たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

乱れ読み短評

2011年04月17日 21時11分12秒 | 文学作品

ディディエ・デナンクス『カニバル(食人種)』、高橋啓訳、青土社(11-14)★★★



1931年のパリ植民地博覧会にニュー・カレドニアから強制的に連れてこられた先住民カナック人たちは、動物(ワニ)から未開人種へ、さらにはフランス人(ヨーロッパ人)へという進化図式の枠のなかで、「ニュー・カレドニアの人喰い人種」として展示された。そこに緊急事態が起こる。
ワニが大量死したのである。ワニを緊急入手して、展示を続ける必要に迫られた植民地博の当局は、カナック人のうちの一部と、ドイツのサーカスのワニを一時的に交換しようと乗り出した。『カニバル』は、そうした史実に基づいて作られた小説である。忘れさられた植民地主義の恥部を取り上げている。パリに連れてこられた主人公であるカナック人ゴセネは、いいなずけであるミノエが、交換要員として、フランクフルトに連れて行かれたため、同郷のカナック人・バディモワンとともに、偶然出会った同じくフランス植民地のセネガル人・フォファナの助けを借りながら、カナック人の奪還に挑むというのが粗筋である。確かに、植民地主義の暗部が取り上げられている点において、ポスコロ的な問題意識が強烈だし、被植民地から連れてこられたカナック人が、パリの地下鉄に乗るときに切符というものも知らない無垢をさらけ出すという興味深いエピソードが盛り込まれていたり、ミノエたちを救おうとする件のスピーディーな展開がハラハラして面白いのだが、読み物としては120頁ほどのもので、描写がなんだか薄く感じられて、少し残念な面もあるように感じるのだ。

星野智幸『水族』岩波書店(11-15)★★★★



水族館とは、水のなかに棲む生物が展示された建物というくらいの意味だろうか。『水族』というのは、
心躍る小説であることを予感させるようなタイトルである。主人公の雨利潤介は、学校の先生から紹介され、代々木にある湖底のガラス張りの部屋に住み込みの職を得る。他方で、屋上には植物が生い茂り、やがて、すべてが水浸しになっていく。そして、「人の切れ目を狙っていたらしき若いカップルが、二人きりになるや濃厚なキスをし、急にしゃがんで下半身をむきだし、女のほうが股間からオレンジ色の大量の粒々をぽろぽろとこぼし、すかさず男がやはり股間から白い煙幕みたいなものを噴霧し、そのオレンジ色の粒々にまぶした」。人の男女は、魚になっていく。やがて、「ぼくは軽やかだった。水によく溶けていた。水がぼくそのものだった」・・・「地球どころか、宇宙までが水で充満しているようだ。きっと月もこの水中のどこかにあって、泳いでいけば行き着けるのだろう。水の星は太陽系を呑み込み、銀河を呑み込み、やがてはこの水を通じて、別の星の生命と遭遇できるかもしれない。そして、そのすべては、水であるぼくの中で起こることなのだ」。主人公自身が水そのものになったのだ。夢を見ていてその夢が実は現実であったというような、フリオ・コルタサルの短編のような幻想譚だ。こういった文学の出現を、私は心待ちにしていた。

池澤夏樹『熊になった少年』スイッチ・パブリッシング(11-16)★★★★



秀逸な変身譚である。アイヌのクマ送りが題材となっている。『静かな大地』の副産物とも書かれており、その小説のなか
にも収録されているが、絵本化されてより優れたものになったように思う。トゥムンチという、アイヌに抗する民族に生まれたイキリ少年は、トゥムンチが、自分たちが強いと思っているために熊が獲れると思っている思い上がりにつねづね心を痛めていたが、あるとき、猟に出かけて、熊の世界へとまぎれこむ。そこで、アイヌが捕獲した子熊に対してするように、熊たちがイキリを慈しみ育てて、ついには、成長した熊として、イキリを熊のまま人間の世界に送り返すのである。その後、熊であるイキリは、トゥムンチである自分の父の矢に撃たれるのであるが、そこで、ふたたび人間のイキリへと戻る。イキリは母熊たちと暮らした日々をトゥムンチたちに語り、クマ送りをするように頼んだが受け入れられず、虚しさを抱えて、高い崖から谷底に身を投げ、魂を正しい国へと送り込むのである。私たちに糧を与えてくれる動物に対して、自分たちの力のみを頼り、感謝の念を忘れたトゥムンチの奢りに対する静かながら強い抵抗の念が、本書全体をつうじて感じられるが、トゥムンチとは、実は、自らの力だけを過信し、他者としての動物の痛みに思い至ることがない、現代日本人のことなのではないかとも思えてくる。

