たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

ボヴァリー夫人その他

2013年03月28日 16時26分33秒 | 文学作品

若き日のバルガス・リョサ。留学のためにパリに降り立って、ギュスターヴ・フローベールの『ボヴァリー夫人』を買い求めた。『ボヴァリー夫人』は彼に大きな影響を与え、後の作家人生の歩みを決定づけたという。長い間ずっと読みたいと思っていながら、なかなか読む機会がなかったが、3月の旅行中に読んでみた。田舎の医師となったシャルル・ボヴァリーの短く終わった最初の結婚生活とその後、シャルルがエマ(後のボヴァリー夫人)を見染めるくだりから話は始まる。その後、一転して、ボヴァリー夫人のシャルルとの退屈な結婚生活と、彼女の恋愛への熱情から二人の男と関係を持ち、そのうち、虚栄心から借金にまみれ、ついには、服毒自殺するに至るまでの内面性、そうした自己破滅の経緯を描いている。さらには、ボヴァリー夫人の死後、夫シャルルによる夫人の恋愛遍歴の真実の発見と彼の死が、一貫して厳正に描写されている。このフランス文学、すごい。私がこれまでに読んだなかで、確実に5本の指のなかに入る文学作品であろう。さて、『ボヴァリー夫人』に劣らないのが、井伏鱒二の『黒い雨』である。重松とシゲの夫婦、姪の矢須子。広島に原爆が落とされて、矢須子が原爆病だという噂が流れて縁談話がうまく行かない。彼女が被爆していないことを結婚の仲介者に知ってもらうために、重松は被爆日記を綴ることを思いつく。任務を帯びて広島市へと通う重松の見た光景はこの世の地獄だ。重松の思惑に反して、矢須子は原爆病を発症し、その症状はしだいに悪化する。彼女がその後どうなったのかを明らかにせずに、玉音放送のところで話は終わる。ピカドンは一瞬にして広島市民を死に追いやり、生き残った人の人生をゆがめてしまった。井伏は、やりきれない、救いようのない悲劇を描きだしている。2~3月は、旅行中に、飛行機のなかで、ホテルで、本を読んだ。それらのあらすじと感想。レベッカ・ブラウンの『体の贈り物』は、エイズで死に逝く者たちのケアをする女性の目から見た、現代医療を背景とした、生と死の物語。高橋源一郎の『虹の彼方へ』。なんかよく分からないのだけれども、重厚なる雰囲気があって、炸裂している。車谷長吉の『贋世捨人』。慶応卒のエリートが広告代理店に勤めるが、反近代を貫くために、ニューヨーク転勤の話を断り、しだいに職を転々として、下足番や料理屋の追い回しをしながらも、職業作家という贋世捨人(にせよすてびと)として生きる道を歩むようになるまで経緯を、独特の文章で描いている。古川日出男の『ベルカ、吠えないのか』は、想像力に富んだ、秀作だと思う。第二次世界大戦後にキスカ島に捨てられた軍用犬の視点から描かれた20世紀の歴史の物語。犬たちは、イデオロギーも国境をも、やすやすと越えて、人間である主人のもとで生き、次の世代を生みおとす。人間は軍用犬を用いて探査し、攻撃する一方で、犬は主人に従順にまっすぐに生きようとする。犬のコトバ、その背景にほとんどの場合匿名の存在として描かれる人間の営みの記録。人間は、主義や宗教によって自らを境界づける存在であることが、犬の視点から浮かび上がるように思える。スピードのある文章によって、一気に読まされる。フラナリー・オコナーはなかなかいいよ、と聞いたので、『フラナリー・オコナー全短編(上)』を読んだ。この短編には、立派な志をもった「人物」は登場しない。誰もが性癖を含めた、歪みのようなものを持っている。それがじわじわと魅力的に感じられてくるというか、ダメな部分や暴力的な面を抱えている点で、人間たり得ていることが描かれている。それゆえに、文章表現はなかなか分かりにくい。フラナリー・オコナーは稀有な作家である。短編集のなかで、「人造黒人」という話が好きだ。おじいさんと孫息子が二人で住んでいる。二人が田舎から列車で都会に出かけていく。はじめから二人はなんだか張り合っていて、喧嘩ごしである。祖父は都会で孫を見放すが、なんとか仲直りしたいとも思っている。田舎に戻って来て、孫は都会を振り返って、行ってよかったが、二度と行きたくないと呟く。そんな話。文章表現が素晴らしい。最初の段落。「目をさます。部屋中に月光があふれていた。ミスタ・ヘッドは起きあがって、あたりをじっと眺めた。銀色になった床板。銀糸で織ったように見える枕カバー。一メートル半ほど離れたひげそり用の鏡に、突きが半分映っていた。部屋に入る許可をもらおうと、そこでちょっと立ち止まっているように見えた。やがて月は全身をあらわし、あらゆるものに荘厳な光を投げかけた・・・」


