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たんなるエスノグラファーの日記
エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために
 




メリー・クリスマス&どうぞよいお年を!



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あとからだんだん分かってきたのは、わたしは、大きく誤解されていたにちがいないということである。無駄に怒っているとか、気持ちを考えないとか、わたしの感情が、そういったかたちで曲げて捉えられたのだということが、だんだんと分かってきた。ある人の感じていることを、ある状況において感じとるとは、いったいどういうことなのだろうか。その感情の解釈は正しいこともあれば、その場の解釈だけで、一つの方向に突っ走ってしまうことがある。人間と人間の関係における感情の読みとりは大きな謎であるが、それだけでなく、ここで問題にしたいのは、人間による動物の感情の読みとりである。プナンは、動物の怒りの感情、不快感を読み取る。逆にいえば、プナン人にとって、動物は、不快を感じ、よく怒る存在である。そういうふうに捉えれば、そうした動物の感情の読み取りは、自分たち人が怒る存在であることに由来しているのかもしれない。人の怒りの動物への拡張。いや、それだけではとどまらない。プナンにとっては、天候も怒れば、水も、川も怒るのだ。夫を亡くした女が、別の共同体に来て、複数の男たちに身をまかせたという。亡き夫の共同体のメンバーは、女に対して不快感と怒りをあらわにしたが、その怒りの矛先は、女が頼った共同体に向けられた。女が頼った共同体のメンバーは、逆に、なぜ俺たちが悪いのだと、怒りを募らせていった。夫を亡くした女が、亡き夫の共同体の男と再婚するまでの間、双方の共同体のいがみ合いが続いた。プナンは、外来者の襲来を恐れている。首を狩られるかもしれないし、子がさらわれてしまうかもしれないからである。複数の見知らぬ男が、プナンの居住地を横切って川のほうに抜けていこうとしたとき、女たちは恐怖におののき、男たちに吹き矢を準備させた。恐怖は、ときに怒りとなって爆発する可能性を秘めている。とりわけ、女たちが怒っていた。外来者め。なぜあの時、矢を射ることができなかったのかと喚き立てた。そうしたプナン人たちの日常の怒り。怒りの感情は、動物にも感染するのではないか。動物たちは、人間たちの動物に対する粗野なふるまいに怒りをあらわにする。しとめられた動物は、自分たちの種の名前で呼ばれると、不快に感じ、怒るという。人は死ぬと、周囲の親族の名前を死の世界にもっていく。そのため、死者の親族は、喪名に変えなければならない。死後、死者の名は呼ばれてはならないのだ。死者の名前を発すると、親族は、悲しみに打ちひしがれるからだという。動物も同じだ。たいていの場合、狩猟によって死んだ後、種の名前を呼ばれてはならない。しかし、それは生者が悲しいからではなく、種の本当の名前を呼ばれた動物が、不快に感じ、怒るからだ。さらに、みにくさをあざ笑われた動物は、怒る。その意味で、動物は、神経質な存在である。人間の性質のある部分が、動物に投影されているのではないか。怒った動物(の魂)は、天へと駆け上がり、雷神に告げ口をする。すると、雷神も怒りに打ち震え、雷鳴をとどろかせ、大雨を降らせ、洪水を引き起こす。怒りに荒れ狂う。自然=雷神もまた怒るのだ。プナンは、人間、動物、無生物(天候など)の感情を、怒りを介して、読み解く。人間以外の存在は、けっして喜ばない。悲しまないし、楽しまない。怒りだけが傑出している。

(野ネズミ、レプトスピラ症の元凶、プナンは動物のなかでそれを唯一手づかみで捕まえて、焼いて食べる)



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新年研究会案内

兎年の最初に、人類学者の北米調査地での兎をめぐる経験に基づいて考えます。

【日時】
2011年1月8日(土)10:00~17:00

【場所】
桜美林大学崇貞館B331(奥野克巳オフィス)
http://www.obirin.ac.jp/001/030.html

 Paul Nadasdy
“Gift in the Animal: The ontology of hunting and human-animal sociality"
(American Ethnologist, Vol. 34, No.1, pp.25-43)
を読む。

*参加希望者は、あらかじめご連絡ください。
奥野克巳
katsumiokuno@hotmail.com


【後援】
科研費基盤研究(B)(海外学術調査)
「人間と動物の関係をめぐる比較民族誌研究」
(通称、人獣科研)

 



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鳥になるとは、どういうことか。それは、たんに、鳥の衣服を身にまとうことではない。鳥のような声を出し、鳥のように手が後ろに付いていて、その先に羽を動かせるような動作を行うことによって、感覚として、鳥になることである。ロッククライマーが岩にへばりついたとき、アリのようになった感じがするという経験譚は、人が見かけだけアリになることではなく、平面に対して、手足を伸ばして上昇したり、そのはずみで、まったく反対にその態勢で下降することができるかのごとく感じることを含む。メタモルフォーシス(変身)とは、そうしたことなのではないか。ユルキャラの縫いぐるみを着て、人は、たんに突っ立っているのではなく、心・身ともに、ユルキャラそのものになりきる。ユルキャラという新たな人格が動き出す。ある朝起きると巨大な虫になり、ひどい空腹を憶えたグレゴール・ザムザは、白パンの浮いている甘い牛乳を入れた鉢に目もつかってしまうほどに首を突っ込んだが、体全部が協力してくれなかったので、牛乳をうまく飲むことができず、頭をそらせて、部屋の中央に這い戻った。身体の変わりようだけでなく、身体感覚の変わりようを示している点において、カフカの変身の描写は正しい。人間と動物、人間と間について考える上で、このあたりの思考を踏み越えてゆくことが重要であるような気がする。そんなことを話したのか話さなかったのか、考えたのか思ったのか、出版・研究の打ち合わせを終えて、冬晴れの気持ちのいい一日、小金井公園に行って、日が落ちるまでのひと時、枯れ芝の上に寝転がった(写真)。



