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kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

塀の中にこそ明らかになった渇望  「大いなる自由」

2023-07-16 | 映画

ホフマンが何度もタバコに火を着ける。その炎と放つ光ははかない。そのはかなさ故か、ホフマンのこれまでの人生を想起させるメタファーか、炎はすぐに消える。けれどもホフマンの思いは続く。

ホフマンはナチス政権下で同性愛者との理由で拘束、収監されている。ナチスからドイツ市民を解放した連合軍のもとでも同性愛行為は違法。だから、強制収容所からそのまま解き放たれることなく、戦後ドイツの刑務所に移送されたのだ。他者を傷つけるなどの何らかの犯罪を犯したわけではない。性志向そのものが犯罪であった時代の話である。しかし、同性愛が非犯罪化されるのは東ドイツで1957年、西ドイツでは1969年である。しかも女性の同性愛は「ない」ものとして、男性だけを罰する(しない)法改正であった。男性たちは違法な逢瀬をどこでしていたか。公共トイレである。そこにも監視カメラが据え付けれ、違法=逸脱行為をなす男たちを見張っていた。そのフィルムが回されるところから本編は始まる。

ホフマンが移送された先で、同室になったヴィクトールはあからさまに拒否する。「変態と同室でいられるか!」。刑法175条と収監者の罪状が明記されているからだ。だが、ホフマンの腕に強制収容所にいたことの証としての認識番号を見て、ヴィクトールは「(刺青で)消すか?」と提案する。そこから、ヴィクトールとホフマンの友情は始まる。

岸田文雄政権はG7の中で日本だけがLGBT(Q)に対する法整備が遅れているとの実態から、急ぎ「理解増進法」を成立させた。法はあくまで「理解増進」であって「差別解消」でないことが問題と当事者団体等から指摘されている。同法の審議段階では与党自民党内から、「女性」と自称する男性の女性トイレや女風呂に入ることを妨げられないのではとの懸念が反対理由と示された。トランスジェンダーの当事者が、自己の出生時の性とは異なる性で社会生活を送る場合、公共トイレなどの施設を利用する際には、できるだけ外見的にも自分自身の意識ともトラブルのない段階でやっと、自己認識の性の側を選ぶという実態を無視したヘイト言説だとも思うが、今般の議論の遅れにかなり寄与しただろう。首相秘書官による差別発言もあった。

時代はもっと頑固である。ホフマンは何度も収監される。でもホフマンは刑務所内も含めて自己の愛を止めようとしない。いや、止めることなどできないだろう。興味、趣味ではなく性向であるのだから。いや、性向でさえもない。本源的な愛だ。ホフマンが刑務所への出入りを繰り返す中で、殺人を犯し長期収容されているヴィクトールに幾度も出会う。ヴィクトールには分かるのだ。ナチスの時代、強制収容所をくぐり抜けてきたホフマンこそ、自己を曲げない、曲げられない人間であることを。罰するべきではない個人の性向を法律で縛ることの不平等さを。

イスラム社会をはじめ、現在も同性愛を違法とする国は多い。しかし、あれだけ異性愛を最上のものとしてきたカトリックの国でも同性婚は合法化されてきた。一人ひとりが幸せを得るための価値観は変わっていくものだ。そしてそれを示すものとして、ヴィクトールという得難い友人を得たホフマンにとって、刑務所こそ自由で、外の世界には自分の居場所のない不自由な世界というパラドックスも本作は明らかにしている。

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なんと「うつくしく、やさしく、残酷」か    「怪物」

2023-06-13 | 映画

何十年も前なので記憶の上書きをしていると思うが、小中高を通して、いじめられないように立ち回る学校生活を送っていた。それは、いじめられたり、その1番のターゲットになりそうな同級生を見ていたからだ。けれど、逃げ通すことはできず、中学では殴られ、高校ではパシリを進んでしていた。幸い、大学ではいじめの対象とはならなかったが、就職してからも自分にキツく当たる先輩から逃れようと、彼の視界に入らないよう工夫もした。けれど、あちら側にすれば避けているのが見え見えだ。

子どもは実は残酷と言われる。ある面でそうであり、またそうでもないだろう。あるいは無垢とも言われるが、それもまた両面ある。しかし、子どもだけのことだろうか。大人にも残酷と無垢な面もあるだろう。ただ、違うのは社会性を備えた大人はそれらの面を自分の意思で操作したり、また、わざとそういう面を生きていることが多いということだ。そして善人、悪人の境目など常人には不確かで不可分だ。

