たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

ハセヤンによるフィールドワーク(お知らせ)

2010年11月30日 08時01分41秒 | フィールドワーク

LA学群文化人類学専攻

文化再発見のフィールドワーク

~外国人観光スポット「渋谷109」をあるく~

 

【日時】 1211日(土)13:00~17:30

現地「渋谷109」の1階入り口に集まり、講師とともに、1時間半ほど各人調査をおこない、のちに桜美林大学四谷キャンパスの教室(Y-304教室)にて調査の報告とディスカッションをおこないます。

【定員】10名(桜美林大学LA学群学生)

【参加費】無料

【担当講師】 長谷川 悟郎(桜美林大学 基盤教育院「文化とは―文化人類学」非常勤講師)

【趣旨】

  「渋谷109」は、日本人のコギャルの聖地などと言われ日本のサブカル発信地となっていますが、同時に日本の文化的スポットとして外国人観光客にウケているといわれています。これは一体どういうことでしょうか?東京のファッションスポットを、異文化として捉えて観察してみましょう。

文化というのは、じつは自然発生的(スポンテニアス)なもので、例えばきれいに花壇に植えられたお花よりも、もっと勝手に生える野原の雑草のようなものです。外国人観光客も、専用に作られたような高級ホテルよりは、意外にも「リョカン」など、雑草的なところに文化的関心を向けるものです。マンガもアニメも回転ズシもみな同様のことがいえるでしょう。ここにサブカルの面白さがあるのですが、あまりに雑草的で分かりにくい。実際に足を運んでみるしかありません。

【手法】

 行く前になんでもいいから素朴な疑問を書きだしておいてもらいます(それを前もって皆で共有します)。そしてフィールドワークにて各人(グループでもかまいません)最低限なにか答えをみつけ出し、教室に持ち寄り報告とディスカッションをおこないます。その後、次の新たな疑問を発見してもらい、知的な関心をどのように発展させてもらうのかを学んでもらいたいと思います。

ちなみに講師自身の設定課題は、前回初めて行ったときに果たせなかった、店員さんと会話をしてインタヴューを試みることにあります。本当に観光地化しているかどうかその辺からうかがってみたいと思っています。

【その他】

 桜美林文化人類学学生委員会(OSSCA)発行の冊子『アントロポロギ』第二号で特集化する予定で、参加者には、フィールドワーク手記を書いてもらいます(原稿用紙1枚程度)。

【問い合わせ・申し込み先】

長谷川悟郎: ghaseg@gmail.com


物言わぬ他者たる動物

2010年11月29日 10時47分23秒 | 人間と動物

昨日の朝日新聞の読書欄に、本田さんが、本の紹介をつうじて、「物言わぬ他者」としての動物という興味深い視点を提示していた。自己を知る鏡としての他者。この場合、他者は動物であり、自己は動物である。
以下、全文。

朝日新聞 2010年11月28日号 15面
本田由紀「動物を通して知る人間」

みなさん動物は好きですか?

好きな人は多いでしょう。CMにも待ち受け画面にもカレンダーにも、可愛い動物の赤ちゃんや、珍しくて面白い動物がてんこ盛ですもんね。どうして人間はこんなに動物が気になるんでしょう。もしかしたらそれは、動物が人間にとって「物言わぬ他者」だからじゃないかと思います。動物には動物の言葉があるのかもしれませんが、とりあえず人間には理解不能ですから、「物言わぬ」ことにほぼ等しい。だからこそ、人間と動物の間には、特に言葉によって邪魔されない直接的な共感が生まれる瞬間もあります。

幸田文さんの『幸田文 どうぶつ帖』(平凡社)には、飼われている動物と人間の感情的な交流や、動物園にいる動物への鋭い観察がちりばめられていて、人間と動物との良い関係についてのお手本になります。

でも、動物が「物言わぬ」ことに乗じて、人間は自らのエゴによって彼らを踏みにじることもあります。気まぐれで飼い始める、世話をしきれなくなったり飽きたりして捨てる、捨てられた動物が生き延びようとしてその土地の生態系を壊してゆく、あるいは捕えられてシステマティックに「殺処分」される、といった現象をぐいぐい記述しているのが、小林照幸『ボクたちに殺されるいのち』(河出書房新社)です。

動物は人間にとって「他者」ですから、きれいごとの陰で、優位に立ちやすい人間によって冷酷な行為がなされることもある。それを直視した上で、人間と動物との真摯な共存をどのように図ってゆけるかを、小林さんは問いかけています。

また人間は「他者」であるはずの動物に対して、自分自身の醜い姿を投影することもあります。オーウェルの名著『動物農場』(岩波文庫など)で、人間を追い出して農場を占拠した動物の間に何が起こったか。豚たちが詭弁を弄して「下層動物」を支配し、その労働の産物を独り占めして敵であったはずの人間とも手を結び始める。すごくブラックで面白い寓話ですが、そんな役割を豚に与えてしまっていることは、豚に対して失礼な話でもあります。動物には種を保存する本能はあっても、このような邪悪さはないでしょう。

