たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

「動物殺し」の一年目

2012年12月30日 17時55分48秒 | 人間と動物

2012年の年末の数日、「動物殺し」というテーマを掲げて、われわれは、京都市と南丹市に集結した。

霙まじりの南丹市の観光農園では、シカの解体作業を見学(一部実習)させていただいた(上の写真)。シカを吊り下げて解体するやり方はプナンと同じだと思ったのだが、写真を見たら、吊るし方が正反対であるということに気づいた。南丹市では、足を上にして吊り下げて作業していたが、プナンは、頭を上にして吊るす(下の写真)。まず、皮を剥いで肉切れにするというのは、南丹市とプナンで同じであった。



その作業見学の場には、地球上の狩猟民や牧畜民の社会で、シカ類の解体を見たことがある人たちが集っていたので、解体法について訊ねてみたが、地面に横たえて解体作業をしているという所が多かった。アラスカでは、地面にカリブーを置いて、二人係りで、あばら骨を割っていくそうである。エチオピアの牧畜民もまた、地面に置く方式だそうであるが、都市では、吊り下げ式の解体作業が主流になっているというようなことであった。

日本の南丹市では、しとめた獲物は、縄をつけて、山から引き摺ってくるとのことだったのだけれども、プナンは、ふつう、獲物を背中に担いで降りてくる。シカの場合、首から上、足から下を折り曲げて、「三つ折り」状態にして運搬する(下の写真)。

こういった、広い意味での「動物殺し」の比較民族誌的な研究が、われわれの研究グループの眼目である。

研究の初年度だということもあり、今後、どんな調査が可能であるのかに関して、われわれは時間をかけて検討した。「動物殺し」に関して、【生物】【生態・経済】【表象】という3つの面を設定し、それぞれの面から、どのように「動物殺し」の調査研究を進めればいいのかという点に関して、各分野の専門家からの意見を踏まえて、意見や情報の交換を行った。研究集会をつうじて、たしかな議論の見通しを得られたのは、【表象】面だったのではないかと思う。パースペクティヴィズムやアニミズムを扱うような「存在論」への接近が一方にあり、他方で、対象と人類学者との距離を計りながら、他者の表象を記述考察することを強調する接近が、【表象】における一つの論争点であることが確認された気がする。【生物】面からの接近では、獲物の取れ方の定量的なデータを取ることによって、例えば、効率のためだけに活動しているのではないということなどが分かってくるというふうに、数値化の重要性について再認識できたように思う。

われわれはまた、チンパンジーのアカコロブス狩りに関して、メンバーの霊長類学者から話を聞く機会を持った。意図や動機が必ずしも明確ではない動物による動物殺しを詳細に観察するならば、「殺す」とはいかなることなのかに関して、考えるための手がかりを得ることができるだろうという、一つの研究の見通しを得ることができたように思える。研究集会では、本科研に先行する研究グループが公表した成果に関しての「合評会」も開かれた。一部において、文献が十分に読み込まれず、念入りに組み立てられていなかったために、的外れな、愚雑な指摘が多かった、残念:文献を読んでから、きっちりとまとめて、適正に問題点を指摘すべき。さらに、われわれは、大学卒業後、「猟師」になった「近隣」にお住まいの方から話をうかがった。動物が好きだから、動物を殺して食べることも、自分の手でやりたいと考えているとおっしゃた。猟をビジネスにしない、そうではなく、猟をする、自然と暮らしてゆくために、そのことが可能になる職を続けられているという「信念」に、大きくうなづくとともに、大いに考えさせられた。



