たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

『フライデーあるいは太平洋の冥界』

2010年11月04日 09時33分30秒 | 文学作品

トゥルニエ『フライデーあるいは太平洋の冥界』榊原晃三訳、河出書房新社 (2010-38) ★★★★★

先月、ある方から『フライデー』は人類学者の必読書だと言われて読んでみた。たしかに、そのとおりだった。フランス人作家、ミシェル・トゥルニエはミシェル・ビュトールの友人であり(この二人の作風はまったく違う)、ジル・ドゥルーズとも同期だったようである。トゥルニエは、バシュラールの哲学に触れ、さらには、レヴィ=ストロースの人類学の影響も受けていると、あとがきに記されていた。

『フライデー』の元になっているのは、18世紀の初めに書かれた、ダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』である。わたしはその本を読んだことはないが、粗筋は以下のようなものである。ロビンソンが乗った船が太平洋で難破し、孤島に漂着して、ロビンソン一人だけ生き残る。海を渡る手立てを断たれたロビンソンは、自力で、家を建て、大地を耕して作物を育て、山羊を飼い、自らが「スペランザ(希望)」と名づけた島の総督となる。デフォーの物語は、難破船のなかから発見した聖書を朗読し、勤勉に働いて、南海の孤島をたった一人で文明化するという、植民地主義を地で行くような話である。しかし、レヴィ=ストロースを経由して、トゥルニエによって書かれた20世紀の『ロビンソン・クルーソー』には、後半の登場人物である、原住民アラウカニア族の男に付けられた「フライデー」という名前が題名に付けられているように、植民地絵図ではなく、原住民の植民地への反撃の物語である。トゥルニエの『フライデー』には、ヨーロッパの理性が、太平洋の野蛮な土人によって翻弄され、裏切られるさまが描かれる。

近代人としての目標を植え込まれ、規則や秩序に宙吊りにされ、ときに、行くべき方向を見失い、ときに、心に大きな問題を抱え込む現代人にとって、難破事故によって、剥き出しの自然に身を置くようになったロビンソンは、日常の想像力の外側の遠くにある、起源の<無>というべきものからの(再)出発の物語でもある。ロビンソンは、孤島に漂着した直後に、雄山羊を殴り殺す。翌日、ロビンソンは、雄山羊の死骸は禿鷹の餌食となっているのを目撃する。南海の孤島では、生と死が、暴力を介して、日常を織りなしている現実がまず語られる。ロビンソンは、やがて、船室に散らばった書類を乾かして、航海日誌をつけることを思いつくようになる。ハリセンボンから取り出した赤い液と禿鷹の羽を用いて日記を付け始めるのだ。「こうして彼にとっては一つの新しい年号が始まったーもっと正確に言うと、それは彼が恥と思い、忘れようと努めていたあの自制力の喪失の後で始まった、島における彼のほんとうの生活だった」。ロビンソンは、書くことによって、思索をめぐらせることによって、自然からいくばくか切り離された文化的存在となったのである。

ロビンソンは、スペランザ島にたった一人で暮らすなかで、やがて、身体的(性的な)欲望を植物のなかにおこなう術を身につけるようになる。

わたしの欲望がもはや種の終末の方向に導かれていないと言っただけでは言い足りない。わたしの欲望はもうだれを攻撃するのかすら知らないのだ!長い間、わたしの思い出はまだかなり栄養を与えられていたので、存在しないけれども必要な被造物をわたしの想像力に供給することができた。が、今では、それもだめになってしまった。わたしの思い出は貧血状態である。もはやからっぽで干からびた莢にすぎない。わたしは発音してみる、女、乳房、腿、わたしの欲望で押し開かれた腿、と。無だ。これらの言葉の魔術がもう働かないのだ。これらの言葉の響きは、<声の風>なのだ。わたしの欲望はそれ自体栄養失調で死んでいる、ということになるのだろうか?いや、正反対だ。

こうしてロビンソンは周囲の動物の結婚風俗を熱っぽい興味を抱きながら観察した・・・・昆虫がこの美しいハート型の花の中に入りこむが早いか、始動装置が働いて花冠の一部が昆虫の上で閉じる。こうして一瞬の間、昆虫は最も官能的に女性的な花床からのがれようとして狂ったようにもがき、こうすることによって、身体じゅう花粉まみれにしてしまう。やがて、ふたたび始動装置が働いて彼を自由にし、昆虫は花粉を霧氷のようにくっつけてとび立ち、別の場所へとまりに行く。こうして彼は花の愛に無意識に仕えているのだ。

