たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

自然主義のわな

2009年12月30日 17時30分32秒 | 自然と社会

わたしたちの周囲のいたるところに溢れている自然および自然現象は、物質的には、基本的に、どこでも同じである。雷は放電現象であり、台風は急激な気圧変動であり、植物は光合成するし、モノを投げると放物線を描いて向こう側に届く・・・人間だって、自然的な存在だとすると、物質的には、栄養分を体内に取り入れて、老廃物を排出する点で、どこでも同じ存在である。ヒトは、一つの自然に囲まれ、一つの自然存在として生きている。こうした「自然主義」のアイデアは、一体全体どのようにして、わたしたちの胸元にまで届けられたのだろうか?届けられたというよりも、わたしたちの世界は、実感として、そういったかたちで、あらかじめ組み立てられている。言ってしまえば、自然科学は、そうした「自然主義」のアイデアの上に組み立てられているのだ。そのアイデアの淵源を辿れば、わたしたちは、形而下のモノと形而上の精神や理性を、神による調停の賜物であるとして、くっきりと区分けしたデカルトへと行き着くだろう。が、その点の詳細は、若干の厄介を含んでいるので、いまは、とりあえず置くとしよう。ここでは、もう一つ別に、精神や理性がかたどる文化は、そうした「自然主義」の上に組み立てられてきたという点を確認しておきたい。そうした補助線を引くならば、人間は、自然的存在として、物質的にどこでも同じでも、その内面(精神)は、それぞれ異なっているという見方に辿り着く。わたしたちの祖先は、人間の違いを、場所や文化で一括りにして考えるようになった。極北地域のエスキモーの精神性、アフリカのカラハリ砂漠の狩猟民の文化実践、日本列島に住む人たちの文化精神・・・という具合に。そして、どんどんと、そうした文化のカタログを増やしていったのである。そのようにして、「自然主義」は、同じ身体性・物質性をもつホモサピエンスの内面に分け入って、その内面性・精神性の隔たりを、文化や社会という枠組みを用いて説明してきた。一つの自然に対して複数の文化が、エスノグラフィーをとおして記述考察され、どんどんと、カタログとして蓄積されるようになった。そうだとすれば、「自然主義」が「多・文化主義」(「多文化共生」とは何の関係もない!)を生み出したことになる。人類学者は、興味深い文化現象の情報を聞きつけて、さらには、新たな文化のかたちを掘り当てて、今後も、はたして、エスノグラフィーの産出を続けるつもりなのだろうか?そうしたネガティブな言い方は、爆弾発言として、反発を受けるかもしれない。問わなければならないのは、なぜそうした「自然主義」が問題含みなのかという点である。見逃すことができない、一つの重要な問題提起がなされた。驚くべきことに、その問題提起は、「多・文化主義」的に、文化のカタログをまた一つ、二つ追加しようとしていたエスノグラファーの思念からもたらされたのである。南米の先住民社会では、人間と動物はともに、自らを人間であると思っている。つまり、人間性を有する、再帰的な観点をもつ存在であると考えている。ただ、人間と動物は、身に着けているものが違うだけなのである。言い換えれば、動物も人間も、内面的・精神的には同じあるが、身体的・物質的には異なっている。この点で、「自然主義」は、根底から、ひっくり返されることになる。そこでは、身体=物質=自然は一つではなく、多様なものとして捉えられている。これを「多・文化主義」に対して、「多・自然主義」ということができるだろう。要するに、「多・文化主義」を帰結するような「自然主義」は、相対化して眺められなければならないアイデアであったということになる。ひるがえって考えるならば、「多・文化主義」に拠りながら、こういう文化は面白いよ、ああいう文化も興味深いよと説いて回るような人類学は、文化の「存在論的な現実」を重んじるのではなく、「自然主義」のアイデアをベースにして、たんに「認識論」的に組み立てられてきたいう意味でー「自然主義」に依拠する限り、文化の記述は、人類学者の組み立てた認識にすぎないー、問題含みであり、さらには、罪深いのかもしれない。さて、人類学には、いや、あらゆる学問には、今後、どういう道があるのだろうか。カントは、人間の目的は文化であると言ったらしいが・・・


