たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

風の谷のナウシカ

2010年01月31日 00時10分30秒 | 自然と社会
アニミズムをめぐる拙論に関して、ある方から『風の谷のナウシカ』が参考になるのではないかというご意見をいただき、アニメを読んでみたが、今ひとつピンと来ない点があって完読できなかったので、DVDの映画を観てみた。そこから、ある種の霊感を得た気がした。個人的な感想にすぎないが、述べてみたい。

あらすじをまとめるならば、以下のようになるであろう。人類文明は、「火の七日間」と呼ばれる最終戦争を引き起こした後に滅亡し、焼け跡から、瘴気が充満する腐海が発生した。腐海には、菌や蟲が棲息し、それらが人の生存を脅かし続ける。「風の谷」の王女ナウシカは、人類の栄光を取り戻そうとするトルメキア国との戦争を戦いながら、同時に、人類の生存をかけた蟲たちとの戦いにおいて大きな役割を果たす。

主人公のナウシカは、ギリシャ神話に登場する俊足で空想的な王女の名であり、それと、堤中納言物語に登場する、社会の束縛から逃れて、感性にたよりながら、野山を駆け回って草木や雲に心を動かした「虫愛づる姫君」をかけあわせながら、宮崎駿によって生み出された、創造上の少女である(映画のなかで、ナウシカがスカートの下にパンツを付けてないようだが、そんなことが、ことさら気になるわたしはヘンであろうか?)。

動物や王蟲と心を通じ合わせることができるナウシカは、世界のあちら側の存在とコミュニケーションできる存在としてのシャーマンの特質を備えている。それだけでなく、そのことによって、人心をひとつにまとめることができる点で、シャーマン=王(女)のプロトタイプなのかもしれない、みたいなことを考えた。

全編をつうじて、わたしがとりわけ興味深く感じたのは、この話のなかで、王蟲や胞子などの自然存在物が、知性や精神機能を持つような、人と同等か、いや、人よりも優位な存在として描かれている点である。そうした自然的存在物は、いや、それらこそが、千年もの間、腐海に住みつづけて、腐海を亡きものにしようとする人に反攻しながら、他方で、腐海の奥底深くに、完全なる自然を生み出そうとする営為を続けてきたのである。

そのことを、ナウシカが、はじめて発見したのではあるまいか。そうであるならば、作者の意図は、自然を、人間の考えが及ぶことがない、より崇高なる、オートポイエーティックな秩序や理性として捉えられるという可能性に開いてゆくことにあるのではないだろうかと、思いたくなる。取るに足らない花や自然のなかに、深い知性や秩序のありかを読み取ろうとした、レヴィ=ストロースやスピノザのように。

狩猟民たちの自然観は、ナウシカが捉えようとした自然の動きに近いような気がする。気のせいかもしれないが。そう考えると、腑に落ちる点がいくつもある。ナウシカの物語の先には、わたしたちのものではない、別の自然観を考えるための手がかりがひそんでいるように思える。

以前、宮崎駿映画のもののけ姫について考えてみたことがある
↓↓↓
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/63c757e2a9e59fe6c52415aad981bb67

信用する心の問題

2010年01月27日 18時58分01秒 | エスノグラフィー

わたしは、日ごろから付き合いのあったプナンの少年からの求めに応じて、彼のことを「信頼/信用」して、100リンギット(約3000円)を貸し与えた。彼は、その金を元手にして、町にスナック菓子などを買出しに行って、それをプナン人の居住地に持ち帰って売却し、150リンギット(約4500円)にした。しかし、彼は、その後、元金を、わたしに返金しようとはしなかった。それどころか、少年は、そのすべての金を、段階的に、自分の飲み食いに使い果たしてしまっていた。  

プナンは、商業的森林伐採の賠償のために支払われる予定の「給料」を担保にして、わたしに、しばしば、借金を申し入れることがある。わたしは、場合によっては、彼らのことを「信頼/信用」して、金を貸し与えることがある。しかし、状況によっては「給料」が出なかったり、出たとしても、病気療養などのために使ってしまったりして、あるいは、ビールなどに消費してしまったりして、状況次第で、返金しない場合がほとんどである。わたしが貸した金は、ほぼ確実に、返ってこない。  

