たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

小山田の馬頭観音

2009年05月31日 21時41分49秒 | 人間と動物

自然と人間が互いを生かしつつ共存するという日本の農耕社会における実践的な自然哲学に貫かれた中間領域としての日本の里山。わたしが勤務する大学がある町田や相模原には、開発の手を免れたかたちで、そうした里山が、あちこちに残されている。その一つである小山田緑地公園周辺を、数週間前に、ぶらっと散策したが、そのことは別のときに述べるとして、小山田緑地公園内にあった「馬頭観音」について書き留めておきたい(写真)。その石碑には、それが、昭和3年に建立されたことが記されていた。横浜線が開通したのが明治41年のことであり、昭和の初めのころまでは、まだまだ、馬が、そのあたりで、運搬・交通に供されていたのであろうと思われる。その石碑には、建立の由来が書かれていなかった。どういう理由で、施主・若林詮之助さんが、その観音を建てたのかは、分からない。調べてみると、ひょっとしたら、何か分かるかもしれないが。言えることは、その馬頭観音が、この地域で、ヒトと馬の関係が深かった時代の跡を示しているということである。馬頭観音は、末崎真澄(西本豊弘編『人と動物の日本史(1)動物の考古学』吉川弘文館、2008年)によれば、以下の3つに分類される。①平安時代中期以降盛んになった六観音信仰のなかで、畜生道を救済する観音として成立したもの。②馬をはじめとして畜類の守護神として、室町時代以降に、造立されたもの。③②の延長線上に、江戸後期から昭和の前半までに、馬の安全や馬の冥福を祈るものとして、路傍に建てられたもの。写真の馬頭観音像は、③にあたるものと思われる。その像が建てられている場所は、はっきりとしないが、旧街道の分かれ道だったのではないかと予想される。ところで、町田の小山田という地名は、鎌倉時代以降に、小山田氏の荘であったことから来ているらしい。その後、小山田氏は、甲斐の武田と婚姻関係をつうじて、甲斐に移り住むようになり、武田勝頼の代に滅ぼされたとされる。以上、短い覚書として。


腰痛小考

2009年05月30日 22時46分18秒 | 医療人類学

今週の木曜日授業がなかったが、いつものようにずっとオフィスでデスクワークをしていた。昼すぐに、椅子から立ち上がろうとしたときに、腰に違和感があった。午後からも椅子に腰掛けていたが、夜にオフィスを出るときには、腰痛がやや激しくなっていた。翌日には、さらに、痛みはひどくなっていた。夜には、週末の用事の幾つかをキャンセルせざるをえないまでになっていた。今朝、家の近くの整形外科でレントゲンを撮って見てもらったら、椎間のクッションが劣化しているところに負荷がかかり、腰痛になったのではないかとのことであった。これからも腰痛は起きますよ、と驚かされてショックを受けて、とりあえずのところの治療をしましょうとよと促され、電気治療などを受けて、帰ってきた。コルセットも付けている。腰痛で診療所に行ったのは初めてであるが、近年、一年に1回くらいの割で、腰痛になっている。なぜ医者に行かないかとと考えていると、毎年、プナンのフィールドワークに行っている間に腰痛になるということに思いあたった。狩猟キャンプに行くまでの長い道のりを重い荷物を担いで歩いたりすると、決まって、腰が痛くなるのだ。日ごろから運動をしていないせいだくらいに思っていたが、はたしてそうなのだろうかと、レントゲン写真を見ているときに思った。そうしたことをつれづれに考えていて思い出したのは、プナン人は、腰痛にならないということである。彼らは、わたしの腰痛を、背中痛(sakit lekot)と表現した。狩猟民プナンは、わたしたちが使っている腰痛という言葉を持っていない。プナンには、腰痛がない。わたしの経験としては、腰痛に苦しんでいるプナン人にお目にかかったことはない。さきほど、ふと思い出して、昨年NHKスペシャルでやっていた『病の起源』の腰痛のビデオの撮り置きを、探し出して、見てみた。ヒトが二足歩行するようになって、腰を自由に動かせるようになって、長距離移動などが可能になった。その二足歩行という進化のなかに、腰痛の起源があるという従来の通説に挑戦するのが、どうやら、その番組の狙いのようである。本も出ている(NHK「病の起源」取材班『病の起源①』、NHK出版)。その番組のなかで、タンザニアの狩猟採集民ハザの人びとが、腰痛知らずであるという状況が紹介されていた。彼らは、狩猟のために、一日当たり28キロも歩くという。腰痛とは、彼らにとっては、木から落ちたときになるようなものであり、それは、わたしたち現代人が抱える腰痛とは、種類のちがうものである。農耕以前の狩猟採集形態に、基本的に、腰痛がないのだとすれば、腰痛は、二足歩行の宿命であるという説は説得力を失うことになる。他方で、農耕の作業は、ヒトの腰に過重な負荷を加えることになった。番組は、さらには、現代社会における腰痛の心因的な側面に迫っていた。職場環境、家庭環境などなどのストレスフルな状況が、腰痛をつくり出しているということが分かり、現在、心療および医療の両面から研究が進められている。じつは、腰痛という現象については、まだほとんど何も分かっていない・・・。それが、番組の主な流れであった。わたし自身は、自らが直面するストレスフルな状況に照らして、その最後の腰痛の心的な要因の説明に、妙に、納得させられた。