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駒込に住んでいたのは、もう20年以上も前のこと。白山通りにもよく歩いていった。千石には三百人劇場があって、ルイス・ブニュエル監督のメキシコ特集という映画祭をやっていたことがあった。メキシコの農民がバスに乗ってハチャメチャ騒ぎに巻き込まれるという『昇天峠』が、いまでも一番印象に残っている。東洋大学のキャンパスは、当時入ったこともあったが、あんまり印象に残っていない。昨日キャンパスに入ってみると、うなぎの寝床的な長い、なかなかいい感じの校舎群だった。そうか、あの妖怪研究で有名な井上円了が東洋大学の創設者だったのか、像があった(写真)。そこに何をしに行ったのか。日本文化人類学会の関東地区研究懇談会「教室/大学というフィールド―文化人類学の何をどう伝えるか 第2回 特殊講義編」に出て、勉強するために。数年前から、大学ではFD(ファカルティ・デヴェロップメント)を行うことが義務づけられていて、だいたい月一回のペースで、教員の授業内容を口頭報告して、参加者教員の授業の質の向上が目指されるというような取り組みが行われてきている。昨日の研究会も、話を聞いていたら、最初は、大学の教室で、文化人類学をどのように教えるのかに関して、学会員の間で情報を共有し、質の向上を目指さなければ、そのことは、ひいては、学問の存続に響いてくるかもしれず、そうしたことを考えるために、文化人類学会でも、FD的な試みが、とうとう開始されたのかと思えた。しかし、その後、元・人類学者の方がプレゼンテーションを行い、彼の授業で、どのように文化人類学を教えているのかという話へと移り、ディスカッションとしては、授業=教育に多大なエネルギーを振り向けさせられる閉塞状態を、逆に好機と捉えて、文化人類学独自のメッセージを発する教育へと転換したほうがいいのではないかという、本質的な色調を帯びたものへと展開することによって、意義のある、ひじょうに刺激的な研究会であったように思う。わたし自身、10年以上にわたって、ひと所で教えているが、2000年代の初頭には、大学の授業は、授業準備を別段してもしなくても過ごせるようなユルいものだったが、それではいかんという見方が広がったため、その後、授業評価制度が導入され、評価結果が数値化されて教員本人に返還されるようになり、さらには、あらかじめシラバス登録が義務づけられ、その記載のしかたが決められ、成績評価の基準の明確化と厳密化が推し進められ、ついには、一科目15週が義務化され、休暇期間(=研究期間)がいちじるしく縮減された挙句、来年度からは、15週の授業期間の外に定期試験期間を設けなければならないというふうに、大学教員は、授業マシーンとして、お客様=学生に対して、いかに面白くて、平易に分かり易く、役に立つ授業を組み立てることを至上命題として課される度合いが、ますます加速化してきている。大学教員、とりわけ、私学の教員は、ときには、この場から逃げ出したくなりながら、歯を食いしばって、そうした課題に向き合わされている。体を壊す大学教員、心を病む教員が出るのも当然だ。そうした現状に対して、真っ向から批判しプロテストすることも必要だと思うが、今後、その現状を大きくひっくり返すことができる見込みはあるだろうか。おそらく、この流れは、しばらく止まるまい。人類学者になり損ねた、元・人類学者と自ら名乗るOさんのように、問いをズラすことで、やっていくことができるのではないだろうかと思えた。その点で、わたし自身は、大きなヒントを得ることができたように思う。研究時間が削られて、はてしなく疲れてしまって、能力もないし、教育に関しては、もうほどほどでもいいやと思うようになっているのだが、ある種のブレイクスルーが提起されたようで、大いに励まされた。いったい、どのようにすればいいのか。例えば、文化人類学者になり損じたり、なりすました人びとを追っかけて、周辺部分から文化人類学がどんな学問であるのかを提示し、さらには、インターネットから教材となりうる映像資料(モノ)を集めることによって、授業を組み立ててみるというような行き方。それをそのまま、教員が授業において実践するのだ。それは、<周辺性>と<モノの収集>という点において、文化人類学そのものの手法なのである。あるいは、試験の仕方の工夫。学生たちに、とことん考えさせるというよりも、根本から考えるためのハビトゥスを持たせるための工夫。言い換えれば、既存の価値体系ーこの場合、文科省の犬となった大学当局からの押し付け的な、上からの教育への時間傾斜命令ーに抵抗するために、相対化、抵抗の学問としての文化人類学の独自性をもって、突破してゆくという行き方である。来年度は、幸い、前期には大教室の科目は一科目だけにしてもらった。時間的な余裕を使いながら、これまでの蓄積を踏まえて、やり方を大きく変えてみようかと思うようになった。教育に関して、いま行われているのは、上からの押し付け的な改革であって、下からの革命はまだもう少し先にあるように思う。ところで、研究会の議論として、そのほかにも、興味深いトピックがあった。一つは、<映像を用いない授業>と<映像を用いる授業>について。前者は、ひたすらプリントを用い、パフォーマンスを含めて、異文化の雰囲気を体験してもらうことを目指すもので、映像は、そうした想像力を膨らませるためには役に立たないという。後者は、映像を見ていると学生は寝ないし、興味を持って取り組むという学生資質に大きく頼るもの。わたし自身は、授業を口頭だけで進めていると単調になるので、映像資料を所々に入れて、リズムを持たせるようにしてきた。人類学の研究者の仲間内で、どういうビデオ映像があるのかを、よく情報交換している。映像については、いま一度、どうずるのかについて考えてみたいと思う。もう一つは、学問のパッケージ化について。文化人類学は、やってみなければ分からない学問であり、現象や実践を読み解くときに、あるパッケージ化された知識が役に立つという学問ではない。他方、シラバス作成、大学案内の広報や説明会などをつうじて、文化人類学の学問のパッケージ化も、どんどんと進んでいる。フィールドワークやれば、エスノグラフィーやれば、文化人類学だというふうに。パッケージ化という、学問の分かり易さの提示にどのように寄り添いながら、同時に、それをぶち壊すのかが、考えどころかもしれない。わたしが、この研究会が面白いと思ったのは、教える者の手の内を明らかにして、やり方を高めてゆくための参考にするというのではなく、文化人類学のメッセージをどのように授業に散りばめてゆくのか、なし崩し的に進められている硬直化した教育的現実に対して、その突破が、どのように可能かという点について、踏み込んで議論するためのある方向性が示されたからである。乱長文御免。



