たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

リチャードよ、神は妄想だって、なぜそうむきになるのか?

2007年11月28日 22時55分11秒 | 人間と動物

ロドニー・ニーダムの1964年の、この領域の記念碑的な論文「血、雷、動物をあざ笑う」を読み直してみた。

マレー半島の先住民セマン社会での観察に基づく1879年のマクスウェルの報告によれば、雷が鳴ると女性たちはナイフで足を切って血を流し、それを竹筒に入れて、怒った雷神をなだめるために、空に向けて投げつけるという。スキートとブラグデンの1906年の報告によれば、セマンは、雷と稲光が起きると、すねをナイフで傷つけて血を取り、竹のなかで水と混ぜて、それを空に投げ、「止まれ!」と叫ぶ。1929年のシェベスタのセマン社会からの報告によれば、雷とは、大声で遊んだり、わいせつな言葉を発したり、不倫をしたり、動物と戯れたり、吸血ヒルを燃やしたり、サルをあざ笑ったり、鳥を殺したり、異性の子どもの近くに寝たり、インセストを犯したりすることに対するセマンの神の不快感の表れであるとされる。もし雷神に血を捧げなければ、雷神は樹木を引き倒し、大水が起きて、たちまち人びとが飲み込まれてしまうと考えられているという。

そのようなマレー半島のセマンの人びとのものとよく似た理念と実践が、ボルネオ島の(東)プナン社会において見られる。ロドニー・ニーダムはたった一度だけ(1951年に)、その儀礼的実践に出くわしたことがあるいう。ニーダムによれば、雷が鳴り始めると、二人の若者は、血と水を混ぜ合てから、下のほうから、外に向けて、振り落した。その後、髪の毛を焼いて、唱えごとをしたという。プナン人によれば、雷神は人びとが生き物をあざ笑うのを好ましく思っていない。もし雷神が本当に怒ると、木を倒し、落雷を発生させるだろう。最初は、雷神をなだめるために一人か二人で 儀礼を行うが、もし雷が続くようならば、どんどんとそのような実践に参加する人が増えていく。

さらに、ニーダムは、ジャングルのなかを旅していたときの彼自身の体験について報告している。熱帯雨林のなかには、おびただしい吸血ヒルがいて、日暮れ時に、火の回りに腰掛けて、足から吸血ヒルを取り除こうとした。しかし、誰もそれを殺すのではなく、取って捨てるだけだった。ニーダムが、血を吸ってパンパンに腫れ上が った吸血ヒルを火の中に捨てようとしたとき、プナン人の一人はそんなこと(=吸血ヒルを焼き殺すこと)をしてはいけないと言ったという。

これらの事例を踏まえて、ニーダムは、人間の血は、人と超自然界との関係を打ち立てるという意味で、重要なシンボルであり、雷は、逆に、超自然界から人間に対するコミュニケーションの手段となっているのだと読み解いている。その上で、レヴィ=ストロースに拠りながら、そのような実践は、大枠では、自然から文化への移行の問題に深く関わっていると結んでいる。

わたし自身の観察では(2006年~2007年)、今日、(西)プナン社会において、雷鳴や稲妻が起こったときに、人びとが血を集めて、それを空に向かって投げるというようなことはしない。それに対して、自らの毛を抜いて、それを手に持ちながら、雷神に向かって唱えごとをすることがある。たんにあるというよりも、雷鳴がとどろいた場合には、人びとは 熱心にそうした儀礼をおこなう。それは、(西)プナン人にとってのほとんど唯一の儀礼的な実践であるということは、特筆すべきことである。

マレー半島、ボルネオ島の先住民に見られるこのような実践を、どのように読み解けばいいのか。その手がかりは、動物に対する人間、プナン人の態度にあると、わたしはここのところずっと考えている。
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/27506f422f29e1a3e5f3c16f56bdedb7