(写真は、狩猟キャンプのプナンの子どもたち)


狩猟民の逆説を超えて

2009年05月29日 17時34分40秒 | 人間と動物

樹上に止まった鳥に気づいて、それを射撃した。プナンは、それを、プラグイ(peragui)と呼んでいた。ウォーレスクマタカ Spizaetus nanus ではないかと思う(写真)。銃ではなく、吹き矢で鳥をしとめる場合には、それは、すぐに死ぬことはない。鳥は吹き矢にあたって、しばらく飛んでいき、毒が十分に回った時点でとつじょ絶命し、地上に落ちてくる。地上に落ちた鳥を、ハンターが捕まえる。そのようにして、吹き矢を用いた狩猟の場合には、鳥の追跡努力を経て、鳥を捕獲することになる。しかし、これは、かなり厄介な、大変な仕事である。鳥は、ハンターのために、地上の地形や障害物を考慮して飛んでくれないからである。ハンターは、鳥の飛行を見失わないように、川を越え、山を越えて、有刺植物を乗り越えて、鳥を追跡しなければならない。それに対して、銃は、一発で、鳥を撃ち殺すことができる。銃は、殺傷能力の点で、特段にすぐれている。プナンにとっても、そのことは、けっして、見逃すことができない銃の利点である。現在、プナン社会の狩猟の主流は、吹き矢や犬猟などから、銃による狩猟に移行しつつある。かし、1個あたり10リギット(300円)もする高価な銃弾は、プナンのハンターたちにとって、容易に入手できる品物ではない。その上、狩猟の主流が、銃による猟に移行する過程で、若者たちは、狩猟そのものに興味を示さなくなってきている。プナンの若者たちは、木材伐採の仕事や油ヤシの植樹などの日雇い賃労働のクーリーの仕事に精を出すことが多くなってきている。手軽に、現金が得られるからである。そのような状況において、狩猟は、いま、狩猟民ではなく、周辺の焼畑稲作民、つまり、銃弾を手に入れることができる人たちの手に渡りつつある。そのことは、今後、一方で、銃弾を買うことができる、ごく少数のプナンおよび周辺の焼畑稲作民たちが、狩猟の主な担い手となり、他方で、元狩猟民プナンは、今後、動物肉の買い手に転じる可能性があることを示している。そういった現代に生きる狩猟民プナンの狩猟肉をめぐる逆説的状況は、ある意味で、興味深い。しかし、と思う。変容や変化を論じることは、浅いのではないかとそうした状況は、時代や社会の流れのなかで、ふたたび変容し、変化する可能性があるから。狩猟といういとなみのなかで、変わるものに対して、変わらないものとはいったい何か。それが、人類学の力強い問いなのではないかと思う。


ボルネオヤマアラシ

2009年05月28日 16時24分00秒 | 人間と動物
午前1時、プランテーションのイノシシ猟から戻ったハンターにたたき起こされた。ボルネオヤマアラシ(プナン語では、larak:学名は、Thecurus crassispinis)が捕れたと(写真)。すぐさま解体され、料理された。けっこう大きなヤマアラシである。「大きいな」というと、「妊娠していたんだ(baat)」と、彼は答えた。その割には、血の量が少ない。たずねると、猟場からキャンプに持ち帰る途中で、血は滴り落ちたのだという。プナン・ザ・ハンターは、おおもとのところでは、動物を、驚きをもってながめている。彼らによれば、ヤマアラシは、人が吹き矢を吹くように、背中で、後ろ向けになって、鋭い針毛を吹くという。ジャングルのなかで、針毛がたくさん落ちていることがある。プナン人たちは、そこで起きたであろう動物たちの間の、あるいは、人間とヤマアラシとの間の戦いを想像しているようだ。敵に出会ったときの、ヤマアラシの「吹き矢」の威力は、ものすごいという。猟犬のなかには、それにあたって死ぬものもあるという。わたしには、プナン人たちの狩猟の出発点には、そうした動物の習性や特徴に対する驚きとでもいう感性があるように思える。ボルネオヤマアラシの肉は美味である。油があれば、彼らは、ふつう、その肉を、揚げ物にして食べる。

アニミズムのたくらみ

2009年05月27日 10時16分47秒 | エスノグラフィー

今学期の担当授業のひとつ「アジアの社会」では、プナン、オラン・アスリ、カリス、イバン、トラジャ、バリという東南アジア島嶼部の6つの辺境社会を取り上げている。昨日、オラン・アスリの夢の文化について話したが、口から出まかせ的に話したことが、話しているうちに、アニミズムについて再検討する上で、意味を持っているように思えてきたので(授業のなかでそういうことは、たまにあるのだけれども・・・)、以下に、手短に、書き留めておきたい。

「朝のクリニック」で、夢の内容をお互いに披露し合い、「夢のコントロール」を行っていると報告されたセノイにしても、わたしが調査した狩猟民プナンや焼畑稲作民カリスにしても、「眠る」という行為をとおして、夢の世界、すなわち、わたしたちの用語では、「無意識」の領域につながれている。そうした社会では、「無意識」の領域は、抑圧されることなく、精霊が棲む世界として捉えられている。シャーマンは、「眠る」のではなく、トランスによって、ある通路から、精霊の世界、死の世界、目に見えない世界に入ってゆく。要は、彼らは、夢の世界であるとか霊の世界というものを一緒くたにして、日常の平面のすぐそばに、そっと置いているのである。