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川端康成『眠れる美女』新潮文庫(2010-43)★★★★★★

ガルシア・マルケスの『わが悲しき娼婦たちの思い出』に霊感を与え、バルガス・リョサが『嘘から出たまこと』のなかで「短く美しく、それでいて深みのある」本だと評し、三島由紀夫が「解説」で傑作と読んだ、川端康成の短編『眠れる美女』は、ただならぬ気配をみなぎらせる、絶品であった。作中では物言わず、眠っているだけの美女たちの息づかいが、静謐な空間からまざまざと浮かび上がる。
67歳の江口は、木賀老人から、薬でぐっすり眠らされた「眠れる美女」の傍らで寝るという、頽廃的な欲望に身をゆだねる老人のための海辺の宿を紹介される。江口は、しだいに、その性幻想の宿の常連となる。それは、すでに男でなくなった老人のための宿なのであるが、江口自身は、まだ男でなくなっていない。40歳代の女性が切り盛りするその宿では、生娘に老人の不埒な危害が及ばないように配慮されているため、厳しい禁制がしかれている。江口も、宿に通ううちに、ただ眠っているだけの娘たちに、どんな酷い仕打ちをしてやろうかと思いをめぐらせるようになる。同時に、口を聞かないし、ただ裸で眠っているだけの娘たちへの一方的な想念の先に、江口は、かつての色恋沙汰、愛人たちとの駆け引き、自分の娘の男関係など、さまざまな過去の事柄の詳細を思い出す。5回目の訪問時に、眠らされていた、白い肌と黒い肌の二人の娘のうち一人が、薬摂取の加減によってだろうか、息を引き取る。取り乱す江口に対して、女主人は、死体の処理にはかまわずに、もうひとりの白い娘とお休みになってくださいというが、そのことばが、江口老人に突き刺さる。彼女が、死を前に衰えゆく老人の性、老人にとっては、従順ながら手ごたえのない、生気を内に秘めた娘の性、ことによると、金のために身を投げ出す娘たちの現世的欲望、さらには、「眠れる美女」の家で行われる、そうした数々の欲望を操りながら行われる儀礼を主催する司祭だったようだ。



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安部公房『デンドロカカリヤ』新潮文庫(2010-42)★★★★

変身についてのお話はないものか探しているときに、学生たちが探してくれた本のなかに、人間が植物に変身する安部公房の話があった(有難う!)。飛びついて読んでみた。冒頭の一段落。

道を歩きながら石を蹴っとばしてごらん。何を考えているの?さあ言ってごらん。何処にいるの?季節は教えてあげてもいい。春だよ。路端の、石がころげて行った先の、黒くしめった土くれ。みどりいろ。何が……、何が生えてくるのだろう?いや、君の心にだよ。何か植物みたいなものが、君の心にも生えてきてるのじゃないの?

