たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

時の不在

2006年11月30日 11時53分50秒 | フィールドワーク

広く用いられている日本語の文化人類学の教科書に、人間の時間経験についての説明がある。本来、においもかたちもないカオスの状態、区切れのない連続体に、人間が区切りを入れることで、人が時間をつくり出し、その後、それをつうじて、時を経験するようになったことが、そこでは示されている。しかし、いったい、いつごろから人類は、そのようなかたちで、カオスを区切って、時間を経験するようになったのだろうか。そのことについては、そのテキストは、ふれていない。

プナン社会には、今日でも、時の観念が欠けている、あるいは、時系列の観念が薄いように思える。プナン人ならば、無人島に漂着したとしても、一日(日が昇って日が沈むまで)を一つの単位として、洞窟に印をつけて、漂着してからどれくらい経ったのかを計るというようなことはしないだろう。

プナン人は、自分がいつ生まれたのかについて、覚えていない。もっとも、逆の角度から言えば、わたしは、西暦や年号を用いて生まれた日を特定するという、われわれの時間経験に基づいて、プナンに対して、生まれた日を求めて、それに対する答を期待しているわけで、年月日によって生まれを表現することは、人類の普遍的な表現様式ではない。だとすれば、プナンは、自分の生まれた日付を覚えていないというよりも、むしろ、そういったことを表現するすべをもたない(もたなかった)というべきなのかもしれない。

プナンは、せいぜい、だれそれが、自分よりも先に生まれた、だれそれが、自分とだいたい同じころに生まれたなどなど…というような相対的な年齢を認識しているにすぎない。時間軸という絶対的な基準にたよるのではない、あやふやな、相対的な差異があるだけ。そのような認識は、プナン人が、生まれた日付のあとさき、年齢の大小による序列によって、社会を組織しているのではないということを示している。そのような認識は、むしろ、年齢の上下にかかわらず、人は原理的には対等であるという、平等主義を下支えするように思える。

先に、プナン社会には、時系列の観念が薄いと述べた。季節の移り変わりのない(せいぜい雨が多く降ったり、少なかったり程度の変化しかない)熱帯のジャングルのなかで、食材としてのサゴデンプンと獣を採集狩猟しながら暮らしていた(なければべつの場所に移動して、活動する)ノマド時代のプナンにとって、時系列を構成し、時間や暦を用いることは、とりわけて、必要ではなかったにちがいない。彼らにとっては、時間の観念や暦の不在は、支障や障害にはならなかった。いや、必要がなかったから、それらはなかったのだ。実際、プナン社会に暦などはない。

仮説として述べれば、人類社会に、時の観念が現れるのは、農耕を開始してから以降のことではないだろうか。将来に向けて備蓄するために、いつごろどのような作業に取りかからなければならないのか、それを決めるために、時は必要なものとなる。わたしがかつて調査研究した、ボルネオ島の焼畑稲作民社会には、夜空に見える三ッ星を見上げて、かぶっている帽子が後ろに滑り落ちるようになったら、そろそろ種まきをしなければならない、というような、その社会独自の農耕カレンダーが存在した。自然現象が、農耕作業の開始を告げ、そのことをひとつの区切りとして経験するようになって、しだいに、人類社会に、時の観念が定着していったのではないだろうか。

くりかえしになるが、農耕が開始される以前の、狩猟採集を主生業とする社会では、そういった時の管理、時系列の組織化は不要だったのである。現在でも、プナンは、備えるということをほとんどしない。ノマド時代にも、おそらく、彼らは、備えるという行動をしなかっただろうと思われる。食料やモノは、あるときには、貪欲に消費され、無くなってから、新たに、食料やモノが探される。ジャングルには、食材をはじめ、人びとの必要とするモノが、豊富に実在する。そういったタイプの社会には、時は不在なのである。

プナン社会にも、時にあたることばがないわけではない。過去(jaka saau)、現在(jaka iteu)というような言い方は、たしかに存在する。しかし、それは漠たるものとしての過去であり、現在であり、その説明は、われわれが今日もっているような、時刻や日付で表現するような、時の観念に貫かれているのではない。かつて、人類学者・ロザルドは、フィリピンのイロンゴット社会では、過去の出来事が、時系列に沿って語られるのではなく、歴史は風景のなかに刻み込まれていることを明らかにしたが(Renato Rosaldo, Ilongot Headhunting: A Study in Society and History. 1985)
、プナン社会では、そういったかたちで、過去の出来事が語られるということはないようである。

第二次大戦後あたりから、年代(西暦)を用いて、過去の出来事を言い表すようになったと説明するプナンもいる。しかし、せいぜいプナンが覚えているのは、1980年代以降の出来事が起こった、大まかな年である。過去のことを語るときには、たいていの場合、以下のような言い方をする。「わたしがちょうど(いまの)ジュウェンのころに、彼は亡くなった(daun akeu Juwen ia matai)」というようにして、現存する人物(=ジュウェン)を用いて、過去の出来事を説明するのである。歴史は、それを語る人物を超えて、深まることは少ないように思える。その意味で、プナンの歴史観は浅いものにとどまっているように思える。

