たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

【新研究会】マルチスピーシーズ人類学研究会【発表者随時募集中】

2016年05月23日 23時41分03秒 | 自然と社会

(元の木に巻きついて枯らしてしまい、自らはそのおかげですくすくと巨樹にまで生長した絞め殺しのイチジクの高木)

いまからもう5,6年前、2008年12月から翌11月まで、短期間でしたが、有志で、「自然と社会」研究会を開いていました。

いわゆる存在論の人類学のペーパーを日本語に訳しながら、読んでいました。
宿題が多くしんどかったけど、ワクワクしながらやっていたことを覚えています。
そういうと、その流れで,熊本で、「自然と文化のインターフェイス」と題するフィールドリサーチ・セミナーもやりました。

その後、自然と文化、人と動物、動物殺し、人間的なるものを超えた人類学などを経て、マルチスピーシーズ(複数種)の人類学にたどりつきました。

このたび、2016年5月吉日、研究会第二弾として、マルチスピーシーズ人類学研究会を有志で立ち上げました。

6月から順次研究会を開いていきます。

人間のことだけで人間を語る人類学ではなく、人間を超えた種と人間について語る人類学をやっている方、やってみたいと思っている方の参加・発表を謹んでお待ちしております。

研究会幹事より


『森は考える』をふたたび考える

2016年05月22日 12時34分17秒 | 自然と社会

(ボルネオ島の森)

『現代思想』の対談における春日直樹による『森は考える』のまとめは、当を得ている。

コーンはVdCの影響を受けつつ、その言語中心主義を批判して、森や山の環境で間を含んだ有機体たちがシンボルでなくアイコンやインデックスの水準でいかに複合的に意味のネットワークを形成しているのかを分析しています。それぞれが自己であり視点の持ち手であって、互いをそう認め合うことで人間を超えた森の水準で思考をみいだすことができるというわけです(『現代思想』3月臨時増刊、2016年、168頁)。

そう、『森は考える』の中で、人類学者エドゥアルド・コーンが徹底的にこだわったのは、人間の持つ「言語の牢獄」に他ならない。私たち人間は、象徴と一体化した言語によって思考し、世界を組み立てることに雁字搦めに縛られてしまっている。

私たちは言語を地域化する必要がある。…私たちはまず、全ての表象は人間的な何かであり、ゆえにあらゆる表象には言語のような特性があると見なすことによって、このとりわけ人間的な傾向を普遍化している。特殊なものとして限定されるべきものが、代わりに私たちが表象について抱く想定の岩盤となってしまっている(『森は考える』72頁)。

人間の言語の中に最も明瞭に表れるのが「象徴」である。言語は、規約的で恣意的な他の同様の象徴の体系の中に埋め込まれている。それは、今日の社会理論では、ソシュール言語学によって、概念化されている。しかし、それは、「あまりに人間的な」枠組みであるがゆえに、人間―動物関係などの「人間なるものを超えた」領域にあてはめることはできない。何が問題なのかと言うと、ソシュールの図式では、人間の精神と残りの世界の間にくっきりと境界線が引かれ、区分けがされているということである。

この二元論を克服するもっとも生産的な方法は、・・・・私たちが表象であるはずだと受け取るものとはいったい何であるのかを根本的に考え直してみることである。このためにまず求められるのは、言語を地域化することである。ヴィヴェイロス・デ・カストロの言葉では、「思考を脱植民地化する」ことが、私たちに伴うのが求められる。考えることは必ずしも、言語や象徴的なるもの、人間的なるものによって囲まれていないことを理解するためにも、そうしなければならない(76頁)。

現在において未来を表象することによって未来のために事をなすのは、私たち人間だけではない。・・・・それゆえに、人間的なるものを超えて広がる、生ある世界の中に、行為主体性があるというのが適切である(77頁)。

コーンは私たちの「言語の牢獄」を乗り越えて、「思考の脱植民地化」を目指す。

要点は、私たちは関係性について考えるあらゆる特定のやり方によって植民地化されているということにある。私たちはもっぱら、人間の言語を構造化する連合の形式を通じて、諸々の自己と諸々の思考が連合を形成する仕方を想像しているだけである。そのために、たいてい意識されることなく、このような仮説は間に投影される。そのことに気づかずに、私たちは自らの特性を間に与え、またそのことをこじらせるかのように、間に対して、自らの矯正された鏡像をさし出すことを、自己陶酔するように求めるのである(42-3頁)。