人間が「物言わぬ他者」たる動物を、どう扱いどう描くかということに、人間という種や、その中の個々人の本性が映し出されているのだと思います。私たちは、「他者」ーそれは動物に限りませんーを通して、自分自身を知るのです。 

(数日前にわたしが書いたブログの内容に少し似ている)
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/5665022680cab0290333eaf9136cefae

この記事を読んで、改めて、動物は、人間にとっての他者だという単純な事実に気づく。この点に照らして、神話や寓話のなかで語られる「物言う他者」たる動物をどのように考えればいいのか。他者であることは変わらないが、わたしたちと同様に話し、考え、行動する存在としての動物について、今少し考えてみたい。


町田のシャボノ

2010年11月28日 12時38分23秒 | エスノグラフィー

愉楽に満ちた、じつに実り多き会だった。
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/959facca1d6f87a27f45634131ca95e8

参加者は、ほぼ定員(40名)だったと聞いている。ドキュメンタリー『ヤノマミ』の上映に続いて、国分拓さんと池田光穂さんの対談が行われ、その後、参加者はヤノマミのシャボノ(屋敷)様に椅子を並べ、座談式で質疑を行った(写真)。

わたしは、ゲストの国分さんのトークに、自分自身と同じ型の感性を見た。
以下は、講演会そのもののまとめではなく、わたしのフィルターをとおした雑感のようなもの。

・国分さんのトークには、ガルシア・マルケスの話が何度か出てきた。お好きなようだ。【わたしもである】

・マジックリアリズムの出来事について。現代日本の空間では嘘のような事柄が、ベネズエラやブラジルでは本当であるように感じられたという。そこに行って何かをやりたいと思われた。海ではなく奥地へ、そうして、ヤノマミにたどり着かれたのだ。

・そうした感性のベースには、生きづらい現代社会の価値観への不満があるという。【これもわたしと同じだ】

・本当の人間の姿が、どこかに行けば見られるのではないかという思いを秘めて、ヤノマミに接近されたのである。【わたしも、本当の人間に会いたい、人間の本来の姿に会いたいという思いを抱いてきた】

・彼らの狩りについてゆくための体力トレーニングの話があった。【わたしも、授業を終えてトレーニングをしていた!】

・150日間のヤノマミとの同居のなかで、何か起こったのは30日、あとの120日は何も起こらない平凡な日常だったという。事件をドキュメンタリーの主題にするが、本当は、何もない事態のほうが彼らの暮らしの本質なのではとおっしゃる。しかし、そうした日常の何もない現実をドキュメントするのは本当に難しいという。【わたしの悩みと同じだ。報告書のために何か非本質的なことを書いて、時間とエネルギーを浪費する。本質的な事柄は、なかなか書くことができない】

・池田さんは、対談のなかで、人類学は、現地言語を習得し、言語による接近をつうじて、他者表象を言語革命によって乗り切ろうとしたが、ポストモダン期に、言語を他者表象の唯一の手段とするような仕方が批判されたし、その延長線上に、『ヤノマミ』のドキュメンタリー作家と文化人類学の学生たちが語り合うこの機会は、<民族誌>を考えるための感動的な場ではないだろうかと述べられた。【なるほどと思った。映像人類学は、民族誌のたんなるオルタナティブだという位置づけはまちがっている】

・空腹に苛まれているときに、肉を与えられて口に入れて食べたさい、それが身体のなかで動いたように感じたという、原初的な(生き物としての)経験。さらには、森のなかでは、耳から入ってくる音の感覚が際立っているという話。【それらは、わたしのプナンの経験と似ている。いや未開文化経験主義の感性なのかもしれない】

・ヤノマミというのは人間という意味であるが、国分さんは、多くの人びとはこのドキュメンタリーを見て、彼らも人間だという印象をもつのかもしれないが、ご自身は、おれもヤノマミであると思ったという。【彼らのなかにわたしを見つけるのではなく、わたしのなかに彼らを見るということ。ヤノマミ経験をつうじた見方の逆転。他者の正しき捉え方だ。この脱・エゴ(エスノ)セントリズムは、人と動物の関係にスライドさせることもできるように思う。動物が人間のようだというのではなく、人間こそが動物なのだという、脱・アントロポセントリズムに】

ドキュメンタリー『ヤノマミ』は、森を「主語」に製作されたのだという。そうだったのか。国分さんの話をうかがっていて、現実とそのドキュメンタリー化の間における逡巡の大切さを感じた。人類学者にとっては、現実と民族誌の間の逡巡ということになる。一参加者として、深い示唆に富んだ、質の高い、後々まで記憶に残るような講演会だったと思う。国分さん、池田さんには、この場で、謝意を述べさせていただきたい。専攻の学生たちは、人数が少なかったが、現実の厳しさに直面しながら、連日、夜遅くまで打ち合わせを行い、意義のある講演会を成功させた。横目で見ていたが、たいしたもんだと思う。今期の活動としては、冊子編集が残っている。期待したい。


