かなりひょんなことから、宗教人類学のシンポジウムを、キリスト教との関わりにおいて組織するようなこととなり、最初は、これは、かなり困ったことになったと思っていたが、厄介をお願いしながら、宗教学やキリスト教学の先生方に話をうかがったり、幾つかの本を読むうちに、そのような企画そのものが、じょじょに、けっこう面白いのではないかと思えるようになってきた。というのは、宗教人類学と呼ばれる領域自体が、じつは、はっきりしないというか、そもそも、かなり怪しい研究群だと思えるのだが、今日、宗教人類学の研究対象とされる宗教的な諸実践(シャーマニズム、呪術、オカルト、シンクレティズム、宗教f儀礼、トーテミズムなど・・・)は、西洋のキリスト教に対して、非西洋の未開「宗教」、「宗教」以前の野蛮な数々の実践などを取り上げることによって、次第にかたちをなしたという歴史的事実があるからである。西洋における倫理であり、道徳であり、日常のリズムである社会的事実であり、政治的な力であるキリスト教の精神と生活を土台とすれば、地球上の多様な文化のありように触れたとたんに、キリスト教世界で行われているものと同系・同様の特色をもつ諸実践を、とりあえずは、「宗教」と呼ぶことができたであろう。さらに、キリスト教から遠く隔たった誤ったり、未明であると思えるようなものに、偽宗教であるとか、原始宗教その他の名前を付けたり、キリスト教とローカルな実践が混淆したものを、習合であると読み取ったことは、自然のこととして、理解できる。また、ヨーロッパでは、キリスト教は、長らく、人びとの生活から切離されるものではなかったのだが、啓蒙主義時代(18世紀)以降に、一つの知的システム(=宗教)として捉えられるようになった。その背景には、魔女狩りや民間宗教などの差別化があったとされる。そのようなことは、宗教をめぐる人類学研究のなかで、すでに明らかにされていることであり(花渕馨也「宗教と呪術」『文化人類学のレッスン』所収)、わたしがいまさら、驚きをもって述べるべきことでもないのだが、いずれにせよ、上で見たような宗教をめぐる概念の成立のプロセスの根っこの部分に、キリスト教の精神と実践が密接に関わっているのだとすれば、キリスト教がどのようなものであるのかということについて考えてみることは、大元を問い尋ねるという意味で、いまとなっては、宗教人類学の重要な課題となりうるのかもしれない。
(写真は、プナンの女の子)