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kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

「ユニオンって趣味でしょ」にうなづきつつ、考える   『コミュニティユニオン 沈黙する労働者とほくそ笑む企業』

2021-08-15 | 書籍

申し訳ないが、自分のことから話させていただく。組合(ユニオン)の役員を長らく勤めていた。その職場は、ユニオンショップ(被用者が自動的に労働組合員。雇用者指定の労働組合を脱退すると解雇されるのが、クローズドショップ。)ではなかったため、どんどん組織率が下がっていた。私が所属していた都道府県単位の支部を束ねるのが地方支部(地域連合会=地連)で、北海道とか中部とか近畿といった単位である。支部執行委員だった私は、ある時地連の専従書記長を引き受けてもらえないかとの打診がきた。専従とはいったん休職し(復職は保証、休職中の賃金は労働組合が支払う。)、数年後職場に復帰するという労働組合法上の身分(働き方)で、引き受ける人は少ない。キャリアの断絶や、復職後干されるのではないかといった不安を多くの人が持つ。私自身はキャリアアップにはあまり興味がなかった(そもそもその対象でもなかった)ので、引き受けてもいいと考えた。若い人が加入せず、どんどん組織率が下がっていく労働組合をなんとかしたいと思ったし、男性中心の執行部のあり方にも疑問を持っていたので、私が引き受ける条件に挙げたのは「地連執行委員を半分女性にすること」であった。現状も将来的にもそれは困難と判断したのか、地連は私を書記長に据えることを断念した。

自分のことを長々と書いてしまったのは、著者の梶原公子さんが紹介する若者がユニオンに魅力を感じない実態が痛いほど分かるからだ。企業内ユニオンと、梶原さんの活動するコミュニティユニオンとの違いはあるが、就職する若い世代のユニオンに対する見方は、カタイ、怖そう、自分の利益にすぐにはつながらない、だろう。そして、ここが現状の労働破壊の決定的な要因であるのが、そういった若者自身が「自己責任」の発想を内面化していて、それに縛られていること自体に無自覚であるということだ。「若者」と書いたが、ゼロ世代のみならずその観念はロスジェネにまで及ぶ。だから、非正規雇用が当たり前の世代は、今や、被用者ではなく請負、自営業者として、労働者としてなんのセイフティネットもない働き方で、デリバリー業などのギグ・エコノミーに3、40代まで多く見られるのが実態だ。

団塊の世代より少し下で、高校教員として勤めてきた著者が、何度も実感し、強調するのが、上の世代「戦う労組員」の現役世代に通じない理屈、現状認識と、若い世代の将来への希望のなさとギャップである。それは資本主義の論理といってしまえばそれまでで、もちろん、労働者の国が夢想である限り、何らかの妥協や取り引き、着地点は必要である。しかし、冒頭で紹介される高橋まつりさんの事件(電通で過労自殺)に、全ての人が追い込まれる訳にはいかない。だから、一人でも助けたいと、梶原さんもコミュニティユニオンの相談者となったのだろう。けれど、ここでもその多様な実態と過酷な現実に直面する。そもそも就業規則がない職場が多く存在するということだ。大手広告会社である電通には就業規則は一応あった。しかしその通りの職場ではなかった。ましてや就業規則のない職場では、全てが自己責任になる度合いが高まる。

本書に描かれ、一貫して流れていると感じたのはもどかしさだ。ユニオンの年配相談者は、最終的は訴訟と、金銭解決や謝罪をすすめる。しかし、相談にきた人の中には、とにかく穏便に辞めたいと訴えたりする。最初から相談して解決というより、カウンセリングを求めているかのように見える人もいる。しかし、このもどかしさが現状の本質なのだろう。そしてこのもどかしさこそ著者が伝えたかったことではあるまいか。そこでフィーチャーされるのは、労働環境悪化の中で続々と出版される(ブラック)雇用の実態や、闘い方を指南する書籍にはあまり描かれていない等身大の被用者の悩みと、それと付き合うユニオンの将来像なのかもしれない。

ずいぶん昔、高校教員だった友人の話。「生徒に20歳の自分を描いてみたら、と訊いたら、「そんな先のことは分からない」という反応だったのに驚いた。」高校生ならあと2、3年で20歳になる。目先に囚われるなと年配者は言いがちであるが、それほどまでに若い世代の実感している人生のサイクルは短く、ある意味儚い。しかし、嘆いていても仕方ない。著者が最後に強調するのはユニオンを使っての一人ひとりの繋がりの大切さだ。新型コロナウイルス禍で、巣ごもり、リモートワークでますます人と人との繋がりが弱まっている、としたり顔の傍観者視線ではいけない。

「ユニオンって趣味でしょ」。著者が相対した若者の言葉だ。痛い指摘だが、趣味だから一所懸命になっていいのだ。(『コミュニティユニオン 沈黙する労働者とほくそ笑む企業』あっぷる出版社 2021年)

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「自助、共助、公助」との共生、自分自身の特性との共生   私はダフネ

2021-08-12 | 映画

イタリアはトリエステでの実践から、法律で精神科の閉鎖病棟を無くした先進的な国として知られる。そこには障害の有無やその軽重に関わりなく、誰でも通常教育を受けられるようにしたインクルージョンの発想が完徹しているからだと説明される。幼稚園から大学までの全ての学校教育段階でそれは実践されているそうだ。しかし、だからイタリアのインクルーシブな環境のおかげでダフネは伸び伸びと育っている、と考えるのは早計であると作品解説で堤英俊都留文科大学准教授(学校教育学・教育社会学)は述べる。教育や社会環境に完成形はない。日々葛藤、逡巡、失敗と改善などの繰り返し、制度の見直しと継続、悩み続けているというのが現実のところだろう。

ダウン症のダフネは、スーパーマーケットで充実して働き、仲間に恵まれ、両親もそんなダフネを受け止めている、ように見える。しかし母親マリアの突然の死。それを受け入れられず、落ち込み、日々の仕事、生活にも支障をきたしたのはダフネではなく、父(夫)のルイジであった。ダウン症の人の中には、そうでない人より几帳面すぎるこだわりを見せる人もいるという。ダフネも同じところにしまわないと気が済まないとか、横断歩道でもない道を必ず手を上げて渡るとかの所作を見せる。今までいつも側に必ずいて、自分を受け止めてくれる存在が突然いなくなった衝動は、ダフネにはとても大きいように思える。しかし、落ち込んだ父親を立ち直らせようとするのはダフネの方であったのだ。

監督のフェデリコ・ボンディは俳優でもないカロリーナ・ラスパンティに出会い、この人こそダフネだと感じたという。ダウン症のラスパンティは実際、地元のスーパーで働き、小説も2冊出しているそうだ。その言語能力の高さから人気のYouTuberでもある。ボンディは実際にラスパンティに会い、用意していた脚本ではなく、彼女に自由に演じてもらうことにしたという。それは、彼女が地域社会で共生するとともに、自分自身のダウン症という症状、状況とも共生していることが分かったからという。

遠く離れたマリアのお墓まで歩いて行こうとルイジを誘うダフネ。後半は娘と父、その折々に出会うイタリアの人たちとの会話がはさまれるロード・ムービーになっている。出会う人たちの眼差しは、それは決して「腫れ物」に触るような対応ではない。イタリア全土でいろいろな障害を持った人たちが、普通に暮らし、周囲にいるのが当たり前というこの国の国民の「普通」を垣間見た気がする。

