは美術館好きを狙っているうまい品ぞろえで、デパートや専門店では探すのが下手な人間に思わず手に取りたくなるグッズや装飾品がある。ここでいくつかお土産を手にした。

マイン川の北岸には大聖堂近辺にモダンアート美術館、シルン美術館、歴史博物館が居て並ぶ。歴史博物館はリーメンシュナイダーの作品目当てだったのが見つけられず、係員も「知らない」という。残念。モダンアート美術館は、面白い作品もあるが全体にビデオ作品が多く、英語バージョンがないのもあり、見続けるのは難しい。しかし、CGで虚無な雰囲気の男性が自身の目玉をくりぬいたり、手首を切り落として、空港のターンテーブルに載せていく作品はグロテスクだったけれど、人間が現代社会の中ではパーツでしかないことを示していて興味深かった。一方シルン美術館は、企画展のみ。現代アートによくある体験型のもので子どもなら楽しめたのではないか。

ところで知らなかったのだが、フランクフルトはゲーテの故郷である。旧市街にあるゲーテハウスは日本語オーディオガイドもあり、結構オススメ。超裕福な家庭に生まれ育ったゲーテは、子どものころから普通の家庭では得られない人文、自然科学、芸術などあらゆる知識を培っていた。それらの中から後に文学の才を現したのは、やはり若い頃からの熱烈恋愛体験が関係ありそうだ。数か国語を操り、留学から帰国後は一応弁護士として執務していたゲーテは今でいうスーパーインテリであったろうが、いくどもの失恋、悲恋に悩まされたそうだ。そのあたりの人間臭さもいい。そして最愛の妹をはじめ兄弟姉妹を早くに失っている。ゲーテのことをほとんど知らなくても、楽しめるのは、ゲーテの生家がきちんと残っているからだろう。

フランクフルト最後の夜は、(多分)毎年マイン川両岸で開催される美術館コラボ(3日間美術館入場無料のフェスティバル協力券がある)の大屋台市。「大」と書いたのは、本当にすごい規模で2キロはあろう片岸にそれぞれ屋台がひしめき(それも両岸!)、川のすぐそばではロックなどの舞台もあちこちに。その規模と楽しさに圧倒された。そして驚いたのが、これほどの屋台の数、規模であっても、使い捨てのコップは一切使用しないことだ。筆者もビールやワインなど楽しんだがすべてグラス。頑固で環境問題に厳しいドイツを垣間見た楽しい夕餉でこのドイツ中西部の旅も終わった。(マイン川南岸の情報通信博物館で展示されていた電話コードでできた羊)

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ドイツ中西部の旅 2017ドクメンタを中心に④

2017-09-17 | 美術

テレビやパンフレットなどでヨーロッパの街の風景が魅力的に紹介される際、路面電車がよく使われる。たいていはウィーンかチューリッヒと思われるが、ヨーロッパの主要都市は路面電車が市民の足であり、観光客の移動手段であることが多い。ドイツもそうである。さすがにベルリンは、街中から少し外れた旧東ベルリン地区を走っているが、路面電車が市民の足兼観光客の足であるのは大都市ミュンヘンもフランクフルトも、そしてカッセルもそうである。

カッセルで5年に一度だけ開催される現代アートの世界展ドクメンタ(今年はドクメンタ14)。今年はギリシアのアテネでも先行開催されたが、ギリシアとドイツでの開催自体が現在のヨーロッパが直面する問題を著し、そして向き合おうとしている。ギリシアは債務超過で、EU離脱(放逐)かとも危惧された。一方EUのけん引役であり最優等生国であるドイツは、あまりにも多い難民に、受け入れを表明したメルケル首相の支持率低下にさえ陥り、ナチスの悪夢を経験したにもかかわらず移民排撃の右翼政党の台頭さえゆるしている。

ドクメンタはまっこうからこれら政治的課題に向き合う。まるで社会的発言を包含しないアートは、アートではないというように。実はドクメンタはその発祥からアートにおける政治的立場を明らかにした企画ではある。1955年に第1回が開催されたわけは、ナチスドイツの時代、表現の自由が制限され、政権が好む芸術だけが認められたのに対し、アートがアート本来が持つ批評精神に特化したからであるという。第1回ではナチス政権の嫌った印象派の作品が多く展示されたが、次第に政治的メッセージの強いコンテンポラリー作品が中心になるようになった。言うまでもなく、ギリシアは中東やアフリカやからの難民受け入れの最前線であり、その後衛はドイツ。難民と債務問題。ヨーロッパが抱える2大課題である。そこで、ドクメンタの作家はどのようにそれを訴え、あるいは表現したか。

ビデオ作品に多いのが、難民の現実を想起させるものや、その難民と原住民との齟齬をあらわした作品。また、現代の細分化されたパーツ主義とも言える個の不在に疑問を投げかける作品など。

カッセル滞在最後の夜に、イタリアンのお店に行った。給仕の仕切り役とまみえたイタリア人(と本人が言っていた)と少し話せた。筆者の英語力では不正確な趣旨だけになるが、「今年のドクメンタは政治的メッセージが強く、批判も強い」「そうですか。アートは批判もあると思うけど」。しかし、ドクメンタがその出自ゆえ、「政治的」であることは避けられないし、そうあるべきであろう。アートはそもそも政治も含め、現状批判を表現する手段であるから。そういう意味では、ドクメンタを最左翼として、日本で本年さかんに開催された〇〇芸術祭の非政治性にはがっかりさせられる。むしろ、政治的メッセージを発する作家は排除したのではないかとも思えるくらい。日本の芸術祭は最右翼か。