借金の踏み倒し。そういったことをすると、わたしの彼らに対する「信頼/信用」が失われてゆく。日本人なら、おそらくそう考えるだろう。しかし、プナンは、ふつうは、そうは考えない。わたしたちにとって、じつに奇妙なやりくりが、つねに行われている。一言で言えば、それは、共同所有に関わるもの
であるが、その点についてはいったんおくとして、そこでは、「信頼/信用」が、きずなを強めたり、社会関係を築いたりするのに用いられるのではないということについて考えてみたい。いや、「信頼/信用」ということばや概念が、プナンには、そもそも見あたらないという事態について。

他者に対する「信頼/信用」とは、いったい何なのだろうか。それは、その人の言動や言い分を、間違いないもの、真実として受け入れるということである。その場合の真実とは、じつは、思い込みであったり、望みであったり、なんらかの確信であったり、あるいは、思い違いであったりする。わたしたちは、「信頼/信用」ということばを、かんたんに使用できるが、その原理については、じつは、あまり分かっていないという意味では、その概念は、ブラックボックスである。

そうだとすれば、わたしたちは、本来的にブラックボックスであるようなものに実体を与えて、それによりながら、社会関係を築いているというふうに考えられないだろうか。その点を踏まえれば、プナンが、そうした「信用/信頼」といったことばや概念を持たないことも、また十分にありえるように思われる。「信頼/信用」というような、わたしたちの社会では、心の深いところにあって、人間関係を基礎づけているような何かを、プナンは想定していないとでも言うことが、ことによると、できるのかもしれない。

心のなかに「信頼/信用」することが、与えられていないような真空状態。仮にそういう状態があるのだとすれば、相手を「信頼/信用」し、逆に、相手から「信頼/信用」されることによって、お互いの絆が高まってゆくというようなことがないわけである。少なくとも、言葉として、概念として、そこでは、そういうことが、表現されることがない。こうした事態は、人の心にとって、何を示しているのだろうか。文化の精神分析を突き詰めることなしには、問題の入り口にすら立つことができないのかもしれない。

 (サゴやしを食す)


『深い川』

2010年01月26日 10時59分01秒 | 文学作品

ナイーブすぎるのかもしれないが、とんでもないような残虐性や悲しみに貫かれているよりも、こういった中くらいの悲しみを背負った文学作品を読んだほうが、胸が張り裂けそうな感じになる。

ペルーの小説家であり、文化人類学者でもある、ホセ・マリア・アルゲダスの『深い川』(写真)


この本の題名は、ずいぶん前から知っていた。1984年に出版されて、わたし自身のラテンアメリカ文学への興味関心への手引きとなった『ラテンアメリカ文学案内』(冬樹社)のなかでも、ひときわ高い評価が与えられていたからである。1993年に、杉山晃訳で、現代企画室から日本語訳が出ていたということは、最近になるまで、ちっとも知らなかった。

わたしの現在の関心は、ホセ・マリア・アルゲダスが、文学者でもあり、文化人類学者でもあったという点にある。彼は、ペルーのメスティソ(混血)という出自をもちながら(1911年生まれ)、インディオによって育てられ、スペイン語とインディオの言葉=ケチュア語に通じていたとされる。民族学の学士号を取得した後、1958年からサン・マルコス大学の民族学講座の教授となっている。1963年には、博士号も取得し、言語人類学者として、幾つかの論文などを残している。『深い川』は、1958年に出版された、彼の代表的な文学作品である。

『深い川』は、田舎回りの弁護士の父と、少年エルンストのクスコへの旅という、ややありきたりで、幾分退屈な話から始まる。エルネストは、その後、父と別れて、ミッションスクールの寄宿生となる。ストーリーの大半は、寄宿学校での友人との付き合い、神父とのやりとりなどである。大きなところでは、この地域の社会的格差を背景として、インディオによる塩の専売所の襲撃事件が起き、さらには、川向こう農場でチフスが流行し、それが迫り来る様子が描かれる。小さなところでは、知恵遅れの女と寄宿生たちとの性的遊戯、発展しそうで発展しない恋愛の断片などがつづられる。