ネパールの動物殺し

2013年03月27日 14時23分37秒 | フィールドワーク
ネパールから帰国してから逆・カルチャーショックにみまわれたというか、日本ではあらゆる物事が自然体ではなく何らかのために人工的につくりだされていることが見えてきて、ちょっとした気鬱を経験したのだが、そういう感覚はオフィスで仕事をしはじめると一気に霧のように消えてしまったが、以前は、海外に出かけて帰国するとしばらく何も手につかなくなったことが頻々とあったが、ネパールから帰国後にじつに久しぶりにそんな精神状態になったのはいったいどうしてなのだろうかとふと思う、マレーシアの狩猟民プナンを訪ねていくと毎回毎回ものすごいショックを受けるのだが、ここ数年の日本とプナンの往復がルーティーンになってしまって、自文化への疑いの感覚がじょじょに薄れてきているのかもしれないが、いずれにせよ、インドやバングラデシュには若いころに3ヶ月くらい旅したことがあるが、ネパールには今回の旅行が初めてであり、いまとなっては、雄ウシが道路に寝そべっていてもお構いなしで、



信号がないまま、人、車、バイクが思い思いに右に折れ左に曲がりながらも交通がなんとかなっているというような、あの無秩序(混沌)によって支えられている秩序とでもいうべきネパール、真っ赤なコカコーラの看板からお姉さんが微笑みかけくれるネパールが、じつになつかしく感じられるのであるが、



今回は、O大学の留学生Sさんの案内で、O大学教授Iさんとともに、ネパールにおける動物殺しを見に行ったのだが、限られた時間のなかで、食用肉販売用のヤギやスイギュウ、ヒンドゥー寺院でのニワトリの屠畜などを見る機会に恵まれ、Sさんの故郷の村でのヤギのは、鉈が地面を叩かないように木を敷いた直後に、一刀のもとに鉈を振りおろして首と胴をバッサリと真っ二つにするという、ある意味、衝激的、ある種、アッパレなものだったが、失敗することもあるのだと聞き、殺すための技術には深いものがあることを教えられたし、



毛をむしった後に滅菌のためにターメリックや灰を体に塗り、糞になる前の腸内物質も捨てずに堆肥に使うというような、ほとんどすべてを無駄にしない動物利用の実態にもふれることができ、その意味で、動物殺しとはたんに殺しの面だけでなく、動物をどのようなものとして理解し、扱うのか、どのように動物を利用するのかというような面からも考えなければならないだろうと思われるが、そのいっぽうでそれとは別の機会に、われわれは町の中でグルン人が経営している肉屋の裏での早朝のスイギュウのを見る機会を得たが、



