たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

夜、あお向けにされて、その他

2011年03月31日 09時12分19秒 | 文学作品

とにかくすごいって聞いたので、ピンチョンの『V.』を20歳のころに読んだのだが、その読書の記憶はいま一つはっきりしないであるが、一つは、「全病連」という団体とかかわる、恋愛恐怖症のプロフェインという男の物語で、もう一つは、V.という女性の謎をめぐる物語で、登場人物が多く、謎が複雑に仕掛けられていて、その意味で、物語の秩序が失われていて、なんだか分からないが、その分からなさに「すごい!」と唸ってしまうような解読困難な文学なのだが、ピンチョンは俺ごときじゃ立ち向かうことができないだろうなと長い間放ってきたが、激烈なるエスノグラフィーを書くためには、いまのままでは到底できないかもしれないが、千に一つの可能性に賭けるならば、なんとかして通過しておかねばならないマストとして、というのは、文学は人類学に比べて膨大な、壮絶な物書きとしての実験精神と想像力が圧倒的に積み重ねられているからであり、おそるおそるピンチョンのヴァインランド』(2011-10 ★★★★★)を読んでみたが、1980年代のアメリカから振り返る、ラブ、ピース&ドラッグの1960年代的な日常が、とにかく入れ代わり立ち代わり登場人物が交替しながら、日本の忍者の話題やベトナム戦争の死者との対話などを転がしながら、ただただ見かけとしては脳天気に、皮相なレベルで疾駆していくといったお話であり、その意味で、ピンチョン・ワールドが炸裂しているのだけれども、なんなのだろう、現実の深刻さをせせら笑うような、この過激な非・秩序はいったい!、いや、たんなる思いつきながら、だからこそ、ピンチョン(現在73,4歳)には、どうか今後も生きながらえて、日本の東北関東大震災の時代について書いてほしいと思ったりするが、それはさておき、なんと、あとがきによれば、ピンチョンは、コーネル大で物理学を専攻したのち大学院で英文学を学ぶという迷った学生であり、そこで、どうやらあの『ロリータ』のウラジミール・ナボコフ先生に習っていたというのであるが、直観でいえば、ナボコフの大真面目な実践の先にほのかに感じられる滑稽さと、ピンチョンの凡庸な表層の出来事の連なりの向こう側にある複雑で深遠な人間的現実は、好対照をなしているように思われるが、ま、それもさておき、しばらくピンチョンは封印だな、でないと中毒になって、どこか別のところに連れて行かれる予感、というような、いやいや、もっともっと華麗なる文体で、ピンチョンはグイグイと読む者を引っ張ってゆくのだが、この調子を人類学に持ち込んだら、査読に通らないだろな、話は変わって、コルタサルもまたただ者ではない作家、短編の名手とされるが、『悪魔の涎・追い求める男』(20011-09 ★★★★★★)を読んでみたが、ずばり俺たちが目指しているのはこれだ!、とでもいうべき幻想性にあふれる、反・合理主義的な小説家が、彼・フリオなのだ、「夜、あお向けにされて」という、この上ない魅惑的なタイトルのついた短編では、バイクの事故にあった主人公が病院に運ばれて夢を見るところから始まるが、夢のなかで、彼はアステカの兵士から追われて密林を駆けるモテカの兵士になっており、その病院のベッドの上で、なんども繰り返しその夢を見続けて、ついに夢のなかでアステカの兵士に生贄にされそうになったときに、それが夢だと気づいて、夢から目覚めようととするのだが、そのときにバイクの事故のほうが夢であったと気づくという、現実と夢が最後にテンポよく反転するという、フリオのところに行って抱きしめてあげたいと思わせるような秀逸な、パーフェクトな物語であり、その本のなかに収められている別の短編「南部高速道路」は、ありえないことであるが、起こり得るかもしれないという想像をさせるようにしかけられた、実に巧みな、交通渋滞譚であり、昨年これを読んで以来、車を乗っていて渋滞に巻き込まれると、ふと、この奇特で無類のコルタサルの断片が頭をかすめるのだが(http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/2ff0df74fd859a4f45d01ede702f5c92)、コルタサルは、もっと広く読まれてもいいだろうと思って、2011年度の学部ゼミの読書計画の候補に入れたが、こりゃ、自分自身が解説できないなと思い直して(星野智幸の『俺俺』にした:これも解説は至難であるが)、いったい俺は何の研究者なのだろうと、最近思うこともあるが、そういえば、生態学者という本業を忘れて民族学的な興味に突っ走っている研究者に最近出会ったのだが、人は、こうして本分を失くしてゆくのかもしれないが、なに、俺は別段人類学でなくともいいと一部開き直りながら、最後に、桜美林文化人類学研究会(OSSCA)発行の『アントロポロギ』第2号が届けられたことに関して(写真)、関係者のみなさま、配布についてはもう少しお待ちくだされということを断っておいた上で、研究会の学生諸君の努力の果てに編まれた本冊子では、NHKのディレクター・国分さんと大阪大学の池田さんの対談がきわめて印象深い、というのは、ヤノマミという他者の美への恋に似た憧れという耽美的なロマン主義、圧倒的な他者に囲まれていたいという果てしない欲動、その裏返しの『プレジデント』誌に代表されるような近現代の価値観への嫌悪、ガルシア=マルケス的な世界への没溺、さらには、言葉の端々で、セクシュアリティの話題に触れないと自我のバランスが保てないかのような!語りの技量などなど、同年代で全国に100人はいないであろうと思われるような、異端的な逸脱系として、国分さんとものすごく多くの感性を共有していると強く感じるからであり、読み物としても、あの現代の未開の象徴たるヤノマミにも、ヤノマミ語で「ホトカラ」(天空)と名づけられたとツイッター・サイトがあり、半年間に7ツイートしか書き込みがないなど、興味深い話が満載されていて、国分さんが提供してださった、味わい深い表紙のヤノマミの料理中の写真とともに、立派な冊子に相成ったことをここに言祝いでおきたいと思う。


