たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

感覚

2006年06月07日 12時34分17秒 | フィールドワーク
プナンは、日常生活の中で、ほとんどあいさつのようなものをしない。他のボルネオ島の先住民も、社会空間の内部においては、多かれ少なかれそのようである。単純に言うことはできないと思うが、あいさつするという習慣、身体感覚は、ボルネオ先住民諸社会に、比較的新らしく広まったものではないだろうか。私は子どものころ、母親に「朝起きたらおはようのあいさつくらいしなさい」とよく言われた。私は、日本の社会規範に適うように、そのように躾けられたのと考えることができる。しょっちゅう顔を合わせている親しい者同士の間では、あいさつは別段なくてもいい(なくても不思議ではない)。逆に言えば、社会空間において、どうして人はあいさつし合うのであろうか。「おはよう」「こんにちは」「元気ですが」という類の出会い頭の形式的なあいさつは、社会秩序を保つために生み出された近代の産物だという見方もできる。プナンのコミュニケーション感覚は、我々があたりまえに行っているコミュニケーションについて、考えてみるきっかけを与えてくれる。

プナンは、頻繁に、大声で諍いをする。ロングハウスの通廊では、来る日も来る日も、諍いとその調停が行われている。諍いの原因は、夫婦喧嘩であったり、ちょっとした言葉の行き違いであったりする場合が多い。問題を提示する(喧嘩を売る)側は、大きな声で、ジェスチャーを交えて、リズミカルに、問題を並び立てる。ロングハウスの通廊は、パフォーマンスの舞台と化す。そのうちに、何事が起きたのかを知ろうとして、人びとがぞろぞろと集まってくる。問題を提示される(喧嘩を売られる)側は、その間、反論などせずに、じっとその申し立てに聞き耳を立てている。話が一段落した瞬間、今度は、喧嘩を売られた側が攻勢に出る。ジェスチャーを交えて、大声で、そして、リズミカルに反論や見解を申し立てる。諍いの言葉が、重なり合うことはない。相手が話している間に溜め込まれた対抗者のエネルギーは、次のパフォーマンスにおいて一気に放出される。延々とそのようなやり取りが続く。調停をする人がいる場合もあれば、調停者が混乱を助長する場合もある(決着がつく場合もあれば、つかない場合もある)。普段、物静かな人物でさえ、言い争うとき、怒りや憤りを、パフォーマンスとリズムに乗せて演出しているように思う。いや、演出というよりも、身についたパフォーマンスの感覚というべきものなのかもしれない。

プナンは、狩猟に連れて行くために、ロングハウス内で犬を飼っている。それぞれに、「強い(muat)」「日本(jipeng)」といった名前をつけている。彼らは、ロングハウスの中では、つねに、犬が脱糞するのを過度に警戒している。脱糞の姿勢に入るのを見つけると、プナンは猛ダッシュして、その犬を蹴飛ばして、それを阻止する。プナンは、夜の間、犬をロングハウスから追い出すが、手違いで、ロングハウス内に留まる犬もいる。朝起きると、ロングハウスの通廊には、犬糞があちこちに散らかっていることがある。男たちは、汚いから、女たちにそれを片づけるように命じる。女は、木を箸のように使って、糞をロングハウスの床の下に落とす。その後、糞の上に水をかけ、「素足で」糞のあった場所をきれいにする。この場合、彼らの感覚(触覚)としては、清潔/汚猥の境界は、どこにあるのだろうか。足を使って、糞に触れても、それは汚いことにはならないのだろうか。プナンに直接訊いても、はっきりした答えは返ってこない。素足は、そのとき、汚いとされた糞(の滓)に直接触れる。足は、ある意味で、汚物に触れてもいい部位なのかもしれない。足は、つね、剥き出しで、大地を踏みしめるために存在するからである。プナンにとって、足は、人間と自然との境界上の身体器官なのかもしれない。しかし、そもそも糞を踏まないために(糞を踏むことが汚いために)、糞が取り除かれようとしたのではなかったか。