動物こそが、(元)狩猟民プナン人の日々の糧であり、それなしに生き暮らすことはできない。とはいうものの、動物に対して、自然に対して、プナンは、ダイレクトに感謝を表明するようなことはない。プナン人は、動物は、たんに殺して食べるのみだと、つねづね言っている。逆に、こうしたプナンのシンプルなまでの動物の態度は、逆に、プナン人に大きな規制を与えているように思える。すなわち、狩った動物をあざ笑ってはならないし、からかってはならないというタブーを、自らに課している。そのタブーの侵犯こそが、雷神を怒らせ、彼らが 日々もっとも恐れている雷雨と洪水を引き起こすことになると、プナン人たちは考えている。

地球上でちっぽけで、取るに足らない存在としての、われわれ人間。プナン人たちは、生存を可能にしてくれる自然や動物に対する感謝を表現したり、自然や動物を支配する神に感謝するのではなくて、せめて、倫理的にはつつましい態度、すなわち、動物をあざ笑わない、からかわないという態度を保持することで、雷神を経由して、動物たちに向き合っているのではないだろうか。そういうふうに考えてみるのがいいのではないかと思っている。

(写真は、アレット川。夜に鉄砲水が起きて、狩猟キャンプのすぐ近くまで水が来たときの、緊迫した風景の一部)


動物裁判

2007年11月27日 21時45分58秒 | 人間と動物

1494年というと、コロンの新大陸「発見」の二年後であるが、フランスのクレルモン近郊で、若いブタが、人間の子どもに喰らいついた結果、子どもを死に至らしめたかどで逮捕され、法廷で裁かれ、絞首台につるされ、縛り首にされた。16世紀に、フランスの地方で、ネズミたちが、大麦を食い荒らし、壊滅させた罪で、教会裁判所で裁かれることになった。ネズミの弁護を任されたシャスネは、被告人であるネズミが法廷に現れなかったことに対して、彼らは村から村へと移動しているため、召喚状を受け取っていないだろう 、たとえ受け取っていても、ネコの襲撃をおびえて、法廷に出廷することができないのだろうと述べた。弁護士シャスネの活躍によって、最終的に、ネズミの罪は棚上げにされたという。さらに、教会内でおしゃべりしたために訴追されたスズメ、卵を盗んで火あぶりの刑に処せられた雄鶏・・・ヨーロッパ全域で、中世から19世紀頃まで、動物が人間的な罪によって裁かれていたという事実は、わたしにとって、新鮮な驚きである。

進化心理学者ニコラス・ハンフリーは、動物のための裁判や処刑には、相当の現金費用がかったことに照らして、それは、なんらかの社会的な利益のために行われていたのであろうと推論する。第一に、人を殺したことがある動物は、再びそのことをやるかもしれない。動物に死刑を宣告することで、裁判所は命の安全を保証し、社会の危険を除去したことになるのではないだろうか。第二に、動物でさえ法律を破れば、報いを受けなければならないことを公開することで、犯罪を犯す人たちの意欲をそぐことになるのではないだろうか。第三に、法律が破られることへの恐れというよりも、自分たちがそもそも法に従う場所にいないのではないかということに対する恐れを、人びとはつねに抱いており、そのことが、動物裁判などによって、絶えず否認されなければならなかったのではないか・・・

動物裁判の社会的なニーズ(人間にとっての必要)を拠りどころとしながら、ハンフリーは、動物裁判の意味を、以下のように整理している。「法的行為の全目的は認知的な制御を確立することではないかと、私は提案したい。言い換えると、裁判所の仕事は、混沌を飼い慣らし、偶然の世界に秩序を導入することであったーーそしてとくに、ある種の見たところ説明がつかないように思える出来事を、犯罪として定義し直すことによって、意味のあるものにすることだった」。「たとえばブタが罪を犯したところを見つけられれば、明快な仮定は、そのブタが自分のしていることを非常によく分かっていたというものである。したがって、ブタの行為は、どんな意味でも、恣意的ないし偶然的なものではなかった。そのうえ、子供の死は説明可能なものとなった。子供は故意の邪悪な行為の結果として死んだのであり、それが依然としてどれほど恐ろしいものであるにせよ、少なくとも、それはある種の意味をなすことになった・・・」(ニコラス・ハンフリー『喪失と獲得』第14章「法の前における虫と獣」紀伊國屋書店)。つまり、裁判所は、なぜそうなるのか分からないような出来事を、犯罪として再定義することによって、社会的な秩序を維持することに寄与した、というようなことか。ま、一つの意見として聞いておきたい。