こちらもかなりショッキングだったが、職人の男がスイギュウの後頭部をハンマーで力いっぱい叩いて気絶させるところから始められたが、スイギュウが十分に気絶してないと見てとると、恐怖心から逃げないように、目に覆いのようなものをかぶせて、ハンマーで4回続けざまに叩いて完全に気絶させ、スイギュウが倒れたところで喉を掻っ切って血を流失させ、その後、15分以上も周囲の人びとにケガを負わせるような勢いでスイギュウは四肢をばたつかせたが、ネパールの動物殺し視察をつうじて、いろいろなことが思い浮かぶが、とりわけ比較の観点からは、ネパールでは、動物殺しが、人の目からまだあまり離れていないというか、日本などのように、人の目から完全に遮断されて、遠い場所で知らない誰かによって行われているのではないのだと言えるだろうし、あるいは、狩猟民との比較で言えば、動物を飼育する農耕牧畜の民では、殺法だけでなくそれを行うための道具や技術が発達している一方で、狩猟民は、距離を置いた場所にいる動物は殺すことができても、間近で殺すことはできないのではないのではないか、などなど、そんなふうに、今後、人が動物を殺すことを考えるための手がかりの一端を得ることができる旅であったように思える、個人的な覚書として.

『アントロポロギ 第4号』(特集:震災後の日本ーつながりのはじまりー)

2013年03月14日 11時03分10秒 | 大学

3号本を乗り越えて、4号めの『アントロポロギ』が発行されました。
今回の特集は、「震災後の日本ーつながりのはじまりー」です。
表紙には「つながりのはじまり」しか書かれてなくて、学生の手作り感が出ていていいかも。




桜美林文化人類学学生研究会


風の王国から考える

2013年03月13日 15時34分25秒 | フィールドワーク

今日は、東京は、風が吹き荒れる風の王国のようだ。
朝の便で帰国し、リムジン・バスで都内を通って、林立するビル群を見て、ふと思い出した。

ビントゥルの町に、二人のプナンを伴って、レンタカーを借りに降りてきたときのことである。
一人は裸足で町を歩きまわり、一人が銀行通帳を失くしたので、銀行に行くと言いだした。
月曜とあって、銀行には長蛇の列。
用事がなかなか終わらず、レンタカー屋との約束の時間のために、私は二人に先にホテルに戻っていると告げた。

”だめだ、もう少し待て”と、裸足のプナン。
”待てない、時間が来ている”、”ちょっと来い”、と、裸足のプナンを銀行の外に連れだす。
”見てごらん、ほら、突きあたりのビルの角を左に曲がって、まっすぐ行くとホテルがある、ほんの5,6分だ”、と私。
”いや、よく分からんのだ、あとからお前が迎えに来てくれるのをここで待ってるよ”、と、プナン。
まっすぐ行って、突きあたりを曲がると着くという、こんな簡単なことが、どうして分からないのか!

きみたちは、あんな何の特長もないジャングルの道を、まちがわないで引き返したり、歩いていくことができるではないか。
私には、どこに行っても、ジャングルが、同じようなものに見える。

プナンにとっては、ジャングルはよく見慣れたものである一方で、町の成り立ちは理解を超えている。
ジャングルを流れる川(水)には、一つ一つに名前が付いていて、場所には記憶が詰まっている。
"秩序”は、そこにこそあるのであって、林立する建物の群れは、混乱や無秩序でしかない。



”町中では車は運転できない、信号があったり、車がいっぱい通っていて、どう運転したらいいのかよく分からない”、とプナンは言う。
”運転は、ロギングロードのほうが難しいではないか、ぬかるんでいたり、交通ルールがなかったり・・・”と、私。

しかしである。
しばらくオフロードを運転し慣れて(穴ぼこだらけの)ハイウェイに出ると、つねに左を通って、交通ルールを守るということが、なぜだか煩わしく感じられるようになる。
転倒した、こうした奇妙な感覚に襲われることが、私にはときどきある。

私が毎休暇ごとにプナンに行くのは、実は、そうした感覚を、つまり、”向こう側”から見た”こちら側”の世界の成り立ちの珍妙さを実体験するためなのではないだろうか。
それが、突きつめれば、私にとって、唯一と言っていいくらいの、文化人類学の効用あるいは特権である。

分析や考察や見取り図の客観的な(科学的な)提示をしたいわけではないどころか、そんなことはできない。
我々の王国に回収されることがない”外部”の発見、つまり、我々の王国の世界の成り立ちの外側からの眺め。
そうした態度を忘れさせないために、思考のど真ん中に据えるために、人をせっせと辺境にまで向かわせるのだとしたら、そんな珍妙な学問は他にはない。