かつて、マーガレット・ミードは、こういった感覚のテーマに取り組んだ。それは、<身体感覚の比較文化考察>というような、シャープさに欠ける課題へと格下げされ、次第に、人類学の中で、忘れられていったように思われる。ミードの感覚論を手がかりとしながら、いずれ、上のような項目について、考えてみたい。

寄生虫

2006年06月06日 17時56分04秒 | フィールドワーク
クリニックのドクターによれば、吸血ヒルの咬傷の後、足に寄生虫が入ったのだという。私が被った疾患は、近代医療では、Larva Migran という病名で知られているらしい。痛みはそれほどでもないが、痒みがときどき襲ってくる。寄生虫は、暖かい部位には行かないという。体温の低い足のかかとあたりを、あちこちに移動しているのだという。そういえば、何本もの「道」が、かかとのあたりをクネクネと走っている。ドクターは、約10年ぶりに、この症状を見たという。10年以上前にはいい薬があったが、いまは入手が難しいと思うけど、薬局で聞いてごらん、とも。薬局では、案の定、いまではその薬は、入手が困難だといわれた。薬局で勧められるままに、Thelban という薬を買った。タイで製造されたその薬は、Roundworm, Whipworm, Pinworm or Threadworm, Hookworm の症状改善に効果があると書いてある。お、Hookworm(鉤虫症) は、帝国医療の研究書でしばしば出てくる、靴を履かない社会で発症する病気ではないか。いま、一個の生命体に他の生命体が寄生していることに思いをめぐらせてぞっとした瞬間、患部がピクリと動いた。ついでに、いま、チャイコフスキーの「悲愴」の第一楽章(ムラヴィンスキー指揮)を聞いている。

米を食べる

2006年06月05日 09時13分11秒 | フィールドワーク
プナンは、ジャングルから出て、ジャングルを焼くようになった。

森の中で遊動していた時期、彼らは、サゴヤシから採取されるデンプンを食べていた。サゴヤシから採取されたデンプンは、水と熱を加えられて、食べやすくされる。今日、このあたりのプナンたちは、もっぱら、工場でつくられたサゴデンプンを買って食べている。プナンの年寄りたちが、とくに、サゴデンプンを好んで食べる。 鍋あるいは容器に入れられたサゴデンプンを、皆が取り合って食べる。そうした食べ方は、そのまま、現在のご飯の食べ方へと受け継がれている。ご飯を大きな皿の中に入れて、親子が取り合って食べる姿を見ると、ほほえましく感じる。

プナンは、森から出て初めて、周辺の焼畑稲作民から農耕の手法を学んで、米を栽培するようになった。プナンがジャングルを焼き、そこに陸稲を植え、米を食べ始めたのは、今から30~40年前のことである。焼畑の作業のサイクルは、雨期がそろそろ終わりを迎える5月に始まる。 5月末、一家族が、ロングハウスの人びとに手伝ってもらって、森を拓く作業に同行した。1989年に焼畑として用いた土地を、今年、17年ぶりに焼畑として用いるとのことであった。

家長が仕事の進め方を指示した後、めいめいがキリスト教式(カトリック、SIBなど)の祈りを捧げ、仕事にかかった。かつて私が調査したカリマンタンの焼畑稲作民社会では、畑地を決定するために、<夢占い>や<鳥占い>が行われていた。畑地が決定すると、畑地で豚を殺して、精霊に対して捧げ、収穫をもたらすように祈りが行われた。そういった複雑な儀礼の手続きは、プナン社会にはないようである。予想していたとはいえ、その落差に少し驚く。

プナンのライフスタイルが簡素であるがゆえに、そのような儀礼的手続きがないのか。あるいは、焼畑そのものが新しく導入されたために、それは、精霊と人間との関係において捉えられていないのか。プナンは、彼らが農耕の手法を学んだクニャーなどの焼畑稲作民のやり方を真似ているだけなのか。そのあたりは、今のところ、まだはっきりしない。

ペニス・ピン

2006年06月04日 10時54分09秒 | 性の人類学
これからプナン人の村に行くというと、あるクニャー人は、プナンのペニス・ピンについて話してくれた(上の写真は、この話題とは関係ない)。かつて、二人のカナダ人男子大学生が、それを付けて帰国したという。その後、成果について、報告は受けていないとも加えた。