「怪物」とは何者で、誰がそうなのか? あるいは、どんな人でも内なる「怪物」を有しているのか。安藤サクラ演じる麦野早織は、シングルマザーとして一人息子の湊を愛し、大事に育てている。その湊に異変が、突然髪を切り、スニーカーが片一方しかない。永山瑛太演じる担任の保利先生に暴力を振るわれたと訴えたため、学校に乗り込む。全く無表情、能面のような校長(田中裕子)、極限まで自己保身にまみれている副校長。無理やり謝罪させられる保利先生はやがて全校集会で謝罪、辞職する。保利先生の視点で描かれた現実は違っていた。彼には何の非もなく、むしろ湊がクラスメートの星川依里をいじめているように見えた。依里は同級生の中では小柄で、どこか他の子らと違ったところがある。そして湊の視点。

角田光代がコラムを寄せている。子どもからの視点に移った時点で「ようやく観客は、入れ子の箱のいちばん最後に隠されていた真実を知ることになる。なんとうつくしく、やさしく、残酷な真実だろうか」とネタバレになることなく本作をズバリと言い当てるあたり、さすがベストセラー作家だ。そう、おそらく港や依里のほんとうの姿が「うつくしく、やさしく、残酷」であったため、ある意味起こった事件と言える。そして、他の主たる登場人物、早織も、保利もその多面性を抱え、そして子どもも含めて他者に対して「怪物」であった時もあった。複雑な関係性 − 二者間ではその複雑さが理解されないことも多い ― そのものが「怪物」を育てていたのだ。人間関係そのものが「怪物」であったのだ。

「誰も知らない」、「万引き家族」をはじめ、子どもを中心に「家族」を問い続けてきた作品で高い評価を得ている是枝裕和監督は、自ら脚本を手がけるのに、本作は坂元裕二に任せた、いや、坂本の脚本ならと監督だけを引き受けたそうだ。坂本は、2022年度のテレビドラマの賞を総なめした「エルピス 希望、あるいは災い」の佐野亜裕美プロデューサーと組んで好評だった「大豆田とわ子と三人の元夫」の脚本家である。

映画が始まると、当初、居心地が悪かった。善人そうに見える早織も、その他の人たちもそんなに悪い、深慮遠謀を凝らした悪巧みを隠しているようには見えない。しかし不穏なのだ。そして子どもは、どこまで子どもで「小さい大人」なのだろうか。学校が舞台ということもあり、ある意味、日本的な描写だがラストまで一気にすすむ。目が離せない秀作だ。

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寛容、そして統合。隣人として生きる術を用意する世界「ウィ、シェフ!」

2023-05-12 | 映画

日本は、2070年には人口が現在の約7割の8700万人、うち外国人が1割になるとの予測が出た。移民政策であれ外国人の増加を快く思わない人たちはショックを受けているとも。技術を教えるどころか、日本人がしたがらない3K職場で使い捨てる実態の技能実習制度の本質がばれ、日本に来る外国人が本当に増えるのか。それほど魅力のある国であり続けるのか。

「ウィ、シェフ!」は現代のおとぎ話である。自分ひとりの力で有名レストランのスーシェフまで上り詰めたカティ・ラミーは、オーナーと喧嘩してクビに。すぐに雇ってもらえると考えていたが、やっとありつけた職場は移民少年らが滞在する寮の料理人。ラビオリの缶詰しかない調理場で掃除もきちんとできていない。施設長からは「飾りつけ、味付けは要らない。量があれば良い」と言い渡される始末。ゲームやサッカー以外には無為の時間を過ごす少年らを、調理助手としてマネジメントする立場になったカティにムラムラと意欲が沸き起こる。食材の選び方から、調理の基本など、それらにまつわってフランス語もメキメキ上達する少年たち。そして、カティが因縁あるレストランと対決する番組で少年らの不安定な立場を訴えることに。