これに対して、全編を貫いて、あちこちにちりばめられているのが、主人公のエルネストの、あるいは、作者の、匿名性をもったインディオ、あるいは、インディオ文化への深い共感のようなものである。それは、具体的でない。ほのめかし的、イメージ的なものでしかない。そのためによりいっそうのこと、物語が、物悲しい色調を帯びているように感じられる。

スンバイユという、四つの穴をもち、回転すると歌う、アンデス地方の独楽が、様々な意味をつむぎ出す玩具として、さらには、作品における仕掛けとして、多くの場面で、用いられる。エルネストは、最初にそれで遊んだときから、名手となり、その虜となる。それは、それを遊ぶ子どもたちのエネルギーの源となり、いさかいを生む間柄に和をもたらす。スンバイユには、いろんな変形があり、それが特異なものであればあるほど、神秘的な力をもつとされる。その玩具は、神秘的な力との調和を目指すような、インディオたちの世界理解をほのめかしているかのようである。

さらに、この作品では、川がメッセージを運ぶ。パチャチャカ川の何にも動じない、澄み切った流れは、エルネストに、つねに勇気を与える。川に架かった橋は、チフスの伝染を防ぐために封鎖される。川の水は、疫病を押し流す力として描かれる。そうした自然物に対する感覚的記述は、わたしたちの普段の自然・地理感覚にもつうじるように感じられる。

ところで、ホセ・マリア・アルゲダスは、いったいなにゆえに、エスノグラフィーや人類学とは異なる文学作品へと向かったのであろうか。ことによると、そういう言い方は、彼のことを、民族学者・文化人類学者として考えすぎているきらいがあるかもしれないが、とりあえず、わたし自身の関心と重ねながら、妄想してみる。

人類学のトピックに偏った記述から漏れ落ちる、人びとの日常の感覚や経験をすくい上げようとするとき、こうした文学的手法が、助けになるのかもしれないと思える。ただし、分析や考察をするだけの味気ない対象へと切り刻まれてしまうことによって、書かれることがない事実のほうこそが大切であるというふうに考えないと、こうした記述には、なかなか取り組むことができない。『深い川』を読むと、人類学者は、体験的にそのあたりのことを、よくよく分かっているような気もする。


人獣科研の研究感覚

2010年01月25日 07時54分43秒 | 人間と動物

雪積もる札幌で、一昨日の夜の飲み会の帰りに、信号が赤に替わりそうになり、走って渡ろうとしたところ、すべって転んで肋骨を痛打した!いまだに痛む・・・夜になって路面が凍結していたのである。なんたる失態。冬の北海道のふるまいのルール。教訓として。

横断歩道、信号が替わりそうでも、あわてて渡るべからず。

さて、昨日は、科研費研究「人間と動物をめぐる比較民族誌研究:コスモロジーと感覚からの接近」通称:人獣科研)の2年目を締めくくる中間成果と今後の研究をめぐる報告会が開催された(於:北海道医療大学札幌サテライトキャンパス)。
http://www2.obirin.ac.jp/%7Eokuno/man-and-animal.html

以下、その要点の簡単な個人的覚書。

①.人間中心主義に対する疑問が、当初、研究全体のベースにあったように思えるが、非西洋社会の生態学的健全性を称揚するかたちで、その問い直しを掲げる
というのは、いかがなものか。つまり、われわれ現代人が、自然に対して傲慢にふるまっていることをめぐる道徳の問題に接近しても仕方がないのではないか。そうではなくて、なぜ、われわれは、しばしば、そういったロジックになぜ陥るのかについて考えてみる必要があるのかもしれない。

②.メラネシアの某社会では、人間対動物という、わたしたちが前提としているようなカテゴリーはどうやらない。動物はたんに列挙されるのみであり、その分類はアドホックで、文脈依存的であるように見える。そこでは、人間と動物という問題設定の難しさがあるのだ。またそこで、狩りの話を集めていくと、動物には、肉としての意味が顕著に与えられていて、動物への配慮であるとか、尊重というものが微塵も感じられない。動物の非主体性というようなものが垣間見える。さらには、男の領域や女の領域との関わりで、身体を介した動物との相互作用という観点から、人間と動物について考えることができるのではないだろうか。