しかし普通と普通でない、ことの境界は曖昧で、グラデーションだ。人と人の間に、あるいは人の心の中に超えるべき壁を作る方が容易く、考え続ける、悩み続けることを避けたいのもまた人間の性だろう。だから民主主義や自由といった簡単には答えの出ない難問に、終止符を打つべく分断を煽るトランプのような人物への人気が衰えない。

菅義偉首相の「自助、共助、公助」発言は、すこぶる不評だ。この発言は、菅首相がこの順番に頼りなさいと言ったように捉えられたからであると思う。反対に、ホームレスや不安定雇用から放り出されて、今日の食べ物にも困っている人たちを支援する側は、「まず公助だろう」と指摘する。最後に、バックに、公助があるからどこまで自助で頑張れるか、と自己を叱咤激励する生き方、というのはその通りだろう。同時に、ダフネを見ていると自助も共助も、公助ともうまく付き合って日々を謳歌しているように思える。ダフネに連れ出されて、マリアの墓に辿り着いたルイジの顔に生気が戻ってきた。

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アメリカはどう映っているか、見えているか  「17歳の瞳に映る世界」

2021-08-03 | 映画

朝日新聞の夕刊にたまに載る藤原帰一の「時事小言」は、国際政治の今を分かりやすくまとめてくれてはいるが、例えばトランプ大統領に対する批判など明確でないと思え、その政治姿勢そのものには興味が持てなかった。けれど、藤原は国際政治学者というより映画マニアの側面には興味があり、藤原がテレビで紹介する作品は見てみようと思うものも少なくない。「17歳の瞳に映る世界」は、藤原に推されたから足を運んだ。

物語は至ってシンプルだ。17歳のオータムは学校とバイトの日々。学園の催しでステージで歌う彼女に「メス犬!」との差別的野次が飛ぶ。幼い妹らの父親である義父とは関係がよくない。そんなオータムの妊娠がわかる。ペンシルベニア州では親の同意なしに中絶はできない。州のウイメンズ・クリニックでは明らかに中絶反対で、「中絶は殺人」とのビデオを見せ、養子縁組のパンフレットを渡される。これにはアメリカが抱える現実的な背景がある。オバマ大統領に8年間にわたり政権を奪われた共和党は、中絶の合法化をひっくり返そうと州レベルでクリニックを減らしたり、中絶できる期間をどんどん短くする州法を成立させていく。そして決定的であったのが、トランプが大統領選で「当選したら中絶を非合法化する。場合によっては女性や執刀医を罰する。」とまで公約にあげ、福音派キリスト教徒の票を固めたからだ。当然、トランプ大統領誕生後も抗議デモやウイメンズ・マーチが起こったが、共和党は着々と上述の政策を進めた。そしてトランプが去った後も最高裁の構成が、保守派6対リベラル3となった現在、連邦最高裁が中絶の非合法を判断する危険性が高まっているのだ。オータムが住まうペンシルベニアは2020年の大統領選で激戦を繰り広げ、僅差で民主党が制したが、いまだにトランプが選挙不正を唱え、それを支持する層も厚い。それが暴徒による2021年1月の議会乱入、死者まで出した事件に至ったのはつい最近のことだ。しかしそういった政治的背景が、口数の少ないオータムの辛さを説明するものではない。

地元で解決できないと知ったオータムはいとこで、ただ一人の友だちスカイラーとニューヨークを目指す。しかし、一つ目のクリニックではその妊娠周期では対応できないと別のクリニックを紹介される。ホテル代など用意していない二人は地下鉄やゲームセンターで過ごすが、2カ所目のクリニックは手術は2日がかりだという。申込金を支払ったら、もう二入にお金はない。行きのバスで声をかけてきたジャスパーに連絡を入れて、ご飯を奢ってもらい、時を過ごすが、本当は現金が欲しい。お金を貸してあげるよというジャスパーはスカイラーを夜の街に連れ出すが。

手術前にオータムに質問するカウンセラーの描き方が丁寧だ。手術の内容に始まり、オータムの経験、プライベートなことも訊く。それは決して威圧的、教訓的でもないし、「あなたを危険から守りたいから」。「暴力的な性行為はあった? 4択で答えて。Never Rarely Sometimes Always?」本作の原題だ。

オータムを孤独と危険に晒したのは、直接的にはオータムの交際相手だが、それはそもそも「交際」だったのか、彼女を支える医療的、精神的ケアが地元にあったのか、では大都会のニューヨークでそれは充足されたか。ぶっきらぼうなオータムに、寄り添ってきたスカイラーが救いだ。アメリカの現在(今)を伝えるいい作品であると思う。

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「リリイ・シュシュのすべて」へのオマージュが美しい  「少年の君」

2021-07-23 | 映画

壮絶なイジメ、暴力にあったチェン・ニェンが坊主にして登校するシーンといい、どこか岩井俊二の「リリイ・シュシュのすべて」(2001)に対するオマージュがあるのではと感じていたが、やはりそうであった。随分昔だが、「リリイ」について教員をしている友人と話していたら「現実そのまますぎてキツイ」と吐露していた。「リリイ」で描かれるのは、イジメとそれを見て見ぬ振りをする大多数の生徒、援助交際、万引き。パシリさせられる少年は、思いを寄せいていた少女がレイプされたこともあり、イジメの首謀者(彼もまた厳しい家庭環境、状況にがんじがらめになっていた)を刺す。救いがなさすぎる「学園もの」であった。

「少年の君」は救いがあるのだろうか。北京大学などを目指す超難関、進学校に通うチェン・ニェンは娘のために怪しい商売もする母親と二人暮らし。イジメにあっていた同級生が校舎から飛び降り自殺した現場に遭遇、スマホで撮りまくる生徒の中を倒れた同級生にそっと上着をかけたことでチェンがイジメの標的に。首謀者は裕福な家庭で、チェンとは正反対のウェイ。チェンが知り合った暴力だけが生存の証であるチンピラのシャオベイは、チェンを守ると宣言するが。

学園ものであり、青春ものであり、ラブストーリーである。そして、刑事ドラマであり、ヒューマンドラマでもある。驚いたのはストーリーの重層性だ。ウェイ殺害の疑いをかけられたチェンがそれを否定して、シャオベイとともに曖昧なカタチでエンドかと思ったら、そこからが長かった。作品の最後に流れるシャオベイ役の俳優が、本編の後、中国でイジメ対策に確かに取り組んでいると述べる下りに強権国家になびく姿勢を感じ、興ざめしたが、監督・製作者はそれも織り込み済みだろう。中国映画は結構上映されていた改革開放が初期段階の時代、文化大革命の時代を描いた作品も多かった。もちろん「青い凧」のように未だ中国では上映が許されない作品もあるが、現実の中国共産党の姿勢に対して、それぞれどこまで描いても大丈夫かとの挑戦や果敢な試みがあったように思う。しかし、自由と民主主義の地・香港が、今や共産党の「直轄地」と変転ささせられている現在、中国映画で描けるものは限定されるのでないかと思える。だから描き方には細心の注意を払ったに違いない。中国政府がイジメ対策に取り組んでいるという付け足しは、観る側が「ああ、やはりそうか」と感じとるためのプロットであったと考えるのは穿ち過ぎだろうか、そうは思えない。

