ポール・オースター『シティ・オブ・グラス』山本、郷原訳、角川文庫。★★★★★
これは、縁そのものが切れて、孤独をどうにもできないまま、好奇心から探偵に深く関わるようになり、そのことに熱中し、その熱中の後に、何もかもがふたたび無くなってしまい、ついには、自分自身をも失ってしまうという、哀れで切ない、現代人が直面するわれわれの全的喪失の物語である。
妻子を亡くした作家クィンは、ポール・オースター探偵事務所あての間違い電話を受ける。そのうち、間違い電話がかかるのを期待するようになるクィン。依頼主はピーター&ヴァージニア・スティルマン。精神病院から出てくる父親がピーターを殺害に来るので監視してほしいという。好奇心から、探偵ポール・オースターになりすましたクィンは、依頼主を訪ね、契約を結び、その男を尾行するようになる。男は、ホテルから出て一日歩き回るだけで、特に目だった行動は取らない。クィンが、毎日男が辿った経路をつなぎ合わせてみると、TOWER OF BABEL という文字が浮かび上がる。このあたりから、クィンは、しだいに、混乱に飲み込まれてゆく。思いついて、探偵ポール・オースターに相談するために事務所兼自宅を訪ねるが、彼は探偵ではなく、作家であった。作家は、クィンが失った「息子」とまばゆい「妻」とともに、幸せな知的な暮らしをしていた。
クィンは、その後、ふたたび、男を見つけ出し、これまでよりいっそう尾行に熱を上げるようになる。クィンは、探偵行動のために、特殊な睡眠法を考案し、這うように路地に住むようになる。依頼主には、いっこうに電話はつながらない。みすぼらしい哀れな姿のまま、数ヶ月ぶりに自宅に戻ると、別の住人が住んでいて、クィンの持ち物は、妻子とのわずかな思い出の品々を含めて、すべて処分され失われてしまっていた。依頼主の自宅へと向かうクィン。もうそこには、依頼主は住んでいない。
主人公クィンは、身の回りのあらゆるものを無くし、ついには、自分自身までをも破壊させてゆく。夢中になって動き回ることで、途切れてしまったものをつなぎ止めるための手がかりを手に入れるどころか、いっさい回復することができないままに、すべてが無に帰すということなのかもしれない。形さえも留めることがない。事件はほんとうにあったのだろうか、その予兆や、それに関わった人たちは確かにいた。いや、いたような気がするだけなのかもしれない。いくら熱を込めたとしても、その後、あらゆるものが、幻のなかに消えしまう。しかし、ヒトは、そうしないと生きてゆけない。ああ、なんという悲しみだろう。