下町が好きです

。
僕は生まれたのは東京の渋谷区というところですが、すぐに父が亡くなったのもあって、早くに母の生家がありました北区に移り住みました。北区というのは、いわゆる「東京の下町」です。僕の通っていた保育園の先生が「最初は『あら、お坊ちゃまが入って来たわ』と思ったけど、ほんの一ヶ月ですっかり北区の子になりましたね(笑)」というようなことを、卒園文集に書いてくれています(笑)。なにせ最初の登園の日の格好が、白いシャツに、サスペンダー付きの黒の別珍の半ズボンとジャケット、白い靴下は三重に折られて、なんとエナメルの靴(!)。おいおいー、結婚式じゃないんだから(笑)まったく、どんだけ場違い君だったことか
(←証拠写真あり(笑))。まぁ、それが一ヶ月で、すっかりデニムの半ズボンにジャンバーに運動靴の下町っ子になったわけです(笑)。
子供はいいですね。すぐに友達が出来て、すっかり「近所の子」になれて。古い路地がごちゃごちゃとしていて、そこに住んでいる子供達にしかわからないような抜け道がたくさんあって、ちょっと歩けば友達の家を何軒も遊び廻れるような、小さな「町」です。東京とは言っても、そんな町の集合体だったんですよね。いつもの公園に隣町から子供が遊びに来てたりすると、こちらはちょっと警戒したりしてね(笑)。隣ったって歩いて15分くらいなのに(笑)。「我が町」っていう意識が強かったですね。それだけ住んでいるところに愛情があった、ということですよね
。
すぐそばには学校の校庭二つ分くらいある大きな空き地がありました。整地なんてしてない、砂利や石と、夏には膝ぐらいまで伸びる草ボーボーの空き地。当然のように遊んでいたけど、今はああいう空き地はすっかり見ませんねー。よくたむろしては、野球をしたり、鬼ごっこをしたり、隣接していた崩れかけた工場の壁に向ってボールを投げたりして遊んでたんですけどね
。何年か前に訪れたら、高層マンションが建ってました。
「東京のちょっと昔~30年前の下町風景」という写真集を図書館で借りてきました刊行されたばかりですので、どのページにもまさに僕が育った頃の下町の様子が。「おーこんなだった、こんなだった」と懐かしい思いでページを捲りました。写真の中の人たちはお金持ちじゃないけれど、生活力に溢れたその姿はとても力強くて、明るくて。郷愁と、尊敬の念にかられながら、楽しいひと時を過ごせました。もう二度と戻らない、下町庶民の生活、町の、生活の風景。「・・・もう絶対に、二度と見ることができないんだ」と思うと、胸が締め付けられるような気さえしました。
一枚の写真に傷痍軍人さんが写っていました。傷痍軍人さんというのは、戦争で傷ついた軍人さんです。
白い装束を着て、軍の帽子を被った二人の軍人さんは、浅草のお寺に参拝に訪れる人たちに向って、四つんばいになるようにして助けを(わずかなお金の恵みを)求めている写真です。洋服をを来た人々は距離をおいて、まるで彼らの存在などそこには無いかのように無関心に歩いて参拝に向かっています。一人は軍人さんは片足が無く、一人は肩から失った腕の代わりに義手で身体を支えています。
写真を見て、さーっと記憶が蘇りました。僕が子供の頃、彼らは確かに居ました。
覚えているのは、池袋の駅前。何人もの白装束の傷痍軍人さん達が、段ボール紙やベニヤ板に何かを書いて自分の傍に置いていました。確か、「私は○○戦線から帰還しました」とか、そういう内容だったような記憶がうっすらあります。そして、彼らは、力無く座っていたり、アコーディオンを鳴らしていたりしていました。このアコーデイオンの音色は、子供心にも、物凄く寂しげで、恐ろしげで。
池袋はしょっちゅう家族で買い物に行っていた街です。そして覚えているのは、彼らのそばを通るたびに、どうしても気になってチラチラと見る僕に祖母が「ダメ!見ちゃいけないよ!」と強く言ったことです。