実は、あながちおとぎ話ばかりでとは言えない。フランスの移民割合はすでに約12%。しかも「移民」の定義が「外国生まれで外国籍を持ち、フランス国内に在住する人々」であって、日本の在日韓国人のような存在はカウントされないので、実際にフランス以外にルーツを持つ人はもっと多いだろう。少年たちの将来は過酷だ。18歳時点で職業訓練学校に入れないと強制送還されるからだ。彼らの年齢は厳密に調べられる。骨年齢をCT検査で解析し、18歳を超えているとされたら送還対象になる。「故郷では料理は女がする。男は女に指図されない」とカティに言い放ったジブリルは、教室から追い出されてしまう。しかし、寮の規則正しく、謹厳な生活を離れた移民の少年らにある現実はヤクの売人など違法なものばかりだ。サッカーでクラブからスカウトされることを夢見るジブリルはやがてカティの重要な調理補助となる。コートジボアールに、コンゴ、パキスタン。命からがら祖国から逃げてきた難民ではないが、彼らの肩には故郷の両親らの期待が背負わされている。だから必死なのだ。それを受け入れ、統合に費用をかけ、また統合できないと強制送還するフランスの政策はある意味、寛容で合理的でもある。トリコロールの赤と白を体現しているということか。

トルコで迫害されているクルド系をはじめ、ドイツにはシリア難民その他が押し寄せている。ロシアのウクライナ侵攻後にはそれも含まれる。ドイツでは、移民・難民に徹底的なドイツ語教育を無料で施し、ある程度の理解力まで得られないとやはり送還する政策とも聞いたことがある。正確なところは不明だが、仏・独とも地続きの欧州諸国では、かくも移民対応に時間も人出も割いている。人権的観点から。

翻って、日本で移民少年らに希望を与えることができるだろうか。そもそも、児童養護施設育ちのカティに自ら切り拓く道を用意しただろうか。入管施設で医療も受けられず亡くなったスリランカ女性、死産したことで刑事責任を問われたベトナム人技能実習生。おとぎ話以前の酷薄な現実がこの国の実態だ。

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「全然大丈夫じゃない」そう言える世の中に  「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」

2023-05-03 | 映画

ぬいぐるみを英語でstuffed animalという。以前、海外旅行をしていた際、どこの国だったかレストランの日本語メニューに「○○のぬいぐるみ○○」というのがあり、なんのことだろうと訝しく思った。しばらくして納得した。ソーセージか何かの詰め物料理のことだったのだ。英語圏でないその国で、料理をまず英語で考えてそれを日本語表記にしたらしい。ぬいぐるみは食べられないが、もこもとと柔らかい何か詰まった動物には話しかけたくなるのかもしれない。

ぬいぐるみに話しかけるのは、実在する人間に話しかけることで傷つけ、傷ついてしまうことを避けるためだ。だから、ぬいぐるみとしゃべっているのは他者ではなく自分自身であったりする。それは自己防衛であるとともに、他者との関係性を持たないという人間関係の広がりを拒否する姿勢でもある。他者との関係で自己研鑽や、いろいろな価値観があるということに気づくこともできるというのに。しかし、まず自分を守ること。

京都の大学のぬいぐるみサークル(ぬいサー)に集う人たちは、どこか他者との気軽なコミュニケーションが苦手で、内にこもるタイプが多いと見える。しかし、そう見えたのはメンバーがより繊細であるからに過ぎない。そこには各人のSOGI(sexual orientation、gender identity 性志向と性自認)が深く関係している。饒舌でも快活でもない七森剛志は、入学の場で同級生の麦戸美海子と知り合う。二人してぬいサーに加入したが、そこには同級生の白城ゆいもいた。異性との交際の経験のない剛志はゆいと付き合ってみるが、やがてフラれてしまう。ゆいと同じ布団で寝るまで交際した二人だが、性交を求めなかった剛志にゆいが愛想をつかしたのか。あるいは剛志と美海子が付き合っていると勘ぐったゆいがわざと剛志と交際してみたのか。一方、通学電車で痴漢を目撃した美海子は、自分ごとに思えて通学できなくなってしまう。美海子に授業ノートを届ける剛志。それは恋愛感情ではない。心から心配しているからだ。長く一緒に暮らした飼い犬の死を機に、久々に実家に帰った剛志は同級生に誘われ居酒屋に。そこで「こいつ童貞だ」とからかわれ、憤然と席を立つ。なぜ、そういう目で、そういう価値基準で人を測るのかと。すると今度は、剛志が学校に行けなくなってしまう。剛志を助けたいと思う美海子。二人は会話する。「全然大丈夫じゃない」

映画の中で明確に描かれているのは、ぬいサーの先輩である光咲と西村がレズビアンで交際しているらしいこと。それ以外、剛志も美海子も他のメンバーもSOGIは明らかではない。しかし、剛志はおそらくアセクシャルで、痴漢を目撃した美海子は、自己の「汚される性」側の自覚に苦悶している。ぬいサーのいずれもが大学生活で求められる(ように見える)シスジェンダーとしてのヘテロセクシャルとは無縁に見える。そう世の中が、ストレートが「普通」との価値観で覆われている中で、自分の生きにくさはセクシャル・マイノリティが原因と自覚している人たちなのだ。たとえセクシャル・マイノリティであっても生きづらさとは無縁の社会が望まれるのに、今や就職技術専門学校と化している職業選択の最前線である大学で、生きづらさに直面する困難といったらない。