しかしながら、動物裁判は、人間と動物の関係史を考えるために、示唆に富んでいるように思われる。人類学的な想像力をもって、中世から19世紀のヨーロッパにおいて、人間と動物が溶け合って暮らすような、神話的な世界があったと想定する誘惑に駆られる。しかし、そういうことは断じてない。
動物裁判の脈絡では、動物は、人間の側から、人間的な罪を犯す存在として、人間の文化のなかに組み込まれている。その意味で、動物裁判は、「自然の文化化」のような現象として読み解くことができるのではないだろうか。それに対して、神話的な思考とは、それとは真逆の、人間がそもそも動物の一部であるということの表明、「文化の自然化」のようなものなのではあるまいか。

とりいそぎ、動物裁判をめぐる覚書として。

(写真は、捕まえられた子ザル)


宗教人類学談義の断片

2007年11月20日 13時30分41秒 | 宗教人類学

刺激的だったので、忘れないうちに、昨夜のY氏との人類学談義。

O:最近、人類学の若手たちのフィールドワーク経験が、なんだか薄っぺらいことが、気になっています。フィールドワークをしても何も得ることがなく、それで、手元にある大きな理論に頼るのかもしれません。

Y:そうかもしれません。かといって、持ち出した理論がうまくかみ合っていない。フィールドデータも半端な感じです。しかし、考えようによっては、人類学というのは、かつては、人類学固有の出自というものはなく、物理学などの理科系の学問、歴史学などの多様なバックグラウンドをもつ人たちがフィールドへと向かい、そうした思想の潮流をシャッフルした上で、昇華したところに成立したものだったとすれば、手元の理論を持ち出すというのは、あながち、まちがいではない、というよりも、案外「人類学的」なのかもしれません。それがうまく行っていればの話ですが。

O:なるほど、多様な思想の潮流の交差のなかから、人類学という学問が浮かび上がってきたというようなことですね。それは、興味深いですね。何年か前にやっていた文化人類学会の「人類学の古典を読む」というプロジェクトなんかをつうじて、そういう見通しが出てきたのでしょうか?

Y:それは、どうか分かりません。行ってないので。しかし、誰かやってくれませんかね、そのあたりのことを。

O:宗教人類学というテーマに向き合うときには、「認知考古学や進化心理学などの宗教の起源」、あるいは「最近話題のドーキンスのイリュージョン説」、さらには、「レヴィ=ストロースの神話論」、「フラハティのシャーマニズムの歴史学的解体論」などを含めて、多様な潮流のなかから、宗教人類学を浮かび上がらせ、その来たるべき展望として提示することができるのかもしれませんね。うまく行けば、これまでとは全然ちがう宗教人類学の装いになりますね。

Y:そんな感じかもしれません。「宗教経験をファンタジーとして表現する」人類学者も視野に入れれば、面白いかもしれません。

(写真は、プナン人ハンターによって撃ち殺されたマメジカ)


不思議さに出会うために

2007年11月19日 15時40分33秒 | フィールドワーク

財や現金は、あれば使ってしまう。自分だけでなく、身近にいる人にも分け与えて、ドバーッと一気に使ってしまう。なければないで、なんとか我慢しようとする。個人の所有観念が薄い。惜しみなく分け与えることに、高い評価が与えられている。わたしたちの個人財産をベースとした価値観とは大きく異なる所有観。