シャーマニックな女王様

2009年12月29日 20時10分13秒 | 文学作品

身近な存在が病死することの喪失感は、たしかに喪の作業をつうじて、埋められるのかもしれない。その意味で、田口ランディが、『アンテナ』(新潮文庫)の「あとがき」で言うように、「喪の時間というのは、ほんとうは甘い時間なのかもしれない・・・人間は喪失がないとやりきないとやりきれない」のかもしれない。うん、わかる気がする。これに対して、身近な存在が忽然と消えてしまったことによる喪失感は、死ぬ逝く存在を確かめることができないがゆえに、自ら喪失をつくり出すことによってしか、埋め合わせることができない。

15年前に、隣で寝ていて、朝になったら忽然と消えた妹・真利江。その事件の真っ只中の父母の性交渉によって生まれた弟・祐弥は、錯乱状態に陥って入院する。父の死。神道系のカルトに入信する母。自らの身体を傷つけることで、ようやく心のバランスを保っている祐一郎は、専攻する哲学のテーマに、SMを選ぶ。シャーマニックな直観を持つSMの女王・ナオミとの出会いによって、祐一郎は、性の欲望をしだいに開かれてゆく。やがて、妹の喪失を、自ら喪失する作業へと向かってゆく。SMの女王ナオミの介入が、じつに心地いい。ナオミのフロイト論。

・・・あたしはね、フロイトって大好き。あいつね、葉巻依存症で葉巻がやめられなくて、ヤニまみれになって上顎癌で死んだんだよ。天才的な精神分析医が過度の依存症で死ぬ。なんだか愚かでかわいいよね。フロイトはコンプレッックスの強いダメ人間だったらしいよ。子供の頃に親が破産して、えらい貧乏な学生維持代を送った。貧乏で恋人と結婚もできなくて四年も禁欲生活していた。その間に恋人に八百通もラブレター書いたんだって。ヤリたかったんだろうねえ。でも、あたしはフロイトのダメさが好きだ。俗物であることは実に最も神聖に近い。フロイトは無意識を発見した時に、無意識を支配しているのは性欲だと信じた・・・あたしはフロイトを信じるね。性は生だよ。そして死でもある。人間はその生涯をセックスに支配されている。生殖機能がスタンバイした時点で人間は発情する。そして、ほぼ死ぬまで発情している。業が深い生き物でしょ。どんなに偉そうにしてても、どんなに清純そうにしてても、実はみんな発情してて鼻血タラタラなの

ナオミは、他者を激して、発情を促すのだ。彼女
の辱めに、祐一郎は、しだいに自らの輪郭をあらわにする。頭の芯が痺れ、脱魂を経験する。祐一郎の夢を見ることもできる、シャーマニックな素質を持つナオミは、しかしながら、性の喜びを感じたことがない女であった。性の欲望を解き放った祐一郎の性に圧倒され、ナオミは、祐一郎を受け入れる。その後、祐一郎は、さらに、アザラシやイグアナなどあらゆる生物と、幻覚のなかで、性交するようになる。田口の生々しい性描写に、わたしは、今回も、息継ぎができないほどの衝激を感じた。

個人の妄想、内面的な完全世界が自分自身しか救済できないのに比べて、シャーマンは、自らの妄想に他者を共鳴させることによって、他者を救済する存在であるという言葉が出てくる。シャーマンは、SMの女王のように、世界のこちら側から世界のあちら側へと、人間存在を引き摺りこんで、別のものへとつくり変えてしまう。
わたしのシャーマニズム研究は、そういった感覚を組み入れていたならば、もう少し別のものになっていたのかもしれない。まだ、けっして遅くはないかもしれないが。