結局、本作では科挙の歴史を有する現代中国の受験戦争、学歴一本槍の競争社会を告発するものとはなっていないし、イジメに対する子どもの反抗・反撃の仕方として有効な処方箋を示しているのでもないし、罪を犯した、犯さざるを得なかった年少者の更生や生き直しのストーリーにもなっていない。描かれているのは、チェンと、シャオベイのその後、そしてイジメの加害者、それを覆い隠し、チェンに表面的な赦しを請うことで命をおとしてしまうウェイが死体で見つかったという事実だけである。だから「リリイ」と同じくらい現実的なのだ。

自死に至った場合はイジメの存在や実態が明らかになることもあるのかもしれないが、そうでなければ、いじめられていた子が転校するなどで表面化しない例の方がはるかに多いだろう。しかし、イジメが完全になくなる学校が、競争社会を温存した中でありえるとは思えない。チェンはその助けを自分とは別世界、正反対の世界に棲むチンピラのシャオベイに求めた。そして助け求める存在が出現したという意味ではチェンは束の間の安らぎ、安寧を経験できた。その果てが悲劇的であったとしても。

強権主義国家の象徴とも思える現代中国でも、個々の子どもの内面まで管理できなかったし、教師が表面的な建前で子どもらに訴えていて、子どもらも表面的に応えていた。そのアイロニーを一番描きたかったのではないかと、本作を観つつ考えていた。

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「著しく正義に反する」のはどちらか?  『大崎事件と私』

2021-07-21 | 書籍

とてつもないパワーである。大崎事件とその弁護団事務局長である鴨志田祐美さんのお名前くらいは知っていたが、事件の再審活動とそれをずっと一線でたたかってきた鴨志田さんの人となりがよく理解できた。事件は1979年10月。鹿児島県曽於郡大崎町で男性の遺体が発見されたことが発端。警察は、遺体の兄二人と次男の息子を共犯とし、首謀者は長男の「嫁」である原口アヤ子さんであると逮捕した。アヤ子さん以外は「自白」したが、アヤ子さんだけは一貫して否認したが、上告審までいって確定し、10年間服役した。「自白」した3名は知的障がいがあり、供述弱者であったのに自白調書は採用され、いずれも地裁で確定し服役した。自白以外にほとんど客観証拠が存在しないのに、警察が保険金目当ての殺人との見立てで捜査したために供述弱者の3名は簡単に自白してしまった事例であった。服役したうちの二人は出所後に自殺、夫が「やってもいないのにアヤ子を引き込んでしまった。すまない」というのに一緒に再審をと誘ったアヤ子さんに「自分はもういい。しない」と言ったためにアヤ子さんは離婚。以後一人でたたかってきた。

再審の過程が異常なのは第1次再審の地裁と第3次再審の地裁、高裁と3度も再審開始の決定が出ているのに、未だに再審開始となっていない理由と状況だ。特にひどいのが第3次再審の最高裁の棄却決定である。地裁、高裁もそれぞれ精度の高い、説得力のある再審開始事由を認定しての開始決定であるのに、最高裁はその中身を十分に吟味したとは言えない薄っぺらな理由と長さで再審を認めなかったのだ。最高裁が検察の特別抗告を認めないなら、高裁に差し戻せばいいものを、自ら再審を開始しないとの判断まで出したのだ。現に袴田事件では最高裁が高裁に差し戻して現在東京高裁で審理されている。ちなみにこの最高裁決定では、再審を開始すべきとする2名の最高裁判事の反対意見がある。

そして、なぜこのような再審開始まで時間や労力がかかるのかについて、日本の再審事件では開始決定が出ても、検察官の不服申立権があり、いずれも最高裁まで争われるという点にある。勘違いしている人も多いようだが、再審開始決定が確定しないと再審公判は始まらないのだ。第2次再審から弁護団に加わった鴨志田さん自身が40歳で司法試験に合格した苦労人で、その知力、行動力とパワーで弁護団を牽引してきた。第3次再審では誰もが開始されると確信しており、メディアも支援者もその準備をしていたところに最高裁の「クソ」決定(鴨志田さんの言葉ではない、念のため。)。決定を受けた日、東京のホテルへの帰途、高層ホテルから飛び降りれば、との思いもよぎったという。しかし周囲の励ましもあり、立ち上がる。現在第4次再審を申し立て、鹿児島地裁で審理中である。

本書は、再審の流れと並行して、現状の刑事訴訟の歪みと再審の細かな規定がないなどの欠点、自身のプライベートな部分も描いていて丸ごと「鴨志田本」である。筆者は、先日開催された日本裁判官ネットワークでの講演会で、鴨志田さんも参加されていてZOOMの画面で自著を宣伝されていたので手に取ったのだが、700頁に当初怯んでしまった。しかし読了してよかったと思う。大崎事件だけではなく、湖東病院事件や東住吉事件といった再審無罪を勝ち取った人たち、様々な弁護士仲間、研究者、日本の刑事司法の現状に警鐘を鳴らし続けている周防正行さんも登場し、その多彩な人的繋がりと豊かさんが見られる。そう、鴨志田さんは「人持ち」だったのだ。猛烈な忙しさの中で夫が病に倒れ、夫の母も逝去する。自身の事務所は火の車で、ベテラン事務職員の退職申し出。鹿児島の広い家にたった一人でいる理由はないと事務所をたたみ、この4月から鹿児島と東京の中間の京都で活動する。実際にお話を伺える機会もあることだろう。(『大崎事件と私 アヤ子と祐美の40年』2021 LABO)

ここからは宣伝。テレビドラマで話題となった「イチケイのカラス」。もともとはモーニング誌に連載されていた。その原作者と監修した弁護士さんをお呼びしてイベントを開催する。筆者が世話人を務める司法改革大阪各界懇談会と大阪弁護士会の共催である。筆者は全体の司会をつとめる。時節柄ZOOMウェビナーでの視聴となるが、500名まで対応可能なのでご興味のある方は、イベントのURLかQRコードから申し込んでいただきたい。

(URL https://us02web.zoom.us/webinar/register/WN_JGQlcqAtTAGZ-VLrOWWPDg

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大阪で開催   やっと見られた「表現の不自由・その後」展

2021-07-17 | 美術

やっと見られた。「表現の不自由・その後」展。2019年のあいち・トリエンナーレでは行こうと予定した日を待たずに中止。あい・トリは閉展間際になり再開されたので、急ぎ出かけたが不自由展はすごい倍率の抽選でもちろんハズレ。もともと他の用事が入りそうだったので日を合わせてこの7月最初に入れた名古屋行き。名古屋展に足を伸ばそうとしていたら爆竹騒ぎで会場が閉鎖。どこまで右翼、レイシストは私に不自由展を見せたくないのか、と恨んだが同じように感じた人も少なくないだろう。大阪展も会場が街宣車や抗議電話などでビビってしまい「入館者の安全を確保できない」と会場利用を止めてきたが、開催側が裁判所に開催できる会場使用の仮処分を申し立て、最高裁まで行って「利用中止は(具体的危険性がないのに)まかりならん」と使用を勝ち取ったのは既報のとおり。

確かに会場のエル・おおさかの前には街宣車がノロノロ行き来し、街宣車や路上でがなり立てている人が数名。右翼も人材不足か、迫力不足? 時間帯によるが、エル・おおさかの周辺に一番人数が多かったのが警察官で、次に主催者の支援者、そして右翼。ここに「明白かつ現在の危険」(大阪地裁決定)があるとは思えないし、実際ないとして裁判所は利用中止を認めなかった。そもそも表現の自由に対する制約は憲法上想定されていないし、その範囲を確定することを考えるとするなら、すなわち表現の自由を脅かすことになるのは明らかだ。どのような表現さえあっていい。美術家の会田誠の作品が物議を醸したが、それも「見たくない自由」を保障するソーニングの問題で解決すべきだろう。

