ジュリアン・オピーは多分「松方コレクション」に出てくる印象派の巨匠より、圧倒的に知名度が低い。その証拠に訪れた時はガラガラだった。画家というのは生前、大いに売れて観客がどっと押し寄せるというのは稀な例で、印象派で言えば、19世紀は画廊に展示の時代であるが、画廊にどっと押し寄せるというのはなかったに違いない。後期印象派にカテゴライズされるゴッホなどは生前売れたのはたった1点だったのは有名な話である。そう言った意味では現代美術の作家は取り上げられるという意味ですでに幸せで、かなりの有望株ということになるのであろうが、ジュリアン・オピーはもう回顧展「的」なものが開かれている。
かなり注目していた。あの簡易、平易なクロッキーは誰にでも描けると思わせるようで、そう簡単ではない。ピカソやモディリアーニがなぜすごいのかというのは、素描を中心にした展覧会に行ったことがあって、その基本的デッサン力の高さに驚いたからだ。オピーのあの平易なクロワニズムには基本的デッサン力が基底にあるに違いない。ピカソで言えば、人物をキュビスム的に表現しようとすれば本来のフィギュアを明確に捉えていないとできない、というのが筆者の持論だが、多分間違ってはいないと思う。細かい話になるが、ピカソがキュビスムを実験した当初、プロトキュビスムの参考にしたのはアフリカの工芸、プリミティスムであって、それを科学的に発展させたのが、1907年に制作された「アヴィニョンの娘たち」(MoMA)であり、これが分析的キュビスムの嚆矢となった。であるから、オピーの平板な人物像は、本質的人物把握ができていないと表現できない地平だと思うのだ。
けれど、オピーの魅力はそこにはない。極端に単純化された顔、目は点でしかない。四肢の動きは余計な要素を全て削ぎ落としても表現できるというオピーの技が光っている。例えばピクトグラムは、その土地の言語が分からなくても、あるいは字が読めなくても、トイレであるとか、そこが何を表すのか理解できるようになっている。オピーのそれはピクトグラムではないが、少々乱暴だが、大人の男女であることがすぐに分かり、そして何らかの職業や世代も匂わせる。そして、動画では、何とも好もしく全員がゆるく走っている。さらに1動画につき、登場人物はせいぜい4〜6人くらいであるのに、走る方向や色使い、他者とのすれ違い方などでもっと多くの人物が登場すると錯覚させるから不思議だ。特にゆる〜く走っている人に見とれていると、あんなに単純なタッチであるのに、時間を忘れてしまう魅力に溢れていて、そして頰が緩んでくる。まるでディック・ブルーナの絵本に見入っている子どもの視線になれるのだ。
簡単、平易なデザインは盗まれやすいし、模倣に遭いやすい。キース・ヘリングのグラフィティが、「バッタもん」商品として広く流通してしまったことは有名で、ディック・ブルーナのデザインでは、その保護と流通のための厳しい知的財産権保護の会社を設立している。オピーのタッチも盗まれることなく、まだまだゆる〜く楽しませてほしい。