なんで、見ちゃいけなかったのか。足が無かったり、腕が無かったり、顔半分に包帯を巻いていたり・・・単にそんなショッキングな姿を子供に見せないようにしたかっただけなのか、それとも、なにか、彼らのことを説明することを拒むような気持ちが、あるいはもっと彼らに対して後ろめたいような気持ちがあったのか。・・・傷痍軍人になりすましたニセ者が結構いたことは知っていましたが、それでもなぜああまで彼らとの接触を拒んだのか。
戦争を体験した祖母からしたら、おそらく同年代か、せいぜい少しだけ下の世代だったはずです。あの戦争では、温度差はあれど、ともあれ国民一丸となって戦ったはず。軍人も、残った女性達も。少なくとも、上層部に対する何らかの意見ややりきれない気持ちはあったにしても、なぜ、あの軍人さん達は祖母を始めとする「世間」に、積極的に助けられなかったのか。今なら、「体験者の話を聞こう」などという風潮もありますが、当時はまだそこまで世間の戦争感が成熟していなかった、というか、まだ心に痛みが生々しくのこっていて触れられなかったのか。それとも、手足を失った彼らの体験を想像するに、話を聞くには、あるいは語ってもらうには、あまりにも悲惨すぎたのか。・・・今はまだ、整理できていません。
でも、「僕も、あの戦争で戦って酷く傷ついた軍人さんを、確かにこの目で見ているんだな」、とドキリとしました。戦争をまた一つ、身近に感じつつ。
・・・あ。
ここまで書いて、ひとつ思い出しました。
一度、軍人さんに百円玉か五十円玉を一つ、「恵んだ」ことがあります(この場合、恵んだという言葉はなんだか嫌というか、違和感があるのですが、他に言葉が見つかりません)。母といっしょだったのか、祖母だったのか、伯母だったのか、・・・記憶はありませんが、誰かが「これ、入れてきてあげなさい」と、手渡してくれたんです。
僕が空き缶にお金を入れると、うつむいてじっと座っていた軍人さんは、僕と目を合わさないようにしたまま、ゆっくり頷きました。「どうも」とか「ありがとう」って言われたのか、あるいは黙ったままだったか、それは覚えていませんが、不精髭と、痩せて浅黒く汚れた軍人さんの横顔は、確かにすぐ間近で見た覚えがあります。「池袋駅前の、ここ」って、指差せるほどハッキリと場所まで思い出しました。
彼らの姿を見ることも、ましては話を聞く事も、もう二度と出来ないんですよね。下町生まれ、下町育ちの祖母が、何を思って「見ちゃいけない」と言ったのか、その真意を訊きたくても、それももう叶わず。
ではー。
北区のどの辺←教えてくれる訳ないかぁ~。
私、高校→北区だったよ~。(関係ないか?)
話しが途中の様なのでまた後程伺います。
今住んでる所が、少しだけそんな雰囲気があるかなぁ?
私はめっちゃ田舎っ子なんで、田んぼや山や海に囲まれてます。
空き地は、今はどんどん新しい建物が建ってますよね。
読んでて、すごく共感して切なくなりました。
田舎やったけど、建物がどんどん建ってます。昔遊んでた公園もなくなりました。
確実に時は流れてるんやなぁって思うと、少し寂しくなりました。
近くに田んぼがあって、夏はカエルの鳴き声が
子守唄のようでした
草ボ-ボ-の空き地に自分達の
“基地”なんかを作って遊んで居たんです。
毎日、基地に行くのが楽しみでした
田んぼで、オタマジャクシやカエルを捕ったり、
オケラやプランクトンやゲンゴロウ、
時にヒルに血を吸われたりして
ホント、懐かしいな~
でも
1度、ケンさんと遊んでみたかったな~(笑)
☆子供の頃は毎日が楽しくてキラキラしてた
大人になったら、どうして厳しい道を選ぶのでしょう。
人の心の中の本当の想いって解らない。
だからこそ信じてあげなきゃいけない
もう・・・・・
カエルを捕ってた子供じゃないんだから(←
さほど歳が離れて居ないのに住んでいた環境かねー。
うちの方は確かに超下町。
昔は道路で遊べたけど今はNG。いつ頃か忘れたけど車ブンブン通るようになったのは?