震災後のオフィス

2011年03月30日 17時23分10秒 | 大学

地震発生から19日目、オフィスに来た。
本やファイルが床に乱散し、あちこちに小物が飛び散っていた。
2メートルほどの棚の上から落下したであろうウィスキー「竹鶴」の瓶は、どうして落ちたのか
割れてなかった(写真)。
同僚の先生たちから聞いていたので、状況はもっと酷いかと思ったが、そうでもなかった。
建物のなかで、私の列のオフィスはそれほどでもなかったが、向きが異なる列のオフィスは酷かったらしい。
上階のオフィスや書類や本などを積み上げている教員は、後片付けがたいへんだったという。
事務室は、節電のため、どこも薄暗い。
何人かのスタッフの人たちと話をした。
地震当初、みなは欅の広場に避難したという。
横浜線が止まり、帰宅できない人たちのために学生寮が開放されたという。
ガソリンが無くなり、自宅から数時間かけて通勤したという人もいた。
買占めにより、コンビニから品物があっという間になくなったと聞く。

地震後、怖い夢ばかり見る人もいた、不安を感じているのだという。
町田あたりでも、こんなにたいへんだったのかと思う。
新学期のオリエンテーションと授業は、3週間繰り延べることになった。


ある旅の記録

2011年03月29日 23時08分22秒 | フィールドワーク

毎年サラワクに行き続けている、そして、13年目の春の旅は終わった。
朝8時に出発して、夕やみ迫る前の時間に、プナンの村に着いた。
4輪駆動車は、水浸しの道を前に、先に進めなくなった。
村まで700メートルほどのところだった。