フレディー・マーキュリーに捧ぐ

2009年12月28日 21時20分27秒 | 音楽

突然ですが、クイーン。
中学生のとき、最初に勝ったLPレコードがクイーンの「オペラ座の夜」だった(写真)。
今月になって、大学の授業で「ニューギニアの儀礼的同性愛」を取り上げたとき、
同性愛について、どのように迫ればいいのか考えていたときに、人生の一時期に結ばれるセイム・セックス関係を、男らしさの価値づけとの関わりにおいて社会のなかに組み込んでいるサンビア社会とは対極にあるような、ゲイ・レズビアンなどのセクシュアル・マイノリティーの連帯へと至るような、現代社会の人間の属性としての同性愛の象徴として、ふと、フレディー・マーキュリーのことを思い出したのである。
いまから20年ほど前(フレディーの死の直前)、ジャカルタのクボン・シリー通りの安宿で、クイーンのアカペラ("Love of My Life")を謡っているペルシャ系ドイツ人と、そのパートナーであるイギリス人のゲイ・カップルに出会った。その歌を聴いて、わたしは涙が止まらなくなった。
意気投合し、彼らと、その安宿で、二晩ぶっづけで飲み明かした。そのとき、彼らの持っていたMoet et Chandonというシャンペンを、生まれて始めて飲んだ。彼らは、フレディに心酔していたようだった。フレデイーは、本当の詩人だ!というようなことを言っていた。朝起きると、ドアの下に、"To Japanese boy"と書かれた手紙が差し込まれていた。二人は、さよならも言わずに、わたしの前から立ち去った。
”Killer Queen"は、「彼女は飾り棚に、
Moet et Chandonを持っている。『ケーキを召し上がってもらいなさい』と、彼女は、マリー・アントワネットのように言う」といったフレーズから始まる。
She keeps her Moet et Chandon In her pretty cabinet
'Let them eat cake' she says Just like Marie Antoinette

Killer Queen"を謡うフレディー。
美しすぎる、と思う。
http://www.youtube.com/watch?v=MMz-wi50ACU


別名で呼ぶ

2009年12月27日 13時21分38秒 | エスノグラフィー
プナンはいう。狩猟でしとめられた獲物は、すぐに解体・料理して食べるだけだと。その過程で、動物(獲物)に対して、まちがったふるまい(ポニャラ)を犯さないために、しとめられた動物は、別名(dua ngaran)で言及しなければならない。このならわしは、広く守られている。解体・料理中に、動物は、以下のような別名で言い換えられる。

belengang(サイチョウ)→bale ateng(赤い目)
tevaun(オナガサイチョウ)→baat ulun(重い頭)
buang(マレーグマ)→pengah
kuyat(カニクイザル)→lurau
bangat(リーフモンキー)→nyakit
kelavet(テナガザル)→itak
medok(ブタオザル)→umeng
kelasi(赤毛リーフモンキー)→kaan bale(赤い動物)
palang alut(ジャコウネコ)→kaan merem(夜の動物)
payau(シカ)→lenge
telauu(オオマメジカ)→penyan
pelano(マメジカ)→bilun
kuai(セイラン)→ juit mekeu(座る鳥)

動物の別名になぜ言及するのかと彼らに問うと、そうしなければ、名前を呼ばれた動物の魂(barewen)が怒って、天空高く雷神のもとを訪れ、それに呼応して、雷神は、雷雨や大水などの天候の激変を引き起こすのだと、判を押したような答が返ってくる。お前はそんなことを尋ねて、どうしようというのだとでもいわんばかりに。

そのことは、わたしには、ある程度納得がいく。別の名に言い換えることによって、言及されているのは、しとめられた獲物ではないということが、しとめられた獲物そのものに対して示されるように思えるからである。獲物の名が呼ばれないので、獲物の魂が怒ることはない。だから、天候激変が起きないのである。

しかし、積極的に獲物の名前を別の名に置き換えることと、たんに獲物の名に言及しないこととは、行為の性質がちがう。たんに名前を呼ばないだけではなく、プナンは、なぜ、その名前を、別の名に置き換えて名指すのか。

ヒトに置き換えて考えてみよう。アイデンティの一部としての名前を呼ばないでふるまうことと、別の名前に置き換えて呼ぶこととは、社会関係の文脈においては、根本的に異なる行為である。ショウコという名そのものを呼ばないことと、それをショコタンとかショウチャンあるいは何らかのニックネームに置き換えることはちがう。

プナンは、ヒトの本当の名前を、とりわけ、魂がしっかりとしていない子どもの名前を、別の名前で呼ぶ場合がある。魂を狙って、災いをもたらそうとする存在を混乱させて、 当の子どもから遠ざけるためである。さらには、プナンには、父と母など近親者の死にさいして、死者との間柄に応じて、生き残った個人に付けられる「喪名(ngeliwah ngaran)」の習慣がある。死者は、日ごろ呼んでいた名前を死の世界に持っていくため、服喪期間には、細かく体系化された別の名で、個人が呼ばれることになる。

プナン社会にこうした別名の体系があることから推すと、プナンは、獲物の解体・料理中に動物の名をたんに呼ばないというよりも、別の名を呼ぶことに方向づけられていることが、なんとなく分かるような気がする。しかしながら、そのことが分かったとしても、なお問題は何も解決されてないように思う。より大きな謎が残る。