ひるがえって、わたしたちは、そういった日常の平面のすぐそばにある世界を、存在論的に、抑圧している。見えないもの、分けのわからないもの、無秩序なものとして。その意味で、わたしたちの世界とは、逆に、現実の知覚によるだけの秩序から立ち上がる一平面的な世界から構成されていることになる。もう一つの平面への
想像力の抑圧(あるいは欠如)こそが、近代的な空間の正体ではなかったか。

最近議論したある哲学者は、人類学は、未開社会のことをいっしょうけんめいに記録しようとしているようでいて、じつは、われわれの社会について語っていることが面白いと言っていたが、それにならえば、未開社会のアニミズムを語ることは、わたしたちの世界の成り立ちについて考えることにもなるのではないだろうか。

(写真は、ブランコに乗って、霊界と交信するボルネオ島・カリス社会のシャーマンたち)


サラワクの洞窟木炭壁画

2009年05月26日 15時25分57秒 | フィールドワーク

シレー洞窟(Gua Sireh)は、サラワクの州都クチンから車で1時間ほど行ったところにあるバウ・ディストリクトにある。ビダユ人の農村の背後にある岩山の地上20~30メートルのあたりに、その洞窟はあった。約20,000年前にヒトが住んでいたという(サラワクのニア洞窟には、約40,000年前にヒトが住んでいたという報告がある)。サラワク博物館が整備した階段を登ってシレー洞窟に入ると、最初に、ひときわ印象的な木炭壁画に出くわした(写真)。ローカル・ガイドは、それは<蜘蛛>だと述べた。洞窟の入り口に、大きな<蜘蛛>を描くことで、洞窟の住人たちは、これから洞窟に入る人たちに注意を喚起したのではないかと言った。さきほど、Sarawak Meseum Journal を見てたら、その<蜘蛛>のような壁画は、「外套か獣の皮を身に着けた、大きな人物である」との表記があった。その洞窟には、25番目まで番号がふられた、おびただしい数の木炭壁画群があった。Sarawak Meseum Journal には、それらは、100年以上前に描かれたものであるとしてあった。ガイドは、曾祖父の時代に、かつて、この洞窟に逃げ隠れていた人たちがいて、その人たちが描いたのではないかと語った。19世紀の後半に、イギリスのブルックの統治下で、首狩りが横行した時代のことを言っているのかもしれない。


身近な考古学

2009年05月25日 18時16分57秒 | フィールドワーク

2週間も前のことになるが、3年ゼミで、相模原市の田名向原遺跡に見学に行った。http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/9f43676ce35b71f196bec87c062d838a

相模原市で、考古学遺跡がたくさん発掘され、整備が進んでいるということは風の便りで聞いていた。じっさいに訪れてみると、先史の時代に、そこに、わたしたちの古い祖先が、生き暮らしていたことへの想像力が、一気に膨らむ。遺跡には、学術水準が高いが分かりやすく解説されたリーフレットが置かれていたし、隣接して、旧石器時代学習館が設置されていた。

現在、約20,000年前の旧石器時代の住居上遺構が復元されている。発掘のさい、狩猟に使っていたとされる槍の先に使われたとされる尖頭器が、たくさん出土したという。材料は、黒曜石がもっとも多かったとのことであるが、じつは、相模原は黒曜石の産地ではない。それは、長野県の蓼科、静岡県の天城などからもたらされたものであるという。後期旧石器時代に、このあたりの広域で、なんらかのかたちで交易が行われ、モノが流れていたというのは、驚きである。

約5,000年前の縄文時代中期に使われていた小型の竪穴式住居も復元されていた(写真)。われわれは、9人で、その掘り窪められた内部に入り、全員がしゃがむことができた。なかは、ひんやりとしていた。その竪穴式住居からは、八ヶ岳山麓から関東に広がった「曾利式土器」、打製石斧、敲き石、摩石などが出土したとされる。さらに、田名向原遺跡には、約1,400年前の小型の古墳が復元されていた。直刀、太刀、鏃、銀メッキされた耳輪、切子玉、棗玉、ガラス小玉などの小玉類など、武具とアクセサリーが、そのもともとの古墳から出土したという。

われわれは、学習館で、刃物にもなる黒曜石の破片をお土産にもらって帰路に着いた。


牧畜民と飼育動物から考える

2009年05月24日 13時06分34秒 | 人間と動物

すでに一週間前のことであるが、東北大学東北アジア研究センターで開催された "social significance of animals in nomadic pastral societies of the Arctic, Asia and Africa"という題の、日本人とフィンランド人研究者たち(人類学者中心)によるセミナーに参加した。

http://www.cneas.tohoku.ac.jp/

それは、牧畜民を中心に、動物の社会的な意義を問うというスリリングなテーマが、高い
準で議論されるという、秀逸な研究集会であった。

狩猟採集から牧畜という生業形態の移行は、わたしが調査しているボルネオ島のプナンであ
れば、狩猟とそれ以外の生業それ自体が抱える世界の組み立て方の違いによって、まったく考えられないような事態であるが、狩猟民と牧畜民が混在する地域においては、飼育動物が、地域のネットワークにおいて重要な社会的な機能を果たしていることをベースにして、可能であるということを知った。

