たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

2017年の読書(文学)記録

2017年12月30日 19時17分46秒 | 文学作品

1.中村文則『私の消滅』
2.ガルシア=マルケス『予告された殺人の記録』
3.山下澄人『しんせかい』
4.田口ランディ『サンカ―ラ』
5.ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』
6.J.M.クッツェー『マイケルK』
7.クッツェー『鉄の時代』
8.クッツェー『夷狄を待ちながら』
9.堀江敏幸『めぐらし屋』
10.吉村萬壱『ボラード病』
11.レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』
12.イタノ・カルヴィーノ『不在の騎士』
13.エイモス・チュツオーラ『やし酒のみ』
14.エリック・マコーマック『パラダイス・モーテル』
15.イタノ・カルヴィーノ『まっぷたつの子爵』
16.マヌエル・プイグ『天使の恥部』
17.西村賢太『形影相弔・歪んだ忌日』
18.川端康成『みずうみ』
19.諏訪哲史『アサッテの人』
20.アントニオ・タブッキ『遠い水平線』
21.津村記久子『ポトスライムの舟』
22.赤染晶子『乙女の密告』
23.辻仁成『海峡の光』
24.大竹昭子『間取りと妄想』
25.沼田真佑『影裏』
26.吉村萬壱『回遊人』
27.玄月『影の棲み家』
28.中島敦『山月記』
29.多和田葉子『犬婿入り』
30.鶴田知也『コシャマイン記』
31.カズオ・イシグロ『遠い山なみの光』
32.河野多恵子『蟹』
33.吉行淳之介『驟雨』
34.尾崎一雄『暢気眼鏡』
35.中山義秀『厚物咲』
36.日野啓三『あの夕陽』
37.高井有一『北の河』
38.宇能鴻一郎『鯨神』
39.庄野順三『プールサイド小景』
40.目取真俊『水滴』
41.三浦哲郎『忍ぶ川』
42.尾辻克彦『父が消えた』
43.津村節子『玩具』
44.花村萬月『ゲルマニウムの夜』
45.絲山秋子『沖で待つ』
46.岡松和夫『志賀島』
47.小島信夫『アメリカン・スクール』
48.李恢成『砧をうつ女』
49.安岡章太郎『陽気な愉しみ』『悪い仲間』
50.奥泉光『石の来歴』

2010年から、これでようやく400冊…

2016年

2015年

2014年

2013年

2012年

2010~11年

 


まだ文学が足りない

2016年12月17日 21時19分02秒 | 文学作品

年初には順調な滑り出しで、この分なら年80~100冊行けるのではと思ったほどの勢いが、夏から秋にかけて突然失速し・・・だが、今年もなんとか50冊に達したようだ。小説は、あっちに行きこっちに行きつつしながら、テキト~に読み漁るのがいい。今年は、吉村萬壱さんの本を5冊読んで、お会いすることもできた。待望のハレンチ作家あらわる、と周囲には言いふらしてる。今後、どんな作品が出されるのか、期待大。小野正嗣さんの作品も二冊読みお会いした。多言語状況に身を置くことで言語に向き合うことができるという考えに感じ入った。リョサの『ドン・リゴベルトの手帖』は、低俗な軽さと重厚さを兼ね備えたエロティシズム小説の傑作。中村邦生さんの『転落譚』は、文学に対する深い理解から生まれた物語。ルルフォ『ペドロ・パラモ』、石牟礼道子『あやとりの記』、森敦『月山』に見られる、人と人ならざる世界をめぐる幽冥譚の系譜とでもいうべき文学の想像力の豊かさに脱帽。待つのだけど何を待っているのかさえ分からないというとてつもなく大きな不条理。『ゴドーを待ちながら』は、私たちの人間の生きている世界は、そんな感じでできているんだということを示している。ベケットじつに恐るべし。まだまだ触れてない度肝を抜く作品があることの予感。まだまだ、文学が足りない。ザルテンの『バンビ』は、児童文学だろうと高をくくってスルーしていたのかもしれない。ノロジカから見た世界の描写。あいつと称される人間は、じつに嫌なやつなのだ・・・以下、2016年の濫れ読みの個人的な記録として。

小松左京 『果てしなき流れの果に』
マリオ・バルガス・リョサ 『ドン・リゴベルトの手帖』
ベルナール・ウェルベル 『蟻』
ホーソーン 『緋文字』
野坂昭如 『エロ事師たち』
梨木香歩 『村田エフェンディ滞土録』
『エドガー・アラン・ポー短編集』
『谷崎潤一郎マゾヒズム小説集』
谷崎潤一郎 『蓼喰う虫』
吉村萬壱 『ハリガネムシ』
吉村萬壱 『ボラード病』
吉村萬壱 『クチュクチュバーン』
吉村萬一 『臣女』
夢枕獏 『陰陽師』
ゴーンブローヴィッチ 『フェルディドゥルケ』
中村邦生 『転落譚』
小野正嗣 『九年前の祈り』
小野正嗣 『残された者たち』
谷崎由依 「天蓋歩行」
室生犀星 『蜜のあわれ』
幸田文 『木』
シェイクスピア 『マクベス』
ジュリアン・グラック 『半島』
シェイクスピア 『オセロー』
ベケット 『ゴドーを待ちながら』
フェンテス 『アウラ・純な魂』
カーソン・マッカラーズ 『結婚式のメンバー』
中村邦生 『チェーホフの夜』
シェイクスピア 『リア王』
平出隆 『鳥を探しに』
フアン・ルルフォ 『ペドロ・パラモ』
日野啓三 『台風の眼』
J.G.バラード 『沈んだ世界』
村田紗耶香 『コンビニ人間』
吉村萬壱 『ヤイトスエッド』
石牟礼道子 『あやとりの記』
石牟礼道子 『椿の海の記』
花房観音 『花びらめくり』
葉真中顕 『ブラック・ドック』
松浦寿輝 『花腐し』
森敦 『月山』
磯崎憲一郎 『終の住み処』
滝口悠生 『死んでいない者』
上橋菜穂子 『獣の奏者I 闘蛇編』
上橋菜穂子 『獣の奏者II 王獣編』
ジャン・コクトー 『恐るべき子供たち』
フェリークス・ザルテン 『バンビ:森の、ある一生の物語』
村上春樹 『風の歌を聴け』




「天蓋歩行」を読む

2016年05月21日 12時47分04秒 | 文学作品

(東マレーシア・ボルネオ島の熱帯雨林の巨大樹たち)

他に類を見ない圧倒的な読後感を持つ、のけ反るような精緻な文学を読んだ。谷崎由依「天蓋歩行」『すばる』2016年5月号(片山杜秀による朝日新聞・文芸時評の記事)。その文学的な美質はとても纏め切れないが、以下、私的な覚書として。

表象の中に自然のあり方を扱っているという意味では、ノンフィクションではないが、ネーチャーライティング。人間と木や花粉の生命活動を言語を超えて捉え、その転生を語るという点では、ある意味、マルチスピーシーズ人類学。それは、我々が訳したコーンの『森は考える』の似姿をした小説である(島田雅彦による朝日新聞の書評記事)。

マレー半島の熱帯雨林からクアラ・ルンプールとおぼしき現代のメトロポリタンを、記憶と感情を区別せずに生きたり死んだりして、時空間に出没する「巨大樹」が主人公。

この都会を構成するものは、すべてかつては森だった。
そしてこの私は、木であった。

泥の川のあわさるところ。
それがこの都市の名前であった。
都市がいまだ都市でなく、二つの川の合流点にある集落にすぎなかったころ、私は森の一部だった。
私は巨大樹と呼ばれていた。私は森そのものだった。

種子として着床する地面を求めて宙を飛んだころの記憶はないが、幼木のころ大木たちが枝葉を見上げるのをただ見ていた。ただひたすら待って、半島を襲った台風のせいで、老いた巨木が倒れひかりが訪れ、細胞という細胞がいたるところで分裂し、光と水を吸い込んで成長していった。

菌類は樹木の神経であり、真菌は糸のかたちをして、地下を複雑にめぐりながら、広大な森の端から端まで繋がっていた。その網の目を通して、蝶の群れが大陸から訪れることを知った。双羽柿がそれを察知し、羽の動きが糸を伝わって根の先を刺激した。報せは信号として伝わった。

木は森でもあり、都会でもある。町の中央の大通りが幹であれば、両側から生えて伸び、その先で幾つにも分岐する道は枝そのものだった。そして、半島では多くの街の名が、木の名にちなんでつけられていた。私たちはかつて木であり、同時に街でもある。

過去のなかで、記憶のなかで、あるいはべつの前生のなかでーー私にとってはどれもおなじことだ。記憶と感情を区別しない私は、過去と前生も区別しない。

女と出会ったのは数年前、あるいは百年の昔。「私はかつて森を狩猟に生きた者であり、その以前には虎であったが、それは束の間だけのことで、そのさらに以前には、長いあいだ木であった」と告げると、女は眦をあげ、あり得ない、と言った。海に囲まれ森林に住まう者たちの国では、命の成り立ちが違うのだ。