春先になってなんとなくウキウキしているのだろうか。石を蹴っ飛ばして、その先にある緑色した土くれに何が生えてくるのか想像してみよう言われて、急に、その想像は反転されて、君の心に、植物が生えてきているのではないかと言われる。日常の感覚が、ある些細な出来事をきっかけにあらぬ方向へと転げ落ちていく予感なようなものが語られている。

ぼくらはみんな、不安の向うに一本の植物をもっている、伝染病かもしれないね。植物になったという人の話が、近頃めっきり増えたようだよ。

コモン君はふと心のなかで何か植物みたいなものが生えてくるように思った。ひどく悩ましい生理的な墜落感。不快だったが心持良くもあった。と、今度は本格的な地割れらしい。地球が鳴り出した。(地球もやっぱりこの重みに耐えかねたのだろうか?)ぐらぐらっとしたと思ったとたん・・・・、まったく変なのさ、コモン君は急に地球の引力を知覚したんだよ。奇妙じゃないか、引力を感じたんだよ。ぎゅっと地面に引き止められた。まるで地球にはりついたよう・・・・、じゃない、事実はりついたんだ。ふと俯向いて、愕然とした。足が見事に地面にのめり込んでいる。なんと植物になっているんだ!ぐにゃぐにゃした細い、緑褐色の、木とも草ともつかぬ変形。

コモン君の顔は、裏返しになっていたのだ。コモン君は、むしりとるように顔をはぎとると、表返した瞬間、すべてはもとに戻っていた。それから一年後、コモン君は、K嬢からの手紙を受け取る。意気揚々と喫茶店カンラン向かうコモン君。そこでもまた、コモン君は、植物となる。

やがて、一年前の体験とそっくり、意識の断層、高い壁がそそり立っていた。ぼんやりした顔が映ってみえた。よく見ると裏返しの顔だった、おまけに全身ほとんど植物になっているのさ。、草とも機ともつかぬ奇妙な植物、指先は葉になっていて、形は菊の葉に似ていた。あまえ見ばえはしない。しかし見順れぬ植物、こわばって、もうよく動かなくなった体を必死になって、やっと顔をつかみ、引きはがし、なんとか表をむけると、瞬間、すべては元どおりになっている。

裏返った顔を表にすると、植物から人間へ元どおりになる。コモン君は気がつく。「ゲーテの原・植物を想出したんだよ。変形の奥底に浮かび上がる非存在」。安部公房は、植物にも変身しうる人間存在の不安定さを提示している。 



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シャーマンは、人の心を、人の病を、目に見えない世界との関係のなかで、立ち直らせるサポートをする。
彼/
彼女は、霊能力と呼ばれる力を借りて、隠れた真実へと接近し、荒んだ心、病んだ心をストンと落とす。
現代のスピリチュアルカウンセラー・江原さんのやり方を見ると、シャーマニックな力がどのようなものであるのかがよく分かる。

http://www.youtube.com/watch?v=R9VXhgvo6uk
http://www.youtube.com/watch?v=Ad6RM1whl0s&feature=related

2010年秋学期、宗教人類学の講義より

参考
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/31d729756b7e51b4a5074c3312286995

写真は、檳榔樹の占いをするカリスのシャーマン。最近、わたしにカリス語を教えてくれた盲の女性がなくなったと聞いた。冥福を祈る。



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昨日は雨だったのに、今日は朝からカラッと晴れた。ソーラークッキング日和。午前中実演会が行われ、昼休みの食事会は、賑わっていた。太陽エネルギーのクスクス料理がふるまわれた。午後からの講演会も無事終了した。人類史におけるエネルギー利用のオーバービューに続いて、チャドにおける、改良カマドによる薪(自然資源)の削減の取り組みとその失敗についての話題提供、ソーラークッキングの会の取り組みについての話題提供があった。ボルネオ島のわたしの調査地では、いまのところ自然資源は使い放題で、自家消費のための代替エネルギーを考える風土ではない。ゆえに、調査者の興味関心にも上らない。地域によって、ずいぶん違う。今日一日、エネルギーについていろいろと考えさせられた。
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/fcdfbb4346a9f7d3c31fd0f9592eb129



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カフカ『変身』高橋義孝訳、新潮文庫(2010-41)★★★

小学生のとき(たしか4年生のとき)、国語の宿題に、小説を書いてくるというのがあった。ミヤマクワガタの冒険譚を書いた。内容については、周囲の反応から、自分でも、いまひとつかなと思った。
高校生のとき、カフカの『変身』を初めて読んだとき、世界には、わたしと同じように、こんなことを考えつく人がいるもんだと思った。で、なんかヘンな小説だなあという印象しかなかったが、今回再読してみても、その印象はほぼ変わらなかった。

物語は、ある朝、目覚めたグレゴール・ザムザが、寝床のなかで巨大な虫に変身していて、鎧のような堅い背を下にして、あおむけに横たわっていたという奇妙な書き出しから始まる。改めて気づいた問題は、身体の変容を伴う変化(変身)という事態が可能になるのは、グレゴールの精神性(内面性)の維持・継続によってだという点である。それは、家のなかに突如と出現した大きな虫ではない。どうやら最初は、その虫は、グレゴールの言葉を喋っているのだけれど、途中から、その虫は、妹や父たちと言語による意思疎通ができなくなるように思われる。しかし、その虫は、事の成り行きの次第から、元・人間のグレゴール・ザムザなのである。

身体が変化すると、感覚も変わる。『変身』には、虫の感覚の描写があちこちに散らばっている。「グレゴールは肘掛け椅子ごと徐々にドアのほうへずり寄って、そこで椅子を放し、ドアに体を投げて、垂直の姿勢をとった。--小さな足どもの足裏は少々ねばねばする液を分泌していた。--そしてほんの一瞬間、そこで辛い運動から体を休めた。それが終わると、口で鍵穴にささっていた鍵をまわす仕事にとりかかった。残念ながら口の中に歯らしいものはないようであった。--とすればいったい何物で鍵をはさめばいいのだろうか。--しかし歯のないかわりに顎の力がむろん強かった・・・・

