たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

MY COMPUTER

2006年08月28日 11時51分26秒 | フィールドワーク
I am embarrassed with sudden breakdown of my computer machine --- TOSHIBA Libretto L5/080 TNLN, which I bought some five years ago ---.   I really loved it.   I suppose CPU was fatally damaged.   I have it not for daily use in my research site (no electricity), but for full use in town for data filing.   Japanese word processor is helpful for university job and making this blog story.   This is not the first time I have trouble in computer machine during fieldwork.   When I did long-term research in a shifting cultivator of Indonesian Borneo about a decade ago, my dos V machine --- IBM Think Pad 550 (old but compact and lovely) --- suddenly stopped working.   I had it for daily use with electric generator brought into my field.   Shortly I decided to send it back to IBM service center in Tokyo to ask for repair.   I remember it totally cost some 200,000 yen! until I could use it again in the field.   I think I had better purchase a new computer this time.

魚/雷/食

2006年08月27日 11時40分53秒 | 人間と動物
アメリカの人類学者ピーター・ブロシウスは、1980年代の調査時点で、プナン・ギャングが、少なくとも、1,100の河川や水流に名前をつけていることを確認することができたという[J. Peter Brosius, “RIVER, FOREST AND MOUNTAIN: THE PENAN GANG LANDSCAPE” ]。降雨量が少なく、河川の水位が下がるこの時期(乾季)、わたしのプナン・ギャングの調査村の周囲の大小河川では、川魚が大量に獲れる。そのあたりは、乾季には川魚が豊富にいる地域として知られている。周辺地のクニャー人などのグループが、4WD車に乗って、ときどき川魚の漁をしにやって来る。

プナンの川魚の漁の仕方は、以下の4種である:(1)投網、(2)川幅に20メートル×3メートルほどの魚網を張る方法、(3)水中銃を用いる方法、(4)竿を用いて釣り上げる方法。(1)~(3)は、もっぱら男によって、(4)は、女によって担われる。この時期、プナンの川魚の漁はほとんどの場合、男たちによって行われる。

ある日、男たちばかりで、4艘のカヌーに分乗して、B川を下って、川魚の漁に出かけた。上述の(1)~(3)の手法で、大量に川魚が獲れた。臓物が抜き取られ、うろこが削られて、火がよく通るように、背にナイフで切り込みが入れられて、魚は、川辺で焼かれた(写真)。個々に、市販のケチャップやソース、唐辛子などを用いて味を調整しつつ、炊きたてのごはんとともに、みなで焼き魚を食べた。美味い。塩で味付けをしてつくられた川魚スープも供された。 ロングハウスに持ち帰られた魚は、油を使って炒められたものもあれば、川魚スープにされたものもあった。それでも食べきれないような場合には、燻製にされることもある。プナン人は、獣肉の場合でもそうであるが、料理された川魚だけをおかずにして、ごはんやサゴ澱粉(naung)とともに食べる。それに対して、プナン人は、芋の葉やゼンマイなどの野菜類を、ほとんど食べない(それらを料理して食べるようになったのは、どうやら近年のことのようだ)。

ところで、川魚の漁の最中に、真っ青な空の下、突然、ゴロゴロと大きな音で、雷が鳴り響いた。それを聞いて、プナンの男がつぶやいた。「人が魚を獲りすぎるので、川魚の霊が怒っている」のだと。落雷は、一般に、人を石化させる(雷に打たれた人間は、その場で石になってしまう)と考えられている。しかし、落雷の原因は、動物との関わりにおいて、つねに人間の側がつくりだすのだとされる。人が川魚(動物)を必要とする以上に獲ることは、川魚(動物)をもてあそんでいる、苛んでいることになる。そのようなときに、人間に、落雷による石化という超自然的な制裁が下される。 そうだとすれば、逆に、雷の轟きや落雷への畏れは、プナン人たちが川魚を獲りすぎることを、うまく制御するように働く(働いてきた)のだろうか?いいかえれば、プナン人は、人と動物との関係と超自然的な制裁との観念的な因果連関をつねに意識し、共有し、それに見合った行動を取ることによって、周囲の動物や自然環境との調和的な共存を図っている(きた)のだろうか? そのときは、少なくとも、そういうことは言えないように思えた。プナン人たちは、その一回きりの雷鳴の後も貪欲に、いや、よりいっそう夢中になって、水中銃や投網で、川魚を捕獲したからである。ただし、この事例だけで、上述の問いは否認されないことは言うまでもない(問い自体が、先住民と環境の調和主義的なパラダイムの上に設定されているという、根源的な問題もあるが・・・)。