第一に、動物は、人間と違って、種的同一性によって捉えられていて、種の名(集合的な名称)が言い換えられなければならないと考えられていることは、いったいどういうことなのかという問題。動物が、個人名で呼ばれるのではなく、種の名前で呼ばれるというのは、あたりまえといえばあたりまえであるが、なぜあたりまえなのか。そこには、人間の名の、継起性・時間性をベースとする人格との同一性という問題が隠れているように思われる。 第二に、名を付けたり、名を呼ぶとは、そもそも、何なのか、どういったことなのかということが、全然分からないという問題。名を呼ぶこと、名指すことは、存在を象り、縛りつけるというような、呪的なふるまいではあるまいか。さらには、そのふるまいに甘んじることによって、つまり、名前を呼ばれることによって、自らが確定されることを利用しながら、人は、他者との社会関係に入ってゆく。別の名を呼ぶことは、そもそもそうした名指し、名づけの行為について考えることから始めなければならない問題ではなかったのか。

検討を先に進めるにあたって、そうした問題意識が欠落していることが、そもそも大きな問題なのかもしれない。

(写真は、テナガザルの解体)

熊本県山鹿市、2009年12月20日

2009年12月26日 21時21分40秒 | フィールドワーク

日曜日の午後、熊大のセミナー後の打ち合わせを終えて、研究仲間の有志4名でレンタカーを借りて、山鹿方面へと出かけた。個人的には、南九州を訪ねるのは今回で5回目であるが、それは、インスピレーションに基づく、もう一つの人類学的な旅であったように思う。

チブサン古墳は、5世紀につくられた前方後円墳で、そのなかには、赤、黒、白で鮮やかに彩色された石棺が収められていた。隣には、6世紀後半につくられた円墳のオブサン古墳を見ることができた。わたしたちを案内してくれた男性は、オブサン古墳は、入り口が、股を開いた女陰のようなかたちをしていることをほのめかしたし、チブサン、オブサンという語からわたしたちは、渡来系の人たちの言語のような響きを感じ取った。さらに、それらの古墳が、生や性という人間の根源的事実に深く関わっていることを強く印象づけられた。
http://www.city.yamaga.kumamoto.jp/kankoh/03-rekishi/03-03chibuobu.html

古墳群からほど近いところに、6世紀につくられた、61墓からなる群集墓の跡であるとされる鍋田横穴群があった。27号墓の壁画に強い印象を感じた。両手を開いて、足を広げた大の字形の人物像(写真)には、玄室への悪霊の侵入を防ぐという呪術的な意味があるということが、説明書きに書かれていた。
http://www.city.yamaga.kumamoto.jp/kankoh/03-rekishi/03-06nabeta.html

鞠智城(きくちじょう)は、7世紀につくられた、八角形の鼓楼をもつ山城である。温故創生館で、鞠智城の国営公園化に向けてつくられたビデオを見せてもらった。それによると、大和朝廷が白村江の戦いで、唐・新羅軍に敗北し、九州の護衛のために複数の城が建設され、それらの城に食糧や武器、兵士などを補給するために、鞠智城が建てられたという。まったくはじめて知った史実である。日本が東アジアとの関係を密にもっていた時代の光景が浮かんできた。
http://www.city.yamaga.kumamoto.jp/kankoh/03-rekishi/03-13kikutijyou.html

わたしたちは、夕暮れ迫るころ、不動岩に行こうとして、途中で、蒲生という地区で、ご詠歌を唱える声とともに、古の昭和に迷い込んだような懐かしき風景に出会った。車を飛び降り、菅原神社にお参りし、山鹿三十三か所参りの札所でもある岩隣寺で、珍しい板碑のレリーフ観音を拝んだ。
http://www.city.yamaga.kumamoto.jp/kankoh/03-rekishi/ganrinji.html

不動岩は、そこからくねくねと山道を登った山の上に、突如として、屹立して現われた。そのころ、夜はすでにどっぷりと暮れて、その全容を視認することはできなかったが、夜の暗がりに溢れ出るかのような、その男根のような奇岩に、わたし(たち)は圧倒されたのである。わたしたちは、ケータイの明かりをたよりに、そのファリックな岩の頂に達した。遠くに夜景を見ながら、生命の、エネルギーの源に触れたような、神に出会ったような感覚が、そのときわたしを覆ったのを覚えている。高さ80メートル、根回りが100メートルにもなるその岩は、周囲の人たちの信仰対象になっているらしい。不動神社の拝殿は、そのふもとにあった。
http://www.city.yamaga.kumamoto.jp/kankoh/02-shizen/02-06-01hudougan.html