作品は、あい・トリよりかなり絞られていて、「従軍慰安婦」を象徴するとされる「平和の少女像」(キム・ウンソン、キム・ソギョン作)と昭和天皇の写真を含む支持体が燃やされる動画の「遠近を抱えてpartⅡ」(大浦信行作)はあったが、Chim↑Pomや、中垣克久の作品がなかった。この「少女像」と動画の2作品を、右翼が公開することを主に攻撃しているのだろうが、なぜ攻撃するのか分からないくらい穏当な表現と思える。「少女像」は従軍慰安婦を象徴していることから、歴史修正主義者としては絶対認められない背景があり、大浦動画については天皇の写真が燃やされることを我慢ならないとしているのだろう。しかし、「少女像」が従軍慰安婦を象徴しているとの理由は、従軍慰安婦とはどう定義できるかという歴史学的蓄積があり(吉見義明さんらの功績をあげるまでもなく、「従軍」だったのは明らか)、また、大浦動画については「天皇の写真が映り込んでいる紙」は「御真影」ではなく(右翼も「御真影」が下賜されるものだけを指すことを勉強してほしい)、いずれの批判、攻撃も当を得ていない。主催者側が「まず見てから言ってほしい」というのは、見る前から批判、攻撃ありきの人には届かないことが明白になっただけである。

ただ、街宣車の人たちが不自由展を盛んに「反日」呼ばわりするが、この国ではオリンピック開催に反対した人は反日だと、8年近く在籍した前首相が放言する。本当の「反日」が規定できるか、存在するのか分からない。しかし、国家転覆者ではない不自由展支持者や政策に反対する人に向ける言葉としてしては、あまりにも真正「反日」に失礼だと思うのだが、レッテル貼りというのはかくも安易で、実態とは関係ないという点では自戒したい。

(「梅雨空に「九条守れ」の女性デモ」の俳句)

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ジェンダー規範だけではない、男社会の決められなさ  ペトルーニャに祝福を

2021-07-14 | 映画

昔住んでいたところの駅から向かう途中マネキン工場があった。ちょうど突き当たりを曲がったところに工場の窓があって、夜道にいきなりこちらを見つめる裸体に出会い、分かっていてもギョッとなったものだ。マネキンはそれが偽物とわかっていても、どこか艶かしく、髪の毛や衣類をつけていない分、ヒトの本質を現しているように見えて、恐ろしく、そして惹かれるものもある。

ペトルーニャは学歴も高いのに仕事に恵まれない。ウエイトレスはダメと母親のツテで面接にいった先は縫製工場。秘書希望と告げると、面接の男には体を触られたり、「そそられない」とのセクハラを受け、怒りと失意の上でブティックの友人の衣装部屋で見つけたマネキンを抱いてとぼとぼ帰途に着く。川で行われていたのは「神現祭」。司祭が川に投げ込む十字架を最初に見つけた男は1年幸福に過ごせると信じられている祭りだ。無心に飛び込んだペトルーニャが十字架を手に取る。しかし、いきりたった男がペトルーニャから十字架を奪うが、混乱の中で再びペトルーニャが入手、家に持ち帰る。

その後の周囲の対応と、言葉少ないペトルーニャの対応と心境の変化が本作の見どころだ。十字架を盗んだのではないことは明らかで、「盗った」と非難するマッチョな男どもを前に説明にオロオロする司祭。罪に問われないため、「逮捕」の合法的理由も示さず、ペトルーニャを留め置く警察署長、明らかに無知とジェンダー規範の因習ゆえにペトルーニャを縛る母親など。地方都市の警察署長と司祭は明らかになあなあの関係で正義、公正とは程遠い。しかしペトルーニャは「これは逮捕なの?」と問い続ける。扱いに困った警察署長は不合理な脅かしでペトルーニャを留め置き、騙して十字架を奪い金庫にしまってしまう。

警察署の前では怒りくるった男どもは騒ぎ立て、ペトルーニャを聞くに耐えない罵詈雑言で責め立てる。

「神現祭」で女性が排除されている実態を女性差別、ペトルーニャはそれを壊した英雄として、自身のメディアでの位置を高めたいリポーターが執拗に警察などを責め立てる様相も現在的で面白い。そもそもペトルーニャ応援の声が広まったのはSNSの動画である。しかし、北マケドニアという東方正教会が強い社会で女性差別を差別と認識する規範が弱い上、ソ連崩壊後の東欧の雇用不安もある。それらのマイナス要因を全て押し付けられてきたのがペトルーニャのような存在だ。ペトルーニャの扱いと十字架をどうするか、ああでもない、こうでもないと右往左往する支配側、決定側にいるはずの男どもは結局決められないし、決めるための法規範や理屈を見出せない。要するにジェンダー差別をはじめとしてそれまである「伝統」や「決まり事」について、きちんと考えてこなかった男社会の弊害が現前したのだ。むしろ、警察署に押しかけてペトルーニャを引きずり出せ、「盗んだ」十字架を取り戻せと騒ぐ男どもはもう暴力も厭わないレイシストの姿そのものであって、信仰に篤くありたいと思う敬虔な者の姿ではない。

警察署長をはじめとする堕落、現状への疑問もつゆほどなく、怠惰に過ごす同僚の姿に疑問を持っていた若い警察官だけがペトルーニャに寄り添い、ペトルーニャも自己評価を取り戻す。故ない拘束から解放されたペトルーニャは司祭に「私のものではない」と十字架を差し出し、明るく去るラストが素敵だ。

原題は「神は存在する。彼女の名前はペトルーニャ」。これも痛快である。

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アメリカの「反共の戦後史」を知る   完結した山本おさむ『赤狩り』

2021-07-03 | 書籍

ついに完結した。このブログでは漫画、コミックはほとんど取り上げたことはなかったと思うが、山本おさむの『赤狩り The RED RAT in HOLLYWOOD』(ビッグコミック全10巻)は圧巻である。コミック以外の単行本では、通常、奥付の著者欄にはこれまでのその著作や論文(研究者の場合)が紹介されることが常だが、コミックではそうではない。だから山本が、あの障害(児)教育・生活の現実と現状を描いた名作『どんぐりの家』の原作者であることは分からないだろう。しかし、山本は表現者として、おそらく明らかにされなかった歴史の実態や実相にこだわる作品を遺そうとしたとのでは、と思える。

それはさておき、『赤狩り』で描かれるのは、アメリカ中枢に巣食う凄まじい反共攻撃、今で言うリベラル攻撃である。民主的、少しでもソ連と対話的であると見做せば徹底的に弾圧、攻撃、排撃する。山本は、本作を書き始めた時点では、稀代の名脚本家ドルトン・トランボの抵抗と復活の物語だけ描こうと考えたという。しかし、時代背景がそれを許さなかった。1950年代に吹き荒れた「赤狩り」の根本には、反共によって国内の民主派はもちろん、国外ではキューバ危機やソ連との「和平」を目指し、ベトナム撤兵をも考えていたケネディを抹殺するという軍産複合体、共和党の反共強行勢力、CIAやFBIといった国家機関の陰謀があるとするのだ。