未来(la)については、どうだろうか。わたしには、プナンは、未来、将来について、ほとんど語らないように思える。将来、わたしはこうしたい、こうなりたい、というようなことは、一部の人(共同体のリーダーや、小学校を出た数少ないエリート)以外、ほとんど口にしないように思える。

ところで、プナン人は、何日か後に、出会う約束をするようなときには、木の枝にいくつかの結び目をつくって、それを、約束する双方が持ち帰り、一日ごとにほどいていって、約束の日が来るのを知るということを、比較的最近までおこなっていたらしい。約束の日には、どちらかが、約束の場所にやって来ることになっていて、待つ方は、とにかく、相手がやって来るまで待つというのが、プナンのやり方だったようである。一週間後の午前10時に、この場所でふたたび会いましょう、というような約束の仕方は、ごくごく最近まで、プナン社会にはなかったのである。また、誕生日であるとか、結婚記念日であるとか、一周忌というような時間の区切りは、プナンにとっては、今日でも、意味をもたない。

ついでに言えば、プナン社会には、方位がない。方位をつうじて、空間を組織するようなことはないのである。プナン語には、方角を言い表すことばが存在しない。場所は、たいていの場合、川の上流(dayah)、川の下流(bui)という表現を用いて言い表される。つまり、自分の位置を、つねに川がどちら向きに流れているのかを知った上で、特定するのである。

プナンは、ジャングルのなかを歩くときは、たとえば、ジャングルのなかで狩猟を遂行するときなどは、太陽の位置などを確認するのではなく、山(pegi)と川(bea)の上下(bawai/rah, dayah/bui)に注意を払って、道をたどる(刀を持って、とにかく、ブッシュを突き進む)。森の民プナンは、ジャングルのなかで道に迷わないかというと、どうやらそうでもなく、道に迷った(petawang)人の逸話は、たくさんある。

元に戻すならば、人類に、方位、方角の観念がどのようにして出現し、その後、どのように発展したのかということも、時の観念の発生、発展とともに、ひじょうに気になる。


神の怒りおそるべし、獣をさいなむべからず

2006年11月29日 11時26分38秒 | 人間と動物

その日は、夜になって、雨が降り続いていた。熟睡していたわたしは、午後10時ころ、「大水だ、気をつけろ (jaau bea, jaga) 」ということばで、眠りから起こされた。瞬間、川の流れは、大音量で、わたしの耳へと届けられた。見ると、川の水が、3家族が集うジャングルのキャンプのすぐそばにまで、迫ってきている。川幅は普段の倍のものとなり、水位は1メートル強ほど上がっていた。

次に、女たちが、大声で、唱えごとをしているのがわたしの耳に入った。見ると、じっとしていられなくて、彼女たちは、あたりをあちこちへ歩きまわりながら、手をふりあげ、声を裏返らせて、必死に、祈願のことばを唱えていた。

Eh, maneu daau, maneu adee.
Pah avi lengedeu bateu hujan, pah avi lecak tana, pah avi tavi tana…
Ami manyi amu mulie, ami manyi jaji, ami manyi tebeku ngan kuuk...

なりを上げ、稲光を放つ。
人を石にする雷がやって来た、大地をこわし、大地を台無しにする…
あなたよ(=雷神よ)どうか退いておくれ、わたしたちとそう約束しておくれ、約しておくれ。


このまま水量が増えつづければ、いったい、どうなってしまうのだろう。キャンプの周囲は平らな土地であり、逃げ場がない。われわれはみな、大水に飲みこまれてしまうにちがいない。わたしは、キャンプに集う10名ほどのプナン人たちとともに、恐怖を感じた。それから1時間ほどすると、しだいに川の水は引いていった。

デンプンを抽出するためのサゴの木を求めて、ジャングルのなかを移動し、生活用水を供給する川のそばにキャンプを張っていた、ノマド時代のプナン人にとって、大水は、潜在的な脅威であったにちがいない。それは、有史以来、彼らにとって、最大かつ唯一の「自然災害」であったのではないだろうか。

そのような大水、そして、それを引き起こすことになる雷雨は、プナン社会では、雷神 (balei gau, balei liwen)によってもたらされると考えられてきた。日中照りつける熱帯の強烈な太陽によって、過度の湿り気を得て立ちのぼる蒸気は、雷雲となって、やがて、グウォウォウォーンというものすごい響きとともに、天空でうなりを上げる。稲妻は、遠くからだんだんと近づいてくる。それらの自然現象は、プナンにとって、天空のかなたからの、おそろしい神の怒りとしてイメージされてきた。