2023年の現在、G7議長国として安全保障や環境や、経済などといった分野でリーダーシップをと意気込む日本。しかし、LGBTQ+や同性婚といった法整備、政策が一向に進まないのは他のG7国より周回遅れ。やさしくないはずだ。

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「生きる」とは「生きていくこと、生きていること」  カズオ・イシグロの世界に再び

2023-04-05 | 映画

黒澤明ファンでも、古い日本映画ファンでもないので、さすがに志村喬版は見たことがない。それでも、カズオ・イシグロ脚本にかかる本作を見れば、黒澤・志村の「生きる」が名作であることが偲ばれる。

ストーリーに現代のようにひねりがあるわけではない。余命いくばくもないことを知った男が、無気力に生きてきた自身の現在、生き方を見つめ直し、最後にやり遂げる仕事を見出す。言ってしまえばただそれだけだ。もちろん彼が正気を取り戻したのには、職場の部下である溌剌とした若い女性の存在がある。これは老いらくの恋ではないし、下心でもない。彼女は、階層的には上流出身ではなく、洞察力深い人物にも描かれていない。若さとそこから迸る衒いのなさだけが取り柄にも見える。しかし、そこに彼は「生きる」意味とその表し方を見とったのだ。そう、「生きる」ことの崇高さを見出したのだ。

日本人のルーツを持つカズオ・イシグロが小津安二郎の世界ではなく黒澤映画、それも「生きる」を選んだことに英国と日本、明快ではない曖昧な態度、本質を直接は問わないその文化的近似性に着目したからの成功と言えるだろう。カズオ・イシグロの世界は静謐、特に大きな事件も起こらず、展開も穏やかであるのに読む者を引き込む。『クララとお日さま』は未読だが、『日の名残り』の語り手のとても抑えた、それでいてページを繰るのももどかしいくらいの展開にワクワクし、アンソニー・ホプキンスの映画版も何度も見たことを思い出す。そのイシグロが選んだのが「生きる」。戦後間もない頃を時代背景として、敗戦国の日本と戦勝国の英国。とは言え、どちらも戦後復興からこれからという時代。高度経済成長はまだだが、これからは戦争もなく、働いて自分も家庭も国も上向きになるだろう。主人公は世代的に戦争も経験している。出征経験もあるかもしれない。それが、不治のガンと知り、半ば自暴自棄になるが、それまで自分は一所懸命に生きてきたのか、なすことをなしてきたかと反芻すると、光が見えてきた。人の「生きる」には死とは違った終わり方があるのだと。

ウィリアムズ演じるビル・ナイがいい。風貌はリタイアしてもいい老齢だが、部下はいるが役所の一介の市民課の課長。部署間の関係もあり、権限が大きいわけではない。たらい回しにしてきた案件、地区の婦人らが陳情してきた公園整備がある。死期を知り、貯金をおろして無断欠勤を続けるウィリアムズは、街で部下のマーガレットに会い、何かと誘い出す。戸惑うマーガレット。しかし、ウィリアムズが、忙しそうにして自分の退職金だけが目当ての息子にはガンを告げられないでいるのに、マーガレットには打ち明ける。驚くマーガレットの頬を伝う涙がとてつもなく美しい。本作で一番好きなシークエンスだ。やっと他者に自己の残された時間の短さを伝えられたウィリアムズは、公園整備に残り時間の全てをかける。

マーガレットに「ゾンビ」とあだ名を付けられていたウィリアムズが「復活」したのだ。黒澤の「生きる」には、戦中世代の志村演じる渡辺の記憶、それは戦時中賛美された「散華」という戦場で死ぬことこそ美とする倒錯した価値観を見出すのは容易だろう。しかし、ウィリアムズの「復活」は死して、あるいは死ぬ前の底力といった嫌らしい見方はしたくない。「生きる」ということは、時流を含めいかなるものにも流されず、流されていることを自覚しつつ、それに抗う自己確認の絶え間ない、弛まない作業なのだろう。

かくも「生きる」というのは深く、尊いものなのだ。

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一人がひとつ コスパやタイマが重宝される社会への異議申し立て 「チョコレートな人々」