ケニアの牧畜民S社会の神話では、考古学的な資料に反し
て、かつてはすべての動物が飼育動物であり、そこから、野生動物が派生したことが語られるという。S社会では、違う種の動物が人間の兄弟姉妹のような関係によって語られ、さらには、動物のメタファーを特異なかたちで発達させている。ox は若者、bullは老人のメタファーとして用いられる。興味深いのは、そうした認知のシステムが、動物と人間が切り離されているのではなく、メタファーによって、統合されたシステムを形成しているということである。

また、複数の発表者から、symbiotic domesticality という概念が提示され、それに基づいて、議論が立てられたことが印象的であった。それは、誰が誰を飼育するのか、誰が誰についていくのかというようなことは、遊牧にさいして、必ずしもはっきりしないのであるが、大きな遊牧集団では、飼育を、人間と動物の双方を含むかたちで行われる人間と動物の間の互酬的な共生関係によって成り立っていると見るものである(と思う)。なるほど、たしかに、牧畜民における人間ー動物関係は、その相互の親密性を形づくる要素に注目することを切り口として捉えることができるのかもしれない。さらにいえば、この概念を切り口として、狩猟民の人間ー動物関係、さらには、人間と動物の対称性/非対称性に議論を進めることができるのかもしれない。牧畜民社会における飼育も、じつにいろいろと面白いと感じた。わたしは、以前、狩猟民プナン社会の飼育概念について少しだけ書いたことがある。

http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/b28f0726d5ce80339902d3aef6c08da8

セミナーでは、そのほかに、シンボルとして登場する動物の政治的な面に焦点をあてた発表、トナカイ飼育の規模と社会変化についての発表などなど、とりわけ、人類学をベースとして、人間と動物の関係を考えるための多様な枠組みが提示された。

主催者のTさんには、敬意を表するとともに、感謝いたします。

(写真は、JR仙台駅、おそらく仙台に行ったのは20年ぶりくらいのことである)


自然と社会という二元論は役に立たないか?

2009年05月23日 08時53分59秒 | 自然と社会

第六回「自然と社会」研究会報告その2
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/3c88093f920ad441d252d7cb5a25e8a5
以下の内容の続き
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/2b6bddf63ecf6a4dd69219d1b7c80a7e

研究会では、「自然と社会」という西洋形而上学に通底する概念対立に挑戦する様々な試みが紹介される、デスコーラらの『自然と社会』の「序」の中核部分を読んだ。「自然と社会」という二項の間には境界はないという主張をすることになる霊長類学や先史学のような調査研究、民族誌によってもたらされる非西洋諸社会におけるその二元論の解体、さらには、現代科学において、そうした二元思考がぐじゅぐじゅに崩れていくような状況などが、次から次へと取り上げられる。さらには、野生と社会化された状態という、より普遍に近い概念対立が立てられて検討されるが、ふたたび、その新概念の不毛さが際立つだけであることが示される。だからといって、すべては、社会的構築物として、真理の外へと排除していいかといえば、それは極端へと走ってしまうことになるがゆえに、そうしたポストモダニストの言い分を横目で見ながら、「自然と社会」を出発点として、世界理解への入り口を探ってゆくべきである・・・というような、この本の重要な主張が語られた部分であると読んだ。言い回しを含めて、内容は難解というか、込み入っており、凝っている。とりわけ、ここの部分で書かれているエスノグラフィックな事実(以下の黄色にマークした箇所)に、わたしは、個人的には、スリルを感じる。

◎デスコーラとパルソンによる「序」『自然と社会』PP.5-11の自由訳

 「ヒト化」していく過程に巻き込まれてゆく長大な時間尺度をめぐって増えつづける証拠と同様に霊長類の動物行動学の最近の研究は、自然と文化の間のくっきりとした系統発生論的な境界のような概念を無効化する傾向にある。野生のチンパンジーの研究は、非―ヒトである霊長類が、ふつう、ホモファーベルの顕著な特徴であると一般に考えられていた石器を作成し、使うことを示しただけではなくて、また、それらは、チンパンジーの近隣集団が、著しく異なった様式の道具を精密なものとし、伝達することを示した。先史学者の用語を用いれば、チンパンジーは、そのようにして、物質文化に関して、別の「伝統」を持っている。また、ヒヒの中の社会的なふるまいの複雑さは、これまで、よく記録されてきた。

 ある個体が第三者の振る舞いに影響を及ぼすために別の個体からのある種の反応を引き起こすかもしれないという事実は、ヒヒが身体を単なる動きとしてではなく、ヒヒが基本的な状態において、ふるまいを理解して、分類ができることを示す。そのようなヒヒの到達は、彼らには、言葉の助けなしのメタ表象、すなわち、表象についての表象を形作る能力があることを示している。言語の発達は、おそらくは、ヒト化の過程、および進化の過程の中の一つ以上の何かではないということであり、
それは、メタ表象を形成する能力によって可能になるコミュニケーションの発達の原因ではなく、結果としてみることができる。確かなことは、文化が、時間をかけて発展したということである。 文化は、約300万年前に最初のヒトとともに現れたのだろうか、あるいは、100万年後の最初に記録された道具と共に現れたのだろうか?しかし、最初の現世的なヒトであるホモサピエンスサピエンスは、誕生後おそらく10万年も経ってない。埋葬の起源は15万年前に遡ることができるし、最初のかまどの使用は、450,000BCであった。文化の起源を、ヒト化の過程の単一の段階と遡ったり、帰着させる考え方は、このように全く非現実的に見える。