私たち人間は、人間が当たり前のように使用している言語を、人間以外の領域にも知らず知らずのうちに当てはめてしまっている。そこに、問題があると、コーンは見る。つづけて、彼は、この点をひっくり返そうとする。「森は考えるのに良い素材である。なぜなら、森はそれ自体で思考するからである。森は考える」(43頁)と。さらに、「私たちが人間的なるものを超えて考えることができるのは、思考が人間的なるものを超えて広がるからである」(43頁)とも述べる。「それゆえ、本書を通して、私たち人間を例外的なものにするものに対してのみ・・・向ける注意の結果から生じている積み重なった過剰な概念上の荷物から、私たちの思考を解き放つことへと歩みを進めよう」(43-4頁)。

具体的には、どのようにして、この枠組みにおいて、私たちの思考を解き放つのだろうか? コーンは、ソシュール的な言語学の軛から自由になり、C.S.パースの記号論とともに、歩みを進めていく。そしてそのことは、森の中のすべての有機体を「記号論的自己(セミオティック・セルフ)」であると捉えることに密接に結びついている。

全ての生命は記号論的であるのだけれども、その記号論的な特性は、類を見ないほど多種多様な自己がひしめく熱帯雨林において増幅し、より明確になる。森が考える方法に注意を向ける方法を私が見出そうとするのはこのためである。熱帯林は、生命が考える筋道を増幅し、さらに、その筋道をよりはっきりと私たちに示してくれる(138頁)。

彼は、エクアドル東部のアヴィラの森の内部とその周りに広がる生ある思考が織りなす編み目を「諸自己の生態学(エコロジー・オブ・セルヴズ)」と名づけて、人間や動物などのあらゆる有機体だけでなく、死者や祖先までもその中に含めて、森がいかに思考するのかを描きだそうとする。

コーンが具体的に取り上げるのが、ハキリアリである。それは、年に一度、他のコロニーからやってきたアリと交尾させるため、数分間にわたり、それぞれのコロニーが同時に、 数百の丸まると太った、羽つきの女王アリを 早朝の空に解き放つ。アリは、脂肪を有り余るほど貯えていて、人間だけでなく、他の生きものにとってごちそうになる。熱帯では、季節変化に乏しく、春の一斉開花もないために、森の中の有機体の相互作用の他には、アリが飛ぶ時期をあらかじめ知らせてくれる合図はない。人々によれば、ハキリアリは雷鳴と稲妻、川の氾濫を伴う豪雨の期間の後の穏やかな時期に現れる。この時期をもって、八月あたりに起こる相対的により乾燥した時期は終わる。人々は、アリの出現を果物の実り具合、昆虫の増加、動物の活動の変化に関わる様々な生態学的な兆しと結びつけて予測する。様々な指標が「アリの季節」の接近を告げると、人々は夜通し、兆しを探しに出かける。残骸でできた入り口を片づける護衛アリがいたり、無気力なアリを2、3匹見かけたりすることなどが、その兆候である。

アリが飛び立つタイミングに関心を向けるのは、人間だけではない。カエル、ヘビ、小型のネコ科動物といった他の生きものが、アリやアリに誘われてきた他の動物に引きつけられる。それらの生きものは、おしなべて、「兆し」を求めてアリを監視し、また、アリを監視している動物に対して目を配る。アリがまさしく飛び立とうとする時間は、アリが捕食者に気づかれるか気づかれないかということに対する反応である。アリが巣穴にいるときには、攻撃的なコロニーの護衛アリが彼らをヘビ、カエル、その他の捕食者から守っている。しかし、アリが夜明け前に一旦巣から飛び立てば、護衛アリはそばにはいない。アリは、果実食のコウモリの餌食となることがある。コウモリは、飛行中のアリに襲いかかって、脂肪が詰めこまれて膨れた腹部を噛みちぎってしまう。

アリがコウモリが世界をいかに見るのかを認知しているかが、その生命のゆくえに影響を与える。この夜明け前の時間帯には、コウモリが活動できる時間はあと2、30分程度になる。午前6時ころにトリが出てくる頃には、メスのなかには交尾をすませて、新しいコロニーを築くために地面に降りている個体もある。