しかし、いったいぜんたい、この虫はどのような身体を持っているのだろうか。「彼はすぐさま牛乳の中に目もつかってしまうほどに首を突っ込んだ。しかしほどなく失望して首を引っこめた。--体全部がふうふういいながら協力してくれるのでもなければものを食べることはできなかった。ところが胴体の左側が痛んで食べるのに不自由したばかりか・・・・。物語のなかでしか描くことができない、想像力によってしか捉えることができない生き物なのではないだろうか。

グレゴールの部屋に入り込んだ母親は、息子が人間の言葉を解しようなどとは思いもよらない。家具を片づけたりすれば、あたしたちがあの子がよくなることをすっかりあきらめてしまって、まるであたしたちがもうあの子のことをかまおうとしないんだということをはっきりと言ってしまうよなことになるんじゃないの。あたしはこう考えるんですよ。部屋の模様はむかしとそっくりそのままにしておいたほうが、またグレゴールが人間にもどったときにこの部屋がちっとも変わってないのを見て、それだけ容易にそのあいだのことが忘れられようというものじゃあるまいかねえ。母親は、虫に変身したグレゴールが、ふたたび人間に戻るという可能性についても考えているのだ。

人間の虫への変身を扱った『変身』を読んでいて、箱のなかに暮らすことで、別の人格を得る、
安部公房の『箱男』のことを思い出した。『変身』は、別の身体性を得ることで、内面性(精神性)が困り果ててしまう物語であるのに対して、『箱男』のほうは、別の身体性を得ることで、現代社会のなかで疲れ切った内面性(精神性)を変容させる物語であるようにも思える。



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ジャック・ロンドン『野性の呼び声』深町眞理子訳、光文社古典新訳文庫(2010-40)★★★★

この本は、先週のとある講演会で、ロマンスグレーで渋いのにカジュアルな経済学の先生が、学生向けに、一冊の本として挙げていた。犬の物語だというのと、最初の文章「放浪への原始の渇望が沸きあがり、習慣の鎖にいらだつ。その冬の眠りよりいまふたたび、野性の血筋が目ざめる」が印象に残っているという話を聞いて、飛びついて、読んでみた。
大学というのは、教えに行っている立場からは、問題が山積している職場だけれど、講義に耳を傾けるほうに回ってみれば、知識と経験のある先生方の話を聞けて、新たな発見に溢れていて、そうとう愉しいのではないかとふと感じ、いまさらながら、もういっぺん、学生側に回ってみたいと思うようになった。

ま、そうした雑感は措くとして、『荒野の呼び声』。純粋に、面白かった。引き込まれた。なぜ、バックという犬の物語が、これほどまでに、心を動かすのだろうか。あらすじは、こうだ。カリフォルニアの判事の邸宅で暮らしていた大型の雑種犬バックは、私欲に動かされた男によって、橇犬として売り飛ばされ、アラスカへ送られる。バックは、橇犬として使役されるようになり、
絶え間ない犬同士の闘争を勝ち抜き、複数の所有者を渡り歩いた末に、ついには、ジョン・ソーントンという、バックが敬慕するようになる男の橇犬となる。バックは、しだいに、森のなかからの狼の呼び声にひかれてゆくが、バックが森をさまよい歩いているときに、ソーントンがイーハット族の襲撃にあって命を落としたのを機に、狼の野性の群れへと入ってゆくという物語である。

人間は、つねに、棍棒をもって、力づくで、犬を自らの意志に従わせようとする。バックは、その掟を知り、抜け目のなさで、人間に気に入られてゆくと同時に、過酷な自然のなか力尽きるまで橇を引き、力と力のぶつかり合う獰猛な獣としての犬の世界を制して、じょじょに、のし上がってゆく。バックは、最愛の主人ソーントンのキャンプを襲撃し、犬たちをも含めて皆殺しにしたイーハット族に果敢に立ち向かって、イーハットの男たちの喉を咬み切って殺した後、彼らのむくろをじっと眺めながら、思う。自分は人間を殺した。あらゆる獲物のうちでもっとも高貴な獲物を。しかもそれは、あの”棍棒と牙の掟”にまっこうから逆らってのことなのだ。好奇心から、それらのむくろを嗅いでみる。この人間たちは、いとも簡単に死んだ。彼らよりもエスキモー犬を倒すほうが、よほど難しい。弓矢や槍や棍棒がなければ、人間はこの自分の敵ではないのだ。となれば、これから先、二度と人間を恐れることはないだろうーー彼らがその手に弓矢や槍、棍棒などをたずさえてないかぎりは」。やがて、バックは、人間を見捨てて、狼の群れに入り、イーハット族から恐れられる<幽霊犬>となるのだ。