③.アフリカの牧畜民社会には、今日、急速にイスラームのグローバル経済の圏域に含まれつつある。そこでは、道路が整備され、交通が盛んになる一方で、かつての輸送手段としてのウマやラバの数が減少しつつある。さらには、イスラーム経済に基づいて、
去勢されない家畜が経済的な価値をもつようになってきている。いろいろと調べたい。

④.ロボットやサイボーグは、人間に似せてつくられればつくられるほど、キモイものになると感じられる。ロボットのなかに人間性を付与することは、精神や理性を人間だけに割り当てた近代思考の図式の再生産になっているのではないだろうか。動物性というキーワードが、そうした人間と動物の集積体の理解の助けになるかもしれない。

⑤.ツェタルや放生は、中央・北・東南アジアから日本にいたるまで、多様な形態をともなって
広がる、生き物や無生物に対する宗教的な実践として捉えることができる。供犠が、秩序の更新であるならば、そうした実践は、秩序の持続化に関わっているのではないだろうか。

⑥.東アフリカの某社会における牛は、しばしば、妖怪として表象される。人と牛の関係は、生業に関わる実践領域に及ぶだけでなく、恐れや畏怖、さらには、病気や治療の領域とも関わっている。

⑦.人間と動物の関係をめぐる人間中心主義的な思想に対する批判的な考察は、議論や企画の出発点とはなるが、民族誌研究が、
一般論を超えて、道徳的・政治的な提言をすることには、そうとうの飛躍があるように思える。さらには、人間中心主義の基礎にある西洋近代思考を批判対象とするためには、西洋形而上学の成り立ちを含めて、かなり緻密な検証が必要となる。はっきり言って、手に負えない。いまは、エスノグラフィーの詳細へと向かいたいが、他方で、なんらかのかたちで、一般論も視野に入れることの必要性も感じる。一歩引いて眺めれば、
人間と動物の関係は、つねに本質的なかたちで、人間の精神に通底しており、人間社会に、普遍的に多様なかたちで現れうるものでもある。そうした観点から、今後は、人間と動物の関係の多様なありかたの提示という方向づけもありうるのではないか。

(研究会のホストであるHさんの車で、研究会終了後、札幌近郊の温泉へと向かった)


供犠論

2010年01月24日 07時54分31秒 | エスノグラフィー

北海道研究会の初日のテーマは、供犠であった。研究史から見たアイヌの熊送り、南エチオピア牧畜民の動物供犠、ラオスの農耕民の動物供犠についての口頭発表が順に行われた。供犠は、一人の発表者に従って、負債という観点から見るならば、「秩序の生成にかかわる欠如を執行者と等価である生命によって補填する」行為であるということができるのかもしれない。わたし自身は、狩猟民の調査研究を始めてから、彼らがまったく供犠を行わない人たちなので、そのトピックを、ここしばらくは、人間と動物について考えるときにまったく想定していなかった。その意味でも、それぞれの話題は、非常に新鮮で、興味深いものであったように思う。

狩猟民アイヌや近隣の諸民族のイ・ヨマンテ(イはそれ、ヨマンテは送るという意)は、17世紀半ば以降の文献に、その儀礼の記述が登場するという。エチオピアの牧畜民は、象徴的に見える行動をじつに豊かに見せてくれる。しかし、それについての釈義を、彼らは
まったく語ることがないのだという。

ラオスの農耕民の水牛は、共同体の半・外部的な動物として位置づけられる。それに対する供犠は、一発で止めを刺すというものではなくて、いたぶりながら槍で突きまわして、その残虐性をみなで弄ぶというようなものである(写真)。生殺与奪の権利を手に入れたヒトが、その人間中心主義を増幅・拡張するとでもいうような、エゲツナイやり方で。死に逝く存在に対して同一化をはかり、痛みや悲しみを共有するというような心理が、たんたんと行われる供儀の手続きにとって、はたして副次的なものなのかどうかわからない。しかし、そうした行動は、集団でいじめを行うものたちの快感(?)という人間の闇の部分にも重なるのではないかと思われる点において、
きわめて興味深いものであるように感じられた。