アリが飛行する正確なタイミングは、記号論的に構造化された生態学の帰結である。アリは、夜行性と昼行性の捕食者からもっとも見つかりにくい時間帯である夜明け――夜と昼のはざまの不明瞭な域――に姿を見せる(142頁)。

アリが巣穴から飛び立つ、一年間のうちの数分の間にそれらを捕まえるため、人々はアリの生活を形づくる記号論的ネットワークの論理のなかに入り込む。ハキリアリは光に魅かれて、その光源に誘引されるため、護衛アリが脅威とみなすことのないよう、灯した灯油ランプ数台とのろうそく数本や懐中電灯などが、十分に離れたところに設置される。アリの多くは光に魅かれて、空を飛ぶのではなく、人間に向かってくる。人は、松明でその羽を焦がし、覆いがしてある鍋にアリを入れることになる。

ハキリアリは、ほかならぬその存在を形づくる、諸自己の生態学の中に入り込んでいる。夜明け直前に巣から出てくるという事実は、おもにそれらを食べる捕食者による解釈の傾向からもたらされている。アヴィラの人々もまた、アリとそれに連なる多くの生きもののあいだの意思疎通の世界を利用しようとする。そのような戦略には、実用的な効果がある。それに基づくことによって、大量のアリを収穫することができるようになる(143頁)。

意図をもって、意思疎通する自己としてアリを扱うことで、人々は、アリと森にすむ他の諸存在とをつなぐ様々な関係性を理解する。そうした理解は、一年のうちで、アリが飛び立つ短期間を予測するには十分である。人々はアリと意思疎通をして、それらを死へと送り込むからである。人間は、そのようにして、森の思考の論理に入り込む。このことが可能なのは、人間の思考が、森の思考というべきものに類似しているからである。コーンによれば、それこそが、密で、繁栄する、諸自己の生態学なのである。

なにゆえに、アリも、アリを捕まえようとする生きものたちもみな思考するのだろうか? 人間は、アリが飛び立とうとしていた夜に、雨が降ったら巣から出てこないので、煙草の煙を巣穴に向かって吹きかけた。人間は、そのように、規約的、恣意的な象徴の体系を用いて、さらには言語を用いて、対象を操作する。しかし、人間もまた、人間以外の生きものと同じように、気象学や生態学の関係の編み目を利用、すなわち、言語以前の「読み」を利用する。その「読み」こそが、人間と間の両方によって共有されているのである。すなわち、人間も間もともに、記号過程の中にいるのだと言える。すなわち、イコン(類像記号)、インデックス(指標記号)が作用するプロセスの中に、私たち人間・間は滑り込んでいるのだ。

ウーリーモンキーは、雷が落ちるような倒壊音を聞いた時、イコン的に、つまり過去にあった同様の倒壊との類似から、倒壊の経験を呼び起こすように思われる。それは、何か危険なこと―枝が折れることであるとか、あるいは捕食者が接近すること―が、その倒壊音の後に起こるのではないかといった解釈に他ならない。サルは、イコンによって、こうした過去の危険を、目の前の現象に結びつける。しかしいまや、この連合は、たんなる類似以上の何かになっている。さらに、その結び付けは、サルに対して、倒壊がそれ以外の何かに結びつけられるにちがいないと「推測する」ように駆り立てる。風向計が、インデックスとしてそれ以外のこと、すなわち風が吹いている方向を指差していると解釈されるのと同じく、この大きな騒音は騒音以上の何かを示していると解釈される。それは危険な何かを指差することになる。

それゆえ、インデックス性はイコン性以上のものを含んでいる。しかしそれはイコン同士の一組の複合的な階層をなす連合の結果として創発する。イコンとインデックスの論理的な関係は一方向的である。インデックスは、イコン同士の特別な階層的関係から生じたものであるが、その逆ではない。倒壊する木に対するサルの洞察のうちに含まれるものなど、インデックス的な指示は三つのイコンのあいだの特別な関係がつくるより高位に位置するものである。倒壊が別の倒壊を思い出させる。こうした倒壊に連合する危険が別の連合を思い出させる。そして同じように、こうした連合が今起きている倒壊に連合される。イコンのこの特定の配列のために今起きている倒壊が直ちに存在するのではない何かを指差することになる。つまり、「危険」である。このようにインデックスは、イコンによる連合から創発する。こうしたイコンのあいだの特別な関係性は、独自な特性のある指示の形式となる。その特性は、インデックスが連続しているイコンによる連合の論理と共有されるものではないが、イコンによる連合に由来する。インデックスは情報を与える。それは直ちに存在するのではない何かについて新たな何かを伝える(96頁)。