動物(再)襲来の時代

2010年11月27日 11時07分26秒 | 人間と動物

わたしたちは、人間らしい生き方とはいったい何か、人間であることの意味とは何かを、毎日、自分自身に問いかけながら生きている。学校教育で、わたしたちは、そうした態度を徹底的に植えつけられるからである。そのため、わたしたちは、人間は動物である、という単純な事実を、日ごろ、忘れてしまっている。

現代日本社会に暮らすわたしたちにとって、動物とは、いったい何か。動物園に行けば、動物たちに出会うことができる。動物園にいるライオンやゾウ、キリンなどが、わたしたちの動物イメージの典型の一つである。あるいは、テディ・ベアやミッキーマウスなどの玩具やキャラクター商品が、わたしたちにとっての「どうぶつ」なのかもしれない。牛肉、豚肉、鶏肉、魚肉は、ほとんどのわたしたちにとっては、おかずの材料としての食料品であって、それらが、動物を解体した結果であるとは、なかなかイメージされないだろう。ペットは、飼われているときは、つうじょう、家族として、人間の一部である。日本全国で、年間30万頭以上のイヌ・ネコが、不用動物として殺処分されているなど思いもよらない。

現代日本人の実感としては、人間として生きる努力をしている反面、自らが動物であることをうっかりと忘れてしまっており、生身の動物から遠くへだたった場所で暮らしているということなのかもしれない。逆に言えば、わたしたち現代人の日常には、生身の動物ではなく、加工され、薄められ、操作されて別のものになったイメージとしての動物が、深く溶け込んでいるということができるのかもしれない。

その一方で、これもまた実感をなかなか伴わないことが多いのだけれども、20世紀の終わりごろに、欧米から動物の権利をめぐるアニマルライツの思想が、日本社会に輸入されてきた。その流れに沿って、畜産工場の屠畜作業が公開された。最近の出来事としては、口蹄疫の感染により、大量の牛豚が殺処分されたニュースが流され、生物多様性条約で、絶滅が危惧される動物の保護が話題にのぼるようになった。そうした動物をめぐる諸問題が、わたしたちの日常の暮らしのなかに、遠くのほうからなだれ込んできた感がある。わたしたちは、そうした、ややぼんやりとした、動物襲来とでもいうべき時代を生きているのではないか。

(とれたてのイノシシを触るプナンの子ども)


『らくだ』

2010年11月26日 17時01分38秒 | 宗教人類学

ここ数年間、死と葬儀というトピックについての講義(宗教人類学)の最後に、談志師匠の『らくだ』を見ている。今日、その回だった。その試みは、講義としては、医療によって判定され、行政によって管理される現代の死とは異なる、江戸町民文化における死との向き合い方に関して、落語をとおして、想像力をもって捉えるというのが、だいたいの趣旨であるが、それよりも、教養としての話芸に触れ、知的センスを養うという面のほうが強い。それにしても、談志師匠の熱演よ。わたしが『らくだ』を聞いたのは(CDで)、志ん生、可楽、小さんの話芸だが、そのなかでも、談志師匠のものは、とびっきりスゴイと思う。第一級作品だ。死骸として登場するらくだの生前の乱暴狼藉ぶりが、話の向こうに、まざまざと浮かんでくる。酒を酌み交わす場面での兄貴分と屑屋の立場の逆転は、見事だ。以下、余分かもしれないが、話の概略。

長屋に住む図体のでかい、らくだとあだ名される嫌われ者の家を兄貴分が訪ねていくと、当のらくだが、フグにあたって死んでいた。兄貴は弔いを出してやりたいと思うが金がない。ちょうどそこに、「くず~い」と、屑屋の声がする。兄貴分は、屑屋に家財道具を売り払って金をこしらえようとするが、売れるようなものなどらくだの家には何もない。兄貴分は、仕方なく、屑屋の仕事道具一式を取り上げて、長屋の月番のところに行かせる。月番から、らくだが死んだことを喜んでいるので、なんとか香典を集めてくるという約束を取りつけて戻ってきた屑屋に対して、兄貴分は、今度は、大家から、弔いのために、酒と肴をもらってくるように命じる。兄貴分は、大家に断られたときには、「死骸のやり場に困っているので、カンカン踊を踊らせる」と言わせるという秘策についても伝授する。案の定、酒と肴を断られた屑屋。そのことを聞いた兄貴分は、屑屋に死骸を担がせて、大家の家に運びこみ、カンカン踊をほんとうに踊らせる。驚いた大家は、酒と肴を出すことをようやく承知する。その後、屑屋は、棺桶代わりに漬け物樽を出すように八百屋に使いに出され断られるが、カンカン踊の話をすると、八百屋は、勝手に持って行ってもいいという。屑屋が、らくだの家に戻ると、大家からの酒と肴がすでに届けられており、屑屋は、兄貴分に勧められて酒を飲まされる。屑屋は、三杯を飲むまでは、なんとか断ろうとしていたのだが、逆に、兄貴分が酒を勧めなくなり、注がなくなったことに反発するようになり、酒の勢いをつうじて、屑屋と兄貴分の立場が、その後、ころっと入れ替わってしまう。今度は、兄貴分が、長屋の女所帯に使いに出されて、剃刀を借りてくる。死に支度をさせた上で、死骸を漬け物樽に入れて、二人で担いで、芝を出て落合の寺へ。しかし、その途中で、樽の底が抜けて、死骸をどこかに落としてきてしまったようなのである。彼らは、道を引き帰して、らくだの死骸を探そうとする。酔っ払っているせいか、橋の下で酒に酔っ払って眠っている願仁坊主を間違って拾って来て、それを、そのまま火のなかへと放り込んだのである。熱さで目を覚ました願仁坊主。二人が、死人なのに口を聞くなと言って殴りかかると、願仁坊主の頭に瘤ができる。それを見て、あ、らくだだ。

