たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

ことはじめ・性の人類学

2007年07月25日 00時28分45秒 | 性の人類学

数日間、関西に行っていた。

その旅行の間、ジョナサン・マーゴリス著(奥原由希子訳)『みんな、気持ちよかった!―人類10万年のセックス史』(2006年、ヴィレッジ・ブックス、1600円)を読んだ。

http://www.sonymagazines.jp/book/detail.php?goods=013115

人類のセックスの快楽をめぐる歴史研究である。とりわけ、ギリシア・ローマ時代以降の西洋におけるセックスの快楽をめぐる歴史が網羅的に語られている。

この本を読んではっきりイメージできたのは、生殖のための性行為と快楽のための性行為というのは、人間においては分離している、あるいは、後者が過剰に発達して、それだけでひとつの領域を築いているということである。

自慰、口唇性交などを含む、人類の快楽の追求は、キリスト教とヴィクトリア朝によって、悪しき行為として貶められたのであるが、20世紀、わたしたちは、性の快楽の追求へとふたたび深く分け入り、快楽の民主主義とでも呼ぶべき時代が到来しているというのが、本書の趣旨である。

クリトリスが「発見」されたのは、16世紀のことであるという。コロンボというヴェニスの科学者が、1588年に、快楽の座である「突起物」を発見した(まるで、コロンブスの新大陸の「発見」のようである)。あの著名な顕微鏡の発明家・レーウェンフークこそが、精子の発見者でもあった。「わたしがいま説明している物質は、罪深い行為によって得られたものではない・・・そうではなく、その観察は、わたしの夫婦生活のなかで自然がわたしに与えたものの余剰分を用いておこなわれた」のだという!

その後、ヴィクトリア朝時代(19世紀)は、反セックスブームの時代であり、女の足は公衆の面前で、あるいは私的な場でさえさらされてはならなかった。それどころか、ピアノの脚にまでカバーが掛けられたという!その後、キンゼイ報告、ハイト・リポートなどのアメリカ人のセックスに関する調査報告を経て、20世紀後半になると、時代は、
性を開放する方向へと向かった。宇宙空間でさまざまな体位が実験され(正常位は不可能だという!)、女性用のバイアグラが開発され、老年期の性に目が向けられる時代になった。

この本を、O大学の
秋学期の「性の人類学」の今年のテキストにしようと思っている。

 (写真は、我が家の菩提寺)


文化人類学演習2008募集要項

2007年07月21日 08時33分21秒 | 大学

<目標>
他者(異文化)を迂回して、人間について考える。
<内容>
なじみの薄い土地においてであれ、身近においてであれ、人間の暮らしぶりや生きざまなどに、わたしたちは深く驚き、実存をはげしく揺さぶられるようなことがある。この文化人類学の演習では、そういった経験を手がかりとしながら、わたしたち自身について、人間存在について、探究する。
<テキスト>
例)デイヴィス『ゾンビ伝説』、ドゥ・ヴァール『あなたのなかのサル』、山下晋司『観光人類学』、ギルモア『男らしさの人類学』など。
<履修条件>
幅広く勉強していることを条件とする。
<選抜方法>
志望動機書と面談による。
<成績評価基準>
努力を評価する。

(写真は、メキシコのシエラマドレ山脈のなかのテペワノ人の村のようす。大学2年生のとき、最初に行った「なじみの薄い土地」)


大学生のはじけ方

2007年07月20日 23時00分25秒 | 大学
文化人類学の授業で、1コマ分、質問の時間をもうけた。何人かの学生が、研究室に話にきた。フィールドワークの滞在先で、ことばをどのように覚えるのかを、熱心に尋ねる4年生がいた。彼は、音楽に興味があり、今年度で卒業して、ヨーロッパに音楽の修行に行く予定だといった。そして、ゆくゆくは、東大で天文学を勉強したいという夢を語った。音楽の<起源>にも興味があり、宇宙の<起源>にも、<起源>ということに、関心があるのだといった。ことばは少なかったが、ひじょうに、あざやかな、聡明な感じがした。彼の話を聞いていて、ふと、わたしの若いころに似ているなと思った。わたしは、20歳前後の時期、日本社会の居心地の悪さに悩みながら、彼と同じような夢見る語り口で、自分の思いを、自分がやりたいことを、口にしていたように思う。はじけよ、学生諸君!

