kenroのミニコミ

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圧倒的な生の不存在  クリスチャン・ボルタンスキー展

2019-04-03 | 美術

クリスチャン・ボルタンスキーの作品群を見て、感じたのは圧倒的な「生の不存在」である。ボルタンスキーが頻繁に利用する古いセピア色の肖像写真の並列は、ホロコースト(ショア)を当然思い起こさせるが、彼はそれを肯定はしない。なぜならこの写真は強制収用所で亡くなった人たち、多くの子どもを含む、を写したものではないし、ユダヤ人ではなくスイス人の写真であったりするからだ(「174人の死んだスイス人」)。しかし、それらの写真がぎっしりと張り巡らされる時、それは生きている人たちの写真ではなく、すでに亡くなった人たちの写真であることが分かる。それは写真そのものの古さから感じるものではあるし、また、一枚一枚に映るその表情のはかなさ、それは現在のミクロの単位で写し取る高彩度の撮影技術の正反対であったとしても、稚拙なカメラ技術故でもあるだろう。さらにそれら古い写真の配置の仕方が、その被写体の生を遠ざける。例えばボルタンスキーが幾度も製作した「聖遺物箱」シリーズや「モニュメント」、「シャス高校の祭壇」。言うまでもなくキリスト教の具体的信仰物たる聖遺物はトリノの聖骸布とかが有名であるが、無数にある。それを入れる箱は装飾の粋を極め、その不可侵性は疑うべくもない。また、祭壇は教会の中で最も重要、厳かな場所である。

ボルタンスキー自身はユダヤ人を父に1944年パリで生まれた。当局の告発を避け、父親は地下室に隠れていたという。ユダヤ教からキリスト教に改宗した父親、母親はもともとキリスト教徒で、ユダヤ教からは縁遠いボルタンスキーであるが、幼い頃から同胞のユダヤ人がどのような最期にあったか聞かされていたようだ。それがホロコーストを思わせるインスタレーションに結びついているのは間違いない。しかし、見る者の受け取り方に任せ、子供の視線を大事にする。何百枚もあろうとかと言う黒いコートの「ぼた山」。あるいは一転してカラフルな衣類が壁に集積している「保存室(カナダ)」。いずれも主を失った抜け殻の衣服。アウシュビッツ国立博物館を訪れたことがある者なら、ナチスが殺戮した後のユダヤ人らから奪った衣類のコレクションを想起できる。カラフルな衣類の山をクレーンで持ち上げては落とすパフォーマンスでは子どもらはその動きをとても面白がり、そこに悲痛な感傷はない。ボルタンスキーはその子どもらの反応を楽しんでいる。そう思ってみれば、「聖遺物箱」も「モニュメント」も必ずしも、死者への敬意や厳かな心持ちは必ずしも必要ではないとも思えてくるから不思議だ。

無数の死者と言ってもそれぞれ一人ひとりの生が途絶えるまでの歴史や存在がある。それらに想いを馳せるために、ボルタンスキーはむしろ古い写真を通してその不在に気づかせようとしている。生きていた証。それは写真であったり、衣服であったりするが、その不在を気づかせるための小道具にすぎない。ひとたび死者を、死を忘れてしまえば、なぜ死者になったのか、その死がどのようにもたらされたものかが不明になる。昨今の歴史修正主義を持ち出すまでもない。ボルタンスキーが描く圧倒的な生の不存在は、むしろ西洋美術の一ジャンルたる生の儚さではなく、生の意味だと思える。本展の題名はLifetime。一生(涯)である。

 

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