『立川談志 ひとり会 落語ライブ92~93 「らくだ」「幽女買い」』竹書房

 


ジャック・リゾー『ヤノマミ』

2010年11月25日 15時53分02秒 | エスノグラフィー

ジャック・リゾー『ヤノマミ』守矢信明訳、パピルス

午後の終わりにキャンプに戻ったとき、小屋のそばで、まだ生きてはいるが地面に横たわったまま動けないでいる猿を見つけた。おそらく病気で力を失い、枝から枝へ跳びつづけることができなくなって、そこに倒れたものだろう。若い連中が猿を拾い、年長の者に見せた。彼らは猿を調べた。どこにも怪我の跡が見られない。こいつはオンリヒヤンで、よくないことの前触れだと言った。不用意にもこういう動物の肉を食べたために命を落としたヤノマミは何人もいる。オンヒリヤンの獣というのは、実はおっちょこちょいな連中をそそのかそうとして、敵が用いる計略なのだ。遠征中の戦士がオンリヒヤンの動物に出会うなら、そこに危険がある。これはもっとも不吉な前触れだ。ただちに引き返さなければならない・・・

今でも覚えているが、かつて彼はほかの子たちと一緒に手で地面に穴を掘り、土の周りを水や唾で濡らし、その中にペニスを突っ込んだものだ。穴は膣で、女とのセックスのつもりだった。もちろん、これでは硬すぎて何の快楽も得られなかった。やや年上の一人はひさごをつくるときのキューリ科のペポカボチャを使って性交の真似ごとをし、うまいことオルガスムに達した・・・

全編を通して、こんな調子。著者・ジャック・リゾーは、物語風にヤノマミの日常を描き出している。背景の説明や考察は、極力押さえられ、人びとの暮らしがたんたんとつづられる。性、呪術、精霊世界、狩り、動物など、トピックは多岐にわたる。その先に、ヤノマミが感じるような世界が立ち現われる。「訳者のあとがき」によれば、リゾーは、「いまだ完全に伝統を保持しているアメリンディアン社会の具体的、社会的、宗教的生活を、述べるよりもむしろ示唆し、社会学的解釈を最小限に押しとどめながら詳細に記述すること。インディオだけについて語ること。明瞭に表現された民族誌的情報を豊富におりこみ、できるだけ生き生きと、多面体の絵を描くこと」と述べているという。

これは、マルケスによるラテン・アメリカの魔術的な世界描写に匹敵する、アメリンディアンの
宇宙の鮮烈な像の民族誌的再現だ。ヤノマミに向かわなかったら、わたしは、この本を読んでいなかっただろう。目指すべき民族誌の手本は、これではないか。

2日後の土曜日の桜美林のヤノマミ講演会に向けて、専攻の学生たちは、最後の準備に力を注いでいるようだ。
昨日は夜まで打ち合わせをやっていたし、今日は、授業の合間に、教室の下見や買い物に飛び回っている、
ガンバレ!

事前申し込みが必要だが、まだ席に若干の余裕があるとのこと、この機を逃すな!
http://www.obirin.ac.jp/headline/1061.html
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/959facca1d6f87a27f45634131ca95e8