そして、

ロビンソンは、・・・・とうとう、草の下に二本の巨大な黒い腿のように開いている枝に対して自分の意中を何となく匂わせることができた。そして最後に、雷で打ち倒された木の上に裸になって寝そべり、幹を両腕で抱きしめた。彼のセックスが二本の枝の分かれ目に開いている苔のついた小さな穴の中に入った。彼は幸せな夢うつつの状態に陥った。彼の半分閉じた目はクリームのように脂肪分の多い肉づきの花の広がりを見ていた。花は重い強烈な匂を発散しながらたわむ花冠を揺らしていた。

なんたる原始的かつ文学的、官能的な表現であろうか。植物姦、自然姦?

その後、ロビンソンの長い長い孤独な暮らしの前に現われたのは、儀式のためにスペランザ島を訪れ、巫女に生け贄にされるところを逃れた原住民の男であった。ロビンソンは、彼を、その日にちなんでフライデー(金曜日)と名づけたのである。ロビンソンは、フライデーとの間に、植民地宗主国人と被植民地人の間柄に似た主従関係を築いてゆく。しかし、フライデーは、じょじょに、二人の関係だけでなく、ロビンソンが島のなかに作り上げた秩序を崩壊させてゆく。

ロビンソンがフライデーの後を追ってゆくと、川のほとりに出る。小潅木が一本残らず根こそぎにされ、枝を地面に埋められ根を天に突き出して逆さに植え代えられていたのだ。そのフライデーの行いに、ロビンソンがたまげる場面がある。その後、40樽分の黒色火薬を、フライデーが爆発させるという事件が起こる。爆発に巻き込まれたロビンソンを助けたのは、フライデーだった。そのようにして、ロビンソンとフライデーの位が入れ代わるようなきざしが見えてくる。フライデーは、熊のような雄山羊に戦いを挑んで勝つと、歌を歌わせてやるというようなことを宣言し、その動物の皮をなめして凧をつくり空に上げ、頭骨からてぐすをつくって琴とし、風に共鳴させて、実際に歌わせてしまう。

そうした描写は、フライデーによる、ロビンソンによる勤勉と秩序への抵抗であるように思える。さらには、フライデーは、ロビンソンとの間で、お互いがお互いに入れ替わるという戯れを考え出す。「フライデーは知っている限りの英語を使って長ったらしく気どった演説をしようと努め、ロビンソンのほうは、フライデーがまだ英語を少しも話せなかったころに習い憶えたアラウカニア語で二言三言答えた」。ゲームのなかで、植民者と被植民者が入れ替わる。

ロビンソン・クルーソーが島に漂着してから28年後に、帆船が島を訪れる。ロビンソンは、その船長の救助の申し出を断って、フライデーと島に残ることを決意する。しかし、船が島を離れるとき、なんと、フライデーだけが、その船に乗り込んで行ったということが判明する。代わって、ロビンソンのもとには、船から逃げ出してきた少年水夫が残る。ロビンソンは、フライデーに見事に裏切られたのである。植民地人は、原住民の魂を正しい方向に導くことができなかったのだ。

【番外編】
2000年代の初めの頃、東プナンの調査をしたとき、まるまる一ヶ月の間、文明から隔絶した状況のなかで、けっしてプナンがそうであるというのではないが、わたしは、髭もそらず、髪の手入れもせず、鏡も見ないように心がけた。マルディの町のホテルで初めて、自分の顔を鏡で見たときの驚きと言ったらなかった。わたしは、わたし以外の誰かだった。いや、わたしであってほしくない、薄汚れた醜い他者だった。鏡に向かって、わたしは、「おい、そこのおまえ」と思わず話しかけてしまった。顔は日焼けして真っ黒というより真っ赤で、髪はボサボサというより整いを失っていた、髭とは、手入れが行き届いているから髭なのだと、そのとき思った。顔のそこらじゅうに、髭や産毛のようなものがみだらに生えていたからだ。そのことからすると、わたしたちは、顔や髪の手入れをしているため、少なくとも、他者からの視線にようやく耐えられているだけなのかもしれない。『フライデー』を読みながら、そんなことが頭に浮かんだ。


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