怒りとは、原義として、他者がおこなった<まちがった>行為に対するいきどおりにほかならない。雷神は、ときに、人間がおこなった<まちがった>行為に対する怒りを爆発させ、<まちがった>行為をした当の人たちだけでなく、その周囲の人びとにまで襲いかかろうとする。そのとき、人間は石と化し、焼けただれた大地は、血の色で赤く染まるとされる。

プナン人にとって<まちがった>行為とは、何を指すのだろうか。それは、広い意味で、ジャングルに住む獣たちをさいなむことである。

キャンプの籐のバッグのなかに入れてあった獣をちらっと見て、わたしが「お、鶏(dek)か」とつぶやいたとき、わたしの目の前にいた男は、そのことばを聞いて、あわてふためいた様子だった。彼は、「ちがう、それは、わなにかかった野生の鶏(amai, iteu datah jin biu)だ」と言い直した。そのことから、わたしは、プナン社会で、ジャングルに住む野生の鶏を、それと姿かたちが似ている鶏とまちがって呼ぶことが、強く禁じられていることを知ることになった(逆に、すなわち、鶏を野生の鶏と呼ぶことは、問題ではないとされる)。それは、野生の鶏をあざ笑い、さいなむことになる。その<まちがった>ことばは、雷神へと届けられ、その怒りを買うと考えられている。

べつの機会に、わな(biu)に掛かって生きたまま持ち帰られた野生の鶏は、キャンプのリーダーがそれをほふるまでの数分間、キャンプの人びとに、沈黙を強いることになった。その獣に対して、<まちがった>ことばや行為が発せられた場合、雷神の怒りに触れることになると考えられたからである。<まちがった>ことばや行為は、獣が死んでからより生きているときに聞かれたり、なされたりしたほうが、危険度が高いと考えられている。

<まちがった>行為をしてはならない。そのような規則は、ジャングルやその周辺に住む「狩猟対象の獣」および「猟犬」に対して適用される。家で飼われている鶏は、そのような規則の適用から除外される(家畜化された鶏は、プナンにとって、たんに飼われているだけの存在である)。プナンはよく、狩猟でしとめられた獣は、解体・料理して、たんに食べるだけであるという。その間に、<まちがった>行為をしないようにしなけらばならない。とりわけ、マレーグマ(buang)とテナガザル(keledet)は、解体から食べるまでの過程で、その名前すら発してはならないとされる(あるいは、べつのことばに言い換える)。このように、プナン社会では、雷雨や大水を引き起こす、人間の側の<まちがった>ことばや行為とは、広い意味で、狩猟される獣をさいなむような、人間の態度、ふるまいにほかならないのである。

要するに、ここでいう<まちがった>ことばや行為の範疇には、獣の名を(まちがって)呼んだり、獣のみにくさをあざ笑ったり、獣が糞便をするのを笑ったり、猟犬が交尾をするのを見てはやし立てたり、川の魚を取りすぎたりすること…などが含まれる。ジャングルに住む獣は何でも食べるという狩猟民プナンにとって、狩猟される獣に対する特定の人間の態度を<まちがった>ものとして申し立てることは、狩猟対象としての獣こそが、プナンの日常の最大の関心事であり、それと同時に、それが、日々襲い来る雷雨や大水の原因を考えるのに適していたからではあるまいか(人間が獣に対してつつましい態度を取ることが、獣を尊重することにつながり、その結果、動物の乱獲を抑制し、人間と環境の調和を維持してきたという説明は、そのようなタブーと雷雨や大水の発生の関係を説明していないという点で、片手落ちであろう)。

獣をさいなむと、雷神の怒りを買うことになる。
おそるべきは、神の怒りであり、人は、獣をさいなむべからず。

(写真は、生きたままキャンプに持ち帰られた野生の鶏とゆううつな人びと)

【追記】
この問題は、1960年代に、ニーダム(プナンの事例)によって報告・検討され、それ以降、フリーマン(イバンの事例)、ポール(オラン・アスリの事例)、エレン(東インドネシアの事例)、メトカーフ(ブラワンの事例)、キング(マローの事例)などによって報告・議論されてきた、いわゆる「カミナリ問題」の文脈の上にある。「カミナリ問題」とは、マレー・インドネシアの広い地域にわたって、雷雨や大水、洪水などの「自然災害」が、人びとが動物をからかったり、さいなんだりすることにかかわると考えられており、また、落雷によって、人間が石化したという話が存在することを含む、エスノグラフィックな研究課題である。