この部分は、少し難解かもしれない。イコンからインデックスがいかに創発するのかが述べられている。ここでは、イコン、インデックスという記号過程は、人間以外の存在だけでなく、私たち人間もまた、そのプロセスに深く参与している。つまり、生きとし生けるものはすべて記号論的自己なのである、ということを理解すれば十分であろう。

そのような記号論的自己が生みだす複合的な意味のネットワークこそが、森に他ならない。かくして、森は考える。「森が考えていると私たちが主張できるという事実は、ある奇妙な仕方で森が考えるという事実から生まれている」(43頁)。

私たちが人間的なるものを超えて考えることができるのは、思考が人間的なるものを超えて広がるからである(43頁)。

コーンは、象徴以前の、あるいは言語以前の森の思考のあり方を、言語を通じて明らかにした。人間を超えた領域を、人間に引き寄せながらなんとか説明しようとしたと言ってもいい。厳密な人間言語を用いて、ヒューマニズムを乗り越えようとしたのである。奇妙なことに、いや、逆に、当然のことかもしれないが、森の思考は、幸田文(倖田來未ではない、念のため)が『木』というエッセイの中で書いていくことに近似している。

人にそれぞれの履歴書があるように、木にもそれがある。木はめいめい、そのからだにしるして、履歴をみせている。年齢はいくつか。順調に、うれいなく今日まできたのか。それとも苦労をしのいできたのか。幸福なら、幸福であり得たわけがある筈だし、苦労があったのなら、何歳のとき、何度の、どんな種類の障害に逢ったのか、そういうことはみな木自身のからだに書かれているし、また、その木の周辺の事物が裏書きしている――と同行の森林の人は教えてくれた(幸田文『木』43頁、新潮文庫)。

樹木もまた、森の記号論的な生命のネットワークの中で思考するのである。


「天蓋歩行」を読む

2016年05月21日 12時47分04秒 | 文学作品

(東マレーシア・ボルネオ島の熱帯雨林の巨大樹たち)

他に類を見ない圧倒的な読後感を持つ、のけ反るような精緻な文学を読んだ。谷崎由依「天蓋歩行」『すばる』2016年5月号(片山杜秀による朝日新聞・文芸時評の記事)。その文学的な美質はとても纏め切れないが、以下、私的な覚書として。

表象の中に自然のあり方を扱っているという意味では、ノンフィクションではないが、ネーチャーライティング。人間と木や花粉の生命活動を言語を超えて捉え、その転生を語るという点では、ある意味、マルチスピーシーズ人類学。それは、我々が訳したコーンの『森は考える』の似姿をした小説である(島田雅彦による朝日新聞の書評記事)。

マレー半島の熱帯雨林からクアラ・ルンプールとおぼしき現代のメトロポリタンを、記憶と感情を区別せずに生きたり死んだりして、時空間に出没する「巨大樹」が主人公。

この都会を構成するものは、すべてかつては森だった。
そしてこの私は、木であった。

泥の川のあわさるところ。
それがこの都市の名前であった。
都市がいまだ都市でなく、二つの川の合流点にある集落にすぎなかったころ、私は森の一部だった。
私は巨大樹と呼ばれていた。私は森そのものだった。

種子として着床する地面を求めて宙を飛んだころの記憶はないが、幼木のころ大木たちが枝葉を見上げるのをただ見ていた。ただひたすら待って、半島を襲った台風のせいで、老いた巨木が倒れひかりが訪れ、細胞という細胞がいたるところで分裂し、光と水を吸い込んで成長していった。

菌類は樹木の神経であり、真菌は糸のかたちをして、地下を複雑にめぐりながら、広大な森の端から端まで繋がっていた。その網の目を通して、蝶の群れが大陸から訪れることを知った。双羽柿がそれを察知し、羽の動きが糸を伝わって根の先を刺激した。報せは信号として伝わった。

木は森でもあり、都会でもある。町の中央の大通りが幹であれば、両側から生えて伸び、その先で幾つにも分岐する道は枝そのものだった。そして、半島では多くの街の名が、木の名にちなんでつけられていた。私たちはかつて木であり、同時に街でもある。