アルベルト・モラヴィア『視る男』、千種堅訳、早川書房(11-17)★★★★



福島第一原発の放射漏れ事故が深刻さを増す
現在、イタリア人作家のモラヴィアの『視る男』のことを思い出した。それは、86年に起こったチェルノブイリ原発の事故を予言するかのように、その前年に書かれた本として、当時大きな話題となり、80年代末に読んだ覚えがある。チェルノブイリとは、ロシア語で「苦ヨモギ」という意味で、核戦争の恐怖とセックスを扱った本書のなかでも、ヨハネの黙示録の一節の相当部分が、放射能汚染との関わりで取り上げられている。ずいぶんエロティックな小説だったという点だけ印象に残っていたが、今回、再読してみて、エロティシズムの冴えは、ある種、針が振り切れているようで、心地よいほどである。「視る男」とは、主人公・フランス文学の大学教員ドドのことで、この男のスコポフィリア(覗き趣味)が、彼の性生活を綾なしていることが綴られるが、ストーリー展開の妙は、彼と、原子物理学の教授で、3か月前に交通事故で足を痛めて歩けなくなって、ベッドの上に横たわって暮らす父親との微妙なやり取りのなかにある。父は、核がやがて世界の終末に至ることに頓着ない科学者であり、大学の実力者である一方で、息子のドドは、核戦争と人類の破滅の恐怖に怯える、反核思想を持つ体制への「造反者」としての仏文教師である。父は、巨根の持ち主であり、優しく語りかけ慈しみを求めて、女を巧みに誘う。彼は、教え子であり、息子の嫁であるシルヴィアまで寝取ってしまう。子ども時代に、母が父に「雌豚」であると言わされながら、「more ferarum(野生ふうに)」、セックスをするのを覗き見たドドは、それ以後、父を受け入れることができず、妻が彼の元を離れて伯母の家で暮らすようになり、自分は「雌豚」にすぎないと言い訳したことによって、言葉の類似点を手掛かりに、直観的に、ドドは父と妻が通じていることを悟る。父=「核」は、息子=「反核」を圧倒するのだ。しかし、この本の筋は、覗き屋ドドから視た現実であり、真実のほどは謎であると感じられる。さらには、モラヴィアの書く小説を覗きみている読者としてのわたしの解釈もまた、本の覗き屋としてのわたしの理解にすぎないのかもしれない。そんなことを考えさせられた。巧緻なストーリーテリング。マラルメだのジョイスだのを引きながら描写を行う手法などを含めて、文体も優れている。

古川日出男『ゴッドスター』新潮文庫(11-18)★★★



あたしの姉が死ぬ。交通事故で。妊娠八か月だった。1500グラムになっていたはず。おばになりそこなう。いきなりゼロになった。カフェテリア。窓の外。横断歩道の信号機の手前に八歳くらいの男の子がいる。信号機のボタンを押しつづけている。一時間、一時間半。あたしは話しかける。名前もわからない。記憶を失っているのかしら。あたしはその男の子を拾う。家につれて帰って寝かせる。翌朝、職場に向かう。夜、必需品を買い出しに行く。風呂に入れて寝かせる。カリヲと名前を付ける。言葉を教える。社会常識を教える。あたしをママと呼ばせる。ママと呼ばれるとどんどん母親になるのがわかる。カリヲに記憶をためこませる。カリヲが語る記憶をじゃんじゃんあたし自身に入れる。カリヲは19歳で結婚したときにできた子で、出産のディテールを少し忘れたのだ。あたしは秘密をかかえている。あたしが昼間にいないときの
カリヲの冒険。メージという男(明治天皇)と知り合う。イトウ・ヒロブミという名の犬とともに。みなは閣下と呼んでいる。大元帥閣下の見ている現実。じゃまなものは殺さなければならない。それは、記憶。・・・揺れるという言葉がいくつも出てくる。カリヲのママの揺れが伝わってくる。スピード感のある文章に引きづりこまれてゆく。あれよあれよといううちに、東京の都市空間のなかで、現実と非現実、現在と過去が妖しく交錯する不思議な物語。