人獣×京都

2010年11月24日 10時02分43秒 | 人間と動物

まず、ホモ・サピエンス・サピエンスで人類学者の【PNG国立さん】の発表。現代日本の都市部では、野良犬や野良猫が見あたらない。そのわりには、カラスやイタチなどが出没する。他方で、犬には綺麗な衣装を着せ、靴を履かせて、雨が降れば雨合羽を着せる。そこでは、いったん動物を排除した後に、目に見える限りで、人間以外の動物が存在しない空間としており、動物たちは飼いならされたかたちで配置されているのではないかと述べた。それに対して、ニューギニアのある村では、統制されない動物との遭遇や侵入がありうる、つまり、人びとの生活空間は、動物たちの生活空間と重なり合っているのだという。そのありさまを、<定言命題化>しないで提示することの重要性を指摘した。そのとおりかもしれない、と感じた。つづいて、霊長類で医療人類学者でもある【ウラジミール豊中さん】。生物多様性をめぐる自らの調査研究を紹介した後に、過熱気味のエコライフの称揚が、一種の滑稽さへと突き抜けているさまを描き出しているように、わたしは感じた。ナボコフが描き出すように、まじめに取り組めば取り組むほど、ユーモラスなのだが、それが、なんらかの実害をもたらすことが問題かもしれないと思った。人類学には、地球環境をめぐる有意な調査研究は、かなり難しいだろう。次に、植物代表の【チャールズ木枝さん】。樹木の枝が、光を受けて展葉し、枝が少ない場所では成長が促進され、枝が密集している場所では成長よりも繁殖が促進されるという、自ら(木の枝!)の自律性について述べた上で、それが、樹木の全体の統合とどう関わっているのかについて論じた。わたしは、植物にも、植物のウンベルト(環世界)があるのだと思った。最後に、両生類の【サラマンダー井伏さん】は、サンショウウオの幼虫の共食い行動を取り上げた。カニバリズム(共食い)が、個体にとって同組織である個体を食べて、効率よく栄養を摂取する方法である一方で、そのことによって、感染症を引き受けてしまう可能性に触れた上で、共食いによる感染の広がりで、生き物の個体数が激減した事例を明らかにした。イギリスの学術誌では、サンショウウオへの脊椎を取り除く実験を記述する際、丁寧に取り除いたというような表現にしなければ査読を通らないという。アニマルライツの匂いのプンプンするイギリスの学的状況についての話もあった。生き物の場合、同等の体格よりも劣った体格を食べるほうがリスクが少ない。人は、道具を用いて自分よりも強い相手を捕食する(できる)にもかかわらず、なぜ共食いをタブー化してきたのか。改めてカニバリズムに興味が湧いた。それぞれにたいへん刺激的な研究発表だった。その後、みなで言いたいことを言い合った。参加者の人間、植物、動物、(精霊)の皆様、長丁場の研究会ごくろうさまでした。なんじゃ、これがまとめ??いや研究会とは、直接的には関係ないかもしれない、たんなるわたしの雑感にすぎないかも。混融する現実と非現実、まじめな不真面目。どうかお許しを。


わが故郷

2010年11月23日 22時09分18秒 | フィールドワーク

京都から山を二つ越えると、そこはわがふるさとの町。後ろに山、前には湖水。レンガ造りの市の旧公会堂の建物(写真)。小学生の頃、その建物の地下の教室で、土曜の昼から絵画を習っていた。記憶のかなたから、ふと油絵の具の匂いがしてきた。キャンバスが無造作に置かれた光景が、突然蘇ったような気がした。毎週土曜日は、絵を習った後で、習字教室にも通っていた。習字はけっこう巧くなった。日曜日は、近くのキリスト教会の礼拝に行き、昼からカブスカウト(ボーイスカウト)の活動に参加した。これは、とびっきり楽しかった。ピアノも習っていた。う~ん、それはいまひとつ上達しなかった。それは、何曜日だったかな。憶えていない。逆立ちが不得意で、体操も習いに行ったこともあったな。習い事に明け暮れていた。母は、子に何かを身につけさせようとしたのにちがいない。その気持ち、いまになって、よく分かる気がする。いろんなことに手を出して、これといった深みを与えられないのは、ことによると、その頃に培われたのかもしれないとも思ったリする。出身の小学校の脇を通った。もうどれくらいになるだろうか。30年ぶりくらいの気がする。たたずまいは、以前のままだった。セキュリティ強化のためか、入口に柵が設けられていて、自由に出入りできなかったが。小学校の5年生のとき、学校の帰りの夕暮れに、同級生二人の男に待ち伏せをされて、殴られたのを思い出した。おまえは調子に乗りすぎだ、というようなことを、そのうちの一人に言われたように憶えている。ぼ~としていたら、いろんなことを思い出してきた。小学校1年生のとき、本がすらすら読めるのが恥ずかしくて、わざと読めないふりをしたことを。そのときは、なぜそう思ったのか、思い出せない。そういえば、ぺちゃくちゃとお喋りをしていたら、お喋りをするなと言われて、先生は喋っているじゃないかと減らず口を叩いて、廊下に立たされたこともあった。なんであんなに教室の外に立たされたんだろう?1年生のときだ。隣の幼稚園。小学校に上がる前には、そこに通っていた。園児だったある日、増水した小学校の側溝にはまってしまって、びしょ濡れになったのを覚えている。その後、母の実家に一人で住んでいる叔父(母の弟)を訪ねた。父と母は、近隣同士で結婚した。伯父は、わたしが幼かった頃の話をしてくれた。伯父さんの父、つまりわたしの祖父は、家に風呂があるにもかかわらず、夕方、銭湯まで歩き、その前にある酒屋で一杯引っ掛けて、孫であるわたしたちを見に来るのを楽しみにしていたという話を聞かせてくれた。そんなことは初耳だ。もうどこにもいない人びとの話。わたしは、仏壇に手を合わせて、伯父の家を離れた。そこは、旧城下町で、かつては、殿町と呼ばれていた。わたしの生家は、その近くの小姓町だった。小姓がいたのだろう。大工町には、城の御用をする大工がいたのだろうか。その後、父親の墓所を訪ねた。そこには、いまではいなくなった父方の人たち、祖父母や伯父伯母のお骨が納められている。しばし、そこで時を過ごした後で、周辺を散策してみた。勤労感謝の祝日。市の中心街。店にはシャッターが降り、行き交う人がまばらだった。その商店街の古本屋に本を買いに行く夢をよく見る。しかし、夢のなかにある古本屋など実在しない。わたしが、生まれてから高校時代まで住んでいた町。場所の記憶だけでなく、匂いやしゃべり言葉の抑揚や雰囲気が、わたしの心の奥深くに住みついている。ふと、そこから離れて、ずいぶんと遠くまで来てしまったような気がした。突然、<自失>という語が浮かんだ。世の中の動きに合わせながら、おれはいったい何をしているのだろう?と。わがふるさとは、いまとなっては、わたしにとって、もうこの世にはいなくなってしまった人たちと出会うための場でもあることに気がづいた。