プナンの狩猟について行ったが、獲物はなかった。
このころだ、腕のダニにかまれたところが痒くてたまらなくなったのは。

村人は、俺たちは古い習慣を捨て去ったクリスチャンだと豪語した。
カミの話を聞いていると、年寄りが乗ってきた。
「俺たちが死んだら、カミの話は聞けなくなるぜ」

天候激変のさいのカミへの唱え言を吟じてくれた。
(上の音声データをクリックしてみてください)

アノファレス種の蚊よ、どうか俺を刺しにこないでおくれ!
マラリア予防抗薬、その名はメファクイン。
一週間に一錠は欠かせない。
いまのところ、それらしい症状は見られない。

なんだ、おまえは来たと思ったらすぐ帰るのか?
おまえがいないと寂しく感じるんだともプナンは言った。
イノシシならいまたくさんいるぜ。
こんどはお上に長くいられるようにしてもらえよも言った。
この際立ってみすぼらしいロングハウスもやがて壊される。

トルーマン・カポーティーの22歳の出世作『遠い声、遠い部屋』を読んだ(2011-11★★★★)。
母を亡くして父に引き取られるために、髑髏の館に迷い込む13歳の少年ジョエル。
病床にあって口が聞けぬ父、お転婆娘アイダベル、ホモ野郎ラドクリフ、隠者のリトル・サンシャイン・・・
不気味な悪を内在化したような少年ジョエルの純粋さが、贅を尽くした文体のなかから浮かび上がる。

州都クチンのタイムズ書店にヴィンテージの村上春樹のシリーズが山積みになっていた。
After the Quake、時期としてぴったりだし、夜行便のなかで読むのに適当な本だと思った。
だいたいにおいて村上春樹は、私自身の延長線にある人たちの話で、これまであまり好きではなかった。
英語で読んでみたらどうだろう、うん、異化された感じでなかなかいけると思った(2011-12★★★★)。
阪神大震災をめぐる、それとはほとんど関係のない話なのであるが、人間同士の、人間と動物の物語。
『神の子どもたちはみな踊る』というのが日本の題名らしい。
甲状腺医さつきは震災で死んでくれればと思う男がいたのだが、タイ人の占い師が、彼女には「石がある」と見破る。
大学の同級生ジュンペイとサヨコとタカツキの3者の心のありようが、震災を境に代わっていく物語もいい。

飛行機のなかで朝日新聞の原発の記事を読んだが、テクニカルタームがよくわからなかった。
成田から、高速は事故渋滞で、東京都内の下道を通って帰った。
つい数日前まで、ボルネオの森を見つめていたが、ここには、ビルが圧倒的に林立していると思った。
信号が車を止め、人びとを歩かせ、機械が人間に命を下しているように思えた。
ここでは、度を越えて、人間が自然を改変してしまっているのではないだろうか。

録音資料は、先住民にとっての脅威である天候激変に対する唱え言の一部である。
動物をからかったり、動物を嘲笑ったら、自然災害が起きると、彼らは考える。
それは、俺たちが悪うございましたとでもいうべき、
人間の側の慎みみたいなもののを表しているのではないか。
「許しを請う」祈願文なのである。