でも、その道路も年に一度通行止めになるときがあるよ。
そうです。隅田川花火大会の日だけ。
ケンちゃんは本当の都会人なんだね。
だって、昔傷ついた軍人さんって見た覚えないですから。
下町に足を踏み入れると、
独特な雰囲気を感じます。
田舎育ち。
今は空き地があっても、遊べない時代。
昔という記憶。
薄れてしまいますが
確実に存在していた事実。
軍人さん。
偽っていた方もあったのでしょうが、
戦争が終わって、帰ってきても、
家もない・家族も身よりもなにもない
どうしようもなく困り果てていた方も沢山いたんでしょうね。
そうするしかなかった・・・
体が・・・・
もし自分がその時を生きていたら、
どうしていたんだろう。
なぜ見ちゃいけないのか。・・・
うーんん・・・
私はケンさんと片手ちょっとしか年齢が離れていませんが、いま思い出す限りでは、傷痍軍人さんを見た事はないと思います。
でも、ただその生々しい姿を見ていないだけで、きっと、身近にはいたのでしょうね。ケンさんのお祖父さまと同じで、私の祖父も戦争体験者でしたから。
傷ついた軍人さん達を世間が受け入れなかった…それは、きっと戦争を思い出す事が怖かったのかな…思い出すには、まだ早過ぎる時代だったとか…。
確かネルソンさんの本にも書いてありましたよね。戦争を語る事ができない人達がたくさんいたって…。
戦争が間違っていた事に気付いて、でも、既に取り返しのつかない事になってしまった現実を見るのが怖くて、早く忘れてしまいたかったのかな…。
なんて、私なんかが今ちょっと考えて語れるような、簡単な話ではないですよね。分かったような事を書いてすみません。
今日のブログを読んで、「俺達は君達の為に戦ったんだけどな…」って言葉が蘇って聞こえてきました。
私も生前、祖父にもっと話を聞いておけば良かったです。
戦争から帰ってきたきた人がいました。
足がなく車椅子に乗ってる人や、手のない人…
今はすっかりきれいになった駅前に
まだ暗いトンネルがあった頃。
きれいになってしばらくは見かけたけれど
いつの間にかいなくなってました。
時代は確実に流れていますね。。。
ケンさんのブログを読んでいて私も
はっきり場所を思い出しました。
(地元民なもので)
見ちゃいけない、と母からも誰からも言われた記憶はないのです。
ケンちゃんの北区と実際に普段からその人達が
日常にいる豊島区では受け取り方や反応が違っていたのかもしれません。
子ども心に「あの人達はどうして何してるの?」と尋ねると親は「戦争に行って手や足が無くなってしまったの」とハッキリ言ってました。
(両親とも戦争体験者です)
母の育った大宮でも公園にはお祭りの時など
大勢の傷痍軍人の人達がいました。
子どもの私は何度か母に手渡されたお金を
彼らの前の箱に入れると
黙って会釈を返してくれた記憶があります。
それから時が流れ、高齢を迎えた傷痍軍人の人達への保護への施策や金銭的な福祉や施設も出来たと聞きました。
個人的には20歳ぐらいの時に仕事で
傷痍軍人の人と接する機会がありましたが、
小さい時に彼らのある程度の事情が理解できたので
恐いとは思いませんでした。
子どもの目は真っ直ぐに見ています。
それに真摯に向かい合い応えられる大人になりたいです。
・・・あ、ちょっと今日は真面目過ぎましたか?
私は池袋で生まれ小さい頃を過ごしました。
今でも池袋にはよく行くのです。
そうですね、居ましたね…ひとり静かに座っている人も所々に居たし、救世軍が西武の前に居た姿を私は覚えています。
黒い鍋を吊してカンパを集めつつ、アコーディオンやらラッパ?もありましたっけ?さすがに小さい時なので定かではないですが、あの 耳にこびりついて今でも忘れられない 私にとってはとてもイヤな、明るいのに何か恐ろしい 暗いものを感じさせるメロディのリフレイン…。
あの辺りに昔住んで居た人でないと解らない事なのですが、救世主は何処に止まってカンパを募っているだけではなく、演奏しながら行進していました。
それが家の中に居ても聞こえるのです。
まだ小さく聞き分けのなかったであろう私にしつけの為?母があのメロディを利用して何か良くない教え方をしたらしいのです。
それが効き過ぎたのか、あのメロディが聞こえるてくると、私はひきつけそうな位の怖がりようだったそうです。
でも本当にそれだけだったのかなと思っていたのですが、ケンさんのお話しを読ませて頂いて やっぱり気のせいなんかじゃないと思いました。
あのメロディには「時代が背負っていたもの」「戦後の日本が背負っていた重さ」みたいなものを感じるように私には思えるのです。