もちろん、この見立てには証明できない、穿ち過ぎとの批判もあるだろう。しかし、歴史は繰り返す。独立国の主権を否定したイラク戦争(2003)では、アメリカは、フセイン政権が大量破壊兵器を保持しているからと侵攻を正当化したが、何もなかった。その派兵に日本も加担し、小泉純一郎首相が「自衛隊が行くところが非戦闘地域」と迷言したのは周知の事実である。

ハリウッドで親ソ的な人物を見つけたら、国が脅かされると追放する。しかし、何が「親ソ的」か、どうかの判断基準などそもそもない。それはどんどん広がり、「親ソ的」にリストに上がった人に反論しなかったや、資金提供したから「親ソ的」と範囲はどんどん広がる。ハリウッドに生きる映画人は、追放されるか、干されるか、イリア・カザンなどのようにうまく立ち回り、生きながらえるか。トランボは「赤狩り」に抵抗したハリウッド・テンの頭目と見做され、投獄された。そしてその前後の監視生活。しかしトランボはその間「ローマの休日」、「スパルタカス」などの名作、傑作を偽名で書き続ける。トランボが実名で仕事をできるようになってからも、アメリカの反共勢力は敵を作り続ける。その時代に並走したのがトランボであり、その時代を描くには第2次大戦後のアメリカの全てを描く必要があったというのだ。

アメリカがイラク戦争を仕掛けたのは、ハリバートンなどの多国籍企業がイラクの石油権益に目をつけたブッシュ政権の中枢チェイニー(ハリバートンのCEO)の思惑があったからとする論も説得力を持って語られている。自由の国アメリカでは、資本主義の論理により、他国に対する経済侵略や軍事侵攻も許され、それに異議を唱える者は命まで奪われる。ベトナム戦争もケネディ暗殺もそのコンテクストで読み明かされる『赤狩り』は、フィクショナルな説も含めて、アメリカ戦後史を見返す良いテキストであると思う。山本は巻末に、参照した膨大な書籍目録をつける。まるで研究書のようだ。コミックだからといって侮ってはならない。

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「豊かさ」はどこにあるのか、あるのだろうか? ブータン 山の教室

2021-06-22 | 映画

「国民総幸福」の国、ブータン。国民が実際どれだけ幸せであったり、幸せを目指しているのか本当のところは分からないことが多い。ましてや、首都ティンプーからバスと山越えで8日もかかる最僻地では。

ブータンは英語教育に熱心という。だから教員免許を持ち、それなりに首都で教員として働くウゲンは、本当はオーストラリアに渡って歌で身をたてたいと考えている。ダラダラと過ごしてきたウゲンは、いきなり山岳の僻地ルナナ行きを命ぜられる。iPodにヘッドフォンを離さないウゲンの行先は、バスを降りて峠を野宿で越えて向かう電気も水道もないところ。標高4800メートル、人口56人の村民全員で迎えてくれたが、ウゲンは自分には無理、すぐ帰りますと村長に告げる。帰るまで村人やロバの準備が必要なため、滞在中仕方なしに授業を始める。小学校中・低学年くらいの子どもが9人。高学年以上の歳になると町に出るのだろう。そして帰ってこないのだろう。若者がいない。村に残る男性も少ない。生徒に将来何なりたいか訊くと「先生です。先生は未来に触れられるから」。学ぶことに飢えている子どもらと付き合ううち、「教育」にきちんと向き合ってこなかったウゲンの心にも変化が現れる。

村の現金収入が少ないのは明らかだ。高地に生息するヤクとともに生きる。ヤクはミルクや肉、毛皮のみならず糞は燃料になる。村人はみな「ヤクに捧げる歌」を朗することができる。ヤクは生活そのものであり、命を繋げてくれる恵であり、そして神である。ウゲンに村長が告げるのは「先生はヤクでした」。ウゲンはそれに応えられるだろうか、応えるだろうか。

総幸福の国・ブータンもので、それも汚れていない村の話、と聞けば、現代人が忘れた心の「豊かさ」への回帰と覚醒のお話、と決めつけそうになる。しかし、都会しか知らない、チャラい、ウゲンの姿はブータンが抱える現実そのものの姿でもある。ネットにスマホ、ひとときもヘッドフォンを離せないウゲンは国民総幸福の国から出ようとしている。事実、オーストラリアなど英語圏で働くブータン人は多いという。技能実習生として来日している者もいる。少なくない数の若者が国を離れようとし、離れているのだ。技能実習生は将来帰国するかもしれないが、一度流出した若い頭脳は2度とブータンには帰らないかもしれない。村長は「この国は世界で一番幸せな国と言われているそうです。それなのに、先生のように国の未来を担う人が幸せを求めて外国に行くんですね」とウゲンに言う。もちろんウゲンは答えられない。

本作はウゲンら主要な登場人物以外は、映画を見たこともない村人が出演しているそうだ。学級委員を務める9歳のペン・ザムは村の子どもで、愛らしく利発だ。子どもらが熱心に学ぶ姿にウゲンが心動かされたことは間違いない。そう、学ぶことは教えることと同義で不可分なのだ。教えるものが学び、学ぶものが教える側に回る。そこに気付いたからこそ、冬を前に村を離れるウゲンの大きな心残りが生じたのだ。しかし、ウゲンは結局村の子どもたちを「捨て」、自分の夢であったオーストラリアに渡り、歌う。けれど歌ったのは「ヤクに捧げる歌」。素朴で都会の現代人が夢想し、希う古き良き桃源郷の世界ではない。キツく、ある意味イタい作品であるのだ。

新型コロナウイルス禍で、日本の子どもらには一人ずつにタブレットが備えられ、自宅でも学習できるとの環境整備が進むという。手作りの黒板に、希少な紙を使ってアイウエオ(ではないけれど)、a、b、cを学ぶブータンの僻地の子ら。どちらが「豊か」なのか分からなくなってくる。

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噛みつく、突っ込む、逃がさない   武田砂鉄『偉い人ほどすぐ逃げる』

2021-06-19 | 書籍

武田さんのスタンスは一言でいうと「どっちもどっちだよね」という姿勢に落とし込まないでおこう、「まだ、追いかけているのはどうか」という冷笑的、「大人」な対応をやめようということであると思う。

そういった武田さんの姿勢を理解するには、武田さんが批判や議論の俎上に載せる人たちの「右派VS左派」や「保守VSリベラル」、「(安倍)政権擁護VS政権批判」などいとった「分断」の一言で分かったことにしようとする粗雑なカテゴライズでは済まされるなということだ。武田さんはよしとはしないかもしれないが、そこにあるのは「まず、疑う」「その疑いに偏りがないかどうかを疑って」「発言した人の過去の文脈や整合性を確認して」「偉い人や力のない一介の個人の発言かどうか物差しとしない」ことくらいだろうか。これは単に、誠実に発言しているか、その誠実さにきちんと向き合う誠実さはあるか、それらを言論の自由や批評精神と照らして矜持はあるか、ということであると思う。

政治の世界で残念ながら進行した事実は、ウヤムヤが勝利するということである。森友問題では、公文書を書き換えさせられて自死に追いやられた赤木俊夫さんの妻雅子さんが、真相究明を求めて佐川宣寿元理財局長と国を相手に訴えを起こしているが、報道はその裁判の話が触れられるくらいである。佐川局長は「論功」で国税庁長官となったが、その昇進を決定した政権(安倍晋三首相や菅義偉官房長官)への追及は何らなされていない。さらに加計学園問題では、その「行政を歪め」た経緯を暴露した前川喜平元文科省次官への攻撃を主導した犯人も明らかになっていないし、桜を見る会問題では、金銭の出どころやシュレッダー破棄などほとんど何も明らかになっていない。要するに「知らない」「関係していない」「もう終わったこと」が通用してきたということだ。

