イヌ科、ネコ科、クマ科などの食肉獣は、他の動物を襲ってその肉を食べる。食肉類の捕食行動は、探索、接近あるいは追跡と、その後の捕獲に分けられる。捕獲のさいには、獲物を手で捕まえ、動けなくし、殺すことが含まれる。ネコ科、イタチ科の何種かでは、喉への渾身の一咬みによって獲物を殺害する。捕食者はそれを食べ、あるいは持ち帰る。後に消費するために密かに隠すこともある。食肉類の狩猟には、身体と身体の直接接触を伴う駆け引きという面が際立っている。
他方で、ヒトの狩猟は、道具を介して行われることが多い。マレーシア・ボルネオ島の狩猟民・プナン(Penan)が、狩猟対象の動物をしとめるのは、もっぱら、道具を介してである。プナンの猟は、吹き矢猟、猟犬を用いた猟(ふつう、槍で止めを刺す)、ライフル銃による猟、わな猟に分類することができる。動物との直接的な接触による狩猟はない。プナンは、吹き矢を用いて毒矢を飛ばし、樹上のサル類をしとめる。矢毒には、植物毒とカエルなどの毒が用いられる。空に舞っているトリが、樹木の枝に降りてきたところを、吹き矢でしとめることもできる。矢毒は、すぐには効かない。毒矢を受けたトリは、空を飛んでいく。プナンは、そのトリが絶命する地点まで追いかけてゆく。1960年代に導入されたライフル銃による狩猟が重宝されるのは、この点においてである。銃弾が中れば、トリは即死して追跡する手間が省けるからだ。
プナンが獲物に接近するときには、通常、視覚と聴覚に頼る。それに対して、プナンによれば、動物は音に敏感で、身の危険を察知し、匂いで人がいるのを知るという。種によって反応に違いがあることを、ハンターたちはよく知っている。イノシシは、匂いと音に敏感であるが、目があまりよく見えないという。ジャングルのなかのイノシシ狩りに行くとき、ハンターは、音を立てないように靴を脱ぐ場合が多い。また、ハンターは、風上に立たないように努める。風に乗って匂いを嗅がれて、逃げられてしまうのを恐れるからである。イノシシは、嗅覚と聴覚に優れていることを経験によって知っている。
このように、プナンは、狩猟の場面において、触覚(および味覚)以外の感覚を駆使して、動物をしとめる。逆に言えば、プナンにとって、人と動物の間には、身体と身体のぶつかり合いを介した、触覚による駆け引きが欠けている。人と動物の間の身体と身体との駆け引きの欠如は、人と動物の間の身体的な非連続性を示している。そのことは、狩猟の場面だけでなく、生活の他の諸側面においても観察される。
プナンは、唯一の飼育動物である猟犬には名を付けるが、彼らはそれを愛玩動物としては捉えていない。イヌは、なでたり、触れたりするような対象ではない。また、今日、プナンは、近隣の焼畑稲作民からニワトリを手に入れて、飼い育てることがある。ニワトリは、子どもが、興味関心から飼育することが多い。卵を産ませるためか、育てて食べるためかと尋ねると、そうではないという(鶏肉も鶏卵も食べない)。彼らは、ニワトリをただ飼うために飼っているのである。プナンは、ほとんど、ニワトリに直接触れようとはしない。彼らは、一般に、飼う(kolon)ことよりも、野生性(ジャングルにいること)(ton vak)に、高い価値を置いている。
他方、プナンは、人だけでなく、動物の大部分が、人間と同じように、魂/意識(berewen)を有していると考えている。プナンは、人が捕えようとしたときに逃げるものには、魂/意識があるという。プナンの神話では、かつて、人と、動物を含む人間以外の存在が、同様に、魂/意識を有する存在であったのだが、その後、人以外の動物たちが、そうした人間性を脱落させて、今日のようになったさまが語られる。
このように、プナンでは、人と、動物を含む人間以外の存在との間の距離は、理念上はきわめて近い。いいかえれば、人と動物には、内面的な連続性がある。人と動物は、考え、思い、行動するという意味で、同等の存在である。(それがゆえに)人と動物は、日常の場面では相互に遠ざけなければならないとされる。
動物をあざ笑ったり、さいなんだりした場合には、その動物の魂/意識は、天上の雷神のところへと駆け上がるという。雷神は、人のふるまいに怒って、雷鳴をとどろかせ、落雷によって人を石にしたり、大水を引き起こしたりして、人びとに災いをもたらすとされる。そのため、プナンは、動物を手荒に扱ってはならないし、動物の醜さをあざ笑ったり、真似たりしてもならないという。そのようにして、人と動物の間の身体と身体との接触が、極力回避されることになる。プナンが、狩猟などの実践の場面で、人の身体と動物の身体との間に、どのように、非連続的な関係を築いているのかを記述してみたい。そのことによって、プナンにおける人と動物の駆け引きの実相を描き出したい。