私が大陸から来た者である女主人の部屋に呼ばれたのは、彼らにとって不吉な白蝙蝠に餌をやるためであった。白蝙蝠が私のことだけを警戒しないのは、自分たちの仲間がはるか昔、木であったころの私の腕にとまったことを知っているからだ。女は言う。

早朝に目が覚めて、彼方を見遣れば猛るほどにもうつくしい森が、切り出したばかりの貴石のように赤くまばゆく輝いて、一日が、手つかずのままそっくり私に与えられている。すべて、何でもどうにでもできるようにそこにあるのに、昼になっても午後をまわっても、夕べになっても何もできない。ほんとうは何ひとつ私のものではないと知らされる。手のなかで、あんなにも生き生きと鮮やかだった朝は死に、榕樹の林で鳥たちはもはや歌わずに、私は与えられたはずのものが、手のなかでみすみす腐っていくのを日々目にしなければならない。

女は、大都会のかたわらのささやかな森に行くことを好んだ。龍脳樹の葉には消毒作用があり、他の生物の活動を抑制する。がらくたをひっくり返したように散らかっているはずの林床が、その木々の下だけは静まりかえっているのだった。「憐れんだら、負けなのよ。憐れんだほうは憐れまれたほうに、何もかも持っていかれてしまうわ」という女の言葉は、幼木だったころとはべつの、長大な長屋にいた幼年期を思い出させた。

木陰に潜み、大きな口をあけ、虫たちの好むにおいを発しては誘い寄せて虜にする、あの虫喰らいの植物ーー靭葛の膨れた胴体を、村では袋のように扱った。内側に米を詰め、竹筒のなかで炊くことさえもしたーーその靭葛の風船玉のように、自在に膨らませては萎ませることのできるもの。それは前の晩に見た夢だった。

私は靭葛を裏返して内側を覗いたりすると、夢のなかにまた夢があった。そこでは過去が現在を夢見ていた。過去の内側に潜ってゆけば、その果てには現在が、あるいは未来があった。そして、

彼女が私へ入ってくる。私は私の樹冠のなかへ、その身体を受け入れる。地上をはるかに見おろす天蓋を、彼女はゆっくりと歩いてくる。重さのないような足取りで、うっそうとした葉叢を掻き分けて。

やがて中心へと辿りつく。そこは空洞で、私はいない。私は私の樹冠そのもので、輝きながら広がってゆく。彼女のまわりをまわっている。

彼女の正体は、天蓋を歩行する重さのない無数の花粉に包まれたものだった。それが私のなかに入ってくるのだ。

無数の白い花々が私から迸り生まれ出る。ひらき、蜜をあらわにし、蕊は濡れて粉とまじわる。私の器官は膨れ、花心はふくよかとなって鳥たちの歓声を誘う。百年に一度の一斉開花。花は花を呼び、実は実を呼んで、巨大樹と巨大樹は共鳴しあい、葉擦れの音さえも唱和してゆく。地の下を通る菌類のおずおずとしたやり取りでなく、宙空という過分な広がりのなかを渡ってゆく。声。樹木たちの声。

森のなかの交歓のエロティシズム。

ある種の植物はある種の蜂と共犯関係を結ぶ。片方が進化したならば、もう一方もそれに合わせて変わる。蜂の口吻が長く伸びれば、花は蜜を奥深くに隠す。その蜂にしか届かないように。蜂が絶えれば花は絶え、花が絶えれば蜂も絶える。

数万の種が入り乱れる熱帯の相において、はるか遠くに離れた種族へと花粉を届ける手段だった。おなじ形状のべつの花に、おなじ虫をとまらせるための。なまじな恋愛などより恋愛的に見える間柄に、かつて憧れたものだった。巨大樹はへいぜいから茸たちと結びあっていたけれど、森そのものより長い寿命を持つ菌類が絶えることはなく、その関係は共犯というより単に一体だった。

そして、絞殺しの無花果が描かれる。

蔓性の植物のなかには巨大樹の枝で発芽して、長い気根を大地へと差し込み燐の成分を盗むものもいる。樹冠へかぶさるように枝葉を広げて太陽のひかりを奪う。やがて巨大樹を死に至らせて、代わりにその場に立ち尽くすのだ。

あるとき、女は私に、自分の名前を教えるといった。私は即座にそれを制した。言葉以上の名前を教えることは、契約を意味していたからである。しかし、虚を突かれるかたちで、名は告げられる。耳に名前が入り込んでしまったのである。お返しに、私自身の名を告げようとするが、「私をあらわすその名前を私のなかに探した。けれども見つからなかった。私というものはいなかった。言葉において、私は、ただの空白にすぎなかった」。

しかし、名前の魔力が作用し続けており、やがて、女主人の部屋に押し入って乱暴を働いたとして、屈強な男たちによって私は追い出されてしまう。私は船に乗り、やがて私は、陸地にたどり着く。そこで、老貴婦人の世話をするように誘われる。

老貴婦人はその巨大な穴から体液を染み出させている。どうしようもなく湧き出してきて困っているのさ。それを汲み取ってさしあげる。楽にしてさしあげるのだ。

偉大なる老貴婦人とは油田であった。移民労働者たちは、掘り起こした穴を貴婦人と呼んだ。しかし、私にしてみれば、その大地は私の身体にほかならなかった。

じくじくと、皮膚の下から染み出してくる漿液。私の身体が百万年の永い時間をかけて変成したもの。それは私の体液であり、私の懐かしい肢体だった。掘削機を使いながら、あるいは鶴嘴を使いながら、あるいは鶴嘴を振るいながら、土地を掘り、また土地を掘り、灰色の地脈にじわじわと分泌する駅に出会うとき、私は私の硬い皮膚の下に流れるものに気づくのである

魂は休むことなく次々かたちをかえていった。私は、犬となり、鶲であるように感じ、やがて、人間のかたちを回復した。藍色のベールを頬までかぶった女は、私を愛していないなどといいながら、抱きにくるのをやめなかった。「彼女との交わりは、自分の内側を読んでいくような行為だった」。

私は、ひとである必要はなかった。ひとである女と交わりながら、このうえもなく、木であった。

一粒の種子が、私へ芽吹いた。そのことに気づくのと、女が動かなくなるのと、同時だった。

私に着床した一粒の種子は双葉となり、長い気根が地面へ向けてまっすぐに伸びていた。地中の林の成分を吸い上げた。樹冠に咲き乱れる花の香を嗅ぎながら、私は眠っていた。私にぴったりと肌を押しつけた腕は、次第に太く、頑丈に、私を締めつけるようになった。締め殺しの無花果。

房状に生った無花果の実は、じきに艶やかな赤となるだろう。一斉開花の年以外にもつねに実をつける無花果の蔓。生きものたちにとって僥倖である木の、私はこのとき、宿ぬしだった。動物たちが食事を終えれば、家の役目を果たした私を、蔓植物の胴体がいよいよ殺しにかかるだろう。

迫りくる、締め殺しの無花果。しかし、なんのことはない。森の生命現象は、つねに既にそのようなものなのだから。

私を殺し、乗っ取って、無花果は命を振りまく。彼もまたいつか森に喰われる。それは淘汰で成り立っている。記憶も感情も意識さえもが砕かれて、この世界の一部となっていく。