 (写真は、いまから20年以上前に、バングラデシュのダッカで、僧侶になる得度式を受けたときのもの)

医療人類学とのたたかい

2007年07月18日 23時37分40秒 | 医療人類学

「心にかかる雲ひとつだになし!」という心境で、大学の春学期の授業を終えたと思った矢先に、医療人類学の本づくりにおいて、まだできていない章の仕上げまでを引き受けるという、とんでもないことになった。若手のひとりからは、「正解がなかなか見えないので、共同執筆でも」という、あやふやな申し出があり、他のひとりは、アフリカで調査中で、病気のためか(?)、ここしばらく音信不通なので、締め切りが、目の前に迫っている状況で、わたしが、その二本の論文の仕上げを、どうしてもやらなければならないことになった。引き受けたこと、いや、引き受けざるを得なかったことを、いまでは、たいへん後悔している。とにかく、しんどい。

昨晩から、パソコンの前に座って、キーボードを乱打しつづけているが、まだ、完成は、カーブの先という状況である。仮眠したときにも、夢のなかに、パソコンの画面と<医療>や<病気>という単語が、出ては消え、消えては出てきた(ような気がする)。

わたしが大幅に改編しつつ執筆しているのは、
ひとつは、「病気と文化」の章であり、もうひとつは、「近代医療のグローバリゼーション」の章である。後者では、<帝国医療>というタームを手がかりとして書いている。

頭のなかは、すでに、ぼんやりとしてきているが、言ってしまえば、<帝国医療>とは、わたしたちが、全幅の信頼をおいて、あたりまえのものとして捉えている、われわれの医療、すなわち、近代医療の<外部>へと踏み出て、それについて考えてみるための概念であり、分析的な想像力なのである。集中して書いてみて、分かったのは、確認できたのは、その点(のみ)である。

法律や政治、学校教育など・・・、わたしたちは、そういった事象・現象がはらむ様々な問題にぶちあたり、よりよき解決を目指すが、じつは、その解決が、問題を、より複雑化するという事態がある。
そういったときに、法律や政治、学校教育などは、その<外部>へと出るための分析的な想像力とでもいうべきものをもっているのだろうか?近代医療に関していうならば、<帝国医療>が、それにあたる。

いかん、ちょっとサボってしまったが、ふたたび、本づくりの作業に戻ろう。明日のいま頃には、でき上がっているだろうか・・・

(写真は、ボルネオ島のカリス社会のシャーマニズムのようす。ドラのリズムにあわせて、正装した女性シャーマンが踊っている)


映像人類学への招待

2007年07月17日 20時55分04秒 | 大学

わたしが一年間プナンの調査研究に行く前には、そんな話のかけらもなかったのだけれども、帰国したら、O大学の新しい学群に、文化人類学専攻ができていました。驚きです。

最近、専攻のホームページも立ち上げました。
http://www.obirin.ac.jp/la/ant/

2008年度から、映像人類学をベースに、フィードワークの授業を行う予定です。今後、映像人類学の研究者をお招きして、シリーズで講演会をやって行く予定です(次回は、おそらく秋)。その第1回目として、南山大学研究員の松波さんをお招きして、お話をうかがいます。

以下、お知らせです。
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リベラルアーツ学群
文化人類学専攻・第1回講演会

日時: 2007年7月26日(木)16:10~17:40
場所: G103(桜美林大学・学而館)
講演者: 松波康男氏(南山大学)

映像人類学への招待
 ― エチオピアの参詣映像記録の体験から―

松波康男氏を講師としてお招きして、ご自身が制作されたエチオピアのムスリムの人びとを中心とした聖者廟参詣の民族誌映画を観ながら、参詣をめぐる社会・宗教生活について考え、また、その映像の制作過程におけるご苦労についてお話をうかがいたいと思います。どうぞ奮ってご参加ください。
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場所は、学而館です。↓
http://www.obirin.ac.jp/001/029.html
アクセスの仕方は、コチラを見てください。↓
http://www.obirin.ac.jp/001/030.html

人類学、民族誌映像、エチオピア、聖地巡礼・・・などに関心のある方、奮ってご参加ください! 

講演会後、有志で、打ち上げに行きます。
そちらのほうも、奮ってご参加ください!