プナン人の村では、いっときに多くの川魚が獲れるので、揚げ魚や川魚のスープなどの魚料理が、しばらくのあいだ引き続き出されることがある。プナン人の食行動の特色のひとつに、食材があるときには、ずっとそれだけを食べて、なくなるまで、他の食材を探す努力をほとんどしないということがある。案の定、3日間、一日2回の食事に、繰り返し、川魚料理のみが出されたことがあった。投網で川魚を大量に得たロングハウスの住人からも、分け与えられたためである。わたしは、川魚を食べることに飽きて、保存してあった鶏肉カレーの缶詰を空けて食べた。プナン人にも、わたしと同じように、川魚の料理に飽食している者がいた。

O大学・プナン隊

2006年08月26日 11時33分21秒 | 大学
7月の末から、O大学およびS大学の学部学生が、サラワクに来ていた。そのうち、O大学の男子学生、Nくん(3年生)とSくん(2年生)の二人が、1ヶ月弱の間、わたしのプナン人の調査村に滞在した。正確には、彼らは現在もプナン人の村に滞在中で、28日に帰路につく。わたしは、マラリアの血液検査のために、一足先にビントゥルに出てきている。

他者(異文化)にゼロ接近し、他者の苦悩と悦楽に寄り添いながら、他者を出発点として、人間を立体的に把握するための糸口を見つけ出すことが、そのフィールドトリップの主な目的である。そんなことが、異文化の短期的な滞在で、はたして可能か?無理だ。それは、そういった傾向性を身につけること、そのような実践を積み重ねていくことによってのみ可能になる。この2年の間、わたしは、ボルネオ島でそんな試みを続けている。その背景には、(やや大袈裟に言うならば)、人類学を教える側が、20世紀の最後の4半世紀の間、表象をめぐる部分的な議論へと自らを縮減するあまり、問題を迂回できる、近場の身近な他者でフィールドを済ませたり、フィールドの成果を「よき社会の実現」のための資材にしようとしたり、問題含みのフィールドに傾注しないことさえもよしとするような、志の萎んだ、不毛で、頭でっかちな、フィールド軽視の人類学を生み落としてきたことを猛省して、人類学教育のなかに、個人的レベルながら、われわれにとってなじみの薄い他者のフィールドワークの実践を積み重ねたいという思いがある。

NくんとSくんの滞在スケジュールは、わたしがビントゥル・ホスピタルでマラリア熱に倒れていた時期と重なった。わたしは、彼ら二人を、先にプナン人の村へと送り込むことにした。彼らに9日遅れて村へと戻ってみると、インドネシア語(=マレーシア語)に力を入れて事前に勉強してきたことも手伝って、とりわけ、子どもたちとうち解けて、良好な関係を築きながら、たくましくすごしているようだった(長袖・長ズボンで防備しているわりには、からだじゅう、蚊や虫に刺されていたが・・・)。プナン人たちは、わたしがいない間にやって来た彼らの暮らしぶりを、親しみをこめて、おもしろおかしく、わたしに語り聞かせてくれた(そのことを、おそらく彼らは知らない)。

彼らの滞在最終週近くになってから、ようやく2回連続で、狩猟キャンプに出かけることになった(2泊3日×2回)。車に乗って出かけた狩猟キャンプ。NくんとSくんは、夕暮れがせまるころ、別々のプナン人について、油ヤシのプランテーションで行われる<待ち伏せ型>のハンティングに出かけたが、あいにく激しい雨が降って、獲物はしとめられなかった。2日目も、同様に、獲物はなかった。プナン人たちは、<ぼやきことば>をつぶやきながら、狩猟キャンプへと戻ってきた。続いて、総勢20人ほどで、船と徒歩で出かけた狩猟キャンプでは、周辺地のジャングルの狩猟行の厳しさを知るプナン人たちから、彼らがハンティングに同行する許可が与えられなかった。しかし、その狩猟行では、プナン人のハンティング・スピリットが発揮された。油ヤシの実を食べに来た40キロほどの大きなメスのイノシシが撃ち殺され、夜の9時すぎに、狩猟キャンプに運び込まれてきた。夜の涼気の中で、体から湯気をあげながら、イノシシは解体され、すぐさま内臓や肉が料理された(写真は、解体作業をするプナン人と、それを見つめるNくんとSくん)。