その後、山を下り、山鹿の町に入った。熊本在住の方から聞いていた歌舞伎の八千代座を見に行った。それは、明治43年に、当地の実業家によって建てられたもので、この地がかつて栄えた時代に、産業が、文化芸能のパトロンとなったことがしのばれた。
http://www.city.yamaga.kumamoto.jp/kankoh/01-buzen/01-03yachiyo.html

熊本ラーメンを食べて、わたしたちは山鹿温泉に入った。ひんやりとした外気に触れながらの露天風呂で、深く癒された気がした。
http://www.city.yamaga.kumamoto.jp/kankoh/07-onsen/07-01yamagaonsen.htm

古墳のある博物館でもらったパフレットを手がかりとして、行き当たりばったりの旅(いや力に導かれたのかもしれない)。5世紀に古墳を築いた人たち、6世紀に墓穴をつくった人たち、7世紀には、大陸との政治情勢との関わりで逼迫した状況が生じ、この地に渡来風の城が築かれた。山の上の奇岩の崇拝、石に刻まれた観世音菩薩。人の世を生きてゆくための呪法、数々の信仰のかたち。さらには、近代の文化振興。

駆け足ながら、ここに生き暮らしてきた人たちの確かな足跡を、その息づかいを感じた。調査をして、体系的に記述するだけが人類学ではないのかもしれない。こうした旅をつうじて浮かび上がる人間的真実の一部にそっと触れること。これもまた、人類学なのかもしれないと思う。それだけではなく、こうした旅をつうじて、わたしには、いま、呪力が高まったように感じている
。いや、たんに呪法に絡みとられやすくなったのかもしれない。いずれにせよ、そうした世界に近くなったような気がしている。


土曜の午後、日曜の朝、熊本

2009年12月23日 11時26分23秒 | 自然と社会

2009年12月19日(土)、15分遅れで熊本空港に到着したANA便から降りて、バスで通町筋に着いたときには、雪がちらほらと舞っていた。わたしたちは、そこから急いで、熊大院の「自然と文化のインターフェイス」のセミナー会場へと駆け込んだ。
http://www.let.kumamoto-u.ac.jp/ihs/soc/anthropology/activity091109.html

人類学者と哲学者による9人の口頭発表に続いて、コメンテータからコメントが寄せられ、総合討論が行われた。主題の問題設定の根底自体を問うような厳しいコメントに、わたしは最初は激しく揺さぶられたが、日曜日の検討会を含めて、よくよく考えてみると、コメントとそれへのいささか不甲斐なかったともいえる(わたし、わたしたちの)応答を含むディスカッションを経て、今後の細密な議論の組み立てに向けて、検討材料の把握のレベルにおいて、じつに含蓄のある示唆深い議論が行われた
ように思える。

発せられた二つのコメントに沿って考えてみたい。 第一に、自然と文化というふうに、二項対立的に捉えるというのは、人間の脳の仕組みにやさしく、使い勝手のいいものであり、それをわざわざ批判的に検討した上で、乗り越えるという努力は、わたしたちにとって、はたして必要なものなのかという問題が提起された。それは、わ
たしたちの試みに対して、一見、真っ向からの挑戦であるように思える。二分法への問いは、二分法自体が問題含みであると考えているからこそ、構えられる問題なのである。第二に、自然を死せるマテーリアとして、文化から分断した西洋思考。そうした<悪>に対して、非西洋の人たちは、自然のなかにも魂を認め、自然を破壊しながらも、それに感謝慰霊をするというふうに、より道徳的・倫理的であるがゆえに、いくぶん<ましである>と考えているのではないか。わたしたちが考えているのは、そうした非西洋の自然観に対するオルタナティブへの推賞ではないかというのである。すばらしき非西洋社会という幻想。