2023-02-18 | 映画

日本酒やワインの「あて」にチョコレートが好きだ。それも、カカオをあまり使わず、砂糖で誤魔化しているような安ものが気に入っている。けれど、こういった安くて、どこで生産されたかもよく分からない製品は、児童労働や生産者の正当な収入につながっていないとの指摘もあり、本来は避けるべきだろう。そこで、最近はフェアトレードのチョコを買うようにしているが、どこの国のどの生産者か不明な製品を除くという意味で「シングルオリジン」までには程遠いようだ。ゴディバをはじめ、高級チョコはそれなりに高価だ。しかし、原材料の正当な価格、製造者の適正な賃金という意味では、安すぎるのがおかしいのだろう。

高級チョコレートというとゴディバくらいしか思いつかなかったくらいであるから、久遠チョコレートは知らなかった。そこは、障がい者雇用の理想系、発展系。創業者の夏目浩次は言う。なぜ障がい者ということで賃金がおそろしく安いのか、最低賃金を超える額を目指すべきではないかと。夏目は少年時代、障がいのある同級生をいじめたことで、その同級生が転校、それを負い目に感じていた。そして障がいのある人にも正当な賃金を支払うとしてパン屋を開業。しかし、現実は甘くない。カードローンで作った膨大な借金を抱え、努力すれば障がいを乗り越えられるとの思いが強く、パン屋の「看板娘」だった美香さんを失う。美香さんの母親からは、「もう少し成長してください」。手間の割に利益が少なく、廃棄も多いパン製造。そこに手を差し伸べたのがトップショコラティエの野口和男さんだった。「一人がひとつ、プロになればいい」。できない、ではなくて、できることを分かち合えばいいのではと。パン屋からチョコ店への挑戦だ。

「チョコレートは失敗しても温めれば、作り直すことができる」。映画で何度も流れるフレーズ。そう、さまざまにある作業工程を分割、分類し、それぞれの得手不得手で担当する。単純作業を素早く繰り返しこなせる人、手先の器用さが要求される細かな飾りつけ、なんでもできるゼネラリストは要らないのだ。すると夏目の職場には障がいのある人だけでなく、シングルマザーや家族を介護中の人、そしてセクシャルマイノリティで、これまでの職場で生きづらかった人まで働き出す。セクマイの「まっちゃん」は、チョコ店の隣にオープンしたカフェの店長に。身体的、時間的などそれぞれの制約に合わせた職場環境の結果だ。そして、夏目の次の挑戦はより重度の障がいがある人の安定的な雇用だ。突然の発作のチック症で床を強く踏み鳴らしてしまう鈴木さんが働きやすいよう、1階の作業ラボを開設。鈴木さんが好きな音楽を鳴らすことによって症状は減っていった。

障がいのある被用者全員の最低賃金克服はまだ道半ばだ。安く使い回しているとの批判もある。しかし、久遠のチョコは今や、百貨店のショコラ祭典に出店、全国に展開する。久遠の看板商品、テリーヌはさまざまな素材、果実はもちろんのこと、ナッツ類、日本茶などまで石臼などで細かく、細かく丁寧にすりつぶした粒や粉が混じる逸品で、150種を超える。マッチ箱より少し大きいくらいで1枚250円。しょっちゅう購入するにはうなってしまう高級さだ。けれど、その背後に「正当な賃金」への思いが込められていることに想像力を働かせるべきだろう。

特別支援学校を卒業しても一般の就職先は少ない。授産施設などで工賃0円の仕事に就く人も少なくない。その特別支援学校の卒業式で象徴的なシーンがあった。「君が代」斉唱だ。

大阪の特別支援学校で生徒の体調を心配し、生徒とともに「君が代」斉唱の際、座ったままでいたことで処分された教員がいる。「一人がひとつ」を認めないなんという硬直さ。夏目さんの理想のためには、学校現場からも改革が必要だろう。

制作は長く時間をかけ、丁寧な取材でドキュメンタリーの名作、快作を作り続けてきた東海テレビ。次回作も楽しみだ。

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#Me Tooはあなたも、そして告発される側も   SHE SAID その名を暴け

2023-02-03 | 映画

「話す」「語る」といった英単語を思いつくだけ挙げてみても、talk, tell, speak, mention, referなど幼稚な英語力でもいくつも浮かぶ。「主張する」や「告発する」なども入れるともっと多いだろう。しかし、ここではsayなのだ。つまりそれまでは、長い人で20数年も「言えなかった」のだ。

