たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

CBPR

2008年11月18日 19時30分52秒 | エスノグラフィー

先週の土日、I先生から誘われて、「コミュニティにもとづく参加型調査」(Community-Based Participatory Research, CBPR)のワークショップに参加した。

http://cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/CBPR2008_Japan.html

開き直って、「未開のスペシャリスト」であると自称する、わたしのような野蛮な人類学者が参加してもいいものかどうか、不安になって、I先生に、あらかじめ電話で尋ねたが、あなたにも何らかの役割があるだろうという微妙な返事だったので、余計に不安を抱きつつ参加したが、結論から述べると、ひじょうに得るところの多い、考えさせられる、チャレンジングなワークショップだった。

日本の地方都市で、日系人が抱える苦悩と問題に寄り添い、「確信犯的に」メディアや展示をつうじて、問題解決へと上昇していこうとする人類学者I先生の試みを、わたしは当初、人類学の延長線上で捉えていたが、それを、人類学という学問の枠組みを超え出てゆこうとする社会活動の文脈で考えれば、すんなりと理解できるどころか、じつに、有用な取り組みであるように思える。また、医療の文脈で、日系人の通訳を職業として確立することを訴えたMさんは、日系人の増加に伴って、今後ますます深刻化するであろう課題を、生々しい現場主義の観点から、報告してくれた。これらの取り組みの報告は、ことのほか、興味深いものだった。

さらに、「コミュニティにもとづく参加型調査(CBPR)」について、Jさんは、時間をかけて、丁寧に教えてくれた。教えてくれたというよりも、全員参加で、浮かび上がらせるためのファシリテータのような役割を担ってくれた。その意味で、CBPRの導入そのものが、全員参加で行なわれるという、じつに、手の込んだワークショップだったように思う。ある意味で、レクチャーが先にあってもよかったのかもしれないとも考えられるが、Jさんは、CBPRを実践するために、あえて、レクチャー・スタイルを自らに禁じたのかもしれない。CBPRは、時間がかかる(がゆえに、実りがあるのであろう)活動であるということも、同時に、わたしたちは知りえたように思う。

ところで、CBPRとは何か?それは、社会的格差がある状況で、その問題を解決するための調査&実践であると、わたしなりにまとめておきたい。社会的格差の状況の調査を行なっている専門家、研究者は、その問題状況を抱える人たちと、当該問題について話し合い、生の現実に十分に照らしながら、問題の解決を図るというのが、CBPRの手続きの柱である。専門家、調査者の視点というのは、それだけで、はじめから権威化されている。そのことをわきまえた上で、専門家、調査者は、問題状況を共有すべく、コミュニティに入り、教えるという態度ではなく、ともに問題とその解決について考えるという態度で、調査と実践の制度を高めていくというのが、わたしが感じたCBPRの手続きである。

その意味で、CBPRは、人にやさしい調査&実践の手法である。専門家、調査者は、ジャーゴンを使わないで、自らが客観的な観察者であるという尊大な態度を廃して、調査&実践に臨むことを要請される。Jさんによれば、どうやら、デモクラシーの実現という理想が、その手法には深く関わっているようだった。他方で、一部の(乱暴な)研究者たち(わたしを含む)がやり始めたように、「それはおかしい」「愚問だ」と口々に言い合いながら、真っ向から議論をするという研究者の議論のスタイルもまた、
デモクラシーかもしれないと、ふと感じた。

新たな調査研究のありかたについて、とりあえずの感想。

 (写真:CBPRのワークショップでは、わたしたちは、参加しながら学んでいった。「参加」とは何かについて、メンバーは、ホワイトボードに絵を描いた)


長安寺の獣魂碑

2008年11月17日 21時22分29秒 | 人間と動物

先週末の関西出張の折に、久しぶりに、「獣魂碑」を訪ね歩いた(以下は、過去のブログの記録)。
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/00ada481c69a4cf43a83bb5441284976
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/843ecd4f1437125a62bc8ef0f7309ef1
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/958e03874b3d06b92b27e28cdf7a8290

金曜日の昼に都内を発って、新幹線で京都駅に着いたのは午後4時だった。山科から京阪電鉄・京津線に乗り換えて、大谷を越えたトンネルのなかで、そのローカル電車は急に停止した。まもなく、運転手が、3両編成の電車の外を前に行ったり、後ろに行ったりしだした。一両に10人ほどの乗客がいて、「いったいどうしたんや、何があったんや」と口々につぶやいた。車内に、「社員の人がいらっしゃれば、お声がけください」というアナウンスが流れた。いったい、何があったのだろうか。時間を気にしながら、ぶつぶつと文句を言っていた初老の男性は、運転手が、われわれが乗っている二両目の車両を通過するときに、「何があったんや?」と尋ねたところ、運転手は、「そこで、人が倒れてはったんですわ」という、いまひとつ状況がはっきり分からないような言葉を残して、車両の後部のほうへ向かった。トンネルで、人が倒れている?どういうこと?・・・と思って、運転手が行ったほうを目を凝らして眺めていると、やがて、白っぽい背広を着た小さな老人が、運転手に抱えられて、電車に乗り込んできた。それを見た乗客は、「あの人、徘徊してはったんちゃうか?」と言った。どうやら、そんなところかもしれない。