NくんとSくんは、プナン人の村に滞在中は、センザンコウ、カエル、ヤマネコ、シカ、イノシシなど、食事に出された獣肉は、だいたい何でも、プナン語で「うまい(mi)!」を連発しながら食べていた。他方で、彼らは、プナン人の生活モードや、日本人にとってなじみの薄い強烈な交渉・行動様式にとまどい、「文明」世界を恋しく感じながら、時間とともに、多少疲れてきているように見えることもあった。しかし、全体をつうじて、(隣村の年頃の女の子に気に入られたりして!)うまくやっていたように思う。 彼らは、プナン人の村での滞在をつうじて、いったい何を見た(聞いた、嗅いだ、感じた)のだろうか?このフィールドトリップは、彼らの心に新たな火(世界の別の見方の火?)を灯すきっかけになるだろうか?

----AGAK NYI, N, S!----

マラリア罹患記

2006年08月25日 12時31分48秒 | エスノグラフィー
恐れていたマラリア熱に罹った。今から思えば、蚊対策が十分でなかったのかもしれない。しかし、フィールドに入った当初、どうしようもなく蚊に刺されて、防ぎようがなかったのもまた事実である。三日熱マラリア(Prasmodium Vivax)。ボルネオ島の別の地域で行った調査においても、マラリアに罹ったことがある(11年前の2月:チフスとの合併症)。今回、2回目である。

7月末、クチンで行われた国際学術会議の前後から食欲が無く、なんとなく身体がだるく、疲れやすかったように思う。クチンからフィールドへと戻るときに乗った、冷蔵庫のようにガンガンに冷房を効かせるエクスプレスボートの中で、最初に震えが来た。乗り継いだバスで発熱して、降車したときには、荷物も持てないほどぐったりしていた。到着したビントゥルの町で、いったん熱が引いたものの、深夜に、再び発熱とものすごい発汗があった。

<翌朝>、熱は引いたものの、夜には食欲が無く、再び発熱。町医者に診てもらうと、マラリアではないだろう、血液検査をしてみなければはっきりとは分からないけれど・・・と言われた。解熱剤、抗生物質などを処方してもらう。その後、体調は回復したかのように思えた。 <その翌朝>、起床時に体調不良と発熱。その後、上腹部が腫れるような感じが続いて、食欲が無く、ずっとホテルの部屋で横になっていた。

<その翌日>は、ホテルから一度食料を買いに外出しただけで、一日中気分がすぐれず、部屋の中で寝ていた。食欲が無く、上腹部の腫れの不快感を感じる。夜になって、体調が次第に悪化した。発熱、頭痛、上腹部の腫れがひどくて眠れなかった。
<翌朝>の夜明け前に、それらの痛みに耐えることができなくなる。日本の保険会社に緊急連絡して、病院を手配してもらうように依頼する。保険会社の手配で、ホテルのスタッフが迎えに来てくれたのは、最初の連絡から1時間ほど後のこと。苦痛で、立つことさえできなくて、スタッフに抱えられながら車に乗り込む。いくつかのクリニックを回った後、ビントゥル・ホスピタルの緊急外来に担ぎ込まれる。車に乗っていた30分間の苦痛は、地獄のようであった。ビントゥル・ホスピタルの医師は、私の経過説明を聞くなり、マラリアだと言った。ベッドに寝かされ、点滴を受け、だんだんと症状は落ち着いてきた。血液検査の結果、マラリアであることが確認され、入院することになった。だだっ広い部屋に、廊下を挟んで、8つのベッドが置かれている。部屋には冷房はなく、天井から扇風機が吊り下げられている。その入院初日は、点滴を5パック打ち、看護師が治療や検査に当たってくれた。マラリア患者は、夕暮れから翌朝6時までは、蚊帳を吊らなければならない。毎夜毎夜、蚊帳の中で、汗だくになりながらもがいた。

<入院2日目>、ふと斜め前のベッドを見ると、どこかで見たような顔を見つける。プナンの調査村から、50歳代の男性が、オイを伴って、結核で入院してきた。その日は、マラリア熱の症状は、次第に回復に向かっているかのように、私には思えていた。しかし、その夜、再び発熱。いったん引いたかのように思われたが、その後、上腹部が腫れて、熱が出て苦しくなった。次に目覚めたのは、夜の12時。身体の芯の部分から震えが出て、それが止まらなくなった。身体の中央部分から、手の足、足の先へと震えが伝わり、痙攣するように、ガタカタと震える。ベッドはぎしぎしと音を立てて揺れていた。その得体の知れない震えは、20分間ほど止まなかった。どうなるのかと心配した。じわじわと発熱してくるのが分かった。看護師に薬を与えられ、点滴を受けて、次第に回復するが、大量に発汗する。シーツと枕、寝巻きは、ぐっしょりと濡れて、気持ちが悪い。