京都で人と動物について考える、その断章、覚書

2010年11月22日 08時17分38秒 | 人間と動物

・社会は、精神をもつ人間によってのみ構成されるものであると、ふつう、わたしたちは考える。よりよき社会の実現というのは、人間社会が、いまよりもよくなることを指す。社会とは、人間のものである。であるからこそ、アリの社会、ネズミの社会という言いまわしを聞いたとき、アリにも社会があるんだ、ネズミにも社会があるんだと驚くことになる。しかし、そのように、人間だけが社会を構成するという考え方は、じつは、けっこう新しい問題設定なのかもしれない。人類史の観点に立つならば、ヨーロッパでは17世紀くらいまで、人間だけが一つのユニットではなくて、人は植物も動物も含めて、一つの緩やかなユニットのようなものをつくっていると感じてきたのではないだろうか。しかし、そうした考えは、わたしたちの思考からは、きわめて遠くに感じられるのかもしれない。

・先住民は、動物が魂をもつと考えているという言い方をするけれども、それは、日本語でいうところの、非物質的な抽象概念としての魂のことなのであろうか。場合によっては、それは、意思や意識というものに等しいものなのかもしれない。日々動物と向き合う狩猟民は、殺戮の場面で、動物が痛みを感じていると感じてきたということは、十分考えられる。動物たちは、見た目では、人のように歩いたり逃げたりする。それは、わたしたち人間の魂のようなものをもっていると感じられるし、意思や意識のようなものを持っているのだと感じられる。たとえば、プナン語のブルウン。それは、魂とも精神とも訳されてきたのだが、プナンの実感に沿って、語の意味内容をまずは整理しなければならない。

・天候の激変とはいったい何か。それは、わたしたちの日常では、ふつう、気流や気圧の変化として説明される。しかし、プナンでは、それはちがう。雷雨や大水などの天候激変は、プナンでは、人のあやまったふるまいが引き起こしたものだとして説明される。人間の行為が気象現象の引き金としてもっぱら使われるというのは、人間中心主義的な自然観の現れだといえるのではないだろうか。しかしである。人間中心主義とはいったい何なのであろうか。わたし(わたしたち)は、当初、それを研究の仮想敵として設定した。人間と動物の関わりについて述べれば、わたし(わたしたち)は、西洋=人間中心主義よりも、非西洋の諸社会における人間と動物の関わりのほうがいくぶんましであるという言い方をしたときに、そういうロマン化は問題であるという指摘を受けたことがある。まず考えなければならないのは、人間中心主義の打破ではなくて、人間中心主義とは何かということのほうなのかもしれない。

・非西洋社会における人間と動物の関係をめぐっては、人間と動物との内面性(魂、精神)の連続性が強調される傾向にある。それは、動物の権利を主張するアニマルライツ派の主張などとも重なる。しかし、動物変身譚などを含むメタモルフォーシスについては、身体の連続性を示していると見ることができるのかもしれない。わたしたち人間は、内面性においてだけでなくて、身体性においても、人間でもあり、動物でもあるのだ。これは、わたしたち人間の出自が動物であるという事実とも重なる。つまり、人間は動物なのであり、その意味で、身体性において、動物と人間の連続性を、わたしたちはついうっかりと忘れてしまっている。そういうふうに考えて仮説的に言うならば、プナンにおける動物に対するタブーの存在(動物をあざ笑ってはいけない、さいなんではならない)は、身体性のレベルにおける連続性(動物も人間も身体的に同等の存在であること)を、身体性における非連続性(断絶)へと組み替えるものであると読み解くことができるのかもしれない。