武田さんの追及の矛先は、政権の中枢に止まらない。2019年のあいち・トリエンナーレでの「表現の不自由展・その後」をめぐって、すでに決まっていた支出をやめ、トリエンナーレ主催者の大村秀章愛知県知事のリコール運動を主導した河村たかし名古屋市長の粗雑な弁舌も切る。リコール署名が偽造されたものであって、リコール運動を取り仕切った田中孝博元県議が逮捕された現在、河村氏や高須克弥氏は「知らぬ、存ぜぬ」である。政権のやり方を学んでいるとしか思えない。

政治家以外の他の言論人らにも武田さんの噛みつきは続く。出演者が麻薬取締法違反で捕まったからといって後付けで助成金不支給を決定した文化庁(所管の独法)、ファンに襲われて怪我をしたアイドルの側から謝罪させるおかしさに気づかないフリの秋元康、目下の芸能人を怒鳴りつけることをキャラとする坂上忍と、その坂上に目上の者を配しない番組制作者など。そして極め付けは「LGBTという概念について私は詳細を知らないし、馬鹿らしくて詳細など知るつもりもないが、性の平等化を盾にとったポストマルクス主義の変種に違いあるまい」と書き散らかして、「生産性がない」発言の水田水脈議員を擁護した文芸評論家・小川榮太郎に対する「論」以前だという指摘である。武田さんはこの「LGBTという概念について私は詳細を知らない」発言を何度も引用する。それくらい、ひどい発言であり、論争を始める以前の前提認識(が誤っている)と考えるからだろう。要するに粗雑なのだ。

編集者として様々な作業に従事した武田さんは現在「ライター」と名乗る。そこには、言葉に対する人並みならぬ思い入れと、それを操る人間の品性にも気にかけてしまう性癖もあるのかもしれない。けれど、最高権力者が「やぎさん答弁」を連ねて済んでいる時代であるからこそ、武田さんの「噛み付く、突っ込む、逃がさない」姿勢に快哉を送りつつ、自身の言葉の劣化にも自覚的でありたいと思う。(『偉い人ほどすぐ逃げる』2021年 文藝春秋)

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鬼才、異才は、「クールジャパン」の戦略か   HOKUSAI

2021-06-01 | 映画

「飢えている子どもの前で文学は何ができるか」

サルトルの有名な言説に思い至ったのは、阿部寛演ずる版元の蔦屋重三郎が「絵で世界は変わる」と宣ったからだ。時代は寛政の改革で奢侈禁止。しかし喜多川歌麿、東洲斎写楽、そして葛飾北斎と浮世絵文化を彩った錚々たる面々が活躍する時代でもある。弾圧と自由な表現と、近代法制の整う以前に表現者と、それを支える民、そして取り締まる側との攻防が時代の息吹を伝える。

それにしても北斎人気は度を越している。確かに米LIFE誌で「この1000年で最も偉大な功績を残した100人」に日本人でただ一人選ばれたことがある。しかし、数年前の若冲人気といい、東京オリンピックを盛り上げるための「クールジャパン」戦略の一角かと思うと鼻白む思いもする。とはいえ、北斎の偉業は度を越している。仔細は語るまい。90歳で斃れるまで画狂を貫き、富嶽三十六景、北斎漫画、男浪・女浪‥。偉業・異作の出ずる根本は、「描きたい」「描くのだ」という思いのみ。

若い頃を柳楽優弥、晩年を田中泯が演じるダブルキャストの手法は成功していると見える。史上最年少でカンヌ映画祭主演男優賞をとった柳楽は、その後、若年で傑出した俳優は成功しないというジンクスを跳ね除けて着実に伸びている。一方、田中は最近役者として名が売れているが、本来は身体で全面に勝負する世界的な舞踏家である。だから田中はインタビューで繰り返し自分がダンサーであることを強調しているし、その真骨頂が画面の節々にまみえる。例えば、ベロ藍を粉の状態で入手し、雨の中それを浴びるシーン。そして北斎の挿画を弾き立たせた戯作者の柳亭種彦が刺殺される場面を想像するシーン。いずれもスクリーンいっぱいに北斎、田中の形相が映し出される、なんという迫力か。ここでは身体をはって踊る田中が顔だけで勝負している。そしてそれは眼球だけでも。

民の自由な表現を担保する芸術は、時に権力批判も内包する。そして芸術家自身が、そうでなければ自己が目指す芸の極地に達し得ないと、権力と直接に対峙する。さらに柳亭のように秘されたまま消されることもある。しかし「出る杭は打たれない」と、蔦屋重三郎は言い放つが、それは酷薄な時代と無縁であったからではないか。というのは、寛政の時代、幕府も庶民に広がった戯作や浮世絵人気を本当に押さえ込もうとしたのかどうか、腰が座っていなかったという嫌いもある。商人なくしては武家社会も保てないことは明らかな時代であったからだ。明治以降の日本では、天皇制のもとに容赦無く消された表現者はいくらでも数えることができる。

北斎を持ち上げる理由に、西欧、主にフランスでの浮世絵などジャポニズム人気の嚆矢とする解説がある。確かにそういった部分もあるかもしれないが、北斎の生きた時代、フランスはヤワな貴族趣味のロココを脱し、新古典主義、ロマン主義と質実に立ち返った時代である。また、その後の印象派は反アカデミー趣味を重んじた。ゴッホが浮世絵を好み、エミール・ガレが浪の流線型にヒントを得たとしても、それは歴史的必然性の範疇とは言えはしまいか。

坂本龍一は「音楽で勇気を与える、なんて、音楽家としては一切思わない」旨述べる。絵で世界を変えることはあり得ない。後付けで言いつのることはあったとしても。

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セットで読みたい『在宅ひとり死のススメ』と『コロナ自粛の大罪』

2021-04-27 | 書籍

老齢、自分が要介護の状態になっても、施設に入らず自宅で最後まで過ごすための要諦は「金持ちより人持ち」と上野千鶴子さんは言う。しかしこれは結構難しい。財産は、利殖や貯蓄に励む、倹約を徹底して老後に備えるといった方法で若干増やせるかもしれない。しかし、人間関係は日常の付き合いで蓄積していくものであって、ギブアンドテイクで一方的に得をする関係では信頼は得られないからだ。そしてそこには自分の弱い部分も知っておいてもらう必要も当然ある。

徹底した合理主義者の上野さんは、介護保険はもちろん医療や福祉全般について使えるものは使い倒せと言う。そして、多死社会、認知症になる可能性の高い現状に、それに抗うなと言う。最後まであがいて迷いなさいと。これを聞いてホッとした人も多いのではないか。日本(人)的特性か、家族やよそ様の迷惑にならないように、死後の始末をきちんと用意しておくように言われ、思い込んでいる人は多い。しかし、認知症の発症も死も自分でコントロールできるものではない。ならば、それを受け入れ、「お互い様」を次代に繋げばいいのだ。そもそも自己の病気や死への準備を怠っても生きて行ける、暮らして行けるのが近代の福祉国家ではなかったか。それを新自由主義の蔓延とともに、やれ自己責任だ、フレイルだのと高齢者を追い立てる。最後の最後まで自宅でいる方が幸せに決まっている(筆者の場合)。要介護4、施設で逝った母親。会話はままならなかったが、最後に会いに行った時だったか、私の手を一所懸命に握ろうとしたガリガリの手を思い出すたび、家に居たかったのだろうなとの思いがよぎる。

