たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

進化する狩猟

2006年09月25日 11時26分09秒 | 人間と動物

道具をつくるようになったヒトの祖先は、狩猟という手法をつうじて、動物肉を獲得するようになり、旧石器時代には、狩猟採集が、ヒトの主要な生業の形態となった。その後、ヒトは、農耕を開始するようになったが、今日に至るまで、狩猟採集を、生き延びる手段としている人たちがいる。プナン人は、そのひとつである。

ボルネオ島のジャングルのなかで、有史以来、プナンは、どのように狩猟活動をおこなってきたのだろうか。

人類学者・ホフマンは、ボルネオ島の焼畑稲作を主生業とする人びとのなかで、森林産物を獲得するために、ジャングルのなかに入ったのが、プナン(の祖先)であるという説を唱えた。狩猟採集民が焼畑農耕民になったのではなく、焼畑農耕民から狩猟採集民が生み出されたというのである。プナンは、ジャングルのなかを遊動し、漢方薬の原料として重宝される動物の諸器官、鳥の巣や天然ゴムなどを狩猟採集することに特化し、それらを、焼畑農耕民の持つ塩やタバコなどの必需品と交換するようになったという。

しかし、その説は、あくまでも、憶測の域を出ない。ボルネオ島のジャングルのノマドが、どのような狩猟活動をおこなってきたのかについては、依然、詳しいことは分かっていない。

今日、B川流域のプナンたちは、ひんぱんに油ヤシ・プランテーションのイノシシ猟に出かける。わたしは、そのようなイノシシ猟に、これまでに、10回以上同行している。そのため、その狩猟のやり方が、以前から、ジャングルのなかでおこなわれる猟と並行しておこなわれる狩猟方法であると思っていた。

しかし、その油ヤシ・プランテーションのイノシシ猟は、実は、B川流域周辺では、2000年代の初めからおこなわれるようになった、ひじょうに新しい狩猟方法なのである。考えてみると、当然といえば、当然のことである。油ヤシ・プランテーションが建設されたのは、ごく最近なのだから。わたしが住んでいる村では、油ヤシ・プランテーションにたくさんのイノシシの足跡が残っているということを伝え聞いていた数人の男たちが、2003年に試してみて、その後、猟としておこなうようになったというのが、その起源である。

B川周辺のジャングルに、木材会社が進出してきたのは、1970年代の半ばのことである。木材が伐採されると、今度は、油ヤシ・プランテーションが進出してきた。1990年代初めに、木材伐採後の土地に、油ヤシの木が植えつけられるようになった。 植えつけられてから10年以上経過して、油ヤシの実は、すでに十分に熟しているとされる。その甘い実を、夜間に、ジャングルの奥深くから、イノシシが食べにやって来る。油ヤシの実を食べに来るイノシシを待ち伏せて、ライフル銃で撃ち殺すというのが、その猟の特徴である。他の地域の油ヤシ・プランテーションに比べて、B川流域周辺のそれの管理は、厳格ではないとされる。人びとは、広大なプランテーションに、自由に出入りすることができる。

プナン人のハンターは、夕暮れが迫るころ、ライフル銃をかついで、大抵、単独で、油ヤシ・プランテーションへと入っていく。真新しいイノシシの足跡が(たくさん)残っている場所を探し出して、イノシシがやって来そうな場所で待機する。多くの場合、油ヤシの木の下に葉などを敷いて座り、イノシシがやって来るのを待ち伏せするのである。イノシシは、夕暮れから早い時間にやって来るか、あるいは、深夜に、油ヤシの実を食べに来ると考えられている。

ハンターは、闇のなかに座り、じっと聞き耳を立てる。イノシシがやって来ると、移動する獣がたてるガサガサという音と、鼻を鳴らす音が聞こえる。そのとき、ハンターは、静かに立ち上がって、ライフル銃に銃弾を補填してかまえる。懐中電灯で獲物を照らしだして、ちょうどいい距離をみはからって、射撃する。
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/dcdcb4673d854d8090b148f37330d9d3


 もちろん、イノシシは、ハンターの予想通りにやって来るとはかぎらない。近くまで来たとしても、プナン人が言うように、風上に陣取ることになって、人の匂いがイノシシにまで届いて、イノシシが恐れて近づいて来ないこともある。

この油ヤシ・プランテーションのイノシシ猟には、いくつかの弱点がある。ひとつは、雨が降った場合、雨の音に消されて、イノシシが近づく音が聞こえないので、猟ができないという点。ふたつめは、夜中におこなう猟なので、ハンターが眠くて寝てしまい、寝ている間に、イノシシを取り逃がしてしまうことがあるという点である。夜中をつうじて、ハンターは、緊張感を維持することはできない。