京にて

2010年11月19日 23時45分34秒 | フィールドワーク

午前中の授業を終えて京都に来た。夕暮れ時についた。四条河原町で、ふらっと、まずはニシン蕎麦を食べた。花見小路から八坂さんへぶらぶらと歩いてみた。京の町って、落ち着くちゅうか、癒される感じがする。そんなこと感じるのは、生れてはじめてのことや。もともとこの近県で生まれ育ったし、生まれた家は、京町家風のウナギの寝床やったちゅうこともあるんかもしれん。神社仏閣がそこらへんにあるっちゅうのは、なんか心が落ち着くもんやな。


性とこころ~女と男のゆくえ~

2010年11月11日 11時50分00秒 | 性の人類学
 『現代のエスプリ 521』の献本をいただいた。

 特集は、「性とこころ」。

 「この巻のために」として、「性は心の問題であり、人格の問題であり、性とこころとは深く結びついている。現代社会には愛と性の革命が起き、性愛はエデンの園となった。近年「性とこころ」は多様化し、結婚し(でき)ない男女、シングル化、非婚化、晩婚化、婚活、不倫、性依存症が増え、草食系男子と肉食系女子が現れた。この特集では性とこころの歴史と文化と社会を幅広く考えたい。」とあった。

総論の最後には、「近年、我が国における『性とこころ』の多様化には目を見張るものがある。そこで、「性とこころ」に関する実践知を交換し議論し合うことにより、我が国の「性とこころ」に関する諸問題への対策や発展を目指す学術団体として、日本『性とこころ』関連問題学会を平成二十一年五月九日、ホテルメトロポリタン(東京・池袋)で創立した」とあった。
http://www.jssm.or.jp/index.html

 問題の射程については特集を眺めることで初めて知ったのだが、「性と文化」というパートで、「ヒトのセックスの多様なあり方」という駄文を書かせてもらった(pp.158-170.)。『セックスの人類学』のまえがきにあたる「セックスの人類学の手ほどき」の焼き直し+プナンのペニス・ピンの話題であり、文化人類学の観点からの、セックスをめぐる観念と実践の多様な広がりについての紹介である(プナンのペニス・ピンの写真掲載は、編集部から丁寧なかたちでお断りを受けた!、まあ、当然でしょう)。これとほぼ同じ内容を、大学の授業で講義しているが、、今年から、こころの進化の観点から、愛についても少し取り上げ始めている。性愛というときの、性の片割れとしての愛について。感情・情緒の問題は、扱いがなかなか難しいが、面白い。

『いのちの食べかた』

2010年11月10日 11時11分28秒 | 人間と動物
これは、女が蛇に犯される民話を聞いて、そんな話が宇治拾遺物語にもあるねえと言っていた、何でも知っているI先生に教えてもらった。

ニコラウス・ゲイハルター監督作品 『いのちの食べかた』

http://www.youtube.com/watch?v=EmZk-Lwl2Uk


母が、涎を垂らしている牛を見て、牛乳を飲めなくなったため、その影響で、わたしは個人的に乳製品が苦手であるが、そんなことは措くとして、牛乳がどのように搾られて、わたしたちの食卓に届けられるのか、わたしには想像できない。搾乳人が乳を搾っているのかどうか、いまはどんなふうにやっているのか、考えてみたこともなかった。この映画を見ると、乳牛にチューブをつけて、機械的に搾乳しているということが分かった。解説書を読むと、「この牛舎ではロータリーパーラーを利用して効率的に搾乳している。これだと、牛が乗る床が回転するので、搾乳者が一箇所にいて作業することができる」とある。知らなかった。

知らないがゆえの大きな驚きは、牛の屠畜場面である。連れてこられた牛は、首から先だけをこちらに向けて突き出す。強い力で押さえつけられた状態で、屠畜人が現れる。頭部に衝撃を与えて、牛を失神させ(写真)、まだ心拍がある状態で吊り下げられる。その段階では、血液はまだ固まっていない。一気に腹が裂かれて、大量の血抜きが行われる。胃液などの内容物も、同時に鼻や口から排出されるシーンが、この映画のなかにも出てくる。

口蹄疫の感染騒動で話題になった種牛。この映画では、牛の種付けがどのように行われるのかの一端を見ることができる。種付けは、雄牛と雌牛の交配によってなされるのではない。優秀な種牛から精子を横取りして、雌牛に人工的に授精させられるのである。発情した雌牛に後背の位置から圧し掛かろうとするする雄牛の陰茎に人工膣をあてがって、精子が採取される様子が紹介される。