世襲されるような地位はない。リーダーは、特に、物惜しみしないで、周りの人たちに分け与えることで、その地位を得る。リーダーは、共同体のなかで、もっとも貧しく、みすぼらしい格好をしている。日本社会と比較して、人が人の上に立つというのは、いったいどういうことなのだろうか、と考えさせられる。人びとは、そのリーダーにちょっとでも嫌な部分があれば、あるいは、そのリーダーに集う人たちに嫌気がさすならば、知らない間に、そこから去り、別のリーダーのもとに移ってしまう。その意味で、リーダーの悩みは深い。
共同体のメンバーシップは、ひじょうに流動的である。

人びとは、モノや現金などを貯めることには、ほとんど興味を示さない。執着がない。将来を描くようなことはあまりないし、その意味で、計画性に乏しい。時間の観念が希薄で、方位の観念もない。山や川の上下を意識して、移動する。人類は、日常の必要に応じて、さまざまな観念をつくりだしてきたのではないだろうか。

州政府が建てた小学校には、無料で行けるだけでなく、成績優秀者は、無料でより上の教育の機会が用意されている。数々の優遇措置が用意されているにもかかわらず、子どもたちは、学校には行かない。ほとんどの場合、行ったり行かなかったりして、そのうちにやめてしまう。学校教育など不要なのである。算数や英語を勉強しても、何の役にも立たないことを知っている。ジャングルの資源を用いて、小屋を建てたり、火を起したりするほうが、楽しいし、必要なのだ。そのような態度に照らしてみるならば、教育することを前提として、教育を再生することを目指すという我が国でのやり方が、教育とは何なのかということを問題としない点で、なんと滑稽に見えることか。

フィールドには、まだまだ、私たちのありようを根源から振り返り、人間存在について考える出発点となる、不思議な素材や経験
が、ありあまるほどあるではないか。そのためにフィールドワークに行くことが、人類学ではなかったのだろうか。

(写真は、プナン社会のオオトカゲ猟の風景)


人類学的<感謝>論

2007年11月18日 14時12分05秒 | エスノグラフィー
日本におけるスウェットロッジの主催者である、Kさんはいう。他者に対して憎しみや恨みを抱いているのであれば、まさにそのことによって、あなたは、痛みや苦痛を感じることになる。逆に、あなたは、その相手に対して<感謝>の心を抱き、思い描いてみるがよい。そうすれば、あなた自身の痛みや苦痛は軽減される、と。自分の痛みや苦痛は、その意味において、部分的に、自らがつくり出していることになる。

何らかの事由によって毛嫌いするようになった相手に対して、心のなかで<感謝>をするというような、思いもつかなかったような手続き。それは、実行しえたならば、Kさんが言うように、自らの痛みを和らげることになる。

はたして、Kさんは、そのようなやり方のなかに、どこまで、アメリカ先住民の技法を取り入れているのかは分からないが、それは、先住民ラコタの智慧の一部ではないか、とわたしには思える。あらゆる物事や人間(人間と動物、自然、生者と死者・・・)が、本来的に、つながっているという感覚。<感謝>をするという手続きをつうじて、その間柄のネットワークの一端を断ち切ってしまうことなく、つながらせておくことによって、結果的に、他者との関係を遮断してしまうことで痛む自己が癒される。痛みから解き放たれることになる。ミタクエオヤシ!(all my relations!)。

そのようなやり方は、ある意味で、<感謝>するということの真理を一面において鋭く衝いている。

そのような行き方に照らせば、わたしたち(日本人)が日常的に使っている<感謝>、「ありがとう」というのは、いったいどういう意味を持っているのだろうか。そういった、素朴な問いが浮かび上がってくる。

<感謝>とは、人間が、他者たちとの間柄をつうじて、感得し、表現するものなのであろう。その他者たちのなかには、本来的には、わたしたちに恵を与えてくれる自然、動物、さらには擬人化された超自然的な存在が含まれるが、わたしたち(日本人)の日々の暮らしにおいては、ほとんどもっぱら、<感謝>とは、人間存在に対して、言語的に非言語的に、唱えられるものとなっている。