<二分法の乗り越え>と<非西洋の自然観へのオルタナティブ>。翻って、これらこそが、ある意味で、わたし(たち)が、積極的なかたちで、夢想した方略だったのかもしれない。さらには、そこには踏みとどまらないで、レヴィ=ストロースやラトゥールを手がかりとして、突き進んでいこうではないかと考えていたのかもしれない。たしかに、わたし自身は、そういった発言もしている。自然に備わっている弁別作用や秩序構成力や<モノの議会>という概念枠組みを足がかりとしながら、自然の側から人間と文化に関して再検討するための準備を。
間中心主義宣言人類学とでもいうような道行き。しかし、セミナーを終えて、思う。批判をベースにした上のコメントは、新たな理想の構築作業とでもいうべきものの胸元に、鋭利な刃物を突きつけるようなものであったのかもしれない。血だらけに、場合によっては、絶命しないために、検討するべき項目が示されたのではあるまいか。ストイックな問題検討のレベルに、いかにすれば留まることができるのであろうか。いま改めて思う。

(セミナーの口頭発表の風景)


ブタオザルの写真撮影と深夜の雷雨

2009年12月14日 09時42分56秒 | 人間と動物

以下は、狩猟キャンプを夜中に突然襲った激しい雷雨と嵐に直面して、ティマイによって唱えられた「空に祈る(migah langit)」の祈願文のテキストである。

Baley Gau, baley Lengedeu
Akeu pani ngan kuuk baley Gau baley Lengedeu
Ia maneu liwen anah medok ineh
mau kuuk liwen mau kuuk pengewak baley Gau baley Lengedeu
Ia maneu liwen Berayung gamban medok
Dom Lasen mala ineh maneu kuuk seli liwen
Pengah akeu menye bok  mena kau baley Gau, baley Lengedeu
Mau kela baley gau, baley Lengedeu

(日本語訳)
雷神よ、稲光の神よ。わたしはあなた、雷神と稲光の神と話している。嵐を起こすのは、ブタオザルのせい。雷神よ、稲光の神よ、あなたは嵐を起こすのを止めておくれ。嵐を起こすのは、ブラユンがブタオザルの写真を撮影したから。ドムとラセンがそれを笑って、そのことがあなたの気に障って、嵐を起こした。わたしはあなた雷神、稲光の神のために髪の毛を燃やした。雷神よ、稲光の神よ、あなたも(嵐を起こすのを)止めておくれ。

ティマイは、その日の昼間、ラセンとドムという二人のハンターが、猟からブタオザルを持ち帰ったときには、狩猟キャンプにはまだ戻ってきていなかった。しかし、同じく猟に出かけていたティマイは、後に、狩猟キャンプに戻った後で、ブタオザルをめぐって狩猟キャンプで行われた、ラセンたちの行動の概要について聞き知ったにちがいない。

ブラユン(筆者のプナン名)が、猟から持ち帰られたブタオザルを写真撮影するのによく見えるように、ドムが、死んだブタオザルにポーズを取らせたのである。ラセンとドムは、それに興じて笑った。さらに、彼らは、ブタオザルと戯れたのである。

ティマイは、ブタオザルに対するふるまいが、稲光を伴う雷鳴と風雨を引き起こした原因だと推測して、髪の毛を引きちぎって、それを燃やしながら、雷神と稲光の神に唱えごとをしたのである。このように、しとめられた動物の写真を撮り、それに興じることは、動物をあざ笑うまちがったふるまいであるとされる。プナン人は、雷雨や大雨、嵐や洪水などに直面するとき、あるいは、それらが間近に迫っていると予想される場合に、雷神の怒りを鎮めるためにこうした儀礼を行う。

はたして、こうした動物に対する禁忌は、人類にどれくらいの範囲で広がっているのだろうか。そして、その意味は?先週末の研究会では、日本でも、ヘビを指差すと指が腐るという言い伝えがあることを聞いた。それは、動物への非礼に対する戒めであろうか。つまり、上記の東南アジア先住民社会に広がるヒトー動物関係の文脈に連なる禁忌なのだろうか。いや、たんに、指差すという一種の呪術実践に対する禁忌・戒めなのだろうか。いまのところ、わたしには、その点に関しては答を用意できていないが、今後、考えるための覚書として。

(昼間、わたしが写真を撮るのに合わせて、ブタオザルの生殖器と戯れるドム)


What and how is "piah pesaba" ?

2009年12月13日 17時05分37秒 | 人間と動物

If Penan hunters return home without game, they murmur piah pesaba (angry words for animals), primarily to let the family members know of their hunting failure 1). 