覚書として。


今日のエスノグラファー

2010年01月23日 13時11分05秒 | エスノグラフィー
羽田発9時のJAL513便で千歳空港に着いた。一面真っ白の世界。札幌駅に着いたときには雪が舞っていた。この時期の北海道は酷寒と聞く人聞く人に脅かされ、厚着をしてきたが、いまのところ。寒いことは寒いが、それほどでもないような感じがする。おっと、そろそろ研究会に行かなければ。

(写真:小雪舞う札幌駅前にて、ちょっと耐え難いドアップだけど)

ふたたび、エドゥアルド

2010年01月06日 23時09分53秒 | 自然と社会

あけましておめでとうございます、というにはかなり遅すぎるけれど、ま、一応年初なので。

年明けは、5日に最初の研究会があった。そこでの話題から。
言語学の語用論において、「わたし」とは、ことばによって、何かを直接指示する表現の一つであると見るならば、同時に、その意味は、文脈に依存する度合いが高いことになるという。そうした表現を、ダイクシス(Deixis)=直示的表現と呼んでいるということについて、わたしは、恥ずかしながら、まったく知らなかった。ダイクシスとは、それよりも、より包括的な概念であり、「もし断られたら、そのときにはこう言え」という表現も、観点によって、意味が異なるという意味で、直示的表現のカテゴリーに入るらしい。

この観点によって意味が異なるという語用論を念頭に置きながら、エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロは"Cosmological Deixis and Amerindian Perspectivism" という有名なかつ難解な論文を書いている。観点主義とは、an indigenous theory according to which the way humans perceive animals and other subjectivities that inhabit the world -- gods, spirits, the dead, inhabitants of other cosmic levels, meteorological phenomena, plants, occasionally even objects and artefacts -- differ profoundly from the way which these beings see humans and see themselves人間が動物や世界に存在する別の主体性ーー神、精霊、死者、別の世界次元の住人、気象現象、植物、ときには物体や人工物でさえーーを認識する仕方は、これらを見たり、自分たち自身を見たりする仕方とまったく違うとするような土着の理論立てのことである。

観点主義とは、もう少しわたしたちの経験に近づけてみるならば、人間と人間の関係における観点のずらし、例えば、自己以外の他者の気持ちに沿って考えてみることによって広がるような世界の別の組み立て方の提示というものに、似ていなくもない。主体として置き換わるのは、人でもいいし、動物や人工物などの間であってもいい。

この点を踏まえて眺めれば、わたしたちの普通の考え、すなわち、精神や理性をもつ自己が先にあって、同じ価値と形を与えられた個的な自己が結びつき合って成り立って生み出されていると考えられているような世界認識は、まちがっている、あるいは、まちがっているとまで言わなくとも、なんかこう歪んだものに思えてくる。ダイクシス(直示的表現)が、文脈に依存するように、じつは、もっとしなやかに、わたしたちは主体を入れ替えることができるのではないか、あるいは、人は、そうやってきたのではないだろうか。その意味で、観点主義の考え方は、わたしたちが用いている、自我や主体の問題を突き抜けて、自然や文化という西洋思考発信の古典的な概念の再検討の文脈において、計り知れない爆弾を抱えているのかもしれない。

もう一点、妄想のレベルの話であるが、ヴィヴェイロス・デ・カストロが用いる"spirit"という語について。それは、精霊という外在的な存在物ではなくて、内的な精神、心という意味でも使われているのではないかと思う。精霊と精神が同じだと考えても、アニミズム、あるいは、シャーマニズム文脈においては、あまり支障がないように思える。いや、むしろどちらかのものとして固定して考えないほうがいいのかもしれないと思う。シャーマンが味方につけたり、交渉する精霊とは、要は、人には見えないし、隠されているという意味で、人の精神、心の部分でもありうるのではないか。

(写真は、東大人類生態学研究室で行われた年初の研究会の様子)