ちっぽけで、受身的な存在でしかない個人が、他者たちとの関係において得たものを承認し、能動的に応答するために、<感謝>を表現する。<感謝>は、多くの場合、生の肯定の技法でもある。 それがゆえに、<感謝>を表わして、豊かな人格を達成することを唱えるような、<感謝>表明のススメが、わたしたちの周りには無数にある。

次なる問いは、そのような<感謝>、あるいは<感謝>の手続きは、はたして、人類にとって、普遍的な現象のひとつなのだろうか、というものである。というのは、サラワクのプナンの人びとは、<感謝>のことばをもたない、あるいは、<感謝>を表現しないように思えるからである。地球上には、そういった人たちがいる。つまり、何かをもらったとき、プレゼントされたときに、「ありがとう」にあたることばを、ほとんど発信することがない人たち。付け加えれば、プナン人は、ほとんど挨拶のようなものをしない。

プナン語に、マレー語の「ありがとう(terima kasih)」に相当するようなことばがないわけではない。マレー語の「ありがとう」は、感覚的には、われわれの(日本語の)「ありがとう」と、ほとんど同じ意味である。プナン語の”Jian kenep”は、ことによると、「ありがとう」と訳せるかもしれない。しかし、それには、「いい心だ」「いい心がけだ」という意味合いが強い。そのことばを、プナン人は、日常のモノやお金の受け渡しの場合に使うことは、ほとんどない。それは、物惜しみをしない気持ちに対して使われることがある。ある意味では、われわれの「ありがとう」の範囲と重なるかもしれないが、より精確には、それは、ある人物が惜しみなくモノを分配するのを見て、発信されることばである。それは、必ずしも、有形無形問わず、何かを与えてくれた人に対する<感謝>のことばではない。

はたして、プナンの人びとには、<感謝>の気持ちが、絶対的に欠けているのだろうか。たしかに、<感謝>の言い回しは、欠けている。それは、あからさまには、存在しない。さらに、そのような<感謝>の不在とでもいうべき態度は、日常生活のより深い部分にも根を下ろしている。森林資源だけに大きく依存して生き長らえてきたプナン人たちは、森からの動物などのあらゆる恵に対して、謝肉祭であるとか、動物たちに対する<感謝>の儀礼を行うことは一切ない。

その点に関連して、わたしが気になっているのは、森のなかで捕れた動物は、とにかく、すぐに解体して、料理して、食べなければならないとする、清明なまでのプナン人たちの態度である。殺害してから食べるまで、動物をからかったり、あざ笑ったりしてはいけないという、プナン社会のほとんど唯一のタブーがある。

食べるために捕獲される動物に対する清明なまでの態度、タブーの存在などは、ある意味で、森からの恵に対する、プナン人の<感謝>の態度の「裏向けの表明」とでもいうべきものなのではないだろうか。プナンの人びとは、わたしたち(日本人)がやっているようなやり方で、<感謝>を表明することはない。しかし、想像力をもって眺めるならば、彼らは、わたしたちとは異なるやり方で、<感謝>を表明しているのかもしれない。<感謝>の表現によらない、<感謝>とでもいうべきやり方で。

以上、<感謝>論への人類学的接近を今後進めるのための覚書として。

(写真は、黙々とイノシシの解体をするプナン人の男性)

医療人類学を勉強しよう!