 自然と文化という二元論に関わる見方に関する移行は、スキル獲得と専門的知識に関する民族誌的研究においてもたらされた。学習についての伝統的な理論によれば、新参者である個人は、徐々に文化的記号あるいは超有機体的(精神的)台本を内面化することによって相応しい人格となる。言い換えれば、人格は、社会環境から、ますます増加する情報の量を吸収するような、疎外された容器として見なされる。しかしながら最近の研究が示しているのは、人格対環境や個人対社会といった根本的な対立が学習的過程の文脈的性質についての十分な理解を妨げるということである。個人についての構成モデルを想定し、学習過程の中にエージェンシーとダイアローグを導入しながらレイヴたちは、どのようにして学習が、実践コミュニティの中に位置づけられるのかを明らかにした。そのようなパースペクティブは、デカルト的伝統の根本的な崩壊を示唆する。研究の焦点は、もはや受動的で独立した個人でなくて、特定の文脈の中の全体的な人格である。人類学的フィールドワークは、現在これらの線に沿って鍛えなおされている学習の一つの枝である。フィールドワークの経験は、高度に「個人的な瞬間」を含んでいるが、それは、単一の営み、すなわち独り言のようなものではない、民族誌は、同僚や配偶者、友人、隣人を含む対話論理の産物-「長い対話」による集合的な結果である。

 近代主義の批判者たちは、以下のように議論する。過去の理論的な二元論に対する今日の不満は、今もなお、たんに、ポストモダニストの気まぐれであり、自然と社会の二元論の解体は、現実の世界の手堅い証拠と確実な観察よりも、アカデミックな労働市場および流行のレトリックにより関係していると。この種の批判は、ウォースターの今日はやっているカオス理論の言葉の中に含まれている。彼は、科学におけるカオス理論とポストモダンの思考の間には驚くべき並行関係があるという。しかし、民族誌言説は、それとは異なった主張を招く。この本の執筆者を含めて、多くの人類学者にとって、一元論への捉え方への移行は、自然と社会の二元論がまったく意味がない社会におけるフィールドワークによって生み出されたように思える。例えば、アマゾン川上流域のアシュアル・ヒバロは、デスコラによれば、ほとんどの植物と動物を、それ自身の社会に生き、社会構造の厳格なルールに基づいて、人間との関係に入り込むような人格として捉えている。獲物の動物は、男たちによって姻戚として扱われ、耕作される植物は、女性によって親戚として扱われる。同様の状況は、アマゾン川上流のマクナの人びとにも広がっている。彼らにとって、人間は、特定の生命の型を表しており、行動の単一的および包括的なルールによって規制される、より広い共同体に参加している。

 
こうしたコスモロジーは、アマゾニアの先住民だけに限られているわけではない。なぜならば、この本のほかの寄稿者たちも、顕著なかたちで同様の見取り図を示しているからである。例えば、ハウエルは、マレーの熱帯雨林のチュウォン人は、人を他の存在から区別しない。植物、動物と精霊は、まずは理性、知性と道徳コードという意識を与えられていると言われる。異なったクラスの存在の間の存在論的区別は、チュウォンにおいては、打ち立てるのが難しい。人と非ヒトは自在にその姿を変えることができると、うわさされる。そのようにして、彼らのほんとうのアイデンティティーは、一見すると突き止めるのが難しい。
同様に、ヴィディンは、マロボ礁湖の先住民たちは、有機体と非生命体は、人間社会から切り離された自然の領域を構成しているとはみなさないという。ヴィディンは、彼らの環境を描写するときに用いるカテゴリーは、二項対立よりも類比的なコードとして機能し、これらのカテゴリーは、人びとが、彼らのエコシステムと契約していると見ているようなやり方に左右されること示している。セラム島のヌアウルの例を引きながら、エレンは、注意深く、自然の概念を完全に壊してしまわないようにしている。彼は、ヌアウル人の社会で、観念的な空間のいくつかの次元が、私たちが西洋において自然と認めているものと等しいと解釈するできるという。しかしながら、これらの次元は、高度に文脈に依存している、変わりやすく偶発的であるということを、彼は強く主張する。他方で、多くの場合に、民族誌的なデータは、私たち自身の自然と社会の二元論に平行しているということを、彼は強調する。

 非西洋の現実を理解しようとするとき、不適切であるように思えるだけではなく、自然と社会の二分法は、このタイプの二元論が、現在、科学の実践を適切に説明しないという感覚がますます大きくなってきている。ラトゥールが主張するように、対立するものを含むような存在論的な領域として、自然と社会を物象化することは、現在の科学が実践において二元論的なパラダイムの基準にかなったことが一度もなかったという事実を覆い隠すことになるような認識論的な純化のプロセスの結果である。少なくとも、近代物理学の当初から、科学とは、物質的な効果と社会的な伝統が、ほどきがたく、絡まりあったハイブリットな人工物および現象を恒常的に生み出してきた。二元論のパラダイムが人工的に作られたことについて気づくことは、科学的なプロセスそれ自体のますます増大する人工性への警戒によって励起されてきた。ノースネーゲルは、対称性人類学を唱道しながら、ジェノバの実験室のCERN副業企業での民族誌調査で得られたデータを用いて、ハイテク科学は自然を再生産すると主張する。科学は、自然における現象を扱うのではなくて、高度に複雑な技術道具と数学的なモデルを媒介させながら、それ自体の事実および証拠を生み出している。