われわれは、20分くらい、トンネルのなかにいた。電車が動き出し、トンネルから出たとき、あたりは暗くなり始めていた。次の駅・上栄町で降りて、わたしは「獣魂碑」を見るために、歩いて、長安寺に向かった。最初に目に飛び込んできたのは、牛乳瓶のようなかたちをした石塔だった。その石塔の左横には、以下のような説明書きがあった。

重要文化財 建造物 長安寺宝塔 一基
大津市逢坂二丁目
 この宝塔は、高さ3,3メートルで、角形の基礎石に巨大なつぼ型の塔身をおき、笠石をつけたもので、鎌倉時代初期につくられた日本を代表する石造宝塔です。

 一般に関寺(昔この付近一帯にあった寺)の牛塔とよばれ、霊牛の供養塔です。万寿二年(1025)に著された「関寺縁起」によると、天延四年(976)の大地震で破損した関寺を復興する時に、資材を運搬した一頭の牛が、仏の化身であるという噂が立ち、多くの人が関寺に参拝したということです。
 そして万寿二年、霊牛は関寺の工事が終わると共に死にました。その霊牛を供養し、祀ったのが、この牛塔であるといわれています。昭和35年2月9日に国の指定文化財になりました。

大津市教育委員会
昭和63年11月

長安寺に向かう石段に向かって左を見ると、お目当ての「獣魂碑」があった。長安寺の住職は、以下のようにホームページに書いている(http://shiga.lin.go.jp/news/topic/nt_006/nt_006.html

「都が東京に遷都し鉄道が開通したので、牛は農耕と肥料生産の主力となり農宝として殆の農家で飼育され、戦後農業機械化が進と乳肉提供の主役となって、疲弊しきった国民の栄養改善に大きく寄与した。特に近江牛は既に江戸初期より将軍家に献上した長い歴史があり、昭和初期には全国的に近江牛の肉質が最高であると認められ、昭和211月には大津周辺の家畜商や食肉商により長安寺境内にこれ又高さ5メートルにおよぶ恐らく日本一の獣魂碑が建立され、さらに昭和12年が丁丑歳にあたるので由緒ある長安寺において、同年4月に全国食肉連合会が主催して盛大な牛供養が行われた」

2行目の「戦後」がどの戦争のことか明らかではないが、要するに、
鎌倉時代に霊牛を供養した石搭をもつ長安寺に、近江牛などを扱う家畜商や食肉商らによって、昭和2年に、われわれの食肉となってくれる動物の魂を供養するために、「獣魂碑」が建立されたということのようである。日本人は、たしかに、そういったかたちで、わたしたちの犠牲となって、わたしたちを生かしてくれる動物たちの魂に対して、感謝の念を捧げ、供養していたのである。わたしはまったく知らなかったのであるが、わたしが子ども時代を過ごした町にも、そのような碑が存在していた。

(写真は、大津市の長安寺の「獣魂碑」)


月曜、四谷、ジャズ、大学院

2008年11月10日 15時00分53秒 | 大学

先週の金曜日夜に歯医者で、左下の「親知らず」を抜いてもらった。月曜日になっても、まだ少し腫れているが、痛みは少しずつ引いてきた。今度は、痛痒くなってきた。今学期から、月曜日は、四谷の大学院で講義があるため、だいたい昼ごろに四谷に来る。月曜日の昼食は、いつもジャズ喫茶「い~ぐる」で、パスタを食べる。http://www.02.246.ne.jp/~unamas/eagle.html
大音量のジャズを浴びながら、原稿を読んだり、いろいろと考えたり・・・これが、思いのほか、はかどる。余裕をもって、やってるって感じ。
ということで、月曜の四谷、今けっこう気に入っている。

(写真は、四谷駅前から眺めた桜美林大学大学院の看板)