鏡を見たら、思ったよりも真っ赤に日焼けしていた。
ダニに刺されたところが、帰国したら、また、じんわりと痒くなってきた気がする。


ロスト・イン・ザ・フォレスト~ヌーディストハンターの怪~熱帯のニーチェ~密林の悲しみ

2011年03月25日 22時01分41秒 | フィールドワーク

3月第二週、池澤夏樹の『静かな大地』(2011-10★★★★★)に浸りながら、わたしはマレーシアに入国した。それは、池澤夏樹のルーツともいうべき、彼の祖先たちの北海道開拓の物語、いや、読みようによっては、和人とアイヌの交わりをめぐる分厚いエスノグラフィーである。徳島との政争に敗れた淡路の武士たちは明治維新以後、蝦夷地の静内に開拓民として入植、宗形三郎と志郎の兄弟は現地のアイヌの人たちと仲良くなり、アイヌ語を学んだ後に、兄三郎は札幌の官園でアメリカ式の牧畜を学び、静内でアイヌの仲間たちとともに馬の飼育を開始する。そこで育てられた馬は軍馬として高い評価を得、中央財界の重要人物の目に留まって経営拡大を求められるが、三郎はその誘いを和人のためのものであると見抜いて断る。彼は、和人を裏切りアイヌの側に立つことを志して牧場経営を始めたのだった。やがて彼は和人たちから睨まれるようになり、さらには、妻の産褥死という不幸な出来事を経て、自ら命を絶つ。三郎を失った牧場はやがて没落する。三郎は、なにゆえに、そこまでアイヌに対して思いを寄せたのか。作中で、三郎は、『日本奥地紀行』の作者、イザベラ・バードに会って、アイヌは気高き人びとであるという言葉に我が意を得る。『静かなる大地』は、和人である三郎によるアイヌという他者の理解の物語であり、全体をつうじて、クマ送りをすることに対する真の理解などを含めて、自然のなかに生きるアイヌの人びとへの共鳴が聞こえてくる。昨夏訪れた日高に吹く涼しい風を思い出した。違いそのものに悪があると認識され、歪めて捉えられ、数々の苦境を経験したアイヌの姿に、わたしは、ふとプナンの姿を重ね合わせていた。

ビントゥルで、3月11日東北地方で起きた大地震の報を受け、生態学者Sさんとわたしは一日出発を繰り延べたものの、食料や備品を買い揃えて、チャーターした車でジュラロン川流域のプナンの村に向かった。行く先々で聞こえてきたのは、植樹した油ヤシの苗や稲などが、イノシシやサル類などの動物によって荒らされる被害の実態であった。サラワクの農村でも獣害は深刻化している。二年前に消失したプナンのロングハウスにはほとんど人がいなかった、人びとはビントゥルに働きに出て、ゴースト・ビレッジ化していた。ジュラロンのプナンは、古くにウスン・アパウの森を出た人びとで、 その後、焼畑技術を身につけ、イバン人と交わり、近現代の流れに乗っている。ある女性は、キリスト教に改宗して捨ててしまったのに、「カミ(baley)の話を聞いてどうするの?」ってわたしに問いかけたが、彼らにしつこく話を聞いていると、年寄りが、カミの話や雷に対する唱えごとなどを教えてくれた。「プーイ、やめておくれ、その音、風のカミ、嵐のカミ、わたしはあなたたちを呼んでいる、なぜ雷鳴をとどろかせて、強風を吹かせるのか・・・」。森のなかでは、動物の名前を言い換えるという慣わしも行われていることもわかった。直接的に動物の名前を呼ぶとそれが悪霊に聞かれて、狩猟の成功が阻害されるのだという。シカは長い太もも、マメジカは小さい足首・・・に言い換えるのだ。

ジュラロン川にある別のプナンの村に行ってみた。プナン語でlake amai medai、恐れを知らぬ男と称されるハンターがいた。足跡を追い、裸で獣を追い、時には森のなかで眠るという。そのハンターの切れ味やいかに。Sさんとわたしは、彼に狩猟に連れて行ってもらうことを願い出た。結婚後、ムスリムに改宗して、イノシシには触れられないが、お前たちが担いで帰るならばという条件で承諾したと思っていた。しかし、翌朝、恐れを知らぬ男は、わたしたちの金払いが不満だと狩猟行を断ってきた。代わりに、PがRを連れて、わたしたちを一泊二日の狩猟行に連れて行ってくれることになった。