 素粒子物理学においてすでに明らかとなっていたのであるが、この論点は、バイオテクノロジーの発達が、「非自然的に」マスで生み出される新たな生命の様式の、環境的、哲学的そして倫理的な結果に関する関心の高まりを喚起するに従って、今や広く大衆にまで届けられた。リチャーズとルイヴェンカンプが議論しているように、
テクノロジーと社会科学は、対立する関係にあるものとして描かれることも多いが、社会的な過程としてテクノロジーの段階に意を払うならば、そのような二極化には同意しがたい。同様に、人間の再生産についての新たなテクノロジーや、動物の遺伝子操作、異種間移植に関する調査研究は、長きに渡って支配的だった人間と人間以外のものとの間の境界を曖昧にし、さらには、親族の絆や人格の形成と破壊などについての社会的な表象を改変する。このような技術はまた、考えるべき対象を、個人ではなく遺伝子情報や身体のパーツへと移すものであり、人間中心主義的な偏見を消し去ることになる。同様に、遺伝子組み替え作物や修正された有機体の微分子に関する研究は、遺伝子レベルで変換された有機体を解き放つことが、環境においてバイオハザードのリスクを増大させるのではないかという恐れへとつながっている。バイオテクノロジーは、生々しいかたちで、動植物の飼育・栽培を蝕むのだけれども、新たな遺伝子工学の技術によって開かれた可能性は、自然がたんにますます社会によって生産される人工物へと置き換わって行くだけでなく、市場の法則に従う人工物になるという事実を照らし出す。社会科学者はいま、体組織や体液、細胞や遺伝子物質など、人間の有機体についての財産を認めることに抗して、「不安なケース」を探求している。ある人にとっては、このような商業化は非人間的で唾棄すべきであり、人間性や尊厳に対する侵害である一方でそれは人道主義者の努力であり、身体のパーツの供給を増すことなのである。

 ラディカルなポストモダニストたちは、「事実」「証拠」ないし「経験的証明」はモダニストの構築物であり、啓蒙主義とヨーロッパの歴史の遺物であるとして、異議を唱える。確かに、突き詰めれば真実のようなものは何もない。パラダイムや認識の土台は、不可避的に社会的構築物なのであり、特定の時間と場所の産物である。そのようであるのだけれども、いくつかの構築物は、世界を理解するために他のものよりは、適切ではないし、それらが経験を反映するのに失敗したり、対立を示す場合には、修正されたり、破棄されたりしなければならない。

・見当違いの試み

 自然についての西洋の考えのいずれもが、多くの社会において欠落しているとの主張は、単に意味論の問題であり、「野生」などの代替概念のほうがより普遍的であり、自民族中心主義でないと論じる人たちもいる。多くの文化が明示的あるいは暗示的に野生の性質を彼らの環境のある部分へと帰着させているし、そのようにして、ヒトの直接的なコントロールを超えた特定の空間を同定しているというのは、確かなことである。エレンは、自然に関するすべての当事者が抱いているエミックな解釈の認識的な次元は、人間の直近の生活空間の外の範囲の空間的な定義であると示唆している。しかしながら彼はまた、野生状態と社会に適応化した状態の区別は、インドネシアのヌアウルにとっては、状況に極めて左右されるということを指摘している。場合によって、Wesie(一次林)は、人ではないとされ、場合によってそれは人とされる。場合によってそれは男性であり、場合によって女性で、場合によってそれは敵対的なものであり、場合によっては命を育むものである。ヴィディンも似たようなこと述べている。
ソロモン諸島のマロヴォ社会のいくつかの概念は、「野生―飼育・栽培」とぴったりと合っているにもかかわらず、二元論的な構造の中では作動することはない。

 
野生に関する明白な概念を持ち合わせている文化においてでさえ、野生と非野生の明確な区別が必ずしもあるわけではない。戦後の日本の山林を木材プランテーションへと変換することでもたらされた結果を分析する中で、ナイトは「野生」と「栽培化」との間に、曖昧なかたちの区別が混在することを示した。山村民にとって、古い森林は、自然秩序の具現化であると考えられた一方で、新しい森は、極端に無秩序な空間となったのである。そのようにして、技術的に、栽培された空間、すなわち、この見捨てられた産業林は、それが取って代った天然林の野生の属性を保持することになった。森林が道徳的価値を剥ぎ取られ、脱社会化されたことにより、これらの属性は、今となっては、全体的には否定的なものとなってしまった。ナイトが主張するように、このような移行(転換)が、いくつかのケースにおいて、「野生」環境は栽培化されたものよりも満足のいくように統制され、社会的・技術的・観念的であるという事実を反映している。同様に、ヘルは、現代の北西ヨーロッパでの狩猟に付随した価値のなかに表現される野生のカテゴリーにおける基本的な両義性を強調した。この地域では、自然と文化の対立は、一方ではジェンダーステイタスと男性の優位性を規定する原初的に肯定的な狩猟への強制、他方では獲物の「黒い血」に過度に接触することで、野生的になるハンターにつきまとう危険の間で揺れ動く両義的な態度によって調停されている。野生性は森の中にあるとともにその人自身の中にもあるので、肯定的なものとして価値を付与される狩猟は、この自然と社会の両義的な共存をコントロールする能力を含んでいる。これらのすべての場合において、野生性の考え方は、文脈に応じて変化する。それらには、二元性パラダイムにおいて用いられるような自然の存在論的な観念の代用品としての資格を与えることはできない。