世界で拡がった主に性暴力、性犯罪被害女性らの告発、真相究明、責任追及の運動“#Me Too”の発端となったハリウッドの大物プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインの悪行とそれを実名で告発する勇気を描いた、調査報道したニューク・タイムズ紙実在の記者2人と報道現場の物語である。

キャリー・マリガン演じるミーガン・トゥーイー記者は産後うつに苛まされていた時期にこの厳しい案件を抱え、ゾーイ・カザン演じるジョディ・カンター記者は一つ間違えば危険と隣り合わせの取材を敢行する。そして映画では2人の私生活も描かれ、スーパーウーマンではない生身のフツーの記者や社内での強固なバックアップ態勢、編集長のぶれない姿勢も描かれる。そう、ウォータゲート事件を暴いた往年の名作「大統領の陰謀」(1976)では、男性記者の背景、家庭が描かれることはなかった。40年以上経って報道の現場やそれを描く側に女性がきちんと進出してきた証である。不十分ではあるが。

映画にはワインスタインの姿はチラリとしか出てこないし、暴行現場の再現も一切ない。薄暗いホテルの廊下を映し出すだけで、どんな恐ろしいことが行われていたかを示すには十分な演出なのだ。日本でも男性映画監督の性暴力を告発した動きの中で、インティマシー・コーディネーター(セックスシーン、ヌードシーンや性的連想を含む場面で演者に寄り添い、その尊厳を損なわないよう配慮する専門職)起用の動きが広がったが、震源地のハリウッドではずっと進んでいるという。そして、性暴力を告発するのに、その暴力場面は必然でないことが本作で明らかになった。本作のような実話に基づく作品も含めて、暴力場面の再現はサバイバーの負担やフラッシュバックの危険性さえある。その狙いが奏功してか、被害者であるアシュレイ・ジャッドは本作に実人物として出演している。

ハリウッドの醜聞とNYタイムズ社というアメリカ社会そのものを描きながら、マリア・シュラーダー監督はドイツ出身、マリガンは英国俳優だ。マリガンには出世作「17歳の肖像」(2009)をはじめ、カズオイシグロの名著「私を離さないで」(2010)、そしてサフラジェット(女性参政権運動)を描いた「未来を花束にして」(2015)と好もしい作品が目白押しだ。トゥーイーは敵役だったと思う。

本作の出来とは関係なく、少し残念なことが2点。連邦議会の中間選挙の趨勢やインフレに伴う大幅な物価上昇などに注目が集まり、アメリカでは興行的にはあまり成功しなかったそうだ。#Me Tooは世界的な動きなのだから、アメリカ以外での成功を祈る。

そして、#Me Tooの範疇に入るかどうか分からないが、自分自身、苦い思い出がある。「残念」とは違うかもしれないが、それを決して忘れないことが、自分なりの#Me Tooに対する贖罪の回答だと考えている。

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凍りつくようなビジネス会議の実相  ヒトラーのための虐殺会議

2023-01-24 | 映画

とても怖い映画だ。数多あるオカルトやサスペンス、スリラーではない、現実を映し、それも登場人物が全て冷静、正気、論理的に整合性が保たれているのが何よりも怖いのだ。

ヴァンゼー会議。1942年1月20日、ベルリン、ヴァンゼー湖畔の邸宅で行われたわずか90分の会議で、ナチスドイツの高官らによって「ユダヤ人問題の最終的解決」が話し合われ、全員一致で遂行が決定された。「最終的解決」とは言わずもがなの虐殺、滅殺である。そこで話し合われたのは、欧州に住まう1100万人のユダヤ人をいかに効率的に運搬し、虐殺し、死体を処理するかということ。そして、選別、運搬等は「人道的」に行わらなければならず、対象のユダヤ人の血統性も。ナチスドイツの占領現場の軍人や高官らが気にするのは、その地域に何人のユダヤ人がいて、その「処理」にいかほどの労力、日数がかかるかということ。彼らが見ているのはユダヤ人という「人間」ではない。まるで、生産・流通・消費管理とも言える工業製品の数のようだ。そう、原題はTHE CONFERENCE。「会議」であったのだ。