元気な豚たちは、どんどんとベルコンベヤのなかに送り込まれ、出てきたときには、体毛が焼き削がれて、片足を吊るしあげられた姿になっている。腹部の脂肪分はバキュームで吸い取られ、食べられない部位である足が切り落とされる。サケもまた、漁船からホースで加工工場に送り込まれ、仰向けにベルトコンベヤで運ばれて、機械で腹を裂かれるさまが映し出される。孵化したヒナ(ヒヨコ)が、ベルトコンベアで運ばれるさまは、ある意味で、壮観である。ピヨピヨとは鳴いているが、黄色い物体が流されていると言ってもいいかもしれない。

この映画を見て、わたしたちの日々の糧("Our daily bread"というのが、映画の原題)であるわたしたちの食料が、どのように生みだされるのかということに関して、わたし(わたしたち)は、ほとんど何も知らないということが分かった。とりわけ、牛肉、豚肉、鶏肉、魚肉についていえば、それが低価で安全な食べ物であることに、工場畜産の果たす役割が大きい。わたしたちの食生活は、今日、工場畜産なしにはありえない。そうした現況を踏まえた上で、わたしたちは、工場畜産のベースにある、人間以外の存在を死せるマテーリア(モノ)として見る西洋の自然観を、はたして、一方的に非難することができるのであろうか。

『犬と猫と人間と』

2010年11月09日 12時46分16秒 | 人間と動物
『犬と猫と人間と』
http://www.inunekoningen.com/


猫好きの年配の女性・稲葉さんから、動物を大切に思ってもらえるような映画を、自分が生きている間に作ってほしいと依頼されて製作された、飯田監督による標題の映画を見た。

まず、飯田監督は、日本が、ペット大国であってもペット天国ではないということを見出す。全国で、年間35万匹、一日あたり千匹が殺処分されるからである。飯田は、動物愛護センターに取材を申し込むが、うまく行かない。そんななか、千葉県動物愛護センターがようやく取材に応じてくれる。犬猫を預けに来る人たちを見て、飯田は、人間であることが嫌になったとつぶやく。彼は、次に、神奈川県動物愛護協会という民間団体を訪れる。生活苦で泣きながら犬を預けに来た女性や、施設の入り口に子猫が捨てられる現実が映し出されるとともに、野良猫の避妊手術の様子が紹介される。獣医は、大量の猫が殺処分されるという現実を踏まえて、猫への去勢・避妊手術がいいことなのかどうか分からないが、命が粗末にされることがないように、たんたんと施術を行っている。次に、神戸市動物管理センターが紹介される。そこでは、民間ボランティアと行政が協力して、殺処分数を減らすための努力を行っている。神奈川県動物愛護協会では、新しい飼い主を探すために、犬に対する体罰式のしつけが行われる様子が紹介される。飯田は、次に、多摩川で、捨て猫の世話をし、写真に撮り続けている小西さん夫婦に接近する。「人間が地球上で最も残酷で、最も嘘つきで、見栄っ張り」だという、小西さんの言葉。その後、山梨の、かつての「犬捨て山」が取り上げられる。小林さんは、電気がない小屋で、住み込みで犬の世話を続けている。オーストリア生まれのボランティア、マルコ・ブルーノは、「犬捨て山」の現状は、現代日本の問題だという。次に、徳島県動物愛護管理センター。そこでは、近隣住民が処分施設の建設に反対し、行政は、移動する車でのなかでの殺処分という新たな方法を開発したのだった。「崖っぷち犬」は、崖で身動きできなくて、救出された犬であるが、その犬の引取りの希望が全国から殺到した。「崖っぷち犬」の人気の裏で、センターでは、毎日毎日犬猫が殺処分されてゆく。捨て犬を、友達で小遣いを出し合って育てる子どもたち。イギリスに飛んだ飯田監督は、ペットショップで犬猫が売られていない現実、野良猫がいない現実に驚く。イギリスでは、飼い犬猫は、一般には、ブリーダーか、保護施設からもらってくるという。さすが、アニマルライトのお膝元の国。アニマルエイドのスタッフは、人間が動物を所有、利用する現実を変えていかなければならないと訴える。

イギリスの動物愛護に関心を持った。
アニマルエイドとドッグトラストのHP。
http://www.animalaid.org.uk/
http://www.dogstrust.org.uk/

次に、飯田監督は、獣医師・前川さんを訪ねる。動物を愛する精神は、平和の時代の象徴だという。この映画は、生きている間に映画を作ってほしいと望んだ稲葉さんの願いには応えることができなかったが、最後に、飯田は、「人間も好きだけど、人間より動物のほうがまし」と語った稲葉さんの気持ちが今ではよく分かると締めくくっている。

現代日本における犬猫、とりわけペットとしての犬猫をめぐる現実が、たんに一方的な観点からではなく、映し出されていると感じた。

以下、最近、人間と動物をめぐる議論を続けている相手、Iさんからのメールの抜粋。

> こんなんあるわ。ペットやカラスの餌やりボケ老人とそれをめぐる弁護人などの活動です。
> http://petlaw.web.fc2.com/1113.htm

状況はもっともっと複雑なのかもしれないと思う。