Iteu ulie amie padie melakau
puun ateng menigen 2)
saok todok kat 3)
selue pemine mena kaan 4)
uyau, apah 5)
panyek abai telisu bogeh 6)
keledet baya buin belengang dek ngelangi 7)
saok todok kaan
panyek abai telisu bogeh
keledet saok tedok kaan
baya buin belengang dek ngelangi

The above piah pesaba can be loosely translated in the following:

“Here I walked back, my brothers, I could not catch any animals, I could not hunt any animals.  My father will die, my mother will die.  Pig’s ugly nose, Malay who was once a boar, pig’s nose like a hammer’s head, big-eyed deer.  Deer’s eyes which shine at night, crocodile, pig, hornbill, fowl cackles.  I could not catch any animals.  Pig’s ugly nose, Malay who was once a boar, pig’s nose like a hammer’s head, big-eyed deer.  Deer’s eyes which shine at night.I could not catch any animals.   Crocodile, pig, hornbill, fowl cackles.” 

Piah pesaba can be uttered only when no game animals have been caught after hunting.  It partly includes insults to animals: to play with their big nose, big eyes or nose shaped like a hammer’s head.  In contrast, the Penan say that they should not utter words such as “piah pesaba” on a daily basis, which are thought to attack or play with animals.

In Penan society, it is believed that the meteorological catastrophe such as thunder, lightning, heavy rain and flooding is not partly but mostly attributed to the failure of human action.  Human mistreatment such as attack or play with animals is believed to cause meteorological catastrophe. 

1) The Penan of the Belaga River utter piah pesaba only when they return from an unsuccessful hunting trip, while according to Jayl Langub, “the texts of the utterance (of piah pesaba) convey the message to the audience in the village whether or not they caught a pig, its size, fatness or whether they caught other types of game, or that the hunt was completely unsuccessful” [Jayl Langub 2009: 9].  Jayl Langub shows that the root word “sabah” from “pesabah” is often used as an expression of sincerity of offer, drawing on Peter Brosius’s PhD dissertation [Jayl Langub 2009: 9, Brosius 1992].  However, I could not find (the meaning of) any word “saba” or “mesaba” during my fieldwork among the Penan of the Belaga.  A Japanese ethnomusicologist, Shimeda who visited the Penan of the Belaga River in the 1980s, translated “piah pesaba” into Japanese as murmuring words for animals [Shimeda 1996].
2) The term “ateng” is an emphatic negative [Brosius 1992: 919].  The word “menigen” means “to hold”.  This line means “we did not get anything” [Jayl Langub 2009: 9].
3) The words “saok” and “todok” mean “all”, while “kat” means “each and every” [Brosius 1992: 920].  This line means not a single animal [Jayl Langub 2009: 9]. 
4)The word “selue” means “all” and “pemine” means “the majority of” [Brosius 1992: 920].  The word “mena” means “give” and “kaan” means “animal”      
5) These words are so called “death names” given to an individual upon the death of his/her father and his/her mother.  This line can be interpreted as “if I am not tell the truth Father will die, Mother will die” [Jayl Langub 2009: 10].
6) The word “panyek” means “the blunt nose of the pig, which Penan consider to be ugly”. “Abai” is a “term for Malay” who was thought to be transformed by pigs by Penan in story.  “Telisu” is a “term for hammer, referring to the flat nose of the bearded pig”.  The word “bogeh” means “Bugis” [Brosius 1992: 922].  Belaga Penan explained to me that “bogeh” means “big-eyed deer”. 
7) The word “keledet” refers to “eyes which shine at night when a light is shone at them” [Brosius 1992: 920].  “baya”: “crocodile”, “buin”: ”pig”, “belengang”: ”rhinoceros hornbill”, “dek”: “fowl”, “ngelangi”: ”cackle”.  

(picture: my temporary hut for hunting at night in a oil palm plantation along the Belaga) 


レヴィ=ストロース・ブックフェアー

2009年12月01日 08時26分19秒 | 文献研究

昨夜、四ツ谷の授業の帰りに、田口ランディの著作の買いだめのために、紀伊國屋新宿本店に立ち寄った。「レヴィ=ストロース100歳ー文化人類学の一世紀」と題するブックフェアをやっていた。死去についての言及はあるものの、生きた期間が強調されていた。レヴィ=ストロース関係の催し物もやるようだ。
http://bookweb.kinokuniya.jp/bookfair/levi01.html#1