かつて、わたしが調査したカリス社会(ボルネオ島の焼畑民)でも、「カミナリ問題」をめぐる逸話をたくさん蒐集することができたが、そこでは、人間と動物の関係が明らかでなかった。だが、狩猟民プナンの調査をつうじて、彼らが、ジャングルに住む獣を食材として重用し、それらと日常的にかかわるがために、そこでは、人間が動物に接するあり方が禁忌として構成されるプロセスが、よりあざやかに浮かび上がるように、わたしには思える。


快楽の追求

2006年11月28日 12時19分03秒 | 性の人類学
その性交のための道具は、40歳代のプナン人男性のペニスの先端部分に取り付けられていた。亀頭を横断・貫通して、一本の棒が取り付けられているのではなくて、尿道を傷つけることがないように、亀頭の表面近くに、注意をはらって空けられたのであろう穴へと、両側から二本差し込まれていた。それは、その目的上、かんたんにはずれるものであってはならず、固定的に取り付けられているようだった。

それは、ある日の午後、ジャングルの片隅で、秘密裏に撮影された。撮影の途中に、包皮の先端に一匹のハエが止まった。男は、それを、恥ずかしそうに追い払った。

その男は、6年ほど前に、亀頭に穴を空けることに長けた人物にたのんで、施術してもらったと語った。その穴に、プナンのことばで、ペニスに突き刺すもの、ウトゥン・ニー(uteng nyi)と呼ばれるものを刺し入れて、性交に用いてきた。ウトゥン・ニーは、ある種の木を素材としてつくられる。女性の性器の内の襞にあたる先端部分が削られて、丸みが付けられる。男は、自ら、それをつくったと語った。亀頭に穴を空けるのと、棒をつくるのは、べつべつのプロセスなのである。穴が空けられていれば、それを気に入らないような場合、べつのものをつくって、差しかえることができる(逆に、一生涯同じものを付ける場合がある。ある60歳代の男性のウトゥン・ニーは、長年付けているので、黒光りしているとのうわさがある)。

その性具は、一般に、女性の性的な快楽を高めるためにあると、プナンの男たちはいう。しかし、(経験の少ない)若い女性に対して用いると、出血して、苦痛をもたらし、逆効果になるともいう。プナン人の間でよく知られた、ウトゥン・ニーの伝説は、以下のようなものである。町の女郎宿に、3人の男が入っていった。最初は、イバン人の男。女は、新聞を読みながら相手をした。二番目に、クニャー人の男。同じく、女は、新聞を読みながら相手をした。最後に女郎宿に入ったのは、ウトゥン・ニーを付けたプナンの男。女は、新聞を手にしていられなくて、歓喜の声を上げたという。また、以下のような話もある。プナンのウトゥン・ニーのうわさは、遠く、欧米にまで届いていて、近いうちに、白人女性(orang putih)たちがたくさんやって来て、プナン人のウトゥン・ニーの性能を試すためのコンテストを開くという話を、酒を飲むとプナン人の男たちは、よくしている。

クニャー人やカヤン人といったプナンの隣人たちも、かつて、そのような性具を付けていたといわれている。しかし、今日、それを取り付けているのは、プナン人の男性だけになってしまった。その意味で、ウトゥン・ニーは、プナンが言うように、プナン社会の起源なのかどうかは、はっきりしない。ここでは仮想的に、そのような性具を、プナン社会の起源だととらえて、そのような性具の発達について考えてみたい。いったい、プナン社会は、どのようにしてウトゥン・ニーなる性具を発達させ、今日にいたるまで、もち続けているのだろうか。わたしが知りたいと思うのは、人類が、どのようにして、そのような類の性具を発達させてきたのかという点である。

一般に、環境の変化に適応するために、<性>が誕生したのは、14億年前のことであるとされる。プナン人が旧石器時代の暮らしを比較的最近まで伝承してきた狩猟採集民の末裔だとすれば、性の道具そのものは、人類社会に、比較的早い段階で出現したものであったのかもしれない(旧石器時代のヒトの骨から、性具が発見されたという報告は、寡聞にして知らないが)。

さて、プナン社会では、口唇性交が強くタブー視されている。ビデオCDで、欧米の性行為を見たことがあるプナン人は、口唇性交の場面を強く忌避する。口や舌は、プナンにとって、生きていくために食べ、そして、ことばをつむぎ出す(考えを述べ、意図を伝える)器官であり、それは、性器に対して用いるものではないのである。そのような規範に沿いながら、性の快楽を求める人びとは、性行為のありようではなく、性器に取り付ける性の道具を発達させてきたのではないだろうか。

はたして、男たちは、率先して、その性具を身にまとってきたのだろうか。写真撮影をしたその男は、妻に、それを付けるように求められたという。別の30歳代の男性は、妻にそれを付けるように言われて、それを拒否して、その女と離婚することになったとわたしに語った。女の側からの要求、女の快楽への欲望が、男にウトゥン・ニーをつけさせるひとつの要因である。いずれにせよ、それは、人類の快楽追求のひとつの産物なのである。