プナン研究で知られるある某大物人類学者も、付けていたとのうわさがある。これまでに、ボルネオ島のペニス・ピンについては、エスノグラフィックな報告がいくつか公表されている。たしか、ドナルド・ブラウンによるペニス・ピンの文献目録のようなものもあった。

プナンのロングハウスで、ペニス・ピンについて尋ねてみた。男たちは、いろいろと話を聞かせてくれた(まだ見せてもらってない)。かつて付けていたが、いまははずしている男性(既婚、40歳)は施術について、以下のように説明した。 まだひんやりとしている朝早くに、施術希望者は施術師とともに水浴びに行く。亀頭(その先端を上とすれば)のすぐ下の部分に、針金のようなものを刺して穴を開けていく。最後に、その針金を貫通させる。翌朝、今度は、前日の針金を引き抜き、それよりも太い針金を突き通す。そのようにして毎朝、前日のものよりも太い針金を差し込んで、最終的に、あつらえてあったペニス・ピンを刺す。施術の期間、施術希望者は、酒と塩は控えなければならないという。薬を用いるので、血は出ないという。

その話をしていると、その男の弟の嫁が、折りたたみ傘の鉄製の骨を持ってきて、針金とはこのようなものだと示してくれた。少年に混じって、何人かの少女たちも、何も言わずに、その話に耳を傾けていた。どうやら、ペニス・ピンは、男性の領域だけに閉じられたものではなく、共同体全体にオープンなものであるらしい。付けている人物の名前が、公然と明かされた。

ペニス・ピンは、明らかに、性交渉の道具立ての一つである。成人儀礼で、大人になるために付けるというのではない。年齢に関わりなく、個人の希望で付けたり、また、はずしたりするようなものである。ちょうど、耳飾り(ピアス)のように。しかし、ペニス・ピンは、日常生活では、耳飾のようにけっして他者にさらされるものではないが。 ある男性は、旅に出たときにそれは役立つ、とその効用を説明した。女性の快楽のために、ひいては、男性の快楽のために。そして、それは、プナンの性の(快楽の)文化の産物である。

そういえば、プナンの男たちには、美少年が多いように思う。小柄ながら、ほれぼれするような筋肉質の体格。そのわりには、目の覚めるような美人(女)にはまだお目にかかっていない。

名前を変える

2006年06月03日 10時56分17秒 | フィールドワーク
プナンのロングハウスの通廊でプナン語を教えてもらっているときに、身近な人が死ぬと名前を変えるという習慣の話が出た。プナン人は、身近な人が死ぬと、遺族が名前を変えるのだ。別の機会に、「おまえのところ(日本社会)では、父親が死ぬとなんて名前に変えるのか」と問われたこともあった。それは、プナン人には自明の習慣であって、このことは、彼が、どこでも同じようなことをやっていると考えていることを示している。

日本では、人が死ぬと、現代でも、戒名が与えられる場合が多い。戒名は、遺族に対してではなく、死者に対して与えられるものであり、死者の生前の社会的地位や遺族の経済力によってランク付けされている。それは、日本社会に仏教が定着する過程で、社会の要請に合わせて宗教が改変して用いられたものである。

他方、プナンのそれは、死者ではなく、死者と身近な関係にあった人たちの名前が変わるというものである。ブニにはブウォという妻がいた。ブウォが死んで、ブニはアバン(aban)になった。その後、ブニはアニと再婚し、再びブニとなった。ここでは、妻を亡くした夫は、誰でもアバンと呼ばれることになる。逆に、夫を亡くした妻は、バロウ(balou)と呼ばれる。再婚した場合、本名に戻る。

クニャー社会でも見られるこの習慣は、前世紀の初めにオランダ人エルスハウトによって報告されている。プナンのそれについては、1950年代にニーダムが報告し、その機能と構造について分析している。その中で、ニーダムは、この習慣を「死の名前(death-names)」と名づけている。しかし、上で見たように、新しく妻をもらったときにも名前を変えるのであり、それがこの習慣そのもの全体を適切に表すことになっているかどうかについては、私は、疑問に思っている。プナンは、この習慣を、ンゲリワー・ンガラン(ngeliwah ngaran)、<名前を変える>と呼んでいる。