私というものは、やがて消える。一本の朽ちかけた木が、そこに立っている。


2015年の読書記録

2015年12月11日 19時52分50秒 | 文学作品

年明け、(1)木村友佑『聖地Cs』から読み始めた。放射能を浴びた牛の世話のボランティアをめぐる話で、考えさせられた。で、読書会で読んだ(2)モーパッサン『脂肪の塊・テリエの館』。人間の美徳と醜悪さの見事な記述。芥川賞の(3)小野正嗣『九年前の祈り』の後に、(4)スウィフト『ガリヴァー旅行記』は、小人の国から巨人の国、空飛ぶラピュタの国、馬と人間がコミュニケーションして暮らす国などへの旅行記。痛快だった。(5)(6)ゲーテ『ファウスト』。悪魔メフィストフェレスと手を組んだファウストをめぐる戯曲。(7)モーパッサン『女の一生』は、希望と絶望が交差する女の物語。(8)足立陽『島と人類』は、ある意味、人類学小説。ヌーディズムと進化の話で、印象深く残っている。読書会で読んだ(9)ジョン・ボールドウィン『ジョヴァンニの部屋』。同性愛をめぐるアメリカ黒人文学。(10)中野重治『菜の花』。北陸に生まれ育った少年から見た世の中が描かれる、明治から大正にかけての物語。深い味わいのある小説だった。それから、犬の小説を読み始めた。(11)コナン・ドイル『パスカヴィル家の犬』、(12)川端康成『禽獣』、(13)ウィーダ『フランダースの犬』、(14)安岡章太郎『犬をえらばば』、(15)中勘助『犬』、(16)馳星周『走ろうぜ、マージ』、(17)小林多喜二『人を殺す犬』が、犬関連の、どちらかというと研究も視野に入れて読んだ文学だが、とりわけ、(15)が凄かった。インド僧が慾にとりつかれて、女ともども犬になって、獣慾の限りを尽くすという話。(18)小沼丹『椋鳥日記』は、ゆる~い感じのロンドンの散歩のエッセイ。(19)深沢七郎『楢山節考』は、ゼミで読んだ。個人的には、4回目か5回目。読書メモを取りながら。このプナン版が書きたい。書けないだろうな・・・読書会で読んだ(20)タブッキ『供述によるとペレイラは…』は、中年で病気を患った新聞記者が、ファシズム的な政治背景の中で、一組のカップルに出会うことによって、大きく変容する物語。面白い。つづいて、(21)(22)タブッキ『インド夜想曲』『レクイエム』も読んだ。うまい書き手だ。同じイタリア作家で、(23)イタノ・カルヴィーノ『木のぼり男爵』は、父親に反抗して一生を木の上で暮らした男爵の話。この自然児の話には唸った。で、(24)ヘミングウェイ『老人と海』(25)原田ひ香『東京ロンダリング』。東京で、人が死んだアパートのロンダリングの話。このあたりから、研究との関連で、だんだんと鳥ものにシフトしていった。(26)梨木香歩『渡りの足跡』。鳥に対するこの作家のまなざしは、冴えている。(27)加藤幸子『心ヲナクセ体ヲ残セ』には、驚いた。「ジーンとともに」は、鳥の視点からの小説、脱人間主義なのである。(28)戸川幸夫『爪王』は、鷹と狐の対決の物語。(29)大岡昇平『武蔵野夫人』は、人間模様だけでなく、自然描写が印象に残っている。(30)梨木香歩『家守譚』は、人間や自然、この世やあの世が交差する物語。(31)丸山健二『夏の流れ』は、イヌワシを描いた「稲妻の鳥」を目当てに読んだのだが、全編を通じて秀作だった。芥川賞を取った(32)又吉直樹『火花』を読んだが、文章がうまい。(33)ブルック・ニューマン『リトル・ターン』は、ターン(コアジサジ)の物語。(34)シェリー『フランケンシュタイン』は、読書会で読んだ。ロボット以前の時代の間の物語。(35)大岡昇平『野火』は、戦時の人食いとともに、克明な自然描写が印象に残っている。読み疲れた時には、西村賢太か(36)長嶋有『パラレル』。友とひっついたり離れたりする、同時代的な「私」の話。(37)出久根達郎(選)『犬のはなし 古犬どら犬悪たれ犬』。これは、全編、犬の物語。小諸に行くのに合わせて、(38)島崎藤村『千曲川のスケッチ』を読み、(39)柳田國男『野鳥雑記』は、味わい深い民俗学。次の二冊は、間のうちのアンドロイドについて。まずは、(40)カレル・チャペック『ロボット』。ロボットという語は、チャペックから来ているらしい。(41)フィリップ・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』を読んだが、たんなるSFではない。未来社会の人間とアンドロイドが混淆する世界の物語で、文学性が高い。(42)梨木香歩『ぐるりのこと』は、境界をめぐるエッセイ。(43)稲見一良『ダック・コール』は、素晴らしかった。こんな作家がいるとは、迂闊にも、まったく知らなかった。石に鳥の絵を描く男との出会いの後に見た、鳥をめぐる6つの夢の物語。(44)井上ひさし『東慶寺花だより』は、肥大化した江戸のアジールの物語。読書会で読んだ。(45)遠藤周作『海と毒薬』は、ゼミで読んだ。捕虜の生体解剖をめぐる日本人。読ませる。(46)梨木香歩『ピスタチオ』は、主人公の女性の日常からウガンダへ飛んで憑霊信仰の奥深くへと旅する話。梨木香歩、恐るべし。(47)ポール・ギャリコ『スノー・グース』では、孤独な男と少女の交流が描かれる。(48)大江健三郎『個人的な経験』は、バードという主人公の男の個的な経験と心情の吐露なのだが、これがなかなかいい。今さらながら、(49)ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』を読んだが、ある種の幻幽譚だ。(50)ブッツァーティ『神を見た犬』。玉石あるが、短篇の名手だ。病院をテーマにした「七階」とホテルを扱った「グランドホテルの廊下」が最高。読書会に出された(51)ケストナー『飛ぶ教室』(52)倉狩聡『かにみそ』は、人間と蟹という捕食者と餌食が反転するホラー小説。年末までに、もう2冊くらい読めるかもしれない。




 

 

 


2014年の文学系読書のたんなる記録

2014年12月30日 23時55分15秒 | 文学作品

1.ボラーニョ『2666』は800頁近い大作で年初に読み始めて1ヶ月くらいかかったが2.深沢七郎『甲州子守唄』を読書会で読んだ関係で深沢の国語教育を無視したかのような文体に惚れ込んで3.『楢山節考』を読み返したが生から死への移行が姥捨てを介して表現されているこの本が本年のマイ・ナンバーワンではないかと思っているが続けざまに同じく深沢の4.『みちのく人形』を読み芥川賞を取ったというので買った5.小山田浩子『穴』を読みまたまた深沢へと戻って深沢と交流のあった弟子筋の6.嵐山光三郎の『桃仙人 小説 深沢七郎』を読みその先に7.折口信夫『死者の書』で日本の古代の精神世界の描き方に仰天し福島県いわき市に行ったときに本屋で見つけた8.吉野せい『洟をたらした神』という土の匂いのする短編集を読みその流れでこれまで読んだことがなかった9.長塚節『土』を読み土とのつかず離れずの日本の農村を描いたこんなスゴイ本があったんだと驚嘆し読書会で10.ヤンソン『たのしいムーミン一家』を読んで神話みたいだと思い11.谷崎潤一郎の『春琴抄』で谷崎世界に魅かれたついでに日本文学に傾倒するようになり12.中河与一の『天の夕顔』を読み13.志賀直哉の『和解』と「智に働けば角が立つ。 情に棹させば流される」で有名なあの14.夏目漱石『草枕』も読み15.大宰治『人間失格』は後から英訳のタイトルを調べたらNo Longer Humanだったがそういえば衆議院議員を落選らしいのたが16.石原慎太郎のなかなか冴えた文体の『太陽の季節』を読み小学校の教科書に載っていた17.井伏鱒二『山椒魚』に瞠目し追悼のため18.ガルシア=マルケス『ママ・グランデの葬儀』を読み読書会で19.谷崎潤一郎『痴人の愛』を読みナオミに翻弄される痴れ者に笑い転げそうこうしているうちに授業期間となり大学一年生向けの少人数授業で学生たちにBOOKOFFに買いに行かせて一気に20.吉本ばなな『哀しい予感』21.片山恭一『世界の中心で愛を叫ぶ』22.村上春樹『回転木馬のデッドヒート』23.江國香織『号泣する準備はできていた』24.吉本ばなな『とかげ』25.中村航『100回泣くこと』26.夏目漱石『坊ちゃん』を読みそのなかで明治の文豪は日本を代表する作家だと改めて思い至り27.湯本香樹美『夏の庭』は子供の話でとても印象深かったし28.森絵都『カラフル』29.桐野夏生『冒険の国』30.小川洋子『薬指の標本』までを授業で学生たちと共に読みその後ひとり読書に戻り地理学者の物語でもういっぺん読みたいと思った31.梨木香歩『海うそ』に続けて32.梨木香歩の不思議な感覚の『f植物園の穴』を読み読書会で33.サリンジャーの『フラニーとズーイ』というサリンジャーが書けなくなるもとのような小説を読んで次いで34.サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を村上春樹訳で読んではっちゃけた文体にサリンジャーの凄さを実感し雑誌に載っていた35.上田岳弘「惑星」を読み最近仏教に傾いている36.田口ランディ『サンカーラ』を読んだあたりで夏休みになり海外にはあの誰もが知っているが読んだ人は少ないだろう37.38.シャーロッテ・ブロンテの『ジェイン・エア』を持って行って読んでなかなか面白いではないかと思い39.『シッダールタ』はヘッセの独自のゴーダマの解釈が興味深く次いで40.田口ランディ『キュア』を読み読んでいるうちに前に読んだことを思いだしたが秋口には41.ブルガーコフ『犬の心臓』を読み読書会で42.ヴォネガットの『母なる夜』という大変奇妙なスパイものを読み43.クラフト・エヴィング商会『犬』はいろんな小説家の犬の話でワクワクしたし前から読みたいと思っていた織田信長異聞である44.辻邦生『安土往還記』はなかなか優れた小説だったし45.ボルヘス『砂の本』も不思議な本だったが46.ガルシア=マルケス『ある遭難者の物語』はさすがマルケス今書いてる論文にまるまる使ってるし47.ゲーテ『若きウェルテルの悩み』はゼミで2回にわたって輪読し48.角川書店編『犬の話』はこれまたいろんな作家の犬の話でなんでこんなにイヌ本が多いかというと来年イヌ研究の発表会があるのでなのだが49.カルペンティエールの『失われた足跡』は個人的には4回目だったが読書会で10名ほどで読み年の最後に大いに盛り上がったし最後に50.谷崎潤一郎『谷崎潤一郎 フェティシズム 小説集』は「富美子の足」の妾の足を顔に乗せてもらって死に逝く隠居が壮絶だった・・・