2007年11月15日 17時59分26秒 | 医療人類学

以下、国際交流基金のアジア理解講座の案内です。

「アジアの〈こころ〉と〈からだ〉:医療人類学からのアプローチ」

2008年1月15日から3月18日まで(
19時から20時30分)
毎週火曜日1講座

各講座100名(先着順)

<医療人類学>は、フィールドワークという手法によりながら、病気や死、健康や医療などの現場のど真ん中に入って、
人間の医療のありようについて考えようとします。<医療人類学>の観点から、アジアの人びとの<こころ>と<身体>を探ります。扱われる地域は、インドネシア、インド、韓国、ヴァヌアツ、カザフスタン、ニューギニア、ラオス、沖縄などです。トピックは、死、女性の身体、美容整形、老い、民族医療、呪術、シャーマニズム、出産などです。

詳しくは、以下のホームページへ。
http://www.jpf.go.jp/j/culture_j/topics/asiarikai/index.html

(写真は、ボルネオ島カリス社会のシャーマンによる豚の肝臓占いのシーン)


文化人類学は「虚学」の王位を守るべきか

2007年11月06日 17時37分01秒 | エスノグラフィー

文化人類学は、いまだに、反省の迷路をさ迷いつづけている。

過去四半世紀の間、文化人類学は、文芸批評やカルチュラル・スタディーズ、ポストコロニアル理論などの影響を受けて、他者表象をめぐる議論に真っ向から挑んできた。他者の記述は、「部分的な真実」でしかなく、文化人類学者が他者を一方的に表象する点において、コロニアルな権力関係を再生産し続けているなどという、内省的な議論が盛んに行なわれるようになった。その結果、文化人類学は、しだいに、調査者の態度やその背景にあるポストコロニアルな構造をめぐる問題検討の迷路へとさ迷いこんでいった。

他者への関わりを猛省しつづける日々。

そのことによって、文化人類学は、よりソフィスティケートされた他者をめぐる議論の手法を手に入れるようになったと、肯定的に捉える人たちがいる。ところが、まず、そのような議論の洗礼を受けた文化人類学者の卵たちは、優秀であればあるほど、何よりも、自ら、そのような問題含みのフィールドへと出かけることを避けるようになった。「フィールドワークに行きたくない、行かなくてもいい」、「行くとしても問題を迂回できる場所とトピックで」というのが、あたかも、今日の文化人類学専攻の院生のスローガンになっているかのようである。

迷路をさ迷って、文化人類学が得たものは、はたして、失ったものよりも大きかったのだろうか。

文化人類学がさ迷い込んでしまった閉塞状況を乗り切ってゆくために、ポストコロニアル人類学の自己反省一辺倒のポーズへの批判が行われてきた。それは、しかしながら、ポストコロニアル人類学が用いる術語・概念を弄する点で、容易に、ポストコロニアルの文脈へと回収されてしまう傾向にある。「ポスコロ批判は、ポスコロの掌の上でしか行えない」。また、ポストコロニアル人類学の批判者たちは、ポストコロニアル人類学など、いったいどこにあったのか、と不意に問い返され、「おまえは、空ろな幻想論者ではないか」とかわされてしまうこともある。

文化人類学者は、反省の迷路から脱出する抜け道を発見することができないどころか、反省することを批判することによって、閉塞状況のなかで、ますます、窒息しそうになっている。

他者ではなく、自己へと回帰する内省的な議論に明け暮れることにうんざりした人たちのなかには、問題を迂回して、現代社会の「身近な他者」を研究したり、実践的な活動にコミットしながら仕事をしたりすることによって、ブレイクスルーしようとする文化人類学者が増えてきている。きわめてオプティミスティックな見当違い、と批判することは、簡単かもしれない。しかし、文化人類学自体がとらわれている大学の研究教育体制のなかで考えると、その立場は、より深刻な危機から発したものだと分かる。大学では、
文化人類学は、他者や異文化をめぐる学としての経験と実績を高く評価され、国際的な人材輩出のために寄与すべきであるという使命を、なぜか知らないが、与えられている。文化人類学は、大学教育の現場において、否応なしに、社会にとって有益な人材を育てるという図式のなかで、再組織されることを余儀なくされている。