言い過ぎたかもしれないが、ドクメンタの政治性は、芸術が弾圧されたアンチから出発したことを忘れてはならない。なぜ今回のドクメンタが「14」なのか。5年ごとに開催されるドクメンタはナチスの時代から70年を超えた。その戦後、5年ごと開催されたということは14で70年である。これは筆者の勝手な想像で正解ではないかもしれない。しかし、ホロコースト、第2次大戦を実際に経験した世代が亡くなっていく現在、アメリカ・トランプ政権をはじめ排外主義を煽る者たちの伸長は無視できない。ドイツでも簡単に「右翼」と言いきれないかもしれないが、AfD(ドイツのための選択肢)が支持を伸ばしている。そのような差異許容、寛容主義ゆえに存在価値のあるアートからの異議申し立てはむべなるかなとも思える。

ナチスの時代や、ヨーロッパが悲惨に見舞われた時代をいつまでも、しつこく直視する姿勢。それは、どこぞの国が戦争法(安保法制)をとおすため歪曲して持ち出してきた「積極的平和主義」(ヨハン・ガルトゥング博士)の理念からは遠いことは間違いない。ドクメンタに見られるアートの役割もそういうことであるのだろう。(The Parthenon of Books:Marta Minujin)

 

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ドイツ中西部の旅 2017ドクメンタを中心に③

2017-09-13 | 美術

ミュンスター彫刻プロジェクトは10年に一度の開催で、今回初めて訪れることができた。ミュンスターの街の中心部にあるノルトライン・ウエストファーレン美術館(LWL)は彫刻プロジェクトの本拠地。会期中は無休、午後8時まで開いていて、プロジェクトを回って疲れたらトイレ休憩などに使えるし、ロッカーも使いやすい便利な立地と施設。しかしLWLは単なる中継地ではない。そのコレクションたるや中世キリスト教美術から近代アートまで途切れない。しかも彫刻プロジェクト開催中は、現代アートのインスタレーションまである。まさにアートの至福である。

プロジェクトは、ミュンスター市街のいくつかの場所に作品がある。街中は歩いて回れるが、市街地の公園などにある作品は、自転車で回るしかない。ミュンスターはだいたい平地の街。レンタルバイスクルがあり、筆者も借りたが、一番低いサドルに合わせたのに足が着くかつかないか。それでも歩いて回るより多くの作品に見えたのはよかったが、本当に作品解説・理解としてよかったのはLWLから歩いて回れる範囲の作品をめぐるガイドツアー。ガイドのカレンさんは英・独・仏・西語ができてイタリア語はまだまだという。ドイツ語は全く不明、英語もおぼつかない身にとっては驚異の人だが、いろいろな参加者のレベルを察してか分かりやすい、聞き取りやすい英語で案内してくれたので助かった。むしろ現代アートは解説なしではよく分からないまま通り過ぎてしまうことが多いので、ガイドは有益だ。

LWLから出発するガイドツアーの最初の作品は、もともと美術館の敷地内にあったヘンリー・ムーアの彫刻がまるでトラックの荷台に乗せられ、いまにも運び出されそうな視覚の錯覚を企図した作品(Tom Burr)。カレンさんは、問う「作者は何を意図していると思うか」と。どんなに重く確固たるものに見えても容易に運び出され、そこの実像ははじめからなかったかのように思われてしまうこと。筆者は「Refugees(難民)」と答えたが、果たして作者の意図に合致していただろうか。いくつかの後に訪れたのは内部が空洞の大きな石柱(Lara Favaretto)。空洞なのが分かるのは、人間の目の高さに細い切れ目があるから。貯金箱?これもギリシアやイタリア、スペインなどEU内で債務超過・経済破たんが現実化、危惧される国に対し、EUや国家のヘルプが果たして、一国を助けることができるのか、いや、一人ひとりの「義援金」ではないか(それもふくめて無意味)とのアイロニーか。

Nairy Baghramianの鉄骨のチューブが3つに切断された作品には、思わず「Christianity world?」との頓珍漢な問いにカレンさんは即座にNo。もちろんキリスト教の三位一体を想起したのだが、筆者の考えすぎというより、そもそも西洋美術がキリスト教由来というずいぶん前の西洋美術理解に縛られていたということか。作品は、隣の場所で6つに切断されていた。かように可変的な固い物体は、実はどのようにも分断的で切断的である。それは変化も分散も許さないかに見えたスチール製の「紐」が実は、柔軟なのである。チューブか紐か?紐帯と言うことばがあるのか分からないが、結ぶものは、はずれ、解かれるもの。印象深い作品だ。

街を挙げての芸術祭は、いろいろ地域を回れて楽しい分、移動が結構大変だ。ミュンスターではレンタルバイスクルも利用したが、それもない場合はおよそすべての作品を回ることは出来ない。都会の芸術祭(次回紹介するドクメンタなど)は公共交通で回れるが、地方ではそうもいかない。たとえば瀬戸内国際芸術祭などは作品が島に点在していて、その島を巡る船も限られている。ミュンスターに3,4日滞在して、彫刻プロジェクトほかふらふらと過ごすのが理想なのだろうが。しかし、何らかの政治的発言も伴うコンセプチュアル・アートたる現代美術は、その意味をじっくりと考え、その作家の発言するその意図に諾か否かの姿勢を自問自答してみるいい機会と言う意味で、長い時間が必要だろう。(Nairy Baghramian)

 

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