昨年のたんなる読書記録は↓
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/m/201312

写真は、ツンドク本の一部、来年以降のために


ロベルト・ボラーニョ『2666』

2014年01月08日 09時10分18秒 | 文学作品

ロベルト・ボラーニョの『2666』(野谷文昭ほか訳、白水社)をようやく読み終えた。

それは、二段組みで855頁、原稿用紙(日本語)で単純計算して2700枚を超える超・長編小説である。それは、四六時中本を読むという、ある種の苦行を突き抜けたところに現れる、めくるめく文学の快楽を与えてくれる。その6600円+税という値段は、後から考えると、けっして高くないと思われる。それは、私が20歳くらいの時に、バルガス・リョサの『緑の家』を読み終えた時と同じように、終盤に至ってようやく全体が見渡せるようになるという、多幸感に酔い痴れる類稀なる文学でもある。

物語は、それぞれ独立しているかのような5部から構成される。

謎のドイツ人作家・アルチンボルディの研究者たちのやりとりが行われる「批評家たちの部」から幕が空け、文芸批評家であり、アルチンボルディの本の訳者でもある、大学教授アマルフィターノの暮らしがつづられる「アマルフィターノの部」へと続いてゆく。批評家たちはアルチンボルディを追って、メキシコにたどり着く。アマルフィターノは、メキシコのサンタテレサ大学で講じるようになる。そうした流れにおいて、『2666』の中心部分が用意されていたのだということを、ようやく物語の終盤になって、振り返って、ようやく気が付かされる。ボラーニョは、こうした点が、実に巧みである。続く「フェイトの部」と題された第3部では、社会派の記者がボクシングの取材でメキシコを訪れる。ブラック・アメリカンであるフェイトは、やがて、女性連続殺人事件のことを耳にする。その女性連続殺人事件が炸裂するのが、第4部の「犯罪の部」である。サンタテレサというメキシコの北部の町では、女性がレイプされ、次々に惨殺される。その被害の状況が、これでもかこれでもかというくらい、どんどんと積み上げられてゆく。やがて、警察は、女性連続殺人事件の重要な容疑者として、ドイツ系の移民であり、パソコン・ショップのオーナーであるハースを逮捕し、刑務所に送り込む。しかし、容疑者が監禁されても、女性連続連人事件は終わらない。社会全体で、女性をレイプして殺し続けるような不安と恐怖が、物語を支配する。そして、何が真実であるのかがまったく宙づりにされたまま、最後の第5部「アルチンボルディの部」が幕を開ける。そこでは、片足の父、片足の母をもつドイツ人青年、ハンス・ライターが、どのようにしてノーベル賞候補作家となったのかが淡々とつづられるが、物語は突然のごとく変調し、アルチンボルディの10歳違いの妹・ロッテの人生が語られ、行方が分からなくなってしまった、息子クラウスへと辿りつく。このアルチンボルディの甥であるクラウスこそが、女性連続殺人事件の容疑者として刑務所に収監されている、ハースその人だったことが、じわじわとにじみ出てくるような書き方。第4部をまるっきりひっくり返した観点から、第5部の終盤にかけて、話が展開する。さらに、ドイツからメキシコの刑務所通いをするようになったロッテは、たまたまアルチンボルディ作の本を手にし、別れ別れになって久しい兄と再会する。

物語は、途中で幾度も別の人物の人生を辿り、その意味で、話があちらこちらに拡散し、増殖していくように思えるが、その話も、全体において、一本の糸で結び合わされている。恐るべき、ストーリーテリングの技法である。


今年読んだ文学のたんなる列挙

2013年12月27日 19時09分49秒 | 文学作品

ミルヒャ・エリアーデ『マイトレイ』
グレアム・グリーンの『情事の終わり』
安部竜太郎『等伯』上
安部竜太郎『等伯』下
黒田夏子『abさんご』
レイモンド・カーヴァーの『ぼくが電話をかけている場所』
長嶋有『猛スピードで母は』
ギュスターヴ・フローベールの『ボヴァリー夫人』
井伏鱒二『黒い雨』
レベッカ・ブラウンの『体の贈り物』
高橋源一郎の『虹の彼方へ』
車谷長吉『贋世捨人』
古川日出男『ベルカ、吠えないのか』
『フラナリー・オコナー全短編(上)』
ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』
アンデルセン『絵のない絵本』
サン=テグ・ジュペリ『星の王子様』
吉本ばなな『キッチン』
河原れん『瞬』
山田悠介『Aコース』
綿矢りさ『インストール』
椎名誠『岳物語』
梨木香歩『西の魔女が死んだ』
青山七恵『ひとり日和』
小川洋子『博士の愛した図式』
ソルジェニーツィン『収容所群島1』
倉橋由美子『大人のための残酷物語』
永井荷風『濹東綺譚』
伊坂幸太郎『死神の精度』
道尾秀介『光媒の花』
道尾秀介『月と蟹』
ジョン・アーヴィングの『未亡人の一年』(上)
ジョン・アーヴィングの『未亡人の一年』(下)
菊池寛『父帰る/恩讐の彼方に』
塩野七生『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
いとうせいこうの『想像ラジオ』
藤野可織『爪と目』
桜木紫乃『ホテルローヤル』
姫野カオルコ『リアル・シンデレラ』
司馬遼太郎『草原の記』
井上靖『蒼き狼』
ウィリアム・フォークナー『サンクチュアリ』
中上健次『岬』
中上健次『枯木灘』
中上健次『地の果て 至上の時』
中上健次『紀州』
佐藤春夫『田園の憂鬱』
サマーセット・モーム『月と六ペンス』
トルーマン・カポーティー『ティファニーで朝食を』
レイ・ブラッドベリ『華氏451度』
G・バタイユ『眼球譚』
上田岳弘「太陽」(新潮新人賞)
澁澤龍彦『快楽主義の哲学』


中上健次に耽る

2013年09月03日 11時20分41秒 | 文学作品

2013年8月中上健次に耽った.
『岬』『枯木灘』『地の果て 至上の時』の紀州熊野三部作.
『岬』はいまから20年ほど前に読みはじめた瞬間に挫折し長い間放ったままだった.

母と姦夫に父を殺されたエレクトラが弟オステレスと母殺しを企てるギリシャ悲劇とは逆方向に、竹原秋幸の兄・郁男は母・フサに復讐を遂げる前に自殺する.
『岬』の最初からその事件と郁男の残像が主人公・秋幸と「路地」に住む人たちに昏い影を落とし続ける.
『岬』では、母はまだときという名だし、郁男は兄と呼ばれるだけで、竹原秋幸の人格に大きな影響を与える実父・浜村龍造はほんの一瞬登場するだけで、男としか言及されない.
性と血と暴力を深いところで原動力としつつもそれによって苦しめられる人びとは、次第に、名を与えられ、遠くから近くへとやってくる.
中上の性をめぐる描写が際立っているように感じる.
例えば以下のような表現を含めて.

この時だった。大溝に、ソーセージを入れたコンドームが流れてきた。色めきたった。豚小屋の向こうのアパートか立て売りのあたりか、それとも町方の家のどこかに、昼も夜ももだえる若後家がいるのだ、と結論した。一言、声を掛けてくれればいいものを、と安雄は言った。

安雄は、その後、古市という男の足を3回突き刺して殺害してしまう.
その事件の後、秋幸の姉・美恵が精神に異常をきたす.

『岬』において与えられていた主題がある.
秋幸が母・フサの連れ子として、亡き先夫との子らである郁男、芳子、美恵のもとを離れて、竹原繁蔵の後添えとなって暮らしており、秋幸はそのどちらの父(亡き先夫と繁蔵)とも違う、浜村龍造という二の腕に刺青を入れた男の子どもであることが、『枯木灘』において、次第次第に膨らんでいく.
『枯木灘』の最後で、秋幸は、浜村龍造の次男、つまり自分の異母弟を殺してしまう.