今年の読書

2012年12月24日 14時25分59秒 | 文学作品

今日は、ハッピーマンデーでクリスマス・イヴなのに、大学の授業日。
オフィスの片づけをしているが、今年読んだ本(小説)を上げてみようと、ふと思い立った。
前半は、動物に関わるものをずいぶん読んだようだ。
熊谷達也『邂逅の森』はマタギの物語。『相剋の森』も同じく、熊谷達也の自然もの。
星野道夫は、『旅をする木』『イニュニック』のアラスカものの2冊を読んだ。自然と人間について考えさせられた。
コーマック・マッカーシー『すべての美しい馬』は、アメリカの馬と人の物語。
レベッカ・ブラウン『犬たち』は、とにかく、犬に囲まれた話。
メルヴィル『白鯨』(上)(下)は、夏の旅行中に読んだ。船長の白鯨への戦いの間に差し挟まれた「鯨学」の記述が面白かった。
吉村昭『羆嵐』は、北海道の開拓村での、女の味を覚えた人喰いヒグマによる獣害をめぐるルポ。
同じく、吉村『三陸海岸大津波』も、宮城県にフィールドに行く前に、学生研究会で読んだ。
そういうと、ゼミ合宿で遠野に行ったので、井上ひさし『新釈・遠野物語』を読み、ずいぶん面白かった。
柳田國男の本家版『遠野物語』も、久しぶりに読み返した。
賞を取った本のうち、芥川賞では、円城塔『道化師の蝶』田中慎弥『共食い』を読んだ。円城は、ナボコフ的。
直木賞では、葉室麟『蜩ノ記』鹿島田真希『冥土めぐり』。どちらも読み応え十分。鹿島田の本は、私と夫、母と弟が奇妙に交錯する物語。
川上美映子の芥川賞受賞作『乳と卵』は、母子の豊胸手術と生理現象をめぐる快(怪?)作。
ノーベル賞の莫言は、『酒国』を読んだ。肉童を食べている人びとを探りに行くのだけれども、主人公は、酒と女に溺れて、探偵に失敗するという内容。
ふと手にした深沢七郎『笛吹川』は、甲州の農民六代の生と死の物語。日本文学、凄いと思った。
町田康『パンク侍斬られて候』。腹ふり党という反社会的な行動とパンク侍の活躍(?)。町田の独特の文体のリズムは爽快。日本社会への痛烈な批判とも読める。
年に何冊かは、ラテンアメリカ文学を。ガルシア・マルケス『悪い時』
ときどき思い出したように西村賢太『どうで死ぬ身の一踊り』。ダメ人間のさらけ出しという私小説は、滑稽でもある。
バルガス・リョサ『継母礼讃』は、継母と10歳の堕天使の話。わくわくするエロティシズム。
石田衣良『sex』で描かれるのは、じつに多様なセックスのあり方。「好きな人とたくさん」というのが、作者のメッセージだそうです。
ニーチェ『ツアラトゥストゥラはこう言った』(上)(下)は、本の構想を深めるために読もうと思ったのであるが、どれだけ理解できたやら。
小川洋子『凍てついた香り』は、匂いがテーマ。
誉田哲也『幸せの条件』は、大学の図書館運動で読んだ。農業をめぐる日本の課題が描かれる。
恩田陸『光の帝国』は、不思議な力を持つ人びとの物語。長島有『泣かない女はいない』。いやあ、長島さんって、なんでこんな女心が分かるんだろうか。
津本陽『無量の光』(上)(下)は、鎌倉時代に仏教を深い日常の哲学にまで昇華させた親鸞聖人の物語。
最近凝っているのが、イギリスの小説家、イアン・マキューアン『贖罪』(上)(下)『アムステルダム』を読む。とにかく、ストーリーの組み立てが絶妙だわ。
カスオ・イシグロ『わたしを離さないで』は、臓器提供をめぐる施設の話。これも、小説としては、絶品だと思う。
ブルース・チャトウィン『ソングライン』も確か、今年の年初に読んだように思う。オーストラリア・アボリジニの「ソングライン」を訪ねる旅の記録。彼らの歌のなかには、風景や出来事が刻まれている。



 


講演会の記録(つながりのはじまり)

2012年12月19日 16時42分07秒 | 大学

いつのまにやら普通の日常へと戻ってしまい、すでに、遠くの土地の、過ぎ去った出来ごとのごとく感じられてしまっているように思える。いや、じつは、そうではないのだ。
桜美林文化人類学学生研究会(OSSCA)主催、桜美林大学リベラルアーツ学群文化人類学専攻後援、第4回講演会「つながりのはじまり ―震災後をともに生きる―」


ひとはいかにしてエクス・アンソロポロジストになるか

2012年12月11日 18時36分30秒 | 文献研究

週末にイルコモンズのクラクラするような発表を聞いてから、文化人類学について妄想している。
来たるべき人類学第2回の集い
文化人類学とは何なのか?
本質的には、反・支配の学、周縁から中心を見つづけるための学問や態度のこと?
だとすれば、不安定性や弱者の抵抗を内在化してこそ、文化人類学ではないのか。
中央の定位置に安住しているものは、文化人類学にあらず。
他の学問と並列に置かれて、学問の制度のなかで消費されてはならない。
それは、莫言の描くアンチ探偵小説『酒国』のような、アンチ学問なのか?
さにあらず、文化人類学は、定位置に安住してしまっている。・・・とも言える。