父が死んだ場合には、息子はウヤウ(uyau)、末の男子だけがパシ(pasi)となる。同様に、娘はウタン(utan)、末の娘だけがボナー(benah)となるらしい。死が遺族の名前を変え、新たな生(子どもが生まれた場合)や結婚(夫や妻をもらう)が、その遺族を本名に戻し、さらなる死がまた名前を変えていく・・・

なぜそのようなことをするのだろう。直接尋ねてみた。「人が死んだら名前を変えることになっているから」なのだ。しつこくその理由を聞いてみた。プナンがひねりだしてくれた回答は、おおむね以下の二つである。
(1)これまで自分のことを本名で呼んでいた人に対してだけ、一時期、その名前を与えることで、死の弔いとするため(プナンは、父親をお父さん(ameu)と呼ぶこともあり、本名で呼ぶこともある)。つまり、他の人に生前の通称を呼ばせないことで、その通称は、一時期、死者だけのものになる。
(2)身近な人が死んだ場合、悲哀で苦しくなったり、後を追って自死を選ぶ場合がある。熱くなった心を鎮めるために、名前を変える。

子どもがなくなった場合にも、名前を変える。第1子が死んだ場合、父母は、ウユン(uyun)、第2子が死んだ場合、サディ(sadi)、第3子はララー(larah)、第4子はウワン(uwan)・・・第12子の分まである。20人実子があるというプナン人男性がいる。その場合はどうするのだろう。尋ねてみたいと思う。

悲しきグレートハンター

2006年06月02日 10時43分11秒 | 人間と動物
プナン人のロングハウスの通廊では、10歳前後の学齢期の少年少女がたえずブラブラしている。プナン人が通う小学校の先生が言った。「プナン人の子どもは、やがて学校に来なくなる。小学校さえ卒業することはほとんどない」と。プナン人は、将来のことを考えて、子どもたちに教育を与えて、知識を身につけさせるということをしない。「プナンは、今日のことしか考えない。明日のことを思い描いて生きているのではない」これは、プナン人が抱える問題を指摘する周辺の民族の知識層の一致した見方である。食材や消費財についても、なくなったらなんとかする、なんとかなるだろうという考えが支配的である。実際、なんとかなるかどうかは、その場の状況次第であるが。彼らの現金収入の主なものは、木材企業から毎月支払われる賠償金である。彼らの土地の樹々を商用に伐採することに対して払われる金を、彼らはつねにあてにしている。プナン人にとって、金は、他者から与えられるものであり、なければ借りるものである。あれば使い、なければ次回貰える見込みを担保にして、借りようとする。プナン人は、私のところにも、よく金を融通してほしい、貸してほしいとやってくる。そのようなプナンの生活態度に対して、当初、私は、戸惑いや居心地の悪さを感じた。1ヵ月半ほど一緒に暮らしてみて、私は、プナン人は、小学校の先生が言ったように、その日を生きることに、大きな価値を置いているように感じる。彼らにとって、それ以外のことは、たいして重要なことではないのかもしれないとも思う。彼らの現行の生活にとって、とくに必要がないがゆえに、学校教育は重視されないのではないか。豊かな周辺環境(森林産物、賠償金支払)を甘受するあまり、明日のことに思い至らないのではないか。それが、1960年代に州政府の政策に応じて、ジャングルでの遊動(ノマド)生活を捨て、川沿いの村に定住したプナン流の現在の生き方なのである。私が感じたように、近代的な価値基準から見れば、プナンの生活は、不安定で、ぎこちなく思えるのかもしれない。当のプナン人たちは、それをよしとしているのだろうか。複雑なのは、後発で近代へと参入したプナン人たちも、自分たちは、未来志向的でなく、現代社会に適応できてない、なんとかしたいともがいていることである。その点に、現代社会を生きるプナン人たちの深い苦悩があるように思える。