ジャック・ロンドン流の犬の視点から見た世界の記述は、犬が擬人化されて描かれている点で、ひじょうに読みやすい。落語のネタ『鴻池の犬』を思い出した。鴻池のぼっちゃまが可愛がっていたクロが死んでから、ぼっちゃまは、食べ物も口に通らない。あるお店の前に捨てられていて、
育てられた黒犬が、クロにそっくりだと鴻池の番頭に見初められて、鴻池のぼっちゃまのもとへ連れて行かれて、何不自由のない暮らしを送るまでに出世するという内容の噺である。こうした犬の視点、動物の視点からの物語は、数多い。人間は、ときに、動物の側から物事を考える。『野性の呼び声』を読みながら、ふと思いついたのであるが、プナンは、イノシシ猟に行って、足跡のチェックをするとき、あれは、イノシシ(の気持ち)になっているのではないかということである。イノシシの足跡を追いながら、イノシシが、油ヤシの木までどのようにたどり着いたのかを確認する。それは、ハンターたちによるたんなるチェックというようなものではなく、ハンターたちは、イノシシの気持ちになっているのではあるまいか。動物に魂を認める考え方というのは、動物と一体化して、その延長線上に現われるものなのではないだろうか。覚書として。



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変身。

それは、内面性(精神性)を保持しながら、身体性を変えること。ブードゥー教徒は、人格を持ちながら、人間からイグアナに、鵞鳥などの動物に変身する。本郷猛は、仮面ライダー(バッタ)に変身して、超人的な身体を獲得し、人を超えた
力を得る。いまから思いだせば、カリスには、変身譚がたくさんあった。しかし、人間から動物へというのではなく、超自然的な霊が動物や人間に変身するという話である。以下、思いついたところの羅列。

ある日、カリス人の家に寝泊りしていたブギス人の男が、小用のため、裸足で家の外に出たときにサソリに刺された。わたしは、叫び声を聞いて、その家を訪ねてみた。幸い大事に至らなかったが、彼は、出された紅茶をそのままにして、屋外に出たため、サソリに攻撃されたのだということだった。老人は、一言「アントゥ(精霊)」とつぶやいた。どういうことかと尋ねると、食べ物や飲み物に対して適切な処置をしなければ、カタベアアン(という状態)になり、そうなると、サソリやヘビに噛まれたり、病気や死に見舞われるのだという。ブギス人の男は、出された紅茶を飲まないまま、適切な処置もせずにその場を離れたために、カタベアアンになり、精霊がサソリに変身して、彼を襲ったということであった。霊がサソリに変身したのである。

あるとき、2歳に満たない幼児があっけなく死んだ。母親は、葬儀の後、幼児の命を奪った何らかの存在に対して、呪詛を唱えた。「おまえが霊であれば、獣に姿を変えてわれわれの前に現れ出よ!」と。数日後、わたしは一つの噂話を耳にした。幼児を殺したのはトラ(の霊)で、すでに、幼児の父親によって、仇を討たれたのだと。わたしは、すぐさま、死亡した幼児の父親に詳しい話を聞きに行った。そのときの話は、だいたい以下のようなものだった。幼児の葬儀の夜に、遺族が集まって食事をしていると、外でゴトゴトと音がし、父親は、屋外に出て、暗闇のなか、その物音の主を銛で突き殺したという。それは、どうやら、葬儀で出された食べ物の残りをあさりに来たヤマネコだったらしい。ヤマネコの死体は、その後、川の中に投げ捨てられたという。その夜に、夢のなかで、父親はトラ(の霊)の訪問を受けた。トラ(の霊)は、何の罪もない幼児を殺したことを謝罪し、その報いを受けて、自らもお前に殺害されることになったのだと語ったという。ヤマネコは、幼児を死に至らしめたトラ(の霊)が変身した姿だったのである。

カリス人は、森のなかを歩いているとき、誰かに出会ったら必ず挨拶をしろという。相手が挨拶に応じて言葉を発しなければ、そいつは人間に変身した精霊だという。その場合には、後ろを振り返ることなく、一目散に走って逃げなければならない。追ってきたら、川へ飛び込め。逆に、誰かに森のなかで会ったら、自分が人間であることを知らせるために、進んで言葉を発するようにせよと、カリスは言う。

精霊はよく人間に変身する。その日、わたしは、朝起きると、眩暈がしてずっと臥せっていた。たまたま女性シャーマンが通りかかったので、様子を診てもらった。彼女は、わたしの眩暈は、その日の朝、水浴びに川に下りていったときに、老人に声を掛けられたせいだと言った。いや、わたしは、眩暈が起きたので、今日はどこにも行ってないと述べると、その女性のシャーマンは、わたしの魂が川に水浴びに行って、そこで、つい最近亡くなった老人に声を掛けられたのだというようなことを言った。「霊に声を掛けられる(da-tingkau antu)」と、眩暈や体調不良などの原因となることは、人びとによく知られている。死者との遭遇は、この場合、わたし自身がまったくあずかり知らぬところで起きた。わたしの魂が、死者に声をかけられたのだ。ここで語られているのは、人間と精霊の境界が、言葉を通じて、交わってしまう危険状態である。そのことが、人間側に病気をもたらす。死者とは誰か。それは、人間に変身した悪霊(死霊)であるとされる。

こうした話は、かつて自著のなかにも、断片的に書いたが、時間が経てば、別の解釈の可能性が浮かんでくる。
あ”~、いつまで経っても、修行が足らないのか。
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/d52685fc620379dcd102b36076302b39



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昨日、授業で、インターネットのなかの呪術の話をした。

呪術は、アフリカや東南アジアの辺境社会で行われているのではなくて、わたしたちのすぐそばで、過去に行われていたのではなく、現在でも行われているということの例証として。この話は、ほぼ毎年やっている。

