たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

佃島の鰹塚

2009年11月22日 09時56分03秒 | 人間と動物

志ん朝の落語全集の『佃祭』は、佃島の住吉神社の祭に出かける神田お玉が池の小間物屋・次郎兵衛の噺である。佃祭を見物に行った次郎兵衛は、暮れ六つの、満員のしまい船に乗ろうとしたとき、一人の女性に引き留められ、船に乗り損なう。その女は、3年前に吾妻橋から身投げをしようとしたときに、次郎兵衛が、5両のお金を恵んで助けた娘だったのである。次郎兵衛はその女の家に招かれる。周囲がざわめき立っている。尋ねると、しまい船が沈んで全員死んだという。泳げない次郎兵衛は、その女に助けられたのであった。いっぽう、神田お玉が池の次郎兵衛の家では、しまい船転覆の報を受けて、葬儀をはじめていた。そこへ、次郎兵衛が戻ってくる・・・

次郎兵衛が、住吉神社に参詣する、人助けするような情け深い人物であることを描いたこの噺は、海上安全、渡航安全の守護神としての佃島の住吉神社のご利益の物語として読み直すことができるのかもしれない。

その佃島の住吉神社の境内には、「鰹塚」の大きな石碑が建っている(写真)。昭和28年に、東京鰹節類卸商業協同組合・株式会會社東京鰹高取引所によって建てられたその碑は、川田順造氏
の著作のなかで、すでに繰り返し取り上げられている(①川田順造『文化人類学とわたし』岩波書店、②川田順造編『ヒトの全体像を求めて』藤原書店)。

その碑の建設をつうじて読み取れる人間
の態度とは、川田によれば、「他の生命の犠牲によってしか生きるすべのない人間のかなしい業を自覚し、生きること自体が含む矛盾を受け入れ、自覚することでそれを超えようとする態度」(①の150ページ)である。川田は、「偽善とみえるようなこの供養や塚の考え方は、だが私が『創世記パラダイム』と名づけている、神は己の姿に似せて人間を創り、他の動物を人間のために創ったという前提にもとづく、いわば確信犯としての動物利用とは、人間も他の生き物と同等に生きているという前提において、やはり異なっていると考えたい」(①の151ページ)という。

わたしは、川田のいう「人間中心主義」を再検討するという観点を共有している。
昨日わたしが訪ねた折には、石碑の前には、以下の文面が掲げられていた。

 鰹節問屋は江戸時代から、住吉大神を生業繁栄の守護神として奉賛してきました。
 神社建築では棟木の上に鰹節に似た内柱状の飾り木「堅魚木(かつおぎ)」が横に並んでいます。わが国最古の法典である「大宝律令」(701年)「養老律令」(710年)に海産物調賦に、堅魚、煮堅魚、堅
魚煎汁(かたうおいろり)(煮詰めたエキス)の記録があるように、大和民族は古来より鰹を食し、保存食調味料としても利用してきました。
 東京鰹節卸商業協同組合は、鰹の御霊に感謝慰霊の意を込め、また豊漁を願い、昭和28年5月「鰹塚」をここに建立しました。費用は組合員96名の積み立てによる浄財でまかなわれました。使い氏は鞍
馬石(高さ7尺、幅4尺)、台石は伊予青石(高さ3尺)であります。
 表面の揮毫は、日展審査員で組合員、鰹節問屋「中弥」店主でもある「山崎節堂」氏、裏面の碑文は慶應義塾大学名誉教授「池田弥三郎」氏によるものです。
 東京都鰹節類卸商業協同組合

鰹は、古来から食用としてだけでなく、暮らしのなかで用いられてきた、日本人にとって欠かせない存在である。その豊漁を願うとともに、そのみたまに感謝と慰霊を捧げる目的で、この石碑が建立されたことが述べられている。裏面には、国文学者・民俗学者の池田与三郎による碑文があった(()を付けた部分は、解読できなかった文字)。