ロングハウスを出て焼畑小屋で休憩したとき、わたしは、所持金全額とパスポートなどが入ったウェストバッグを置き忘れた。そこから45分ほど行ったところの稜線で休憩したときに、そのことを思い出した。わたしが小屋までウェストバッグを取りに帰ると言った時、13歳の美少年Rがついて行ってやると申し出てくれた。その言葉によって、Sさんから借りたGPSの使用法については、詳しく知らなくてもいいと思ったことが、後から響くことにそのときはまだ気づいていなかった。Rは、猟犬をつれて、わたしの先を行った、いや、駆けたのだ。凄まじい速さだ、1500メートル走5分を切るのではないかと思えるような速さで。わたしは死に物狂いでRについて行った。45分かかった道を20分弱で引き返し、木陰に平然と座っていたRは、通り過ぎようとするわたしに向かって、おっとっとそっちじゃねえよ、ここで待っててあげるから、と森のなかの道を指差した。わたしについて来てくれ、いや、わたしに代わって取ってきてくれと言えばよかったのかもしれないが、その時点でヘトヘトで頭が回転しなかった。一方で、もうこれ以上歩けないと感じながら、ゆっくりと、なんとか小屋までたどり着き、ウェストバッグを見つけると、そこにへたれ込みそうになったが、意を決して、Rの待つ場所へと踵を返した。しかし、ぼうぼうと生い茂った雑草をかき分けて進めど進めど、Rとの待ち合わせ場所には行き着かなかった。プナンがそうするように、ウーイと大声で叫んでみたが、応答はなかった。ギラギラと照りつける太陽の暑熱。Rと分かれてから小一時間、帰る道を見失ったのだ。そのころまでに、わたしは相当疲れていた。そのとき、赤い犬が見え、追いかけた。そうして、ようやく待ち合わせの場所にたどり着いたのだが、そこに、Rはいなかった。次の瞬間、一人で行ってみよう、そう思った。そこから沼地を越えるまで、自分の長靴の足跡を確認することができた。その先の川のほとりに、さきほど我々4人が立ち止まった場所があり、一気に登りつめる急勾配の道があるはずだった。しかし、立ち止まった川のほとりに行き着くことができなかった。川の流れを頼りにさ迷い歩いたが、どうしても見出せなかった。そのうち、それらしき場所から山を登ってみようと思い立った。いや、それよりも、借りているGPSだ。GPSを使おう。しかし、Sさんに尋ねなかったため、使い方がよく分からなかった。頂まで上ってみた。どうやら、そこではないらしい。引き返して沼地まで降りる。別のところから山を登ってみたが違う。今度は、足跡がついていた沼地にはどうしても戻ることができなかった。心身ともにぐったりと疲れてしまった。そのころまでに、3時間近く歩き続けていた。力が出なくなったいた。しだいに、物事を考えられなくなった。小川を見つけて、僅かな窪地に体ごと飛び込んで、体と頭を冷やした。はっきりしたことが浮かんできだ。道に迷ったのだ。今夜はビバークかもしれない。蛇や虫がウジャウジャいて、雨も降る密林で一晩しのげるだろうか。懐中電灯もライターもない。なぜか、ポール・オースターの自分自身を見失う物語や、元の場所にたどり着くことができないカルペンティエルの話が頭に浮かんだ。いま一度、冷静になって考えてみよう。なんとかGPSを使えないだろうか。いろんなボタンを押してみると、現在地を特定した上で、なんとか、ウェストバッグを忘れたことを思い出した場所に行けることが分かった。光が差したような気がした。飛び起きて、直線距離で、崖のような場所を駆け上った。GPSには700メートルとの表示。人の声がする。ウーイと叫んだ。応答があった。Rが、家まで帰って、彼の父親をつれてわたしを探しに来てくれたのだ。一目散にその場所を目指して駆け下りた。全身から力が抜けた。そこから半時間、最後の力を振り絞って、SさんとPの待つ狩猟キャンプへほうほうの態でたどり着いた。密林のなかを4時間近くさ迷い歩いていたことになる。道に迷うとは、自分自身を見失うことに等しい。GPSによって、わたしは助かった。