以上、お知らせでした。

 (写真は、案内とはな~んも関係なし。2006年3月に行った、パプア・ニューギニア高地のフォレ人の村のようす)


悲しき害獣

2007年07月16日 14時36分33秒 | 人間と動物

丸山康司著、『サルと人間の環境問題:ニホンザルをめぐる自然保護と獣害のはざまから』(昭和堂、2006年)をざっと読んだ。

http://www.kyoto-gakujutsu.co.jp/showado/mokuroku/catalog/kankyo.html#ISBN4-8122-0609-X

日本の農村における動物、とりわけ、ニホンザルと人間の関係の歴史の深さに驚かされるとともに、今日の「ニホンザル問題」の根の深さに、大きなショックを受けた。

ニホンザル(以下、サルと略述)と人間の緊張をはらんだ関係そのものが、辺境の山間農村部の問題として、中央の都市部からは周縁化されている(きた)という事実。わたしもまた、都市の住民として、その問題が、すでに江戸期にまでさかのぼることができるような、日本農村の固有の問題であるということを、これまでまったく、知らなかった。日本列島を北限として暮らす、南方系の動物であるサル。「サル問題」そのものが、西洋発の学問においては、他者化されていたということなのかもしれない。

江戸時代にはすでに、農作物を育てる人間と、畑に侵入しようとする動物の間に、生存をかけた緊張関係があった。見張りや威嚇、イヌを使った追い払いなどの「害獣」対策は、農作業の一環として、大きな労力をかけて行われていた。そのことにより、人びとは、獣に精神的な近さを感じていた。

その後、明治時代になると、銃が進化・普及し、農作物被害に対して、積極的な防除策を施すようになった。1920年代には、狩猟法の成立によって、狩猟行為が原則的に禁止され、1947年には、GHQによって、サルが保護獣に指定される。その後、1950年代以降の林業開発は、サルの生態に大きな影響を与えることになった。ブナにかえて、スギやカラマツが植林され、サルの餌が失われた・・・

青森県の事例から読み解くならば、その後、サルに対して、人間は、そのときどきで、180度違う態度を取ったようである。絶滅が危惧されていた北限のサルに対して、人びとは、餌付けをしたこともあれば、逆に、サルによる農作物への被害が増大すると、花火や追い込み、電気柵などを設け、さらには、人間への被害が常態化すると、積極的に、捕獲(駆除)を行うようになった。

そのような逆方向のサルの取り扱いは、サルに対する今日の人びとの両義的な態度にも現れている。「猿害」に対する被害者意識がある一方で、「同じ生きものだから同じ風土でくらしていきたい」「サルを捕ってしまったら寂しい」という迷いもあるという。

ところで、日本の農村における「獣害」の問題を甚大な人間社会の問題と捉えて、それにあたるべく、早速、
組織を立ち上げたMくん、今後、どういうかたちで、やっていきましょうか?問題の全貌を把握することは、まず大事なことでしょうね。

http://www.nomadic-imagination.org/

(写真は、Y県Y市のS沢地区。山の向こうで鳴き声がしていたかと思うと、しばらくすると、サルが群れでやって来るという話を、インタヴューをとおして、聞いた)


スウェットロッジ

2007年07月15日 00時25分50秒 | 宗教人類学

2005年の冬、わたしは、人を介して、山梨で一月に一回のペースで行われているスウェットロッジを知った。2005年に2回、2007年の5月から3回、合計5回、わたしは、学生や卒業生たちと誘い合って、スウェットロッジに参加させてもらっている。今月末から、ふたたび、ボルネオに行くのを前に、スウェットロッジについて書いておきたいと思う。

スウェットロッジでのやり方にしたがって、ここではまず、心やさしき主催者である、Kさん、Mさん、Yさんに感謝の意を述べさせていただきたい。

(職業柄というべきか)何かをするときには、わたしは、まず、文献などにあたって、その由来や背景などについて調べるのをつねとしているが、スウェットロッジに関しては、わたしは、その手続き放棄し、
Kさんが与えてくれる知識以上のものを、得ようとしなかった。それが、アメリカ先住民・ラコタの浄化儀礼をベースにしているということくらいしか、わたしは、知らない。

最初に興味深く感じたことは、わたしが詳しく知っているボルネオ島の人びと、とりわけ、プナン人とは対照的に、スウェットロッジ、あるいは、その背景の文化には、人間について語り、世界や自然について教えてくれる、導き手がいるということであった。そこでは、Kさんが、わたしたち参加者の導き手となってくれる。