いま一度、この点は確認したほうがいい。


動物を殺しに行くこと

2013年03月12日 00時18分11秒 | フィールドワーク

 

狩猟とは、実際には、動物を殺しに出かけることにほかならない。しかし、動物を殺しに行くという直截な表現によってその活動を言い表すことは、ふつうは、ない。地球上の「狩猟」をくまなく調べたわけではないので、完璧に言い切ることはできないけれども。例えば、プナン。動物を「殺しに行く(tae mematai)」とは、たとえ、そのことが目的であっても、そう言わない。自動詞的に、目的語を入れずに、「撃ちに行く(tae menimuk)」、「イヌの猟に行く(tae mengaseu)」、「吹き矢の猟に行く」(tae meupet)・・・という言い回しが、ふつう、用いられる。動物殺しの「手法」を介して、動物殺しの活動が語られるのである。なぜ、そういうことになっているのだろうか。生あるものの命を奪うという意味の、「殺す」という言葉の使用が遠ざけられているのであろうか。殺法によって、殺しを語る。そのほうが、その動物殺しのイメージが喚起し得やすいのかもしれない。そう考えると、殺しに行くという表現では、「殺す」ことが強調されすぎていて、生々しい感じがする。それは、動物に対する配慮なのか、あるいは、「殺し」という行為そのものに対する、人類普遍の後ろ暗さの心情ゆえなのか。いずれにせよ、動物を殺しに行くという表現はなされない。プナン語だけではない。日本語でも、同じようなことが言えるのではないか。猟に行く、罠を仕掛けに(見に)行く・・・というのは、実際には、動物を殺しに行くことである。最近では、「殺処分」という言葉によって、より明瞭な表現が与えられるようになってきているが、これまでは、たんに「処分」すると言うだけで、動物を殺してきた。「殺」の文字を入れずに、実際には、動物を殺していた。そんなふうに考えてみると、動物による動物殺し、例えば、チンパンジーによるアカコロブス殺しを「狩り」と呼ぶことや、鳥が魚の「狩り」に長けているということには、人間の思惑が、人間側の読み取りが、その行為の表現のなかへと密輸入されてしまっているのかもしれない。動物は他の種の動物を攻撃し、殺して、食べるという連続した、一体化した行為を行っているにすぎない。チンプによるアカコロブス殺しは、食べるために「殺し」を目的としている場合に限っては、人間の「狩り」とパラレルに、それを狩りであると呼ぶことができるのかもしれない。一種の擬人表現として。しかし、必ずしも、チンプは、必ずしも殺すことだけを目指しているのではないという報告もあると聞いている。あんまりうまくまとまっていないが、今後、殺しを考えるための備忘として。


均分するとはいかなることか

2013年03月11日 02時12分13秒 | フィールドワーク

狩猟という動物殺しは、複数のメンバーでそれをおこなう場合、最後に、肉の分配という、ある意味、厄介な作業をもたらす。ある日、それぞれ別の家に属する三人のハンターおよびその家族のメンバー、私を含めて総勢10人で、アレット川に、車で狩猟に出かけた。その日の獲物は、ホエジカ一頭と子イノシシ一頭だった。帰る前になって、獲物の肉の分配をどうするのかに関して、一人の男が、三人のハンターに加えて手伝いの若者男子の二人の計五人で均等分配するのがいいだろうと、私に対して打ち明けた。しかし、実際には、三人のハンターとそれぞれの属している三つの家のメンバーという、計6つの山に肉が均等に分配された。

その時は、私に事前にやり方を打ち明けた男のとおりにはならなかったということである。獲物の肉をどう分けるのかは、一人の考え方によって決まるのではなく、ふつう、みなでそうしようということになって決まる。そのようにして、皆に見えるようなかたちで、腹肉や臓物など、部位ごとにほぼ同量になるように、獲物の肉は6等分されたのである。