日本呪術協会という団体がある。
http://www.noroi.net/

数年前に、卒論で呪術研究に取り組んだ学生がいて、この協会を取り上げた(ほぼ毎年、卒論では、誰かが呪術を扱っている)。彼女は、呪術の体験談を語ってくれる方を紹介してほしいと、電話を入れたらしい。山中の代行業も見せてもらえるということが分かったという。大阪駅から、車で行くというような話を聞いた。

わたしも数年前に、自費で、ワラ人形セットを購入した(写真)。

ワラ人形セットのパンフレットを見ていたら、本格的な丑の刻参り(山中14日間の丑の刻参り)の成功率が書かれていた。
●病気、もののけ撃退     ・・・45% 
●仕事、金銭などの悩み    ・・・71% 
●魔除け、厄除け、開運祈願 ・・・73% 
●恋愛、略奪愛の成功     ・・・81% 
●浮気の防止          ・・・73% 
●浮気相手の撃退       ・・・79%

ある学生の弁。このなかで、浮気の防止の成功率が73%というのはちょっとヘンではないだろうか?パートナーがまだ浮気してない状態で、しないように丑の刻参りをしてもらうということだとすれば、成功率が73%というのは分かるけど、丑の刻参りをやって、100人に27人(27%)の相手が浮気をするようになったというのは、どういうことだろうか。それは、まったく逆効果を生み出した呪術だったということ?なるほど。

こうした点を含めて、今後呪術を調べるのは、だ!・・・・かもしれない。



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イヌ科、ネコ科、クマ科などの食肉獣は、他の動物を襲ってその肉を食べる。食肉類の捕食行動は、探索、接近あるいは追跡と、その後の捕獲に分けられる。捕獲のさいには、獲物を手で捕まえ、動けなくし、殺すことが含まれる。ネコ科、イタチ科の何種かでは、喉への渾身の一咬みによって獲物を殺害する。捕食者はそれを食べ、あるいは持ち帰る。後に消費するために密かに隠すこともある。食肉類の狩猟には、身体と身体の直接接触を伴う駆け引きという面が際立っている。

他方で、ヒトの狩猟は、道具を介して行われることが多い。マレーシア・ボルネオ島の狩猟民・プナン(Penan)が、狩猟対象の動物をしとめるのは、もっぱら、道具を介してである。プナンの猟は、吹き矢猟、猟犬を用いた猟(ふつう、槍で止めを刺す)、ライフル銃による猟、わな猟に分類することができる。動物との直接的な接触による狩猟はない。プナンは、吹き矢を用いて毒矢を飛ばし、樹上のサル類をしとめる。矢毒には、植物毒とカエルなどの毒が用いられる。空に舞っているトリが、樹木の枝に降りてきたところを、吹き矢でしとめることもできる。矢毒は、すぐには効かない。毒矢を受けたトリは、空を飛んでいく。プナンは、そのトリが絶命する地点まで追いかけてゆく。1960年代に導入されたライフル銃による狩猟が重宝されるのは、この点においてである。銃弾が中れば、トリは即死して追跡する手間が省けるからだ。

プナンが獲物に接近するときには、通常、視覚と聴覚に頼る。それに対して、プナンによれば、動物は音に敏感で、身の危険を察知し、匂いで人がいるのを知るという。種によって反応に違いがあることを、ハンターたちはよく知っている。イノシシは、匂いと音に敏感であるが、目があまりよく見えないという。ジャングルのなかのイノシシ狩りに行くとき、ハンターは、音を立てないように靴を脱ぐ場合が多い。また、ハンターは、風上に立たないように努める。風に乗って匂いを嗅がれて、逃げられてしまうのを恐れるからである。イノシシは、嗅覚と聴覚に優れていることを経験によって知っている。

このように、プナンは、狩猟の場面において、触覚(および味覚)以外の感覚を駆使して、動物をしとめる。逆に言えば、プナンにとって、人と動物の間には、身体と身体のぶつかり合いを介した、触覚による駆け引きが欠けている。人と動物の間の身体と身体との駆け引きの欠如は、人と動物の間の身体的な非連続性を示している。そのことは、狩猟の場面だけでなく、生活の他の諸側面においても観察される。

プナンは、唯一の飼育動物である猟犬には名を付けるが、彼らはそれを愛玩動物としては捉えていない。イヌは、なでたり、触れたりするような対象ではない。また、今日、プナンは、近隣の焼畑稲作民からニワトリを手に入れて、飼い育てることがある。ニワトリは、子どもが、興味関心から飼育することが多い。卵を産ませるためか、育てて食べるためかと尋ねると、そうではないという(鶏肉も鶏卵も食べない)。彼らは、ニワトリをただ飼うために飼っているのである。プナンは、ほとんど、ニワトリに直接触れようとはしない。彼らは、一般に、飼う(kolon)ことよりも、野生性(ジャングルにいること)(ton vak)に、高い価値を置いている。

他方、プナンは、人だけでなく、動物の大部分が、人間と同じように、魂/意識(berewen)を有していると考えている。プナンは、人が捕えようとしたときに逃げるものには、魂/意識があるという。プナンの神話では、かつて、人と、動物を含む人間以外の存在が、同様に、魂/意識を有する存在であったのだが、その後、人以外の動物たちが、そうした人間性を脱落させて、今日のようになったさまが語られる。