『地の果て 至上の時』は、秋幸が大阪の刑務所に3年服役して、ふたたび紀州へと戻るシーンから幕が開き、秋幸は、木こりとして、町の暮らしから遠ざかって暮す六さんの小屋で一泊する.
このノマディックな六さんのことが私は好きだ、気になる.

実父・浜村龍造にとっての「路地」について考える秋幸のことば.

秋幸は考えた。路地の中でフサの私生児として生まれた秋幸とまるっきり違う目で浜村龍造は路地をみていたのだった。路地では文字の読み書きを知らない者らが住み、女らがつつしみを忘れて大手振り交接し平気でテテナシ子を生む。秋幸もテテナシ子として生れた。男らは気力なく幽霊のように行き、人が生き続けるのに必要な誇りや自信など皆無だった。だが秋幸は町の動きからはじき出された者らの分泌する人肌のぬくもりの中で育った。他所から流れて来た者には、危害を加える恐れがなく自分より無能なら、あたうる限り優しく親切だったが、知恵があり元気がある者に対しては排除し、閉め出し、あらん限り噂の種にした。

秋幸は、ケガを追った六さんをたまたま浜村龍造の家に運び入れた縁で、浜村龍造と近づくようになり、路地に育った、身内として、実父の手下して働くことになる.
龍造と「兄やん」秋幸は、伝説の人物・浜村孫一の血につらなり、路地の復興への野望によって結びつく.
やがて父と子の関係は随所で反転し、対立を孕むものへと肥大する.
その絶頂において、浜村龍造は、突然、自殺する.

そもそもフィクションとして書かれた物語は多様な解釈に開かれている.
あたりまえである.
そのことを踏まえれば、私は、竹原秋幸の物語を漂うことによって、内側から、書くことに対する動機のようなものを与えられた気がする.
とはいうものの、書けないし、誰もいきなり中上健次にはなれない.

中上は、文庫版『岬』の後記でこう書いている.

 「黄金比の朝」は一年半前に書いた。
 吹きこぼれるように、物を書きたい。いや、在りたい。ランボーの言う混乱の振幅を広げ、せめて私は、他者の中から、すくっと屹立する自分をさがす。だが、死んだ者、生きている者に、声は届くだろうか?読んで下さる方に、声は届くだろうか?


・・・39,40

2013年08月02日 18時30分49秒 | 文学作品

気がつくとけっこう読んでた.ここ2ヶ月で.で忘れないうちに、っていうか、すでに記憶がうっすらとしている本も幾つかあるのだが、読んだ本について書いておこうと思う.まず、伊坂幸太郎の『死神の精度』は、生の世界と死の世界が、死神を介して交錯する物語で、こういう想像力は好きだし、エンターテインメントとしてはなかなかのものであるのだが、それを読んだ同じ時期に読んだ、同じ短編連作として、道尾秀介の『光媒の花』の出来のほうが数段よかったと感じた.道尾は人物の造型、蝶や花などのモノの配置を含めて、表現が実に実にうまいのだ.彼の最新文庫本で、直木賞を受賞した『月と蟹』も、そのあとすぐに読んでみたいと思い立って買って読んでみたが、道尾は、大人たちの欲動を下の方から見つめながら、少年と少女たちの心の動きを描くのが実に巧みなのだと思う.とにかく、稀有な作家だ.おっと、道尾さんに話は傾いてしまったが、その前に、ある方から、とにかく凄い、現代のディケンズだ、今年読んだ本のなかで一番だという話を聞いて、ジョン・アーヴィングの『未亡人の一年』(上)(下)を読んでみた.うなったね、この本には.二人の息子を交通事故で亡くした傷心のマリアンを深く愛するようになった16歳のエディ、その後マリアンは失踪するが、エディは、当時4歳だったルースに30年以上の時を経て再会する.物語の流れのなかで、家族とその友人たちの物語がつづられる.かなり部厚い本なのに、スイスイ引き込まれて読んでしまう.そんな圧巻のアメリカ文学に対抗して、日本にも凄いのがあった、と思えたのは、菊池寛の『父帰る/恩讐の彼方に』である.卒論の合宿で来月に訪ねる予定なので、高松出身の作家の本を読んでおこうと提案して読んだのであるが、いや~、すごい、すさまじい.上役を叩き斬って逐電した男がやがて悔い改めて僧となり、人が何人も転落死している難所にある岩を、21年もの間掘りつづけるという「恩讐の彼方に」だけでなく、バカ殿一代記とでもいうべき「忠直卿行状記」、芸を磨くために恋をしかけた「藤十郎の恋」など、「菊池寛」という文学的才能を新たに発見したように思う.その一方で、塩野七生の『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』は、実に美しげな題に惹かれて読みはじめたものの、う~ん、なんじゃ、この15世紀末のイタリアの歴史小説は・・・。で、本年度の芥川・直木賞関連作品を三冊。まずは、いとうせいこうの『想像ラジオ』は、被災地が生み出した文学の流れのなかに位置づけられるのだと思う。樹の上に引っかかった死者によるラジオ放送は、死者からのリクエストや死者とのやり取りで、想像上のものとして行われ、その意味で、文字という視覚と想像上のラジオの聴覚が絶妙に小説のなかで絡み合っている.その死者の声は、やがて、生きている最愛の妻に届く.読んでいる最中に、この本が賞を取るではないかと思ったが、第149回芥川賞受賞作は、開けてみると、藤野可織の『爪と目』だった.それはまた、爪=わたし、目=父の愛人であり、亡くなった母の後の継母の対比が、流麗な文章のなかに描かれる美しい作品だった.これにはけっこう納得.そして、直木賞は、桜木紫乃の『ホテルローヤル』が選出された.それは、北海道のさびれたラブホテルを舞台とする連作短編で、どうやら、桜木さんは、実家がその名前でラブホテルを経営していたとかで、性愛という行動を裏側から見てみたところの哀切のようなものを感じさせてくれた.というところで、ちょっと休んで、39冊目に、そう、39というと何の関係もないが、クイーンの”39”という曲があって、個人的にはたいそう好きなのであるが.その次に、姫野カオルコの『リアル・シンデレラ』を読んだが、これは、一人で読んだというのではなく、読書会に参加させてもらって、その場でああでもない、こんなことではないかなどと言いながら読んだのであるが、倉島泉という不思議な、あるいは不思議への傾いてゆく女性をめぐる物語は、多種多様な意見を交わすうちに、本を読むことそのものへの喜びみたいなものへと誘われる経験であったような気がしたのである.で、今年になってから40冊目にあたるのは、これも目の前にある興味にそそられて読んだのであるが、司馬遼太郎の『草原の記』である.それは、チンギス・ハーンの息子オゴタイ、20世紀を生きた一人のモンゴル人女性を描きだしている、なかなかに味わい深い本であった.いまのところそんな感じで、来週からモンゴルへ飛ぶ.




これでようやく28冊目

2013年05月29日 09時42分22秒 | 文学作品

年に50冊文学作品を読むという目標を掲げて4年目、なかなか本を読む余裕がないので「苦肉の策」として、いやいや、そうではなく、「教育上の新しい試み」として、4月から始まった1年生のセミナー・クラスで、メンバーの15人を4班に分けて、各班ごとにブック・オフに行かせて、105円のセール本のなかから読めそうなものを3冊ずつ買って来させ、週一冊ずつ読んだ上で、班ごとに集まってディスカッションさせ、そのうちもっとも面白かった本について、最終的にプレゼンテーションさせるという授業内容にしたのだが、今週の金曜がその第3週目にあたっており、3冊×4班=12冊のところ、重なりのある1冊を引いて、担当教員として、11冊を昨日までに読み終えたのであるが、それらは私がブックオフに行ったらチョイスしない本が多く、その意味で、選ばれた本は、なかなか新鮮なラインナップだったのであるが(写真:学生たちが選んだ11冊)、それらは、まずは、エピソード単位では知っていたが、初めて読んで、ストーリーの展開がなかなか奇抜だと感じた、ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』、月が語る物語として、表現にひじょうに味わいがある、アンデルセン『絵のない絵本』、7つの星をめぐった王子様による物語である、サン=テグ・ジュペリ『星の王子様』という3冊の外国文学に加えて、こうしたタイプの小説が増えたためか、あるいは、登場人物にストレートに共感できないためか、いま読むとそれほど魅力的だとは感じられない、吉本ばなな『キッチン』、恋人が逝ってしまった交通事故をめぐる主人公の記憶を取り戻そうとするプロセスと、事故時の真実が明かされる、河原れん『瞬』、ゲームのなかの世界なのか現実なのか分からないという仕立てで、二つの世界を交差させた、山田悠介『Aコース』、小学生との奇妙なネット上の共同バイトのさまを描いた、なんと、17歳のときに描いた小説だという、才能あふれまくりの、綿矢りさ『インストール』、息子・岳に対する情愛をつづった小説またはエッセイ、椎名誠『岳物語』西のほうで、自然との調和しながら暮していた、「魔女」のようなイギリス人の祖母との日々をつづった、梨木香歩『西の魔女が死んだ』、未亡人である遠い親戚のおばあさんとの奇妙な共同生活と、主人公の悩める現実を描いた、青山七恵『ひとり日和』、80分で記憶がなくなってしまう、数学博士の老人の世話をする家政婦の日常のなかから、数学の味わい深さを感じさせ、なんと比喩表現がうまい作家なのかと感じさせる、小川洋子『博士の愛した図式』の計11冊であったが、さて、学生たちが、それぞれの班で、どれを、どういう理由で、1位に挙げるのか、いまからけっこう楽しみであるが、私の読書の話に戻れば、これらとは別に、次々に人民を逮捕して、収容所へとぶち込むというソ連邦のスターリン以降の時代の混乱を描いていて、個々のエピソードが無類に面白いのだが、6冊本を全部読もうと思ったが、1巻目で挫折してしまった、ソルジェニーツィン『収容所群島1』、「一寸法師」などの、ちょっとエッチな話などが含まれている、倉橋由美子『大人のための残酷物語』、さらには、小説家の主人公と玉乃井の娼婦との出会いから別れまでを、昭和の初めの東京の風景と季節の変化とともに描いた、永井荷風『濹東綺譚』も読んだので、今年に入って、これでようやく今年28冊となったが、まだまだ目標には届かない。