そういった現代の社会との関わりを「風見鶏」のように見きわめた上で、発信される、今日の文化人類学の研究成果や実践の多くは、同時代的に重要かつ、示唆的であるように思われる。それらは、文化人類学の社会的な存在意義を示すものとして、特大の評価に値する。しかし、はたして、そう言い切ることができるだろうか。そのような研究と実践は、文化人類学が、その学の起源に持っていた人類の探究、人間探究という理想から、どんどんと遠ざかってしまっているようにも思えるからである。社会貢献をそのベースに置くような文化人類学は、学問としてのスリリングさに欠け、志が萎んでしまっているのではないだろうか。そういう見方も、また成り立つ。

制度面でいうならば、日本の大学制度に左右されて途切れがちで、半端なフィールドではない、文化人類学本来の長期のフィールドワークは、文化人類学者という教育研究者が置かれている大学機関においては、ますます、しにくくなっている。しかし、速さこそが力として求められる現代に逆行するかのごとく、スローで、長期にわたる現地調査を遂行し終えたとき、文化人類学者は、自分が生まれ育った社会からはなじみの薄い社会の人びとのエトースの核心部分に触れたと感じ、己の実存が、根底から揺さぶられていることに気づくことになる。その経験、その感覚こそが、文化人類学者が、人間について、人類について考えていくための手がかりではなかったか。 魂を揺さぶられるような強烈な他者との出会い。文化人類学は、ふたたび、驚きや不思議さのみから成るような他者とその世界へと向かわなければならないのではないだろうか。

その意味において、文化人類学者は、20世紀の半ばあたりまで、文化人類学のゴールデンエイジに、身に受けていた「未開のスペシャリスト」へと、先祖返りすべきないだろうか。人間の行為と観念の起源を深く掘り下げて、人間探究の森へとふたたび分け入るために。

実学はいらない。文化人類学は、「虚学」の王位を守り続ければいいのである。

そういった考え方は、教養レベルでは、一般に、賛同を得るかもしれないが、ポストコロニアル議論を経た今、文化人類学の奔流とはなりにくいようにも思える。

それに対して、文化人類学は、大学という学問の世界から切れたほうがいいという意見もある。80年代以降、西洋的思考の土台への認識論的な挑戦をするフーコーやドゥルーズといったポストモダンな研究のほうが、実際に路上に出て世界変革を目指すようなアクティヴィズムよりも、ラディカルであると考えられるようになった。今日、文化人類学がその根源に畳み込んでいるアナーキズムを抱懐しながら、ふたたび、アクティヴィズムへと歩みはじめようとする人たちが出現するようになった。

さらに、今日、わたしたちは、情報通信技術の発達によって、他者の驚きや不思議さを、パソコンの前に座って手に入れることができる。ユーチューブをつうじて、他者の不思議さ、驚きにふれることができるだけでなく、それは、いまや、わたしたちに他者を感じさせてくれる、超絶的なツールなのである。情報通信技術と映像を用いた新たな文化人類学は、人びとの苦悩や苦痛だけでなく、ときには、快楽をも共有しながら、ゆっくりと、スローなペースで、異文化の全貌を捉えるような旧来の文化人類学とは、手法において、かなりの隔たりがある。しかし、そのような文化人類学は、あらゆるものごとがスピードアップし、手軽に欲しいものが手に入る現代社会にシンクロするかたちで、刺激に満ちているのかもしれない。

反省の迷路へとさ迷い、文化人類学は、苦し紛れに、雑多で収拾のつかない、しがないアイデアを繰り出し始めたのだろうか。あるいは、次なる時代に、起爆力溢れる人間観を提示するための下準備のために、ちょっとだけの間、さ迷っているだけなのだろうか。

あるのは、絶望か、あるいは、展望か。

いずれにせよ、そのような流れを整理して、それらに対して、言葉を与えてみなければならない。まずは、そこから、文化人類学の今日を考え、来たるべき未来を語らなければならないのではあるまいか。はたして、今後、文化人類学は、どういった方向へと進んでいくのだろうかいけばいいのだろうか、という問いを胸に抱きながら。

(写真は、プナンの子ども。名はウマイ。)