獲物の肉の分配は、プナンにとって、ことほどさように、重要である。ある人物が獲物をしとめたからといって、彼が多めにもらったり、一番美味であるとされている部位をもらい受けることはない。彼も、その他に猟に参加した人と同じ分量の分け前に預かるのである。彼は、狩猟の参加者と協力して、
その場に居合わせた人のうち、たんについてきただけで、何の役割を果たしてないように見える人がいたとしても、その人を員数に数え上げた上で、ひとりひとりが、たとえわずかばかりの量になろうとも、均分しようとする。公然と、そのようにされる。逆に、そのことは、別の機会に、その人に、同じようなかたちでの肉の分配を保証することになる。プナンでは、そんなやり方で、肉の分配が行われる。そうした分配の方式は、あらゆる財にまで広がっている。

財を均分することは、個人の突出した所有を否定する。それは、意義のある、人間的・社会的行為である。


プナンのトンボイ

2013年03月10日 02時27分50秒 | フィールドワーク

狩猟民の社会、あるいは原始社会に"MtF(Male to Female)"や"FtM(Female to Male)"はいないとは、誰も言ってないのかもしれない。しかし、これまでプナンには、私が知っている限り、MtFやFtMはいなかった。出会ったことがなかった。それは、たんなる勝手な思い込みだったのかもしれない。がゆえに、以下は、記録/報告である。

今回、ペリラン川で、プナンの一人のFtMに会った(写真右)。FtMかどうかは、じつは、はっきりしない。男装の女性かもしれない。3日間そこに滞在しただけなので、直接話を聞いたわけではない。年齢は10代前半、生物学的には女として生れたという。いつのころからか、
男の子の格好をするようになったらしい。いまでは、男の子たちと仲良くして、バイクを買ってもらって、乗り回している。周囲の男たちは、そういう存在は珍しい、ここには一人しかいない、なぜそうなのか、心の内のことは分からないと語った。


サラワクの都市部で使われている「トンボイ(tomboi)」という表現を使って、彼女のジェンダー・カテゴリーを表現した。都市部では、理髪店などに、ポンダン(pondan)="MtF"をよく見かけるが、彼らは、彼らで独自のネットワークを持っているように思われる。マレーシアやインドネシアのとりわけ、都市部では、ゆるやかに、ポンダンの存在が認められているようだ。そのプナンの村のトンボイの存在は、そうした都市の文化状況の影響によるものなのだろうか。いずれにせよ、プナン社会では、トンボイは、新しい、珍しい現象である。いろいろと聞いてみると、リナウ川にひとり、コヤン川にひとり、計二人のポンダンのプナンがいるとのことだった。

まったくの蛇足であるが、このプナンのロングハウスに滞在している間、キッズたちに、レンタカーのハイラックスのボディーに二箇所、釘で落書きをされた。そのことに、後になって気づいた。町で車を返却したとき、ワークショップにつれていかれて、800RM (24,000円)を請求された。なんたる無秩序というか、無邪気さというか、戯れというか、やってくれるぜ、プナンキッズよ、かえって、清々しいくらいだね。




動物の値段

2013年03月09日 11時11分59秒 | フィールドワーク

40歳代のプナンの村長がつい最近ハイラックスを買ったという。「ヤマアラシの石(bateu larak)」で儲けたらしい。寝込みを襲うようにして訪ねて、話を聞いてみた。2012年のクリスマスの前のことである。食べる目的でヤマアラシをアブラヤシ農園で捕まえたところ、石(胃石)が出てきた。こぶし大の大きさがあったという。ロング・ラマの中国人アチャイ(仮称)に21,000RM(約62万円)で売り払い、7,000RMを頭金にして、4輪駆動車を買って、一月1,300RMずつローンの支払いをしているという。プナンに尋ねてみると、そのあたりには、少なくとも4人が、これまでにヤマアラシの石を売って儲けていたということが分かった。店を開いて、車を二台持っているクニャー人男性の所を訪ねた。これまでに4回めぐり会ったという。その一つを記念撮影して、店のなかに飾っていた。