 近代主義のプロジェクトおよび、自然科学と社会科学の間の今日的労働の分業への批判に対する反応は、自然と社会を超えた概念の見方を交換することであり、そのことは、自然と社会の領域の根源的な類似性を強調することになる。自然科学のいくつかが、社会科学から共同体と社会の概念を借用してきた。 同じように、人類学のいくつかの部門は、自然淘汰と遺伝子の適合性に関する生物学の概念を採用したのである。例えば、リチャーソンは、「人類生態学のある理論は、社会科学および生物科学の理論構築の間に存在する類似性から容易に発掘することができるし、このアプローチは非常に有望である」と示唆している。しかしながら、そのような概念上の交換は単なる二元論の落とし穴をたんに強調するものにすぎない。それぞれの陣営(=自然科学と社会科学)は、独自の形式の還元主義を実践し続ける。すなわち自然と社会の対の一部が他を植民化することになる。そのようにして、社会生物学は、ダーウィン的な淘汰の自然法則のもとに、文化を包摂することを強調するのである。

(写真は、プナンの狩猟キャンプ近くで獲れた魚)


研究会案内(2009年6月)

2009年05月22日 22時38分28秒 | 自然と社会

「自然と社会」研究会

第7回研究会

自然と社会のその先に、アニミズムなどの
人類学の古典的なテーマを読み替えて示す
大胆な試みを重ねて読み進むとともに、
デスコーラらによる「自然と社会」の序を読了する

 ◆日時

2009年6月14日(日)12:00~17:00

◆場所

桜美林大学四谷キャンパスY305教室
 JR四谷駅徒歩5分
電話:03-5367-1321
http://www.obirin.ac.jp/001/a028.html

・12:00~13:30
Philippe Descola and Gisli Palsson,
“Introduction”, Nature and Society
のP.11-19

・13:30~14:30
中沢新一著
「人間圏の仏教から生命圏の仏教へ」
『鳥の仏教』所収

・14:30~17:00
Philippe Descola
"Beyond Nature and Culture"

*参加される場合には、事前に、上記論文に十分に目を通しておいてください。
参加ご希望の方は、下記のメールアドレスまでご一報ください。
  katsumiokuno@hotmail.com
*発表者の都合で、研究会のテーマを変更する場合があります。
*通常の研究会とはちがって、1回きりで議論が終わるのではなく、
継続的に、議論を深めていくという形式でやっています。
*次回の研究会は、7月11日(土)~12日(日)は、都内で合宿を行う予定です。

関連サイト
http://nature-and-society.blogspot.com/

(写真:撮れたてのサル、日本の生活にふたたびどっぶりと浸かってしまった
現在では、こんなものがよく食べられたものだなあと思ったりしてしまう;
それほどまでにいま日本の暮らしのなかにいるのだなあと思う)


自然とは人間のもとにある普遍的なものであり、文化とは規範に拘束されるものである:レヴィ=ストロース

2009年05月21日 18時28分25秒 | 自然と社会

第五回「自然と社会」研究会報告
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/3c88093f920ad441d252d7cb5a25e8a5

 1949年に書かれたレヴィ=ストロースの「自然と文化」は、いまもって、自然と文化、自然状態と社会的状態を考える上で、きわめて示唆に富んでいる。先史学や霊長類学のその後の発展が、論述内容の緻密さを格段に高めているにもかかわらず、レヴィ=ストロースの思考は、いささかも揺らぐようなことないように見える。自然とは、人間のもとにある普遍的なものであり、他方で、文化とは、規範に拘束されるものであるという言い回しには、古びた感じがまったくしないどころか、新しい感じさえする。

 最初は、社会組織をまったく欠いていた人類が、その後、文化の形成に不可欠なさまざまな活動の形態を発達させるようになった。その意味で、自然状態から社会状態への移行という人類進化の一局面は、難題である。言語活動、石器加工、埋葬儀礼などを行っていたネアンデルタール人たちは、自然状態で生活していたとは考えられないが、後続する新石器時代の人類からは、絶対的に分かたれる。人間は、一個の生物であり、同時に、一個の社会的個体なのである。

 外的・内的刺激に対する人間の応答には、人間の本性(瞳孔反射など)に由来するものもあれば、人間が置かれる状況(手綱に触れるや即座に定まる旗手の手の位置)に由来するものもある。いったい、どこで自然は終わり、どこで文化は始まるのであろうか?隔離状態における新生児の応答は、心理―生物的起源に根ざし、後発の文化的総合には由来しないと仮定できるが、隔離状況はそもそも文化的環境に劣らず人為的である。また、数々のデータから類推すれば、「野生児」「オオカミ少年」「ヒヒ少年」もまた、文化的な怪物であって、どう転んでも文化以前の状態の忠実な証人ではない。要は、人間のなかに、文化以前的性格を帯びた行動類型の例証を見出すことはできないのである。つまり、自然と文化の境界を、どこかにはっきりと定めることは不可能なのである。