 


ボヴァリー夫人その他

2013年03月28日 16時26分33秒 | 文学作品

若き日のバルガス・リョサ。留学のためにパリに降り立って、ギュスターヴ・フローベールの『ボヴァリー夫人』を買い求めた。『ボヴァリー夫人』は彼に大きな影響を与え、後の作家人生の歩みを決定づけたという。長い間ずっと読みたいと思っていながら、なかなか読む機会がなかったが、3月の旅行中に読んでみた。田舎の医師となったシャルル・ボヴァリーの短く終わった最初の結婚生活とその後、シャルルがエマ(後のボヴァリー夫人)を見染めるくだりから話は始まる。その後、一転して、ボヴァリー夫人のシャルルとの退屈な結婚生活と、彼女の恋愛への熱情から二人の男と関係を持ち、そのうち、虚栄心から借金にまみれ、ついには、服毒自殺するに至るまでの内面性、そうした自己破滅の経緯を描いている。さらには、ボヴァリー夫人の死後、夫シャルルによる夫人の恋愛遍歴の真実の発見と彼の死が、一貫して厳正に描写されている。このフランス文学、すごい。私がこれまでに読んだなかで、確実に5本の指のなかに入る文学作品であろう。さて、『ボヴァリー夫人』に劣らないのが、井伏鱒二の『黒い雨』である。重松とシゲの夫婦、姪の矢須子。広島に原爆が落とされて、矢須子が原爆病だという噂が流れて縁談話がうまく行かない。彼女が被爆していないことを結婚の仲介者に知ってもらうために、重松は被爆日記を綴ることを思いつく。任務を帯びて広島市へと通う重松の見た光景はこの世の地獄だ。重松の思惑に反して、矢須子は原爆病を発症し、その症状はしだいに悪化する。彼女がその後どうなったのかを明らかにせずに、玉音放送のところで話は終わる。ピカドンは一瞬にして広島市民を死に追いやり、生き残った人の人生をゆがめてしまった。井伏は、やりきれない、救いようのない悲劇を描きだしている。2~3月は、旅行中に、飛行機のなかで、ホテルで、本を読んだ。それらのあらすじと感想。レベッカ・ブラウンの『体の贈り物』は、エイズで死に逝く者たちのケアをする女性の目から見た、現代医療を背景とした、生と死の物語。高橋源一郎の『虹の彼方へ』。なんかよく分からないのだけれども、重厚なる雰囲気があって、炸裂している。車谷長吉の『贋世捨人』。慶応卒のエリートが広告代理店に勤めるが、反近代を貫くために、ニューヨーク転勤の話を断り、しだいに職を転々として、下足番や料理屋の追い回しをしながらも、職業作家という贋世捨人(にせよすてびと)として生きる道を歩むようになるまで経緯を、独特の文章で描いている。古川日出男の『ベルカ、吠えないのか』は、想像力に富んだ、秀作だと思う。第二次世界大戦後にキスカ島に捨てられた軍用犬の視点から描かれた20世紀の歴史の物語。犬たちは、イデオロギーも国境をも、やすやすと越えて、人間である主人のもとで生き、次の世代を生みおとす。人間は軍用犬を用いて探査し、攻撃する一方で、犬は主人に従順にまっすぐに生きようとする。犬のコトバ、その背景にほとんどの場合匿名の存在として描かれる人間の営みの記録。人間は、主義や宗教によって自らを境界づける存在であることが、犬の視点から浮かび上がるように思える。スピードのある文章によって、一気に読まされる。フラナリー・オコナーはなかなかいいよ、と聞いたので、『フラナリー・オコナー全短編(上)』を読んだ。この短編には、立派な志をもった「人物」は登場しない。誰もが性癖を含めた、歪みのようなものを持っている。それがじわじわと魅力的に感じられてくるというか、ダメな部分や暴力的な面を抱えている点で、人間たり得ていることが描かれている。それゆえに、文章表現はなかなか分かりにくい。フラナリー・オコナーは稀有な作家である。短編集のなかで、「人造黒人」という話が好きだ。おじいさんと孫息子が二人で住んでいる。二人が田舎から列車で都会に出かけていく。はじめから二人はなんだか張り合っていて、喧嘩ごしである。祖父は都会で孫を見放すが、なんとか仲直りしたいとも思っている。田舎に戻って来て、孫は都会を振り返って、行ってよかったが、二度と行きたくないと呟く。そんな話。文章表現が素晴らしい。最初の段落。「目をさます。部屋中に月光があふれていた。ミスタ・ヘッドは起きあがって、あたりをじっと眺めた。銀色になった床板。銀糸で織ったように見える枕カバー。一メートル半ほど離れたひげそり用の鏡に、突きが半分映っていた。部屋に入る許可をもらおうと、そこでちょっと立ち止まっているように見えた。やがて月は全身をあらわし、あらゆるものに荘厳な光を投げかけた・・・」


今年の読書

2012年12月24日 14時25分59秒 | 文学作品

今日は、ハッピーマンデーでクリスマス・イヴなのに、大学の授業日。
オフィスの片づけをしているが、今年読んだ本(小説)を上げてみようと、ふと思い立った。
前半は、動物に関わるものをずいぶん読んだようだ。
熊谷達也『邂逅の森』はマタギの物語。『相剋の森』も同じく、熊谷達也の自然もの。
星野道夫は、『旅をする木』『イニュニック』のアラスカものの2冊を読んだ。自然と人間について考えさせられた。
コーマック・マッカーシー『すべての美しい馬』は、アメリカの馬と人の物語。
レベッカ・ブラウン『犬たち』は、とにかく、犬に囲まれた話。
メルヴィル『白鯨』(上)(下)は、夏の旅行中に読んだ。船長の白鯨への戦いの間に差し挟まれた「鯨学」の記述が面白かった。
吉村昭『羆嵐』は、北海道の開拓村での、女の味を覚えた人喰いヒグマによる獣害をめぐるルポ。
同じく、吉村『三陸海岸大津波』も、宮城県にフィールドに行く前に、学生研究会で読んだ。
そういうと、ゼミ合宿で遠野に行ったので、井上ひさし『新釈・遠野物語』を読み、ずいぶん面白かった。
柳田國男の本家版『遠野物語』も、久しぶりに読み返した。
賞を取った本のうち、芥川賞では、円城塔『道化師の蝶』田中慎弥『共食い』を読んだ。円城は、ナボコフ的。
直木賞では、葉室麟『蜩ノ記』鹿島田真希『冥土めぐり』。どちらも読み応え十分。鹿島田の本は、私と夫、母と弟が奇妙に交錯する物語。
川上美映子の芥川賞受賞作『乳と卵』は、母子の豊胸手術と生理現象をめぐる快(怪?)作。
ノーベル賞の莫言は、『酒国』を読んだ。肉童を食べている人びとを探りに行くのだけれども、主人公は、酒と女に溺れて、探偵に失敗するという内容。
ふと手にした深沢七郎『笛吹川』は、甲州の農民六代の生と死の物語。日本文学、凄いと思った。
町田康『パンク侍斬られて候』。腹ふり党という反社会的な行動とパンク侍の活躍(?)。町田の独特の文体のリズムは爽快。日本社会への痛烈な批判とも読める。
年に何冊かは、ラテンアメリカ文学を。ガルシア・マルケス『悪い時』
ときどき思い出したように西村賢太『どうで死ぬ身の一踊り』。ダメ人間のさらけ出しという私小説は、滑稽でもある。
バルガス・リョサ『継母礼讃』は、継母と10歳の堕天使の話。わくわくするエロティシズム。
石田衣良『sex』で描かれるのは、じつに多様なセックスのあり方。「好きな人とたくさん」というのが、作者のメッセージだそうです。
ニーチェ『ツアラトゥストゥラはこう言った』(上)(下)は、本の構想を深めるために読もうと思ったのであるが、どれだけ理解できたやら。
小川洋子『凍てついた香り』は、匂いがテーマ。
誉田哲也『幸せの条件』は、大学の図書館運動で読んだ。農業をめぐる日本の課題が描かれる。
恩田陸『光の帝国』は、不思議な力を持つ人びとの物語。長島有『泣かない女はいない』。いやあ、長島さんって、なんでこんな女心が分かるんだろうか。
津本陽『無量の光』(上)(下)は、鎌倉時代に仏教を深い日常の哲学にまで昇華させた親鸞聖人の物語。
最近凝っているのが、イギリスの小説家、イアン・マキューアン『贖罪』(上)(下)『アムステルダム』を読む。とにかく、ストーリーの組み立てが絶妙だわ。
カスオ・イシグロ『わたしを離さないで』は、臓器提供をめぐる施設の話。これも、小説としては、絶品だと思う。
ブルース・チャトウィン『ソングライン』も確か、今年の年初に読んだように思う。オーストラリア・アボリジニの「ソングライン」を訪ねる旅の記録。彼らの歌のなかには、風景や出来事が刻まれている。