道を迷うことについて、それはよくあることだというような言い方をPがした。邪悪なものがお前を陥れたのだと言った。だから、森のなかではあまり喋るではないとも言った。森のなかで、いろんなことを喋ってはいけないというのが、基本にあるようだった。それは悪霊の聞くところとなり、わたしたちの意図は妨害されるのである。別のジュラロンのプナンは、料理をしているときに料理をしているという言葉を使ってもいけないと言った。それを聞いた悪霊が、料理を妨げるのだという。その後、狩猟キャンプで、ロングハウスから持ってきた白飯を食べようとしたとき、わたしは、道に迷った心身の疲れから、ほとんど食が通らなかった。夜になり、PとRは、これから出かけるが、お前たちには無理だから、ここでゆっくりとしておけというようなことを言った。わたしは望むところだった。その後、Pは、いきなりシャツを脱いで裸になった。赤いブリーフ一枚になった。まさかとは思ったが、その格好で、ライフル銃を肩から提げて、Rとともにハンティングに出かけた。 Rは、衣服を着けていた。Sさんとわたしは、斜陽学問としての人類学について、生物多様性で息を吹き返すかのように見える生態学について、われわれの研究プロジェクトについて、狩猟キャンプのなかで意見を交換した。その間、わたしは喉が渇いてしょうがなかった。コーヒーを三杯も飲んだ。雨が降ってきた。午後11時ころ、手ぶらでPとRはキャンプに戻った。シカ3頭に出くわしたという。Rは、一頭は父親だったと述べた。Pの懐中電灯が暗くて射撃できなっかったという。SさんがPに聞いた。なぜ裸で猟に出かけたのか?アップダウンが激しいからと、Pは答えた。わたしは、ヌーディストハンターを初めて見た。なぜ裸なのだろう。体の臭いを消すため、より動物に近づけるため?いや、精神性の象徴?恐れを知らぬ男も裸で獲物を追うという。モルッカ諸島の狩猟民も、裸で獲物を追うと聞いたことがある。ただ、かつて、プナンは、フンドシ一丁だったから、別段不思議ではないとも言えなくもない。あの赤パンツが強烈に目の奥に残っている。その夜、葉っぱとビニールシートで作ったキャンプは雨漏りが酷く、太ももから下がびっしょりと濡れた。翌朝気づいたのだが、わたしは、体じゅう、擦り傷と打撲だらけだった。道に迷っている間に負ったのだろう。

その後、いったんビントゥルに戻り、今度は単独で、東プナン人たちの住むバラム川流域にも、8年振りに行ってみた。朝7時のバスに乗り、ベルルからラポック、ロング・ラマを経て、乗り合いに2回乗り換え、最後は、車をチャーターして、ロング・ベディアンというカヤン人の村に、暗くなる前に到着した。そこから車でクラビット人が住む村に行き、ノマディックなプナンがいるというM川を目指したのだが、雨季で伐採道路の状態が悪く、今回は、遊動プナンに会うのを断念せざるを得なかった。ロング・ベディアンで泊まったホームステイには人がいなかった。夜には発電機が止められて、真っ暗闇だった。充電型の電灯を借りた。夢のなかに、数年前に鬼籍に入った父が出てきた。同じく8年振りにミリの町にも行ってみた。発展著しく、新しいビルがニョキニョキ立っていて、大きく様変わりしていた。今回の短期的な調査行の締めくくりとして、わたしの調査地であるブラガ川上流域のプナンにも会いに行った。プナンと言っても、近現代の流れに比較的容易に巻き込まれているジュラロンのプナン、たたかう先住民として権利を主張するために自己を高めてきたバラムのプナン、そして、近現代をあまり意識していないとでも言えるブラガのプナンなど、きわめて多様である。