長文になり失礼致しました。
・・・実際には居たのかもしれませんが。
なぜ「世間」に積極的に助けられなかったのか。
昨年、長崎で戦争体験者の方々とお会いした時のことを思い出しました。
「戦争のことは思い出したくない」、「語ることができない」という方が、
本当にたくさんいらっしゃって・・・。
私は、それ以上何も聞けなくて、その先は、想像するしかなくて。
「見ちゃいけないよ」という言葉には、どんな思いがあったのかな・・・。
私は、結構な田舎で育ったので、子供の頃は空き地がいっぱいでした。
近所の友達と、よく遊びましたよ。
鬼ごっこをしたり、野球をしたり、探検ごっことか、虫捕り(怖!)とか。
そんな思い出の場所も、今は新しい家やマンションが建っています。
子供の頃の記憶って、断片的ではあるけど、
結構いろんなこと、憶えてるんですよね。
大好きだった風景も、町並みも、時間も、二度と戻らない。
昔の写真を見て、ふとそんなことを思うとき、
どうしようもなく苦しくなったりします。・・・大切にしよう。今も、思い出も。
昨夜は、アルバムを見ながらいろんなことを思い出して、・・・涙ポロポロ。
今日、弟の結婚式なんです。…って、全然関係ない話でゴメンナサイm(_ _)m
・・・いい姉、演じてきます。なんつって(←照れ隠し(笑))。
では、今日も元気で。いい一日を(´ー`*)ノ
小さなことがきっかけで、ちょっと昔の(!)自分を思い出したり、
記憶が蘇ったり。
大人になって思う感情はざざまだけど、当時の大人の気持ちも
少し分かったりして。
ケン坊のブログを読んで、私も思い出しました。
本当に、忘れかけていた記憶まで・・・。
あの頃のままの景色はもうないけど、
思い出や記憶は色褪せることなく、大切に残っているもんですね。
ケン坊の可愛らしいお坊っちゃま姿、普通に想像できて・・・
朝からニッコリでした(*´ー`)
私が遇ったのは、両手両足が無い軍人さんが4人でした。
軍歌流してました。
休日の昼間ですので、道行く人はいぶかしげに見るか、見ないふりをするかでしたが、
「あ、私も今あんな目で見ていたのかな?」と思った瞬間、自分に腹が立ちました。
家に帰って父に「こういう人たちを見たのだけど、いったい何?」
と聞き、始めて傷痍軍人で有ると言う事を知りました。(うちの父は戦中産まれです。)
無知である事とは、何と罪であるか。
今だからこそ学べる事が有ると、思えるようになったこのごろです。
私は池袋で生まれて、小さい頃を過ごしました。
今でも池袋にはよく行きます。
そう…確かに居ましたね…所々にひとり静かに座っている方。
そして西武の前に救世軍が黒い鍋を吊してカンパを募りつつアコーディオンやラッパ?やらで演奏していました。
明るいのに何か恐ろしい暗いあのイヤなメロディ…リフレイン。
あの辺りに住んで居た人でないと解らない事なのですが、救世軍は何処に止まってカンパを募るだけでなく演奏しながら行進していました。
それが家の中に居ても聞こえるのです。
まだ小さく聞き分けのなかった私にしつけの為?母があのメロディを利用して良くない教え方をしたらしいのです。
あのメロディが聞こえると、ひきつけを起こしそうな位私は怖がったそうです。
気のせいかあのメロディには時代の持つ重く暗い何かを感じるように思えていました。でもケンさんのお話しを読ませて頂いてやっぱり気のせいなんかじゃないと思いました。
あのメロディには「時代の背負っていた何か」「戦後の日本の背負っていた重さ」のようなものがあるように私には思えてならないのです。
長文になり失礼致しました。
もしそうだったらすいません。
今迄こんな事無かったのに投稿直後の確認画面と後で見直した画面が違うのです。
何故でしょう。
そこの交差点の所に手首から手が無く
ボロボロの服を着てずーっとうつむいてる兵隊さんが居ました・・・
そして横には「私は戦争に行き・・・」と長々と書かれたダンボールか何かを立ててました。
でもやっぱりその兵隊さん出てくる体からのオーラが恐くて
お金を「恵む」事が出来ませんでした。。。
凄い人通りなのに誰も無視して交差点を歩いてました。。。
今も居るのかなぁ?ちゃんと立てた看板の文章を読めば良かったなぁ。。。
時には虚無僧も立ってる時がありました・・・。
でもやはりお金を「恵む」事が出来ませんでした。。。
それからもっと時間が経って「募金してる人の中でもニセモノも居るんだよ!」
・・・って教えられたのにはビックリしました。。。
人の善意を我が物の利益に・・・許せん!