大学の現実と研究の未来

2008年11月09日 22時25分33秒 | 大学

昨日は、昼から、都内で、東京私大教連の大会に出席した。そこでは、日本の大学教育が抱える問題の現状報告がなされた。教育行政は、規制緩和で全国に大学を乱立させてきた結果として、日本の大学は、18歳人口の減少期にあたって、学生獲得競争に必死に向き合わざるを得ないという現状がある。そのため、わたしが勤める大学でも、生き残りをかけて、「教育の質の向上」が、ほとんど無内容のまま叫ばれている感がある。あげくのはてには、教育組織の側から、素晴らしい授業内容の「年間ベストクラス」を選んで、選ばれた教員に10万円の報奨金を与えるというような、お金で大学教員を宙吊りにして、「教育の質の向上」を目指すという、行き過ぎた案まで出てきている。混乱のきわみではないか。大会ではまた、田母神航空幕僚長の「日本が侵略国家だったというのはぬれぎぬ」という発言に関して、複数の方から、印象的な意見が述べられた。あの発言は、その領域のスペシャリストの見解であり、それに対するジェネラルな疑いを、自らが差しはさむことができないような現状の日本の教育のあり方に、特大の問題があるように、わたしは感じた。リベラルアーツ教育には、そうした偏った思想の形成をブレイクスルーできる可能性があるのだが、その実現には、教学体制が、十分な余裕をもって組織されていることが条件なのではないか。そんなことをつらつらと考えながら、じつに暗鬱な気持ちを抱いて、わたしは、その大会の会場を後にした。夜には、一転して、ちかごろ研究会で知り合ったNさんと食事をして、ヒマラヤン(?)なお宅にまでお邪魔をして、研究の未来について語り合いながら、じつに楽しい時を過ごした。Nさんは、わたしが、長らく一方的に敬念を抱いてきた(が一度もお会いしたことがない)偉大な学者の教え子であり、とりわけ、その学者の研究内容、人となりなどの話題で、遅くまで盛り上がった。人間存在に対する想像力こそが、現代の人類学(者)にはまったく欠けている。人間に関して、同時代の最高の到達点に立っている研究を、人間の学、すなわち、人類学と呼べばいいのではないか。そういうふうに感じた。Nさんの先生がやられていることには、まさに、そのような方向性がある。近いうちにまた、意見・情報交換をし、さらには、研究会を立ち上げることを約した。

(写真は、プナンの子どもたち:2008年8月撮影)


写真供養感謝祭

2008年11月08日 11時03分08秒 | エスノグラフィー

大学のリベラルアーツ教育の30ある専攻プログラムの一つとして、文化人類学専攻が発足して2年目になる本年度、その専攻の柱のひとつとなる科目として、「比較文化フィールドワーク」をスタートさせた。文化人類学に対するリベラルアーツ学群の学生(1学年1000人以上いる)の興味関心が、全般に低迷するなか、その授業は、春学期には、受講者がゼロで、行き先を心配したのであるが、秋学期には、3名プラス既存の学部からの聴講生1名の履修登録を得て、授業を行なってきている。「比較文化フィールドワーク」とは、フィールドワークとは何か、民族誌とは何かを学んだ上で、映像撮影と編集の技術と知識などを習得し、国内のフィールドワークに出かけて、最終的には、民族誌映像を完成させて、それを提出するという授業である。エスノグラフィーの表現手法は、もはや、文字だけではない。手間暇がかかるが、教員スタッフとしても、なかなか面白いと感じている。文化人類学専攻のT先生とわたし、さらには、1ヶ月に一度来ていただいて、とりわけ、映像に関して教えていただいてる特別講師K先生で、授業を組み立てている。

さきごろ、わたしたちは全員で、鎌倉の瑞泉寺の「写真供養感謝祭」に出かけて、関係者へのインタヴューなどを含めた撮影実習を行なった(写真は、山門前での参加者の記念撮影)。「写真供養感謝祭」とは何ぞや?写真には、亡くなった身近な人が写り込んでいたり、神々しいとされる人たち(例えば、皇族)が載っていて、みだりにゴミ箱に捨てるものではないと考える人たちがいる。そのような思いを抱きながら、貯まっていく写真を処分をしたい人たちが、11月の第一土曜日に瑞泉寺に写真を持ち寄り、お炊き上げしてもらうというのが、その祭の内容である。「お炊き上げ料」の集金というのはなく、志納金が受け付けられていた。それは、
12年前から始められた「新しい伝統」である。

「写真供養感謝祭」は、仏像写真家であったY氏が、大量に撮影した仏像写真を処分するさいに、供養感謝することを、彼の協力者および先代の住職に持ちかけたことに由来するという。そのような試みは、上で述べたような、写真に対して同じ思いを共有する一般の人びとの間にも感染し、このかた儀礼が続けられてきている。写真のなかの人物のアニマのようなものが、明白に意識されているわけではないが、写真は、それを所有する人たちの強い思い入れ、情念の対象であることが、この儀礼の実践の原動力になっているように思われる。
そのような財の処分が、仏教寺院の儀礼と結びついて行なわれるというのは、ひじょうに興味深いことである。

わたしたちのフィールドワークは、企画会社の社長さん、写真家Yさん、住職など、たくさんの人の理解と協力によって実現した。この場を借りて、深謝したい。さて、われわれの民族誌映像の製作は、いまだ道半ばである。秋学期の後半は、編集作業に取り掛かる。とりあえず、覚書として。