 それでは、動物の生活の高度な水準から出発して、文化の輪郭、文化の前兆と認めうる態度や現象をつかむことは可能であろうか?類人猿には、単語を分節できるようになるものもあり、ある程度までなら道具を使いこなすことができるが、それらの兆候はすべてもっとも原初的な現われの域を出ず、しかも根本的な不可能性であるかのように見える。つまり、巧みな観察を無数に重ねることで埋められるかもしれないと思われてきた溝は、逆に、一段と飛び越えがたいものとして現れてくるのである。

 しかし、それよりも格段に重要なことは、サルたちの社会生活には、明確な規範を形成する準備がまったく整っていないということである。大型ザルでは、哺乳類に見られる本能的なふるまいが弱まっているが、代わりに新しい平面でなんらかの規範をつくるところまではいけない。本能(=自然)が弱まる一方で、自然が去ったあとの領域は更地のまま残されている。

 じつは、こうした行動における規則のなさが、自然過程を文化過程から区別してくれるもっとも確実な基準となる。いいかえれば、制度的規則について、その起源を自然のなかに求めようとすることに、そもそも推論の誤りがあるのだ。要するに、自然と文化が連続しているとの誤った見かけに、二つの次元の対立地点を明らかにするように求めることはできないのである。そういったことから何が言えるのかというと、その場に規則が現れるなら、例外なく文化段階にいることになり、他方で、自然の判別基準は普遍的なもののなかに認められることになる。

 人間に共通する恒常的なものは、習俗、技術、制度など、人間集団の相違と対立を形づくるものの領域外にある。それゆえに、以下のように仮定することができる。人間のもとにある普遍的なものはなんであれ自然の次元にあり、自然発生を特徴とする。他方で、規範に拘束されるものは文化に属し、相対的・個別的なものの属性を示す。そのうち、インセスト禁忌は、規範および普遍性を、いささかの曖昧さもなく、しかも不即不離のかたちで示す。インセスト禁忌が、なぜ規則であって普遍性という性格をもつのかというと、いかなる婚姻型も禁忌とされない集団があるかというと、そんなものは絶対にありはしないからである。したがって、それは、自然的事象のもつ特徴的性格と文化事象のもつ特徴的性格を同時に示すのである。

(プナンの夜のハンティングトリップ)


豚霊碑/畜霊塔

2009年05月14日 19時24分40秒 | 人間と動物

さる5月13日(水)の昼から、3年生ゼミのメンバーで、相模原市にフィールドワークに出かけた。1班は、相模線の上溝駅周辺での民俗学・社会学調査に、2班は、同・原当麻駅周辺での人類学・考古学調査を行った。わたしは、2班を引率した。最初、駅周辺で、獣魂碑を探したが見当たらず、旧石器遺跡を見に行くために歩いている途中で、牛を飼っている畜舎を見つけ、Tくんが尋ねたところ、それが、駅前の農協の敷地にあるという情報を得た。遺跡を見た後、見学に向かった。それは、畜舎の人が言ったように、原当麻駅の近くの線路沿いのJAの敷地内にあった(写真)。

その碑の裏には、以下のように記してあった。

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農家経済不調な時その打開策として営農形態は多角経営方式から専業的経営に移行しました。この様な時に養豚経営も多頭飼育が各地に普及し当地区にも従来として変わった組織が農協を中心に発足した。
1.昭和36年2月1日
  麻溝農協養豚部設立
1.昭和37年3
月2日
  群馬県渋川より子豚導入
1.昭和39年9月2日
  年間2千頭出荷達成
1.昭和40年3月2日
  年間5千頭出荷達成
1.昭和42年3月2日
  年間1万頭出荷達成

この間種々の難問に合い関係機関の助力と部員の強固な団結により困難な道を乗り越えここに1万頭年間出荷達成を祝と共に豚霊碑を建立する。

昭和42年3月20日建立 上溝 梅田石材店刻
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「農家経済不調な時その打開策として営農形態は多角経営方式から専業的経営に移行し」たというのは、従来、農家が、米作りを行うとともに、
豚を飼い育てて売っているという形態では、経済が立ち行かなくなって、畜舎をしつらえて、専業としての家畜業に乗り出したことを示しているのではないだろうか。その上で、「従来として変わった組織が農協を中心に発足した」、つまり、組織的・集団的に、品質のいい豚を導入し、販売先を開拓するなどによって、商品経済のなかに巻き込まれてゆくかたちで、豚の生産と販売を開始するようになったのである。

昭和37年に群馬県から導入された子豚が、繁殖を繰り返して、
その5年後には、年間1万頭出荷できるようになったということのようである。人びとは、そのことを祝して、この豚霊碑を建てたのである。「豚霊」に対する弔いの念が、碑の建立のもう一つの理由であることが読み取れる。

豚霊碑の向かって左側には、それよりも一回り小さい
「畜霊塔」があった。それは、昭和18年3月に、麻溝搾乳組合によって建てられたとの情報が、碑の裏側に刻まれていた。上の豚霊碑は、その畜霊塔の建立の建立の24年後に立てられたものであり、碑を建てて動物の霊を弔うという思念が、地域では、畜産業者によって、脈々と受け継がれていたことがうかがえる。

以下、これまで、このブロクで取り上げた「獣魂碑」は、以下のとおり。
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/acacf5a7a03ef6d7e2a23d4dadcce3ce

http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/00ada481c69a4cf43a83bb5441284976
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/843ecd4f1437125a62bc8ef0f7309ef1
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/958e03874b3d06b92b27e28cdf7a8290