今は盲導犬の募金には必ず募金させて貰ってます!
人の為に頑張ってくれてるイヌ君イヌちゃん達にはどうしても僅かな小銭でも・・・
それなのに人はペットを捨ててるのに。。。
あ!話が横道にそれてしまって済みません。。。
では~~・・・
少し時代は違いますが、「Always~三丁目の夕日~」を思い出しました。
きっとみんながそれぞれの未来に、そしてこの国の未来に一生懸命だった、
たくさんのチカラで溢れてた時代なんだろうなぁ、と。
そんな中を駆け回っているケン坊の姿も浮かんでくるようです。
幼いケン坊の中に生まれた想い、
「見ちゃいけない」と言ったお祖母さまの想い、
そしてその軍人さんの想い・・・
みんなの想いが心にツーンと響きました。
もう戻ることのできない時代と、そこに確かに存在したたくさんのキモチ、
今は見えないし、聞こえないけど、とっても大切なモノですね。
ちょっとだけ戻って覗いてみたい、そんな時代のそんな場所です。
ではー。
傷痍軍人さん。
わたしは見たことがありません。
今日は朝から母と出掛ける用事があり、クルマの中でその話をしながら目的地まで向かいました。
母が結婚前(ケン坊が見た時よりも、少し前だったと思われます)に見た傷痍軍人さんたちの姿、周囲の反応などを聞くことができました。
また、今のわたしよりもずっと若い、当時の母が感じたこと、そして30年以上経った今の考えや思いも。
こんなに母と深い話(そこからどんどん話がふくらみました)が出来たのも、ケン坊がきっかけを与えてくださったから。
ありがとうございます。
お祖母様のお言葉。
悲惨な戦争を体験し、過酷な状況の中を生き抜いてきたお祖母様だからこその、お祖母様にしか分からない思いがあったのかも、と思いました。
本当に残念ながら、今となっては・・・ですね。
ではー。
私も、北区に居たことがあります。引っ越しした先で幼稚園に入園しました。もしかしたら、入れ違いなんてことあったりなかたりかなぁと思いました。北区での事は、幼少期だったので残念ながら記憶はありません。
ところで、軍人さんは、子供心に怖さが先でした。私が、見たのは、上野公園でした。軍人さんがいると、父に怖いとしがみついた思い出があります。
池袋にいたのですね。
簡単ではありますが…。
では、また。
私も子供の頃に傷痍軍人さんを見ていました。しかもお祭りで……。
当時鎌倉に住んでいたので、毎年7月になると平塚の七夕祭りに行っていたんです。どの通りも大きくてキレイな飾りや出店で賑わっているのですが、通りを突き当たりまで行くとアコーディオンやトランペットでもの哀しい曲を奏でる傷痍軍人さんが大勢いました。お祭りの華やかさを満喫した後だけに、ぼろぼろの軍服を着て自らの身上を記した紙を傍らに置いた彼らはひと際異様な雰囲気で、怖いのか哀しいのか子供心に何とも言えない気持ちになりました。同じ空間にいながら呑気に祭りを楽しんでいる自分たちに、ちょっと罪悪感を感じた記憶もあります。そういえば、いつからいなくなったのでしょうね。
信じるか信じないかは、あなた次第。
私も小学生の時、親子遠足で池袋サンシャインシティに行った帰り、傷痍軍人さんを見かけました。83、84年の頃でしょうか(私は72年生まれ)。
ハーモニカを吹いて、片脚が金具の義足で軍服だった記憶が。足下にはお金を入れるカンカラ。
見た瞬間、衝撃で子どもながらにせめてお金をと思い、手をつないでいた母の手を強く握って母の顔を見上げました。
すると、母は前を向いたまま、私の手を引っ張り返し「見るな」と鋭く返してきました。
軍人さんもですが、それ以上に母の反応が怖かった。母は子ども時分に終戦、高卒後、御徒町の毛皮会社でお針子さんとして働いてたとの事。歩いてすぐアメ横ですから、若い時も沢山の傷痍軍人さん見かけたことでしょう。
私が見かけたのは、偽軍人さんだったのでしょうが、それでも社会の裏側を見た気がしました。
同じ思いをした方がいると分かった感慨で、長文失礼しました。