<入院3日目>は、前夜に経験した、その震えの影響で、一日中体調がすぐれず、ぐったりとベッドに横たわっていた。点滴6パック。何もやる気がしなかった。この頃になって、医師と看護師、その他のスタッフの仕事が、ある一定のリズムをもって行われていることが、徐々に分かってきた。体温、血圧は、4時間ごとに看護師によって計られ、血液検査のための血は午前4時に抜き取られる。午前8時に、データをチェックして、医師が病状を判断し、退院などの措置を言い渡す。患者は、眠っていても4時間ごとに起こされる。身体を休めるというよりも、入院中は、「検査され、治療される身体」とでもいうべき状態に置かれていることになる。

<入院4日目>は、ようやく回復に向かう兆しが見えてきた。3日目に私の隣のベッドに、結核で入院してきたインドン(インドネシア人)の男は、5,6歳の姉弟(娘と息子)を連れてきた。看病してもらうためではない。姉弟の預け先がないから。姉弟の母親がいないので、一緒に連れてこざるを得なかったらしい。なにやら複雑である。その結核の男は、今回入院が3回目で、毎回名前を変えてきているらしい。看護師に、そのことを執拗に問い詰められている。その翌日、彼がパスポートを所持していないため、入国管理局の役人5人が呼ばれてやってきた。病室は、イミグレーションのユニフォームを着たものものしい男たちに占拠されたかのようである。その場で取り調べがなされ、その男は、娘と息子とともに、入国管理局へと連行されていった。入国管理局の役人たちは、まだ幼く、事情を飲み込めていない姉弟が、昼時に与えられた食事の皿を平らげるのを待ってから、連行した。父親を看病するのではなく、病院にまで連れてこられて、椅子の上で眠り、おとなしくしていた幼い姉弟たちが、不憫に思えた。ところで、4日目の血液検査の結果を見た看護師が、おそらく翌日には退院できるだろうと言った。

<入院5日目>、午前8時の医師の巡回時に退院が告げられることを期待したが、医師から発せられたのは、残念ながら「まだです」。私は、いつの間にか、マラリアを治癒させたいということよりも、とにかく早く退院したいという気持ちを抱くようになっていたように思う。その日は、病院内を少し歩いたり、売店に買い物に行ったりするまでになった。私の斜め前に寝ている、結核がひどくて入院してきたプナン人の男は、この頃、夜中に、大きな声で、宙に向かって誰かと対話するようなことが多くなった。彼は、いまさっきそこに「霊」がいたと看護師に訴えて、一笑に付されていた。「霊」との対話に夢中になったその男は、点滴のチューブをはずしてしまったことがあった。付き添うオイは、その結核患者からひとときも目を離さないように、看護師に命じられた。私は、夜中に、誰かと対話しているそのプナン人の男と目が合うことがあって、ゾクゾクしたことが何度かあった。

<入院6日目>、午前4時の血液検査の前に、すでに目が覚める。午前8時、退院があっけなく医師によって告げられた。諸手続きを終えて、昼頃に、私のマラリア入院生活は終了した。私の退院の直前に、私の調査村から子どもがマラリア熱で入院したという話を聞いた。どのあたりからマラリア患者が来ることが多いのかと看護師に尋ねると、後背地の地名がいくつかあげられた。私のプナン人の調査村の名前もあった。後日、調査村のプナン人から聞いたところでは、90年代以前には、マラリアはなかったという。その病気は、油ヤシ・プランテーションが建設されてから、当地で大流行しているという。プナン人にとって、マラリアは、開発によってもたらされる、「開発原病」なのである。さて、結核のプナン人男性も同時に退院し、われわれは、ビントゥルの町までタクシーで一緒に出た。オイは、まだ見えないものを見るという部分が治っていないので、村に帰る前に、アサップ(という町)の伝統医に診てもらうと言った。 とにかく、つらい日々であった。もう二度とマラリアには罹りたくない、と強く強く思う。

(写真は、ビントゥルの衛生局が、マラリア撲滅のためにロングハウス内で行う、オキシダール50のスプレー散布の様子)