高齢者に対し、フレイルに気をつけろ。のみならず全国民に自宅にいろ、あれこれするな、我慢しろ、と「自粛」ばかり強要するこの国の新型コロナウイルス対策状況。感染の広がりを報道するメディアの状況といい、自粛を「煽る」テレビに出てくる医療者の姿に違和を感じていたらドンピシャの本が出た。コロナでは公からの要請としての自粛と、私、自ら進んで行う自粛との相互作用でどんどん息苦しい世の中になっている。しかし感染拡大を抑えるためと言われて、自分でもそう納得すると容易に社会全体が閉塞してしまうのが同調圧力の強いこの国の姿だ。しかし、この外出・移動や飲食店の営業の制限は果たして効果があり、その根拠となる感染者数、死者数などの数値との関係はどうか。

日本では高齢者の死亡率が高い。しかし、基礎疾患の多い高齢者は新型コロナでなくとも、インフルエンザやその他ウイルスに弱い存在だ。そして、病床のやりくり率とも言うべきか、重症者ベッドや医師・看護師といった医療資源の投入の仕方も問題だと言うのだ。その原因は、政府、厚労省、日本医師会などの決定、提言する側と「専門家」の考え方、思考回路そして発出の仕方だと言う。もちろん、『大罪』の発言者らは批判ばかりしているわけではない。民間の医療施設や町医者が参画できず、公の大病院などに偏っている現状を改善するために、新型コロナをインフルエンザと同じ感染症法上の5類に下げるべきと言うものだ。考えてみれば、インフルエンザで亡くなる人がコロナ禍下で大きく減ったのは、新型コロナに置き換わったとか、個々の衛生管理が理由ではと言うのは納得できるところだ。そして新型コロナもインフルエンザも、それら大きな枠組みと言えるかぜも根絶できるわけがない。

新型コロナとたたかいではなく、その付き合いはまだまだ続くだろう。『大罪』は医療の専門家ばかりに訊いているので、政治的な判断への言及は少ないが、東京オリンピック・パラリンピックを何が何でも催行したいがため、個人に我慢を強要し続けているのが政権の本質としか思えない。

上野さんは、高齢者が例えばお風呂で倒れたら、救急車を呼ぶな(かかりつけ医や普段からの医療関係を呼べ)と言い、『大罪』では「コロナは高齢者問題」だから「地域医療の出番だ」(長尾和宏医師)と言う。双方には通じるものがある。自粛を強要し、外に出ず、人と話さず、食べる楽しみを奪われて孤立、孤絶する高齢者を量産してどうなるというのだ。そして全ての人が高齢者になる。(『在宅ひとり死のススメ』は文春新書、『コロナ自粛の大罪』は鳥集徹著、宝島社新書。いずれも2021年刊)

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現代アートを殺さないために ソフトな恐怖政治と表現の自由

2021-04-04 | 美術

2019年の「あいちトリエンナーレ」の「表現の不自由展・その後」が開幕後3日で展示中止に追い込まれた事件は衝撃だった。開催を求める署名や、中止の間閉ざされた扉にメッセージを貼り付けるなど本当にささやかだが運動にも参加した。そして大村知事の姿勢と関係者の尽力で再開された展示にも赴いたが残念ながら抽選に漏れ、見ることができなかった。この中止展示=展示を許さない意図、の構図はとても単純だった。従軍慰安婦を象徴するとされる「平和の少女像」や昭和天皇の写真を燃やす場面があるビデオ映像を快く思わない層が実行委員会や主催者の愛知県に大量の電話を寄せ、中には脅迫もあった。そしてそれを煽るかのような公人の発言(河村たかし名古屋市長、松井一郎大阪市長ら)の上に、文化庁からの補助金の不交付を後から決定するなど、表現の自由に対する政府の横槍、妨害意図が明らかだったこと、などである。そしてこれらの公の立場にある者たちの民主主義に対する考えが完全に誤っていることである。

しかし、本書を紐解けば、現代アートに対する公の妨害、牽制そして検閲などはあいトリに始まったことではなく、着々と進行しているがよくわかる。それはアメリカではトランピズム=反知性主義による、アート=エリートのお高く止まったエスタブリッシュメントへの攻撃に現在現れていて、より表現世界を狭めている。それが、「忖度」によって自らの道を狭めているのが日本の美術館、キュレーションの現実だ。「(あいトリの「不自由展」、作家、作品への圧力は)多数派とアートの専門家の無知あるいは事なかれ主義による表現の自由の圧殺である」(362頁)。

アートプロデューサーであり、キュレーションのプロである著者の姿勢、提言は明確だ。「アートとは何かをなるべく多くの人が考えるように仕向け、毒にも薬にもなるアートの性質を知らしめ、毒でさえ我々の世界を豊かにすることがあるという事実を共有するのである」(370頁)。そのためにはアーティストとアートを守りたいと思う者は、さまざまになされる公と、そういった公をたった一つの方向性に向かわせようとする者たちの攻撃に立ち向かうための理論武装と横の繋がりが重要と説くのである。この攻撃にはあいトリに見られたような補助金不交付という経済的に「干す」やり方もあれば、東京都現代美術館や広島市現代美術館であったような規制・検閲もある。さらには、その攻撃の対象が、性や暴力などをめぐるむき出しの対・表現の自由の時もあれば、この国にはそれよりもある意味超えがたい菊のタブーが存在する。

そして、公に一切頼らないとフリーにアンデパンダンとしてするやり方もあるが、これでは多様な人の多様な結びつきを狭めてしまうという意味で、アングラ化するだけという問題も指摘する。さらに著者は、ペストの時代から現在のコロナ・パンデミックの時代まで通覧し、アートにおけるウイルスとそれがもたらす分断、すなわち差別が不可分であったことも解き明かす。それは「接続と切断、再接続と再切断を繰り返せば、悪玉病原体は消え去るかもしれない。そして、アートは世界に的確に取り込まれ、ともに進化するかもしれない」(371頁)。しかし、日本学術会議の任命拒否問題にも明らかなように現実はそれとは逆の方向に進んでいる。だから境界を広げるためにあるアートは、世界を豊かにするのだからアート自らが境界を築いたり、どのような境界が持ち込まれるのか普段に警戒しなければならない。世界を豊かにするという時の「豊か」は政治的に正しいとは限らないと釘をさす。上述のように毒でさえ豊かの範疇に入りうる。

「世界は多様であり、あらゆるものが芸術表現の対象になりうるし、なっていい。制約となるのは物理法則と法律だけであり、主題や行為にタブーはない。」「(公的助成が絡むシーンでは)必要な場合に、それを観たくない者が観なくてすむように、適切なゾーニングを施すことだけだ。」(377頁)「本来は「個」の集合体である「公」は、「個」の少数派を守り、アートを守らなければならない。」(378頁)明快である。(小崎哲哉著 河出書房新社)

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アメリカを知る、アメリカ映画に期待させる  ノマドランド