進行はビジネス会議そのもの。ヒトラー総統の意思―アーリア人のヨーロッパ建設のめにユダヤ人を一掃―との計画を説明するラインハルト・ハイドリヒは、ゲシュタポ(親衛隊=SS)高官を引き連れ、話し合いと言いながら用意した「解決」策を政府次官や軍事参謀に飲ませる。そう、異論は許さないし、そもそも、異論が生じる余地もない。ユダヤ人の「最終的解決」については誰も疑いなく賛同していたからだ。彼らの興味関心は、あくまで遂行に至る輸送や担当するドイツ軍の受け入れ態勢、「処理」する時間などであって、ユダヤ人という「人」にはない。それまで行われてきた銃殺では、撃つ兵士に心的影響が発する恐れがあるけれども、ガス室で大量「処理」すればそれは解決されるというのだ。それも、徴発したユダヤ人を貨物車両に押し込み、収容所に引き込み線を設置し、降車させてすぐガス室に入れれば、ドイツ人の誰の「手も汚さず」、心理的負担もないという。なんというビジネスライクなのだろう。

ハイドリヒの説明を有能な事務方として補足するのはアドルフ・アイヒマン。アーレントが「凡庸な人物」と評した一公務員ではなく、冷酷な執行者であった。アイヒマンは、建設中の巨大な「殺人工場」アウシュビッツはじめ、収容所へのユダヤ人の強制輸送を「効率的」、計画的に「成功」させた人物として知られる。しかし、多分、アイヒマンのみならず、ハイドリヒやその他の次官、軍人等、会議に出席したナチスドイツの指導・決定層は仕事としてユダヤ人の「最終的解決」をいかに成し遂げるかという公務―それがヒトラーのおぼえめでたい地位になりたかったとしてもーに邁進していたに過ぎない。そこまでユダヤ人であれ、ナチスに有用でないと見た人であれ同じ「人間」と見ない感性と、それを後ろ押しする政策のコマに過ぎなかったということだ。

ヴァンゼー会議に集った者らは、ヒムラーやゲーリングといったヒトラーの最側近ではなかった。いわば現場のトップに過ぎなかった。中には、この会議で重要な決定に与ったとしてヒトラーに面談をと願う者もいる。王に見(まみ)えたい下僕そのものの心性だ。

さすがにヴァンゼー会議のような悪魔の決定を行なっているとは思わないが、国会という代表民主制の枠組みがあるにもかかわらず、この国では軍事拡張を目指す重要な決定を国会に諮らずに閣議決定という手法を用いている。暴走する政権が勝手に開く「会議」の怖さと内容を改めて思うのだ。

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壁を越える試みが、人をつなぐ  「こころの通訳者たち」

2022-12-01 | 映画

講演などをテープ起こしするにはカセットテープが一番で、ICレコーダーは使いにくいと思っていたら、文字変換ソフトがかなり進化していて、今では正答率が90数%までいくとか。そもそもカセットテープは百均くらいにしか売っていないし、レコーダーはどこに売っているのだろう?

「こころの通訳者たち」は、舞台手話通訳者(通常の手話通訳と違い、通訳者も出演者として、役者と同じ衣装を舞台に立つ)が聴こえない人のためにどう演劇を楽しんでもらうか、その演出、表現等工夫して作り上げた舞台映像(「ようこそ舞台手話通訳の世界へ」)を、今度は、流される文字の台詞をラベリング(台詞を音声に変換)して、見えない人に舞台を楽しんでもらおうとする取り組みを描いたドキュメンタリーである。こんがらがりそうだが、要するに①聴こえる、見える人を対象にした舞台 → ②台詞を舞台袖に流し、聴こえない人に対応 → ③その台詞を、見えない人に理解しやすいよう言い換えて音声として加える。という途方もなく時間と労力のかかる作業の成功譚だ。

これは、通常「健常者」だけを観客として想定している舞台に聴こえない人に対する壁を越え、さらに見えない人に対する壁も壊す、拡げるコミュニケーションの「越境」挑戦なのだ。しかし、「越境」が現代には必要不可欠であることは言を俟たないであろう。

グローバリズムというとき、すぐに日本人の英語力(最近では中国語力か)などをと想起されるが、コミュニケーションの手段は語学だけではない。そもそも手話(見えない人に対する触手話なども含む)は言語であるし、独立した伝達方法である。この言語によって見えない人や聴こえない人との会話が成立するなら、見える人、聴こえる人の世界も広がるのは明らかである。だから、私たちが外国語を学ぶ時に、もちろん海外赴任でイヤイヤというのもあるだろうが、その言語を話す人の背景に思いをいたし、想像力を掻き立てられることが理由となるのには、見える、聴こえるにとどまらない。