わたしがブラガのプナンを訪ねたとき、彼らは、こぞって、いつものように家のなかにいた。おまけに男たちは、酒に酔っていた。わたしを連れて行った車のドライバーは、なんであんな働かないで暮らして行けるのかと、プナンがいないところで、わたしに尋ねた。改めて、そのように問われると、ブラガのプナンの非近代性=近現代への乗り遅れみたいなものが浮き立つ。しかし、それが、彼らだと言うしかない。マレーシア連邦政府の支援で、セメント作りの新しい家が建設されていた。そこには、台所があり、トイレもあった。水道が引かれる予定だという。彼らは、基本的に誰かが与えてくれるものに関しては、いっさい拒むことはない。しかし、行政がそうしてほしいというふうには、決して行わない人びとなのであるが。彼らに関して、つらつらとこれまで考えてきたことを述べれば、ブラガのプナンは、自然に対する怖れを知っている、自然の限界を知っているように思われる。けっして、大それたかたちで、自然の操作や加工を行わない。動物も人も同じような存在であると考えている。人は、大水や雷などの自然の脅威の前には、本来、まったくの無力である。そのことをよく知って、自然を改変したり、自らの思想のかたちをこしらえようとはしない。それらが、近現代に生きるわたしたちの企てなのだとすれば、そうした近現代の挑戦に、洟から、与するようなことなどプナンには及びもつかない。その意味で、プナンは、熱帯のニーチェたちなのではないか。おっと、枠を踏み外して、幻想的な文明論になりそう。やめておこう。

ブラガのプナンは、わたしの顔を見ると、数日前に聞いたのだが、日本の地震や津波は、お前のところでは大丈夫だったかと口々に聞いてきた。また、お前がいない間、お前がいなくて寂しい思いをしていたのだと、気後れすることなく、口々にささやいた。彼らのこうした情動を、わたしはいつも強く意識する。つい先ごろ読んだプナンの感情生活をめぐる論文の内容を思い出した。「喪名」という習慣。プナンは、人が死ぬと、その死者との関係によって、遺族は別の名で呼ばれなければならない。父を亡くした長男はウヤウ・・・。逆に、普段の生活で、父は長男に対して、ウヤウよ、と声をかけることがある。そのとき、長男は、父の死後に自分が呼ばれるであろう喪名によって、将来的に起こりえるであろう父の死を想起する。身近な人の死を土台にしながら、人に対する思いや気遣いを抱くことこそが、プナンの感情生活の基本にあると、その論文の著者は述べていた。そのとおりなのだと思う。よくよく付き合ってみるならば、そうした慣わしが、プナンの日ごろの心の持ち方と行動を方向づけていることが分かる。そうした密林の悲しみを今回も感じた。ここ数日、わたしは、そんなこんなことを考えていたような気がする。

(写真:GPS。動いた。人の声が聞こえる前に、記念撮影した。Sさん、ありがとう。科学万歳!)


留まるための走り

2011年03月01日 16時17分50秒 | 大学

2月は突然終わる。
そしてもう早や3月。
ブログを更新しておこう。

わたしが、O大学に専任講師として入ったのは12年前。
最初は、事務のお姉さんが、暇なときに授業のプリントを印刷してくれたりした。
いまや、そういう不謹慎な呼び方をしたなら、セクハラで訴えられる。
それほどまでに、この10年の間に、大学は大きく変わった。

わたしの授業は、最初の数年はイノベーションをしていたんだろうが、しだいに教育に対する関心が薄まり、気づけば、毎年毎年、同じことを繰り返すだけになってしまった。
昨年、多忙化にプロテストしている最中に、そうしたことにハタと気づいた。

特に、文化人類学の授業は、WEB上に魅惑的なデータがゴロゴロと転がっている。
いまや、WEBは学生の標準装備である。

予習復習の時間を確保して、いかに学習効果を高められるか。
インターネット・リソースが、ヒントを与えてくれるように思う。

今年の4月から、試しに、少しずつ授業の進め方を変えていこうと思っている。

http://www2.obirin.ac.jp/~okuno/CA1.html
やや、遅ればせながら。
作業はいつ終わるか分からない。

不思議の国のアリスのなかの赤の女王のことば。
そこにとどまり続けるためには、つねに走り続けていなければならない。