 


『白鯨』

2012年09月06日 10時34分56秒 | 文学作品

飛行機の座席はシートベルトで体を椅子に固定されて最上の読書空間となる。日本とマレーシアの間の7~8時間というのは1冊の本を読むのにちょうどいい長さだ。旅に出るときは厳選して数冊を持って行くのだが、今夏はハーマン・メルヴィルの『白鯨』上下巻を含めて5冊の小説を持って行った。旅行中そんな読めるものではなくいつものことながら見積もりが甘いのではあるが、結局、『白鯨』2冊しか読むことができず、他の3冊はザックのなかに納まって日本とマレーシアの間を往復しただけだったが、とりあえず、そのことは措くとして、『白鯨』について。19世紀の半ばに発表された作品である。アメリカの東海岸の捕鯨基地ナンタケットの捕鯨船ピークォッドに乗り込んだイシュメールが語り手となって、船長エイハブが「モービ・ディック(Moby-Dick)」と名づけられた、かつて船長の片脚を捥ぎ取った獰猛な「白鯨」に対して復讐を遂げるために、広い海洋世界の旅を語る。たんにそれだけの物語なのであるが、凄いのは、というか、小説の枠を大きくはみ出ているのは、鯨の種類や鯨の生態、捕鯨や解体の技術などの鯨学、捕鯨学の話が、作品の真ん中の部分を長々と占める点である。『白鯨』には、モービ・ディックへの執念深い敵討の物語と鯨の話が埋め込まれている。敵討の話だけでは薄っぺらいので、それを底の部分から盛り上げるために、ひたすら鯨学・捕鯨学の知識を大全的に書き込んだのかもしれない。そのことが、この作品を高めている。本を読んで気づいたのは、この時代の欧米の捕鯨は、鯨油を取るために行われていたということである。たしかに、鯨の目は横に着いているので、視角は狭いだろう。鯨の潮吹きについても詳しい記述があり、それは毒を含んでいるらしい。他方で、龍涎香は重宝されてきた。面白いのは、この時代、捕鯨船の乗組員が「多文化」的だということである。銛打ちのクィークェグは南太平洋の酋長の息子だし、タシュテゴはアメリカ先住民、ダグーはアフリカ出身。他方で、船長や一等航海士は白人である。白人が率いる捕鯨船(その名ピークォッドは、アメリカ先住民的)が、世界の民族を従えて航海に出る。実質的に、鯨に銛を打ち込むのは非・白人である。彼らが、ふつうは黒いのに、白くて粗暴な白鯨を打ち獲りに行く。植民地主義を含む、近代以降の世界システムの話であると読むことができるかもしれない。帰りにクアラ・ルンプールで、原書(Moby-Dick)を買ったら、8.5リンギット(230円)だった。誰にでも読めるように安価なのだろう。狩猟民族誌として、『白鯨』ならぬ『白猪』が書かれなければならない。現代のメルヴィルよ、現れよ。


あべちゃん、すごい

2011年12月31日 11時20分12秒 | 文学作品

 

前々から阿部和重はすごいと聞いていた、阿部和重を読まないなんて、おまえの小説の読みはダメであるとまで言われた。で、読んでみたのである。

阿部和重 『インディヴィジュアル・プロジェクション』新潮文庫 ★★★★★★(11-58)

現実そのものの歪みだろうか、現実認識と現実のズレだろうか。主人公のオヌマは、映像専門学校の学生たちとともに故郷の山形で、スパイ養成のためにマサキによって作られた高踏塾でかつて訓練を受けたことがあるが、今は、渋谷国映で映写技師として働いている。高踏塾で一緒に訓練を受けた経験があるメンバーのうち4人が高速道路で事故死したことをきっかけに、オヌマは、やがて、否応なく「危機的情況」に巻き込まれてゆく。オヌマは、その流れの背後に、高踏塾時代の訓練によって、暴力団から奪い取ったプルトニウム爆弾をめぐって続けられている暴力団と高踏塾のメンバーとの抗争を嗅ぎつける。オヌマが働いている映画館にアルバイトで働き始めたカヤマという謎の男とともに、渋谷の女子中学生売春のいざこざに巻き込まれるなかで、オヌマは、一人の暴力団の男を殺害するに至る。しかし、その事件の相棒のカヤマについて知っている人物が誰もいないというあたりから、これまで語られてきた物語の信憑性が崩壊するように感じられる。頻繁に映画館にオヌマを訪ねてくる口頭塾の友人・イノウエの部屋は、オヌマの部屋そのものだった。オヌマはまた、マサキ、カヤマ、イノウエでもあるのだろうか。現実をどう捉えればいいのか。突き刺すような文体によって語られる、暴力とセックス、さらには、オヌマが背負う、身の回りのあらゆる物事に対する苛立ちの感情。そうした情況が、オヌマの現実認識を歪めてしまったのだろうか。その後、イノウエは実在の人物として、オヌマの日記のなかに再び登場してくる。しかし、この小説の最後に付けられた「感想」とはいったい何なのか。オヌマの語りがレポートであったというのか。この小説は、こうした複雑な仕掛けにより、多くの謎に満ちている。

阿部和重『シンセミア』I,II,III,IV、朝日文庫 ★★★★★★(11-59,60,61,62) 

とにかくこの化け物みたいな長い小説を、ついに読み終えることができた。ウィリアム・フォークナーの日本版のサーガのようだ。山形県東根市神町での太平洋戦争後の進駐軍による日本のアメリカ食文化化の過程でパンが広がり、「パンの田宮」が勃興するエピソードからこの物語は始まる。半世紀を経て、その神の町に、相次いで、事故死や自殺、失踪事件が起きる。そこでは、産廃処分場の建設をめぐる利権がらみの抗争、東北の小さな田舎町で暇を持て余した挙句の果てに20代後半の男どもが地下に潜って続けるビデオ盗撮サークルの荒れた活動、根っからのロリコン趣味を世間にひた隠しにして生きるのではなく正義心を盾に大っぴらに職業として選んだ警官の破廉恥な行動、うしろ暗い過去を捨てて嫁いで来たものの家業の存亡の危機に深く悩み傷つく夫とともにコカインに刹那的な快楽を求める嫁など、社会と時代によって生み出される現実に翻弄されながら、欲望をむき出しにして生きる神町の住人の日常が描き出される。この物語には、高い理想を抱いて潔く生きているがゆえに、共感できるような人物など一人も登場しない。みな人をとことん愛し愛されたいと欲しその果てに憎み恨み妬み、さらに思い悩み深く傷つき、どうしようもなく制御することできなくなって、ゴロツキのように怒号したり、暴力をふるったり、殺傷したりする性悪を抱えこんでいる。なぜそうした登場人物たちに共感することができないのかを考えてみると、そうした人物が、ある意味では、本当は弱く傷つきやすい自分のことであり、我々自身だからではあるまいかと思えるようになる瞬間がある。そう思えた瞬間に、この物語は、私の物語であり、現代日本の物語に転じる。己の欲に忠実であらんとする人たちは、話のクライマックスである2000826日に、次々に、無残な死を迎える。最後に、この憂える物語の背後には、50年前の戦後の神町に過ごした人たちによって生み出された狂気が潜んでいたことが明るみにされる。格調の高い説明調の文体と、最初は非常に読みにくく感じるが、慣れてくると次第に微笑ましくさえ感じられる山形弁が絶妙に溶け合っている。阿部和重、恐るべしである。