人は言葉が通じず、すぐにの伝達が困難な時、一所懸命伝えよう、理解しようと工夫、努力する。そうしている間は、人間関係に紛争は生じない。その努力に時間を割いている間は戦争も起こらない、というのは楽観すぎるだろうか。しかし、歴史を見れば、他者を差別、迫害する際には、その他者を「何を言っているか分からない蛮人」と見做してきたのではないか。そして、仮に同じ民族内であっても、見えない、聴こえない人は情報弱者として差別、迫害してきたのではないか。

ちょうど『くらしと教育をつなぐ We』241号(2022/12/1)では、日本で唯一「日本手話」を使って幼・小・中学部の一貫教育(バイリンガルろう教育)を行なっている東京・品川区の「名晴学園」のことが取り上げられている(http://www.femix.co.jp/latest/index.html)。幼い頃から二つもの言語を手に入れた(しかも、「日本手話」はアクティブ!)子どもらの生き生きとした様子が素敵だ。

「こころの通訳者たち」のサブタイトルはWhat a Wonderful World。原曲はサッチモことルイ・アームストロング。戦前から(敵性語)英語で外の世界とつながろうとした人たちを描いた「カムカムエブリバディ」の主人公雉真るい(深津絵里)の愛称は「サッチモ」であった。

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子どもに必要な「自由」と「平和」  「ぜんぶ、ボクのせい」

2022-08-24 | 映画

「子どもたちをよろしく」(http://kodomoyoroshiku.com)は、このブログで紹介したかったのだが、あまりにキツイ内容であったためもあり、書けなかった。「ぜんぶ、ボクのせい」はある意味、それ以上の苦さである。救いはないが、この国の現実を描いているのは明らかである。

児童養護施設で暮らす優太は、中学生になったら母親が迎えに来てくれると聞いていたのに一向に現れない母。施設の説明にも不信感を増し、飛び出した優太は、自分を邪魔者とする母に直面し、ホームレスの「おっちゃん」、おっちゃんを話し相手に来る訳ありそうな女子高生詩織と居場所を見つけたに思えたが。

ここでは施設の現況や課題を伺わせる場面は明確には描かれない。しかし、職員の数に比して子どもの数の多さは明らかだ。優太を気にかける職員も優太にだけかまっているわけには行かない。そして、優太は自分のことを、考えるところを全く話さない子である。優太が生まれ、幼かった時は母親も本当に可愛がり、甲斐甲斐しく愛したのだろう。けれど、男に頼って生きるしかない母親は、次第に優太が邪魔になった。話は飛ぶが、大阪で小さな子どもを自宅に置き去りにして、男友だちと過ごしている間に子どもらを死なせてしまった母親がいた。彼女にはさまざまな批判の声があがったが、彼女自身、スポ根で厳格すぎる父親からとても厳しく育てられ、その反動として若いうちから自立、幸せな結婚を演じようとした無理がたたったことが事件の背景にあることが明らかになっている。優太の母親にこの大阪の女性を見た。幸い優太は施設に入り、命の危険には晒されなくなったが、優太には優しく、自分を愛しく接してくれた頃の母親の記憶しかない。だからだらしない母親の姿を知らないし、それを実感するには幼すぎたのだろう。

でも、責められるべきは母だけなのだろうか。大阪の事件では、子どもらの父親は何をしているのだ、関わらなかったかのか、との追及の意見もあったが、結局、「父親」は不在だった。

父を知らない優太に、時に父のように接する「おっちゃん」は自由だ。そして優太にお姉さんのように接する詩織も、優太のあれこれを詮索しない。けれど、ホームレスへの差別や排外、地域社会の均衡を大事にする現実から、優太も詩織もおっちゃんも自由のままではいられない。ほんの束の間の自由だったのだ。

「8月のジャーナリズム」という言葉がある。広島・長崎の原爆忌や終戦(敗戦)日を中心に8月だけ戦争モノが取り上げるメディアの姿勢を揶揄していう。その中に被爆者に「平和とはなんですか?」と訊くシーンがあり、被爆者の方が「普通に過ごせること」と答えていた。私がもし問われたら「子どもが、食事ができて、屋根のある住居があって、信頼・安心できる大人に囲まれていること」と答えることを勝手に想定していた。優太には、一応、食事も屋根のある寝床も、おっちゃんもいた。が、優太は「平和」を享受できていただろうか。

できていたかもしれない。しかし永遠ではなかったのだ。「自由」と同じく、ずっと得られるものではなかったのだ。だから、現実にいる優太らに「平和」は必要だ。

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