そこではまた、「ミタクエオヤシン(all my relations)」ということばが、事あるごとに、発せられることが求められる。人間は、すべてのものにつながっている生命連鎖のなかの、ほんのちっぽけな存在でしなかない(この考えは、世界や人間について
多くを語らないプナン人たちが持つ考えと、共鳴するように思える)。

さて、 Kさんに導かれて、わたしたち参加者は、四つんばいになって、子宮を象徴するとされる「イニピ」という空間に入る。ファイアーマンの手で運び込まれる石が置かれる真ん中のストーンピットを囲んで、車座に座る。そこにやって来てくれるスピリットを愉しませるための歌がうたわれた後、その空間は、閉ざされ、真っ暗闇となる。

そこでは、祈りの対象(自分とつながりのある存在、自然、世界、感謝という4ラウンドから構成される)が与えられ、わたしたちは、祈りのことばを探し出して、心のなかで、唱えようと努める。Kさんによって、容赦なく、熱せられた石の上に水が注がれ、その熱は、天井から、わたしたちの身体へと下りてくる。

「苦行」である。身体からとめどなく滴り落ちる汗の玉粒。聞こえてくる呻き声や泣き声。「子宮」的な暗闇の世界では、ことばや音だけが、リアルな実体となり、意味がやりとりされる。思いつく限りの人びとに対する祈り、自然や世界に対する感謝。
日常では停止してしまっている、他者・事物との向き合い方をめぐる想念が、にわかにそのとき、湧き上がる。

いち早く、この「子宮」からはい出たいと願う、強い「欲望」。その思いのみで、生きている瞬間がある。爽やかな風、生きるための水、スイカを与えてくれる外の世界は、そこでは、ふたたび、わたしたちに汚れをもたらすことになる人間世界。浄化された途端に、たちまち現れる不浄。いつもいつも、そういった経験をとおして、わたしの実存は、深く深く揺さぶられるとともに、過剰にためこんだ不浄を落とすために、ふたたび、スウェットロッジに出かける。

(写真は、1898年の、アメリカ・ローズランドのスウェット・ロッジの様子、Raymond Bucko 1998 The Lakota Ritual of the Sweat Logde, p.58 より)


ユーチューブ学あるいは人類学の未来

2007年07月14日 02時00分05秒 | エスノグラフィー
昨晩(2007年7月13日)、H大学で行われた、Oさんによるセミナーに出席した。同じ時期に、同じところで、人類学を学んだ(が、その後、人類学からは、大きく踏み出てしまった!)Oさんの才覚の、その後のゆくえを知るために。

http://anthropology.soc.hit-u.ac.jp/godozemi.html

そのセミナーは、ユーチューブ学、あるいは、文化人類学(=異文化理解?)の別の可能性の提示ともいうべきものであった。わたしが度肝を抜かれたのは、Youtube をつうじて、異文化の不思議さ、驚きにふれることができるだけでなく、それこそが、いまや、わたしたちに、異文化をもたらしてくれる、超絶的なツールであると、Oさんが、断定的に語っていた点である。

Oさんはいう。2001セプテンバー11は、「キリスト教」と「イスラーム教」の衝突として描かれることがあるが、その図式は、ある政治的な悪意をもった人びとの捏造ではなかったかと。Youtube をつうじて、投稿された異文化のビデオを見ていると、そういった図式は、人びとの営みの映像のなかに、溶解して、意味のないものになるという。

Youtube に、人類学でお馴染のキーワードを入れてみる。kwakiutl, kula, nuba, sweat lodge・・・すると、わたしたちは、パソコンの前に座ったままで、異文化・異世界の映像を見ることができる。それは、その場にいながらの、遠くの他者との出会いである。

たしかに、スゴイことが起きているように思う。そして、そのことは、多くの可能性を秘めているように思える。

http://anthropologix.blogspot.com/

しかし、である。そういった手軽なかたちでの異文化の不思議発見は、人類学が、これまで培ってきた異文化との関わりとは、あまりにもかけ離れている感じもする。人類学は、スピードアップし、手軽に手に入れられる異文化ではなくて、その土地の言語から学び、まずくても与えられた食べ物を食べ、何でそんなふうにするのかということを、悩みながら考え、さらには、人びとの苦悩や苦痛だけでなく、ときには、快楽をも共有しながら、ゆっくりと、スローなペースで、異文化の全貌を捉え、そして、その過程をとおして、自らの実存を大きく揺さぶられるような経験だったのではないか。