その写真には、2009年2月9日の日付がある。15,000RM(約45万円)で、ミリの中国人に売ったという。ほかの3回は、それぞれ18,000RM、12,000RM、10,000RMで売ったという。ヤマアラシの石だけで、なんと165万円の上がりがあったようだ。彼は、ヤマアラシを捕まえては食べ捕まえては食べるのだという。そうしないと、なかなか石は見つからないという。後の二人には会って話を聞くことはできなかったが、ヤマアラシは、そのあたりでは金をもたらすと考えられている。カヤン人の商人が数年前にヤマアラシの石を探しに来たらしい。名刺がばら撒かれていた。アブラヤシ農園にアブラヤシの実を食べに来る動物には、イノシシとヤマアラシがいる。ことによると、ヤマアラシの石の需要は、商業的な木材伐採が終了し、アブラヤシや植樹されてから増大するようになったのかもしれない。

ヤマアラシの石はいったい何に使われるのだろうか?漢方薬に使うのだと、末端で捕まえた人たちは言っていた。そうだとすると、どのような効用があるのだろうか?他にも、センザンコウの鱗は、キロ当たり90RM(2700円)という高額で売れるともいう。センザンコウは、なかなかジャングルのなかでお目にかかれないが、プナンはよく動物の値段お話をしている。動物をしとめて売りに出すということを狙った狩猟はいまのところは、このあたりでは行われていないように思われる。


動物はいつから死体になるのか?

2013年03月08日 21時43分56秒 | フィールドワーク

2月の半ばのとある日、レンタカーのハイラックスを借りて、プナンの村に着いた。
ハイラックスにはその後、どえらい目にあうことになるが、それはさておき、到着した日の翌朝早くに、猟に行こうではないかということになった。
午前5時過ぎ、眠い目をこすりながら起床し、借りたばかりのハイラックスで、アブラヤシ農園の猟場に向かった。
車を降りてしばらくすると、夜が白々と明けはじめ、数頭のイノシシが10メートルほど先を猛スピードで駆け抜けるのが見えた。

われわれは、その親子のイノシシを追った。
アブラヤシ農園を抜けて、ジャングルに入った。
そこここに真新しいイノシシの足跡があっただけでなく、動く物音が聞こえ、たしかにイノシシの気配があった。
イノシシの水浴び場で少し待ってみたのは、午前10時、かれこれ4時間ほどぶっつづけで歩いた後だった。
そこで待ち伏せしている間に、疲れてうとうととしてしまったようで、突然の「行くぞ(tae)」という声で起こされた。

ああしんどと思いながら下方に向かって歩き始めた瞬間だった、前方で銃音がとどろいた。
ほぼ同時に、ジャングルのなかで、イノシシが転落していく物音。
血痕だ、その先に、子イノシシが斃れて、足をばたばたさせている、一瞬のことだった、死に至る瞬間だった。

一発で二頭にあたったが、もう一頭はどうやら逃げたようだという、血痕が滴り落ちている。
逃げた子イノシシを探しに行くから、「ここで待て(mekeu teu)」と、指示された。
しばらくして、15メートルほど先の藪で、イノシシの短い悲鳴。
後から聞くと、山刀で、その子イノシシの心臓を一突きしたのだという。
その様子を見に行こうとした瞬間、「ここまで持って来てくれ(miin teu)」という声が届く。
えっ、誰が、何を?俺しかいない。イノシシを、殺したてのイノシシを?
とっさに断る理由が見つからず、子イノシシが最初に息絶えたことを確認した場所へと戻り、恐る恐る、死んでいることを確かめる。
さきほどの最期の瞬間の動きが、まだ目の裏に焼きついたままなかなか離れようとしない。

う~ん、どうしよう、日本の猟師は獲物を引き摺ると言っていた、しかたない、そうしよう。
引き摺っている間、子イノシシは、蔦や木の枝に絡まり、その重みで転げ落ちそうになるのをなんとかしのいで、やっとのことで獲物を手渡す。

するとどうだろう、ひょいとイノシシを肩に担ぐではないか。
そうだ、それがプナンの初次段階での動物の担ぎ方なのだ。



その後、川の水を使って臓物が処理され、二頭の子イノシシは、麓まで運搬しやすいようにまとめられて、運ばれたのである。

クチン、テラン・ウサン・ホテルにて