過去のなかで、記憶のなかで、あるいはべつの前生のなかでーー私にとってはどれもおなじことだ。記憶と感情を区別しない私は、過去と前生も区別しない。

女と出会ったのは数年前、あるいは百年の昔。「私はかつて森を狩猟に生きた者であり、その以前には虎であったが、それは束の間だけのことで、そのさらに以前には、長いあいだ木であった」と告げると、女は眦をあげ、あり得ない、と言った。海に囲まれ森林に住まう者たちの国では、命の成り立ちが違うのだ。

私が大陸から来た者である女主人の部屋に呼ばれたのは、彼らにとって不吉な白蝙蝠に餌をやるためであった。白蝙蝠が私のことだけを警戒しないのは、自分たちの仲間がはるか昔、木であったころの私の腕にとまったことを知っているからだ。女は言う。

早朝に目が覚めて、彼方を見遣れば猛るほどにもうつくしい森が、切り出したばかりの貴石のように赤くまばゆく輝いて、一日が、手つかずのままそっくり私に与えられている。すべて、何でもどうにでもできるようにそこにあるのに、昼になっても午後をまわっても、夕べになっても何もできない。ほんとうは何ひとつ私のものではないと知らされる。手のなかで、あんなにも生き生きと鮮やかだった朝は死に、榕樹の林で鳥たちはもはや歌わずに、私は与えられたはずのものが、手のなかでみすみす腐っていくのを日々目にしなければならない。

女は、大都会のかたわらのささやかな森に行くことを好んだ。龍脳樹の葉には消毒作用があり、他の生物の活動を抑制する。がらくたをひっくり返したように散らかっているはずの林床が、その木々の下だけは静まりかえっているのだった。「憐れんだら、負けなのよ。憐れんだほうは憐れまれたほうに、何もかも持っていかれてしまうわ」という女の言葉は、幼木だったころとはべつの、長大な長屋にいた幼年期を思い出させた。

木陰に潜み、大きな口をあけ、虫たちの好むにおいを発しては誘い寄せて虜にする、あの虫喰らいの植物ーー靭葛の膨れた胴体を、村では袋のように扱った。内側に米を詰め、竹筒のなかで炊くことさえもしたーーその靭葛の風船玉のように、自在に膨らませては萎ませることのできるもの。それは前の晩に見た夢だった。

私は靭葛を裏返して内側を覗いたりすると、夢のなかにまた夢があった。そこでは過去が現在を夢見ていた。過去の内側に潜ってゆけば、その果てには現在が、あるいは未来があった。そして、

彼女が私へ入ってくる。私は私の樹冠のなかへ、その身体を受け入れる。地上をはるかに見おろす天蓋を、彼女はゆっくりと歩いてくる。重さのないような足取りで、うっそうとした葉叢を掻き分けて。

やがて中心へと辿りつく。そこは空洞で、私はいない。私は私の樹冠そのもので、輝きながら広がってゆく。彼女のまわりをまわっている。

彼女の正体は、天蓋を歩行する重さのない無数の花粉に包まれたものだった。それが私のなかに入ってくるのだ。

無数の白い花々が私から迸り生まれ出る。ひらき、蜜をあらわにし、蕊は濡れて粉とまじわる。私の器官は膨れ、花心はふくよかとなって鳥たちの歓声を誘う。百年に一度の一斉開花。花は花を呼び、実は実を呼んで、巨大樹と巨大樹は共鳴しあい、葉擦れの音さえも唱和してゆく。地の下を通る菌類のおずおずとしたやり取りでなく、宙空という過分な広がりのなかを渡ってゆく。声。樹木たちの声。

森のなかの交歓のエロティシズム。

ある種の植物はある種の蜂と共犯関係を結ぶ。片方が進化したならば、もう一方もそれに合わせて変わる。蜂の口吻が長く伸びれば、花は蜜を奥深くに隠す。その蜂にしか届かないように。蜂が絶えれば花は絶え、花が絶えれば蜂も絶える。

数万の種が入り乱れる熱帯の相において、はるか遠くに離れた種族へと花粉を届ける手段だった。おなじ形状のべつの花に、おなじ虫をとまらせるための。なまじな恋愛などより恋愛的に見える間柄に、かつて憧れたものだった。巨大樹はへいぜいから茸たちと結びあっていたけれど、森そのものより長い寿命を持つ菌類が絶えることはなく、その関係は共犯というより単に一体だった。