わたしは、人類学とは、そのようなものだと思っている。そのことから、Oさんの試みが、怪しいであるとか、間違いであるということでは、いまのところない。しかし、こういった試みが、ますます、異文化発見の手軽さゆえに、人類学者、とりわけ、若い人類学者たちのフィールド離れを加速するような危惧もあるように思える。

はたして、Youtube というメディアは、人類学の未来の一つの可能性を切り拓くことができるのだろうか。なんでも、そのセミナーは、電車が走る夜明けの4時半頃まで、夜を徹して、行われるという。つまり、いまのところ(午前2時)まだ、やっているわけだ。わたしは、仕事がたまっているので、早めに切り上げてしまったが、徹夜でセミナーをやる人類学的な狂喜に敬意を表して、感想を書き留めておきたい。

ノマディック・イマジネーション

2007年07月09日 01時14分49秒 | 人間と動物

先週末、O大学の学生2名、社会人1名とわたしの合計4名で、獣害被害のサーベイのため、Y県Y市周辺を訪ねた(それにいたる経緯については、以下のブログ参照のこと)。

http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/02bf4ad4e228f8c8b52fedae9c9ec592

<害獣>とされるサル、シカ、イノシシが、周辺の開発などによる生態の急激な変化にともなって増えたのではないかという、当初のわたしたちの予想は、
的外れとは言わないまでも、どうやら、的にあたっていたとはいいがたい。 むしろ、マタギやそのほかの狩猟者たちの活動が、その地域の森において、行われなくなったことによって、森のなかでバランスが取れていた動物の総数が増加し、その結果、動物たちが、食べ物を求めて、里へと降りてくるようになり、<害獣>化したようなのである。要するに、純粋に、人の手によって、動物が住む森の生態が変化させられることによって、<害獣>が増えたのではなくて、人間側のライフスタイルが変化することによって、<害獣>が増えることになったようなのである。それが、われわれが、Y県Y市とその周辺地域で、半日を費やして、聞き取り調査を行って得られた、いまのところの仮説である。

われわれは、行政によって、とりわけ、捕獲したサル1頭に対して、報奨金が与えられるということを、あらかじめ聞いていた。今回のサーベイでは、それは、猟銃の免許を持った人に対してのみ、与えられていることが分かった。しかし、数人でチームを組んで、森のなかを歩き回っても、何の収穫もなく、狩猟活動が徒労に終わることも多いらしい。そのような方法が、<
害獣>対策としては、必ずしも実を結んでいるとはいえないようであった。

その一方で、わたしたちが気になったのは、山間の集落に、行政によって、長い、立派な(鉄骨の)防護柵が築かれていたことである。わたしたちの案内役の方は、そのありさまを見て、それを、「万里の長城」と言い表した。さらに、それとは別の(鉄骨が用いられていない)防護柵には、高圧電線が引かれて、<害獣>が飛び越えられないような方策が取られていた。サルは、そんなものを飛び越えますよ、という住民の声もあった。防護柵が成功しているかどうかは別にして、要するに、行政は、積極的に<害獣>を駆除するよりも、生きものを殺害することに対する心理的な抵抗への配慮から、人間の領域と動物の領域を線引きし、動物が人間の生活空間に入ってこないように、防護柵を張り巡らすことに、どうやら、力を入れているようである。

さて、そのようなサーベイをしながら、Mくん(社会人)は、わたしたちの知の体系からだけでは、このような問題に、解決の糸口を見出すことができないのではないか、かといって、何もしないでは済ませられない、という思いを熱く語るようになった。彼は、そのことを
インスピレーションとしながら、狩猟をなりわいとして、動物と人間の対等な関係を維持してきた先住民に来日してもらって、彼らの見方・考え方を拠りどころとして、今後、どうしたらいいのかを考え、大きな学びの機会としたいと主張した。そのようにして、わたしたちは、Mくんを中心として、活動団体、"nomadic imagination"(ノマド的想像力)を立ち上げることにした。そこでは、社会貢献をベースとしながら、人間中心主義の行き過ぎについて考えていきたいと思っている。

最後に、Y県でのわたしたちのサーベイを支えてくださったS木さん夫妻、K林さん、T川さん、案内役をしてくださったY田さんに、謝意を述べさせていただきます。S木さんには、取れたてのおいしいモモをいただきました。Y田さんには、シカ肉をいただきました。有難うございました。また、一夜のキャンプ地を提供していただいたS沢集落の皆さんにも、御礼申し上げます。