阿部和重『グランド・フィナーレ』講談社文庫 ★★★★★★(11-63) 

読みながら、ナボコフの『ロリータ』を思い浮かべた。同じロリコンものなのだけれども、それとはいくぶん趣が異なる。1・では、ちーちゃんという8歳になる自分の娘の寝姿や裸の写真などだけでなく、映像制作会社の仕事の関係で、少女たちの写真をパソコンのポータブル・ストレージのなかにため込んでいたことが露見して、妻・紗央里との離婚に追い込まれ、法的に、妻にちーちゃんの親権を剥奪されてしまった、37歳の「わたし」が、ちーちゃんのことを想いながら暮らす陰鬱な日々が綴られる。2.では、ちーちゃんのことを深く思いながら、単身、故郷である山形県の神町に戻った「わたし」が、実家の文房具店を手伝いながら、小学校6年生の女子児童2人、亜美と麻弥と知り合い、彼女たちが、のっぴきならない事情で離ればなれにならなければならなくなり、死んでしまおうとまで思い詰めた心境で懇願され、学芸会で演じる劇の指導を引き受け、会に向けて、劇の稽古をする日々が綴られる。劇の開演時刻に、遅刻せずにやってくる二人の少女。「わたし」が、いつも持ち歩いている、かつて自分の娘・ちーちゃんに贈ったにもかかわらず、母親・紗央里によって捨てられた、音声学習機能の付いたぬいぐるみ・ジンジャーマンが、「おはよう」と、劇の開演を告げるところで『グランド・フィナーレ』は、謎を残して終わる。いったいこの最後のシーンは、何を暗示しているのか。「わたし」のロリコン趣味からの脱出か、あるいは、惨たらしいロリコン犯罪の開始なのか。作者によっては語られることはない。冴えわたる阿部文学。

 


九十九、百

2011年12月04日 15時48分40秒 | 文学作品

鈴木善徳「髪魚」『文学界2011.12.』★★★★(11-56)

本年度の文學界新人賞の受賞作の一つ「髪魚(はつぎょ)」を読んだ。サラリーマンの男が、川が氾濫した後に、川原で見つけた年老いた男の人魚をアパートの4階の自室に連れ帰って飼うという話だが、どこか川上弘美を髣髴とさせるところがある。髪が薄くなり白髪の年老いた男の人魚というのが斬新だ。赤羽の人魚屋には、水槽のなかには若い雌の人魚が売られている。「しかし、この人魚の幻のような寝顔を見ていると、つい広子の寝姿と重ねてしまって、僕は激しく落胆した。二か月ほど前、隣の大きなくしゃみ音で目を覚まし、彼女の顔を覗き込むと、洟を唇まで飛ばしていた。僕は花粉症か、と呟きながら、ティッシュペーパーでそれを拭ってやった。それが悪いわけではないが、眼前に横たわる人魚の寝顔を眺めていると、何やら人間の醜さや滑稽さを自覚させるために、この生物が創造されたような気になってくる。」とな。年老いた男の人魚が来てからというもの、幻を見るようになり、人魚の観察を通して、主人公は様々に思いを巡らせる。「この生物を観察していると、姿は我々と似ていても、時間や尺度と言ったものに縛られている印象をまったく受けない。僕たちは労働時間だの法律だの文明だの倫理とやらに捕らわれて、時折文句を言いながら、結局自分たちがそれを考案したことも忘れてしまっている。本来は生物なんて、もっといい加減で良いはずなので、なぜか僕たちは、それを恥じる。」と、文明論、人間論が差し挟まれる。人魚は、お弾きを用いる占いが巧いなんてのは、まったく知らなかった。馬券をあてて、62倍で主人公を儲けさせたりするのだ。最後に、主人公は、年老いた人魚を川面に放り込む。「一度沈んで見えなくなり、そして浮かんできた男はなにやら困った表情で僕を振り返り、もでなどー、と鳴いた。それから尾鰭を川面に叩きつけ、一度も振り返ることなく、人魚は川のなかへ沈んでいった。」幻想性と世俗性がほどよく溶け合って、いい物語だ。今後の活躍に期待したい。 

赤瀬川原平『新解さんの謎』★★★★★文春文庫(11-57)

 映画『赤目四十八瀧心中未遂』のなかで、アパートの一室で黙々と鶏の肉を串刺しにする仕事をする主人公の友として、新明解国語辞典が出てくる。思い出して、赤瀬川原平の『新解さんの謎』を読んでみた。飛びっきり面白い。辞書というのは、凡そ、言葉の定義をしながら、「守り」の姿勢に貫かれているものだが、新明解国語辞典は「攻め」の辞書だと、SM嬢(SMはイニシャル)の報告を受けた主人公は言う。いやいや「攻め」の態度を持ちながら、それだけではなく、彼は、人格をさえ持っているようなのだ。「辞典なのに、自分の好きなものには、おいしいだの、うまいのだの言っています。いいんでしょうか?おいしいものは別に桃だけじゃないです。コーヒー牛乳だっておいしいと思います。」たとえば、辞典には、こんなふうに載っている。「はくとう【白桃】[「黄桃オウトウ」と違って]実の肉が白い桃。果汁が多く、おいしい。」「かも①【<鴨】①ニワトリくらいの大きさの水鳥。首が長くて足は短い。冬北から来て、春に帰る。種類が多く、肉はうまい。」「あこうだい②アカヲダヒ【あこう<鯛】[赤魚の意]タイに似た深海魚。顔はいかついが、うまい。」「これはレッキとした辞典である。辞典というのは言葉の意味の多数決を発表するもの。というのが常識。でもそんな選挙結果を待たずに、自分の投票内容をどんどん公表してしまう。新解さんはそういう人だ。」すごいのは世の中だ。「世の中②【世の中】①同時代に属する広域を、複雑な人間模様が織りなすものととらえた語。愛し合う人と憎しみ合う人、成功者と失意・不遇の人とが構造上同居し、常に矛盾に満ちながら、一方には持ちつ持たれつの関係にある世間。」ひぇ~。世の中とは、そういうことだったのか。続いて、実社会。「じっしゃかい③-シャカイ【実社会】実際の社会。[美化・様式化されたものとは違って複雑で、虚偽と欺瞞ギマンとが充満し、毎日が試練の連続であると言える、厳しい社会を指す]」。新解さんによれば、虚偽と欺瞞が充満しているのが実社会なのだ。新解さんは、言葉の定義をしながら、それだけに留まらず、主張する。動物園がスゴイ。「【ー園④-エン】生態を公衆に見せ、かたわら保護を加えるためと称し、捉えて来た多くの鳥獣・魚虫などに対し、狭い空間での生活を余儀無くし、飼い殺しにする、人間中心の施設。」いまでいうならば、新解さんは、アニマルライツ派に違いない。いや~、それにしても、作家・赤瀬川原平の観察眼はあっぱれである。視点を移動し、新明解国語辞典を捉えている。きっと日常をこんな感じでいつも観察しているんでしょうね。これからは、新明解国語辞典以外の辞典は使えないかもしれない。

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【補論】
ようやくこれで、2010年1月1日から始めて100冊読破達成だ!
一年で100冊というのはスゴイと思うが、絶対無理だ。
桜庭一樹は一年400冊読んでいるというのは本当か!
いや~、文学はじつに面白い。
人類学があんまり面白くない⇒個人的には、民族誌が
書けない⇒書き方が問題ではないか⇒文學にヒントがあるのではないか;
そう考え、意識して、文學を手当たりしだいに、最初は<世界文學>、次に、<日本文學>と、思い付きで読んできた。
そのうちに、しだいに、文學そのものにはまり込んでしまった。
次はこれを読もう、あれも・・・と考え、暇を見つけては本屋に立ち寄るうちに、書斎は読んでない文學で埋もれてしまっている。
あやうく授業や会議に遅れそうになったこともある、朝眠くて起きられないこともあった。
でも、中毒のように、やめられないのだ、読んでしまうのだ。
そこではないか、人類学に徹底的に欠けているのは。
読みたいと願うような民族誌の蓄積。

いま、人類学は、理屈をこねくり回した挙句、理屈だけに溺れてしまっている。
じつに下品だ。
かたや、文學は、実験や批評を含めて、作品の層が圧倒的に厚いのだ。
その意味で、文學>>>>>人類学なのだけれども、そんなことは洟っから分かっている。
人類学にも、文學との比較をめぐって、不毛かつ無益な議論が山とある。
民族誌を書きたいけど、書けない⇒書けないから文學を読む⇒読むと面白いし、どんどんばしばし読む⇒読んでいると時間がなくて書けない;
当分、私の民族誌執筆企画は、このままの状態で推移するだろう。