そして、絞殺しの無花果が描かれる。

蔓性の植物のなかには巨大樹の枝で発芽して、長い気根を大地へと差し込み燐の成分を盗むものもいる。樹冠へかぶさるように枝葉を広げて太陽のひかりを奪う。やがて巨大樹を死に至らせて、代わりにその場に立ち尽くすのだ。

あるとき、女は私に、自分の名前を教えるといった。私は即座にそれを制した。言葉以上の名前を教えることは、契約を意味していたからである。しかし、虚を突かれるかたちで、名は告げられる。耳に名前が入り込んでしまったのである。お返しに、私自身の名を告げようとするが、「私をあらわすその名前を私のなかに探した。けれども見つからなかった。私というものはいなかった。言葉において、私は、ただの空白にすぎなかった」。

しかし、名前の魔力が作用し続けており、やがて、女主人の部屋に押し入って乱暴を働いたとして、屈強な男たちによって私は追い出されてしまう。私は船に乗り、やがて私は、陸地にたどり着く。そこで、老貴婦人の世話をするように誘われる。

老貴婦人はその巨大な穴から体液を染み出させている。どうしようもなく湧き出してきて困っているのさ。それを汲み取ってさしあげる。楽にしてさしあげるのだ。

偉大なる老貴婦人とは油田であった。移民労働者たちは、掘り起こした穴を貴婦人と呼んだ。しかし、私にしてみれば、その大地は私の身体にほかならなかった。

じくじくと、皮膚の下から染み出してくる漿液。私の身体が百万年の永い時間をかけて変成したもの。それは私の体液であり、私の懐かしい肢体だった。掘削機を使いながら、あるいは鶴嘴を使いながら、あるいは鶴嘴を振るいながら、土地を掘り、また土地を掘り、灰色の地脈にじわじわと分泌する駅に出会うとき、私は私の硬い皮膚の下に流れるものに気づくのである

魂は休むことなく次々かたちをかえていった。私は、犬となり、鶲であるように感じ、やがて、人間のかたちを回復した。藍色のベールを頬までかぶった女は、私を愛していないなどといいながら、抱きにくるのをやめなかった。「彼女との交わりは、自分の内側を読んでいくような行為だった」。

私は、ひとである必要はなかった。ひとである女と交わりながら、このうえもなく、木であった。

一粒の種子が、私へ芽吹いた。そのことに気づくのと、女が動かなくなるのと、同時だった。

私に着床した一粒の種子は双葉となり、長い気根が地面へ向けてまっすぐに伸びていた。地中の林の成分を吸い上げた。樹冠に咲き乱れる花の香を嗅ぎながら、私は眠っていた。私にぴったりと肌を押しつけた腕は、次第に太く、頑丈に、私を締めつけるようになった。締め殺しの無花果。

房状に生った無花果の実は、じきに艶やかな赤となるだろう。一斉開花の年以外にもつねに実をつける無花果の蔓。生きものたちにとって僥倖である木の、私はこのとき、宿ぬしだった。動物たちが食事を終えれば、家の役目を果たした私を、蔓植物の胴体がいよいよ殺しにかかるだろう。

迫りくる、締め殺しの無花果。しかし、なんのことはない。森の生命現象は、つねに既にそのようなものなのだから。

私を殺し、乗っ取って、無花果は命を振りまく。彼もまたいつか森に喰われる。それは淘汰で成り立っている。記憶も感情も意識さえもが砕かれて、この世界の一部となっていく。

私というものは、やがて消える。一本の朽ちかけた木が、そこに立っている。


ウェブマガジン・連載「熱帯のニーチェ」始まる

2016年05月17日 08時23分42秒 | エスノグラフィー

熱帯の、私たちのとは違うもう一つの生の可能性。

西洋の伝統的な精神の価値転倒の先駆者であり天才であり、病気と狂気を患った怪しいおじさんの閃きであり呻きでもあるような箴言。

プナンはなんかニーチェのようだ。 

俊傑編集者Nさんに、その直観を与えられたのが、いまからもう8年も前のこと。→ブログ記事「熱帯のニーチェ」

ウェブ上の連載「熱帯のニーチェ」を始めました。