このように、プナンでは、人と、動物を含む人間以外の存在との間の距離は、理念上はきわめて近い。いいかえれば、人と動物には、内面的な連続性がある。人と動物は、考え、思い、行動するという意味で、同等の存在である。(それがゆえに)人と動物は、日常の場面では相互に遠ざけなければならないとされる。

動物をあざ笑ったり、さいなんだりした場合には、その動物の魂/意識は、天上の雷神のところへと駆け上がるという。雷神は、人のふるまいに怒って、雷鳴をとどろかせ、落雷によって人を石にしたり、大水を引き起こしたりして、人びとに災いをもたらすとされる。そのため、プナンは、動物を手荒に扱ってはならないし、動物の醜さをあざ笑ったり、真似たりしてもならないという。そのようにして、人と動物の間の身体と身体との接触が、極力回避されることになる。プナンが、狩猟などの実践の場面で、人の身体と動物の身体との間に、どのように、非連続的な関係を築いているのかを記述してみたい。そのことによって、プナンにおける人と動物の駆け引きの実相を描き出したい。



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アレホ・カルペンティエル『この世の王国』木村榮一+平田渡訳、水声社(2010-39) ★★★★★

この本は、バルガス・リョサの『嘘から出たまこと』(文学論)のなかで、紹介されていた。特に、ブードゥーの動物への変身の話に興味を抱いたので、読んでみた。史実を丹念に追いながら、マジック・リアリスティックな仕掛けのさえる擬似幻想小説である。ハイチ奴隷のティ・ノエルの視点から、暴動と弾圧、反乱と殺戮が行われるハイチの「驚異的な現実」が綴られる。

ルノルマン・ド・メジーの農場の黒人奴隷で、不慮の事故で片腕を無くしたマッカンダルが農場を脱走する。
彼は、動物に身を変えてさまよい続ける。

緑のイグアナ、夜行性の蛾、見たことのない犬、とんでもない場所にいるペリカン、これらはあの片腕の男が変身した姿にほかならなかった。双蹄動物、鳥、魚、あるいは昆虫に変身する能力を授けられたマッカンダルは、姿を変えて平原に点在する農場を訪れ、信者の動きに目を光らせ、彼らがまだ自分の帰還を信じているかどうか確かめていたのだ。片腕の男は動物の外皮をまとってさまざまに変身しながら、いたるところに出没した。ある時は羽、あるときは鰓をつけて、風邪のように疾駆するかと思うと、のろのろと這い進んで地下の水脈や川べりの洞窟、木の梢といったところを思いのままに動き回った。こうして彼は島全体を支配下に収めた。その能力をもってすれば、何ひとつできないことはなかった。冷たい天水桶に漬かって一息入れたり、金合歓の木の細い枝に止まったり、鍵穴から家にもぐりこんだり、あるいは雌馬とつるむこともなんなくやってのけた。好きに姿を変えられるので、犬に吠え立てられることもなかった。彼のはらませた黒人女が男の子を産み落としたことがあったが、その赤児は猪のような顔をしていた・・・・

なんて、ぞくぞくするような変身譚なんだ。マッカンダルは、白人の毒殺をたくらむが、その後捕えられて、磔に処せられ、その後反乱が起きる。

反乱軍は、ジャマイカ人のブ
ックマンによって指揮される。他方で、植民者側の白人・ルクレルク将軍の妻ポーリーヌ・ボナパルトの熱帯での夢のような暮らしが綴られるが、その夢は破られる。ティ・ノエルは年老いて、奴隷農場に戻る。そこでは、黒人が黒人を鞭打っている。そこは、フランスを真似た黒人の王アンリ・クリストフの宮殿だったのだ。ティ・ノエルも、城砦の建設作業に従事させられる。ティ・ノエルは、「わしのような老人まで駆り出されて、むりやり働かされることになるかもしれんと考えて不安にな」り、「この世の王国」のありように嫌気がさし、その時ふと、マッカンダルのことを思い出す。

そうだ、なまじ人間の皮などかぶっているから、こんな災難に見舞われるのだ。思い切ってこの皮を脱ぎ捨て、もっと人目につかない姿に変身して、平原で起こる出来事を見届ければいいのだ、と考えた。すでにその能力が備わっていたのか、決心したとたんに動物に変身できたので、ティ・ノエルはあまりのあっけなさにびっくりした。試しに気によじ登り、鳥になりたいと思うと、その通りになった。カイニットの木の紫色の実をついばみながら、高い枝の上から測量師たちの様子をうかがった。つぎの日、種馬になりたいと考えた、。するとたちまち種馬になった・・・

ティ・ノエルは、そのようにして、動物に変身しながら、さまよい続けようになる。その末に以下のように呟く。

天上の王国には、征服して手に入れるべき偉大なものが欠けている。というのも、そこでは、きちんと位階が定められ、未知のものが明らかにされ、永生が約束され、犠牲的精神など考えられず、広く安らぎと愉楽が支配しているからである。さまざまな悲しみと義務に苦しめられ、貧困にあえぎながらも気高さを保ち、逆境にあっても人を愛することのできる人間だけが、このようの王国においてこのうえなく偉大なものを、至高のものを見出すことができる。

そして、ティ・ノエルは、禿鷲のまま、鬱蒼たるカイマンの森の奥深くに姿を消したのである。

圧倒的な文学的想像力の世界だ。



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