他方で、そのようなプナンの人びとが、いきいきと輝いて見えるのは、彼らが、ジャングルにハンティングに出かけるときである。近隣の諸民族(クニャー人、スピン人)は、4WDの自家用車にプナン人たちを乗せて、人があまり入らない、村々から遠く離れたジャングルにまで連れて行くことがある。狩猟した獲物を持ち帰って、村人に売り、ガソリンや銃弾などの諸経費を差し引いて、同行者の間で儲けを山分けするためである。そのとき、プナン人は、グレートハンターとして、一目置かれる存在となる。プナン人のハンティングの技量や能力、ジャングルでの生活知識には、周辺民族のそれらははるか遠く及ぶことがない。私が一度同行した、2泊3日の狩猟行のメンバーは、スピン人1人(車提供者)、クニャー人1人、プナン人の夫婦と2人の子ども、プナン人男性2人であった。2人のプナン人が、4回の狩猟で、シカ1頭とイノシシ2頭をしとめてきた。プナン社会では、銃を持ち、吹き矢を抱えて狩猟の身支度を整えたハンターたちに対して、声をかけることは控えなければならないとされる。プナン人のハンターたちは、何気なく、物静かに、ジャングルの中に入っていく。彼らは、動物の足跡があるかどうかを目で確認する。たくさんあればそのあたりを追い、なければ樹上のサル類を狙う。目と耳を使って、ジャングルの中を進んでいく。人間が、一方的に目と耳を使うだけではない。動物も、つねに目と耳を凝らしている。ハンターたちは、動物の目に触れないように、耳に届かないように、身をひそめ、物音を立てないように注意する。立ちはだかる木々を乗り越え、身を低くしながら、進まなければならない。動物は、人間の匂いに対して敏感だという。獲物に人間の匂いを嗅がせないように、風を感じて、風上に向かって道を取ることが大事だともいう。獲物がしとめられた場合、それは、すぐさま解体される。肉や内臓や血を、煮たり、燻したり、炒めたりして、サゴやご飯と一緒に食べる(一部を持ち帰る)。それは、プナンにとって至福のひとときである(プナンだけでなく、人類にとって、獲れたての動物を、その場で解体して食べるのは最高の贅沢にちがいない)。その狩猟行では、鹿肉は、村に戻る前に、同行者でほぼ食べつくしてしまった。猪肉1頭分は、村に持ち帰ったときには、腐りかけていて、売れないと判断され、同行者の間で山分けにされた。残りの1頭の猪肉を売ったが、ガソリン代などの諸経費と相殺されて、今回の狩猟行では、結局、儲けは出なかった。(動くのが不思議なくらいオンボロな)車のオーナーであるスピン人は、現在、車を自家修理中である。修理が済んだら再びプナン人のハンターたちを誘って、狩猟に出かけたいと言っている。

現代社会の中で苦悩する存在としてのプナン。たぐい稀なるハンティング・スピリットと技能をもつ森の民としてのプナン。彼らには、相異なる二つのプロフィールがあるように思える。

吸血ヒル

2006年06月01日 17時26分35秒 | フィールドワーク
2週間ほど前のことである。銃をかついだプナンの男の後について、ジャングルのハンティングに行った。途中見失いかけたが、必死に食らいついていった。そのときは、獲物はなかった。森を出て、焚き火にあたって一服していると、長ズボンの下で、何度か蟻に刺されたように痛みがあった。ズボンをまくってみると、脛から下が血だらけで、吸血ヒルが数匹、血を吸ってブクブクになっていた。そのときは痛みもそれほどではなかったが、数日経って、痒みが出てきた。そのうちに、患部はミミズ様に腫れて、熱を持ちはじめた。ズキンズキンと痛む夜が続いて、そのうちに、患部から汁のようなものが出て、やがてそれがつぶれた。昨日の朝、汚れた水溜りで水浴びをした(せざるをえなかった)。すぐに足の付け根が腫れて、しばらくすると発熱し、ひどい頭痛に襲われた。昨日は、一日寝ていた。今朝になって熱は引いたが、炎症を起こした皮膚のあたりがズキンズキンと痛む。車を乗り継いで、ビントゥルの町にやってきた。しかし、ビントゥルのクリニックは、ガワイ(先住民の死者祭宴)休暇で、4日までどこも休みだ。やれやれ、今年は、ニューギニアのダニから始まって、サラワクでも蚊やヒルなど、皮膚に難があるようだ。