  鰹塚縁起 池田彌三郎撰
 この東京佃島に鎮座ある住吉大神は國土平諸人幸福を輿へたまふ神として尊ばれておいでになる 
 とりわけ海上の安全を守護し給ふ神徳のあらたかさを以って神功皇后の古から幾星霜にわたって海に冨を得幸を求めようとする人の篤い崇敬をうけて来られたことは今更申すまでもない 
 私ども東京鰹節問屋の組合でも江戸時代の初めから今に到るまで此大神を私どものなりはひの為の守護神と崇め敬ひ奉仕の誠心を致し来つたのである 
 今日私どもの生業がかくの如く繁榮を来したのも全く此大神のみたまのふゆの致す所と感謝し奉つてゐる 
 それと共に私どもにとつて常に恐れることの出来ないのは尊いその尊いその神意に添つて大神の(御)使として眷属として私どもの廻りから身を匿し逃ることなくおのが身を世の人の食膳に上せ海の幸の賑はひを盡し給ふ鰹の魚のみたまに抱くおなじ感謝の心である 
 そこで私ども崇敬者の間に大神の御為の報賽と鰹の魚のみたまに對する感謝慰霊の心を如何にして表さうかと言ふおさへ難い情熱が高まつて来た組合員の總意はこの住吉神社の境内に鰹塚を建ててその人たまを齋くことにまとまったのである 
 願はくば神とみたまとの感情の上に私どもの報賽の志が行きとほつほしいものである 
 鰹の魚の大鰭小鰭洩れることなくうけがひ( )ひ給へとひたすらに祈る次第である
 昭和二十八年歳在癸巳五月穀旦
 東京鰹節類卸商業協同組合
 株式会會社東京鰹節取引所

碑文を作成した池田によれば、住吉大神こそが、わたしたちに鰹を授けてくださる至高の存在である。ここでは、「みたまのふゆ」という民俗学的な想像力を用いて、彼は、そのことを表現している。さらには、鰹は、その大神の従者であり、わたしたちにその身を投げ出して、わたしたちを生かすだけでなく、わたしたちを楽しませてくれているので、わたしたちは、鰹のみたまに同様の感謝を抱いているのだという。そのため、組合員には、その二者(大神と鰹の御霊)に対する感謝慰霊の心が、もうどうしようもなく抑えきれないところまでなって、住吉神社に鰹塚を建立することになったというのである。

56年前に石碑の裏面に刀で堀削られ、すでにところどころ読み取りにくくなっているこの碑文には、生き物に対する日本人の集合的な感性が、いや、いまとなっては曇ってしまっているその証が、力強く書きつづられている。「大神の(御)使として眷属として私どもの廻りから身を匿し逃ることなくおのが身を世の人の食膳に上せ海の幸の賑はひを盡し給ふ鰹の魚のみたま(=大神のお使いとして、わが身をさらし、食膳に上げて、食を豊かにしてくれる鰹のみたま)」という表現によって、ここで描かれているのは、なんたる生き生きとした鰹たちの姿であろうか。鰹がピチピチと跳ねて、喜んで、その身を人間にさらしているかのようである。

そこには、<食べる側の人間>と<食べられる側の魚>という線引きがあるのではなく、魚が、あたかも人間のように、大神の意思を受けて、嬉々として身を捧げるような存在として描かれている。別の観点から述べれば、日本人は、人間と他の生き物の間に明瞭な線引きをしないで、その共通性・連続性の基に、人間と動物の関わりを想像してきた
のではなかったのか。逆に、他の生き物を異質性・非連続性のもとに捉えることが、川田のいう「創世記パラダイム」に沿った西洋の動物観のおおもとにあるのではないだろうか。それは、グローバル化が進む今日、普遍主義的に全世界に浸透しつつある。

住吉神社の巨大ないしぶみは、わたしたちに、日本的な生き物観を
忘れてはいけないということを精一杯主張しているようにも見える。

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