いずれにせよ、油ヤシ・プランテーションでは、近年ますます盛んに、そのようなイノシシ猟がおこなわれるようになってきている。イノシシだけに特化した油ヤシ・プランテーションでの猟は、イノシシの肉を大好物とするプナン人にとって、画期的な狩猟法であるということができる。

プナンのこれまでの長い狩猟活動のなかで、われわれは今、これまでになかった、まったく新しい狩猟方法を目の当たりにしている。それは、プナンのハンティングの新たな進化のかたちである。


分派する人びと

2006年09月24日 10時31分56秒 | エスノグラフィー
調査を開始する直前の4月に、ブラガのディストリクト・オフィスで調べたところ、わたしの調査(行政)村には、5つのプナン人の共同体がマッピングされていた。わたしは、そのことをそのままうのみにして、1960年代の<定住>後の、B川流域のプナンの共同体の構成と分布をイメージしてきたが、しだいに、プナン人の共同体は、そのような単純なものではないということが分かってきた。<定住>者の、行政者の観点からなされたマッピングは、プナン人の居住域の共同体の分布を、正確に示していない。

ごく大雑把に述べれば、プナン人の「ひと」の集合は、根源的なところで、バンド社会(狩猟採集民社会)のエトースに支えられているのだといえる。それは、簡単に言うと、気の合う者同士が、ある一人の(アドホックな)リーダーのもとに集い、サゴヤシの澱粉などを採集し、動物を狩猟しながら、一定の期間、共同で暮らすというものである。そして、その「ひと」の集合である共同体で、ともに暮らしていくことが、何らかの理由で続けられなくなった場合、あるいは、共同体の他の人びととの間で、解決が難しい諍いを抱えているような場合、家族単位(基本は、一組の夫婦とその子ども)で、別の「ひと」の集合へと合流するか、あるいは、新しい別のリーダーのもとに集結し、数家族で分派集団を立ち上げて、別の場所へと移動(移住)する。

政治人類学のテキストに出てくるように、バンド的な集合を組織するこのタイプの社会は、基本的には、平等主義的な社会である。社会階層やカーストのようなものは存在しない。リーダーの地位は、アドホックなものであり、世襲されるような類のものではない。そのため、リーダーには、豊富な知識と経験をつうじて食料確保を指揮し、共同体の行く末を見通す卓越した力がそなわっていることが求められる。単純化して言えば、そのようなリーダーの求心力が失われた場合、人びとは、その共同体から離脱していくことになる。

B川流域のプナンの居住域では、1960年代の<定住>以降も、リーダーを見限って、新たなリーダーのもとに分派して、移住して、新たな共同体を立ち上げるということが、ひんぱんにおこなわれてきた。わたしの住むロングハウスでは、現リーダー(プナン語で、Lake Jaau, すなわち、ビッグマン)が、州政府からトゥアイ・ルマー(Tuai Rumah: 州行政によって公認された村長の職位)として認められた1985年以降、さまざまな理由で、3つのグループが、そこから分派し、離脱していった。それらの分派行動についていった人びとのなかには、その後、ふたたび、もとのロングハウスに戻った人たちもいる。また、分派して設立された共同体は、もとの共同体と現在、比較的良好な関係を築いており、人びとの行き来も、他の集団以上におこなわれている。

そのようにして、わたしの調査地域では、プナン人の<定住>後、分派と、分派からの分派、分派からの分派からの分派…などが、繰り返されてきた。彼らは、<定住>してからも、けっしてひとところに住み続けるのではなく、ノマドの時代に支配的であった(と思われる)離合集散の原理に従いながら、住み処をひんぱんに移してきたのではないだろうか。その結果、ディストリクト・オフィスでマッピングされている5つの共同体ではなく、実質的には、現在では、9つの共同体がある。

ところで、トゥアイ・ルマーは、行政職として、給与が支払われ、また、木材会社や油ヤシ・プランテーションの会社から土地使用の賠償金が支払われ、毎月、他の住人とは桁違いの現金を手にする。さらに、無視しえないような勢力となった共同体(追加された4つの共同体がそれにあたる)のリーダーには、会社から、周辺地の利用に対して、賠償金が支払われることになる。そのため、木材伐採や油ヤシ・プランテーションに関わる土地利用の利権との関係で、今日、プナンの共同体のリーダーは、現金をめぐるかけひきに、否が応でも巻き込まれる。逆に言えば、現代社会における、そのような現金獲得のかけひきに長けた人材が、今日、プナンの共同体のリーダーとして、求心力を持つことになる。