2021-04-01 | 映画

定住地を持たず流浪する民の呼び名は数多ある。イスラエル建国まで祖国を持たない、あるいはそれ以外の地に生きるユダヤ人を代表するディアスポラ。かつてはジプシーと呼ばれたが現在はロマ、あるいは地名由来のボヘミアン。マッチョな人気ダンス・ヴォーカル・グループ名でなく本来の意味は逃亡者、亡命者のエグザイル。そして遊牧民や流浪する人をさすノマド。

私はホームレスではなくハウスレス。財産としてのハウスはないが、居場所としてのホームはある。夫を亡くし、企業城下町だったネバダ州のエンパイアは街から企業が去ると、ファーンも住居を失い、キャンピングカーでの生活となるが、昔の教え子の子どもから「あなたはホームレス?」と訊かれ毅然と答える。教員まで勤めたファーンは別に家を探せばいいのではないかと思えるが。ファーンには豊かに暮らしている妹やファーンに好意を抱きノマド仲間だったが、息子と和解し大きな家に住まうデイヴィッドも彼女に部屋を提供しようとする。が、ファーンはもう車以外のベッドでは眠れない。そしてそのような困難な生活にあっても働くことを諦めない。ファーンが季節労働で雇われるアマゾンの巨大な配送センター。多くのノマドも働くのは雇用中は駐車場が保証されるから。テーマパークの食堂、モールの掃除。細切れの労働では多くの収入は得られない。しかし、ノマド仲間の多くは、安定した職を得てハウスに住みたいと考えているようにも見えない。そこには一言では言い表せない過去を引きずり、資産の象徴たるハウスを持つ束縛からは解放されたいと考えるから。

原作は『ノマド 漂流する高齢者たち』(ジェシカ・ブルーダー)で、著者は実際にノマドと3年間暮らし、数百人のノマドに取材したルポを著した。ファーンを演じるアカデミー賞俳優フランシス・マクドーマンド以外の登場人物はほとんど実在のノマドである。ハウスの束縛から解放されたい人たちと前述したが、実際の暮らしは厳しい。車ゆえの厳しい環境。冷暖房、食事、洗濯、排泄、病気になった時など生活の基本条件から、駐車場、車のメインテナンスと現金収入は不可欠だ。だからノマドは気楽な「遊牧民」ではなくて、流浪を余儀なくされた資本主義社会ゆえの「垢」なのだ。

ファーンが妹の家族に世話になった際、集った者が不動産で儲ける話をすると「借金させて家を売りつけるなんて」と反論する。そこにはリーマンショックの影が見える。そして画面をクリックすればすぐに商品が送られてくるアマゾンの仕組みもこういった期間労働、使い捨て労働によって成り立っているという事実を見せつける。そう、本作は優れてアメリカの現実を描いているのだ。持てるものと持たざる者。そこで表面的には描かれていないかに見えるのは、弱肉強食、格差社会という世界最強・最大の資本主義国アメリカの本質であって、個で抗えるものではない。だから、心の中だけでもファーンは自由であり続けるのだ。それを支えるのがキャンピングカーという小さなお城しか失うものを持たない寄る辺なきノマドの仲間たちである。いや、ファーンは言う。自分は心残りを引きずり、それを乗り越えられないからノマドを生きるのだと。自立して誇りあるノマド、に見えるファーンとて不安と戦い続ける高齢者(劇中では61歳)に過ぎないのだ。

ファーンと実在のノマドたちに密着したカメラは、社会の矛盾を直接的に突く構成とはなっていない。その点を、さこうますみは「ケン・ローチだったとしたら、また別の描き方をしただろう」と指摘する(『週刊金曜日』1321号 2021.3.19)。確かにケン・ローチなら格差社会に壊され、時に命を奪われる主人公にしたかもしれない。しかし、「ミナリ」の脚本・監督のリー・アイザック・チョンといい、本作のクロエ・ジャオといいアジアがルーツの監督ではアメリカ映画も見せるものがある。ハリウッドへの偏見?を捨てて今後も期待したい。

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誰もが開かれた空の下に  「すばらしき世界」

2021-03-21 | 映画

日本で死刑が廃止されない理由に政府があげるのは「国民の理解が得られていない」というのがある。しかし、安倍政権下で成立した様々な法制、秘密保護法、安全保障法制、共謀罪などについていずれも「国民の理解が得られて」いたわけでもないのに強行成立させた。一方、夫婦別姓制度については、世論アンケートによれば十分に「国民の理解が得られている」が一向に着手しようとしない。死刑制度とも関連するが、刑事法制やそれに関連する社会政策全般についてはどうか。

元受刑者の社会復帰を描いた佐木隆三の短編小説「身分帳」を原作とする本作は、ある意味かなり地味な作品である。人を殺め、服役した三上はヤクザとして生きてきた期間がとても長く、カタギとしての生活経験がない。13年の刑期を終え、シャバに出てもうムショには戻りたくないと、古いアパートで普通の暮らしを始め、職探しをするが、それほど劇的な出来事があるわけでもない。運転免許も失効し、就職に難をきたす。元殺人犯の社会復帰に悪戦苦闘、成功する三上を撮ったらおもしろいだろうと元テレビマンの津乃田は野心的なプロデューサー吉澤にけしかけられてカメラを回し始めるが。

登場する人物はそれほど多くない。三上の身元引受人の老弁護士夫妻、一度は三上を偏見から万引きを疑ったが、その人柄を認め支えるスーパーの店長、当初冷たな感じも受けるが、担当者として誠実に向き合うケースワーカー、旧知の九州のヤクザの親分一家。「身分帳」から時代設定を35年後にした本作では、三上はスマホを持ち、九州のヤクザのアネゴは「銀行口座は作れん、子供も幼稚園に入れられん」と嘆く。それはそうだろう、13年ぶりに出所した人間がすぐに広い、豊かな人間関係を持てる方が非現実的だ。だから本作はとてもディテールにこだわり、三上を演じる役所広司の「演じて」はないように見える姿といい、現実を晒す。必要最小限のものしかない三上のアパート、電話に追われて三上との対応もままならない役所の窓口、視聴者に受けないと見ると簡単に企画を放り出すプロデューサー、そして三上がやっとのことで就職した「理解ある」介護現場。そのいずれもが三上を恐れ、あからさまに忌避することはない。しかし、ヤクザなりにまっすぐに生きてきた三上にはズレがある。そのズレをズレと感じないことで生き抜けるなら、それは本当に三上の姿なのだろうか。

映画は、このリアリティーを撮りあげた西川美和監督の視点と、それを支えた豪華な俳優陣や制作スタッフなどと、西川監督の美学をかたちづくる様々なコンテンツの集大成と紹介される。であるから、例えばシナリオ全文まで掲載された映画のパンフレットにおいても、日本の刑事司法や社会政策の現状に触れてはいない。しかし、三上の日常を丹念に描くことで、その後進性や停滞性を問いかけていることは明らかだ。生きづらいと感じる人が少なくなればなるほど、生きづらくはない、あるいは生きていこうと思う人が相対的に増えるであろうことは言える。幸福追求権はすべての人に保障されなければならない。

死刑廃止が加入要件のEUの国々では、必ずしも「国民の理解が得られて」いたわけでない。しかし、被害者や遺族の福祉の権利とともに、加害者(家族)の権利も擁護する法整備を政策・立法者はときに英断しなければならない。権力者がその好悪を元に「英断」を使い分けるこの国の現状を、今一度自覚すべく貴重な作品である。そしてその「英断」をする、しないをなんとなく支持する空気こそ、武田砂鉄の指摘する世の中の分断や不寛容を後ろ押しすることに他ならないのだろう。

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