要するに、共同体のリーダーは、今日では、共同体のメンバーの現金獲得のための計画を推進し、各メンバーへの経済面での援助をおこないながら、知識と経験を生かして、共同体の進むべき道を示し、求心力を保ち続けなければならないのである。

わたしが住むロングハウスのリーダーは、狩猟キャンプで獣肉が取れた場合、キャンプに参加していない他の共同体のメンバーにも分配するといった指示をけっして怠ることはない。また、彼は、現在、他の共同体にさきがけて、4WD車を手に入れるべく努めている(日本円で300万円もする)。それを用いて、ハンティングに行き、獣肉を手に入れるだけでなく、それを販売し、また、ジャングルのなかから伐り出した木材を運んで、町に売りに行くということを画策している。実際には、銀行の預金額であるとか、保証人の問題などさまざまな壁が立ちはだかって、その目論見は、なかなか実現しないのであるが…

<定住>後のノマドの末裔の「ひと」の集合は、はたして、ここで述べたように、バンド社会のエトースに貫かれているのであろうか、リーダーもまた、そのような原理の上で動いているのであろうか。

けものたちのジャングル

2006年09月23日 10時25分42秒 | 人間と動物

7月半ばから8月にかけての体調の絶不調から、9月は絶好調へと転じ、今月、わたしは、夜間におこなわれる油ヤシのプランテーションでのイノシシ猟に4回、昼間のジャングルでのハンティング2回、計6回の狩猟行に同行した。

ジャングルでのハンティングとは、当初は、なんと厳しいものかと感じたが、しだいにそれに慣れてきたように思う。それは、獣に感づかれないために、なるべく音を立てないように、ゆっくりとゆっくりとジャングルのなかを進んでいくタイプの狩猟であり、ときには、急峻な山を登ったり、険しい箇所をくぐりぬけたりしなければならないこともあるが、最近は、それほど苦には感じなくなってきた。しかし、時間をかけて(5~6時間におよぶ場合もある)ジャングルのなかを歩きまわるので、わたしにとっては、その疲れが、後からどっとやって来ることが多い。

さて、ジャングルのハンティングでは(も)、獲物としては、イノシシがもっとも好まれるが、あたりに、イノシシの新しい足跡が見あたらない場合、樹上のサル類や鳥類、シカ類などが狙われる。そのような過程で、狩猟を成功させるために、さまざまなしかけがおこなわれることが分かってきた。ようやく、ハンティングの奥深さを知る入り口に立つことができたように思う。

そのひとつとして、わたしが観察することができたのは、大空を舞うある鳥(日本名など未同定)をおびき寄せるためにおこなわれる、鳥の鳴きまね(pekewe)の様子である。その鳥の鳴き声が、コー…、コー…、クワッ、クワッ、クワッ…と、ほとんどそっくりにまねされる。鳥は、オスでもメスでも、その鳴き声に誘われて、近づいてくるのだという。残念ながら、その日は、鳴きまねをするハンターの近くにはやって来なかった。ハンティングから戻って、一人の老人に、そういったことをおこなったことがあるかどうかを尋ねたところ、鳥の鳴きまねは、古くからおこなわれているもので、彼は、若いころには、樹上によじ登って鳥の鳴きまねをして、やってきた鳥を吹き矢で射止めたと語った。

もうひとつは、シカ、とりわけ、マメジカをおびき寄せるために吹かれる草笛という猟のための工夫である。ジャングルのなかを歩いている途中、藪のなかから、ガサガサという音が聞こえた。プナンのハンターは、その足跡を見て、マメジカが逃げ散ったのだと判断して、草笛を吹いた。ふつう、そのような場合、マメジカは、その草笛の音色を聞いて、その場に戻ってくるのだという。しかし、それは、そこには戻ってこなかった。戻って来ないことから考えると、それは、マメジカではなく、イノシシだったのだろうと、彼は語った。

吹き矢を用いたジャングルのハンティングでは、プナン人のハンターが、小鳥を二羽とらえた。一羽は、木に止まったところを、10メートル位の距離からしとめた。もう一羽は、虫類を食べるために、地上近くに降りて来たところをしとめた。吹き矢猟では、見事に、百発百中であった。小鳥は、矢に塗られた毒が身体にまわるあいだ、数分間動いていたが、急に、頭をガックリと倒して、息絶えた。

プナンのハンターたちは、どの動物が、人間のにおいに対して敏感であり、どの動物が、においには無頓着なのか、ということについて、豊富な知識をもっている。前者には、イノシシ、ブタオザル、シカ(サンバー)、マメジカなどと、鳥類の一部がいる。ジャングルのなかで、それらの動物を追う場合、風上に立たないようにしなければならない。

知識と経験を生かしながら、今日も、プナン人のハンターによって、ジャングルでのハンティングがおこなわれている。