アレッサンドロ・バリッコ『海の上のピアニスト』草皆伸子訳、白水社(11-19)★★★★

大海原の船の上で生み落とされ、置き去りにされて、船のなかで成長し、一度も陸に降りたことがないノヴェチェントという男の物語。彼はやがて船の専属のピアニストになり、見事なジャズを演奏することで名を馳せるようになり、そのことを聞きつけた天才ジャズ・ピアニスト、ジェリー・ロール・モートンが決闘を挑むために乗船してくる。ノヴァチェントは、競争の意味が分からないまま、その決闘に勝つ。しかし、彼には、どうしてもやり遂げることができないことがあった。船を降りて海を見るという決心をしたのだが、陸地の佇まいに怯えて船に戻ってきたのだった。閉じ込められることを恐ろしいと感じるのではなく、広い世界に出ていくことに恐怖を感じる心情が描かれる。やがて、船は太平洋戦争で病院船として使われ、戦後に廃船にされる船の上に、ノヴェチェントは、ダイナマイトとともに一人だけ残される。文章は軽妙で明るく、詩のように流れるように書かれているのだが、その一方で、ノヴェチェントを通して、人間の不自由さ、哀切がしみわたる。

サン=テグジュペリ『夜間飛行』、二木麻里訳、光文社文庫(11-20)★★★★★


 

なぜだろう、この短い本が、読む人に比類ないほどの大きな感動を呼び起こすのは?それは、何よりも、郵便飛行会社を率いる社長・リヴィエールの傷つきやすさと、その反面の人間的な実直さや強さに惹かれるためではないだろうか。鉄道便や船便が交通の主流であった20世紀の初頭の南米大陸で、昼にはスピードで勝っても、夜になると技術的にまだまだ困難な飛行機の夜間の運航は、当時の航空業界が生き残るための死活の問題であった。リヴィエールには、強い意志で航空事業を展開し、整備不良を起こした老整備士を解雇するという一見非情な面もみられるが、従業員に対して情をもって接することも決して忘れなかった。「わたしはどの部下も好きだ。わたしが戦っている相手は人間ではない。人間を通じて姿を現すものだ」という言葉が、力強く感じられる。サン=テグジュペリの言葉は、その一つ一つが煌めいているように感じられる。「なんという異常な夜だ!つややかな果物の果肉が腐るときのように、夜はまだらに、急激に腐りつつある。ブエノスアイレスの空にはすべての星座が欠けることなく君臨している。にもかかわらずここにはひとつのオアシスでしかない。それもつかのまのオアシスだ。見方を変えれば避難港である、ところがパタゴニア便からはたどりつけない距離なのだ。不吉な風の手に触れられて腐りゆくこの夜、征服しがたい夜」。リヴィエールは、空という測り知れない自然、夜という大いなる脅威に対して、戦いを挑む。ある夜、ファビアンたちが乗った夜間の飛行機が、乱気流に呑み込まれて消息を絶つ。リヴィエールは、最後に、その苦難を乗り越えて、夜間飛行を継続することを決心する。「敗北は、おそらく来たるべき真の勝利に結びついていくための約束なのだ。ものごとが進み続けることこそが重要なのだった」という。登場人物がすべて誠実で、それでいて美しい。

Night Flight(Vol de Nuit, 1933
)


スス・バルバトゥス無修正画像はコチラ↓↓

2011年04月16日 00時00分00秒 | 人間と動物


ボルネオ島に広く棲息するヒゲイノシシ(Sus barbatus)。
耳から顎の辺りにかけて、ヒゲがもじゃもじゃと生えている。

プナンは、イノシシのことを、マブイ(mabui)と呼んでいる。

それはプナンが最も好み食べるために探す動物である。
狩猟には、これまでどれくらいついて行っただろうか?
途中まで数えていたが、正確な記録を付けていない。
数えきれないほど繰り返して、ハンターについて行った。
ハンターは、朝から何も獲らず、どこに行くとも言わない。
血しぶきが飛び散り、一つの命が終わることへの関心?

猟銃で射撃するとき、私は銃後でいつも気持ちが昂る。
プナンのハンターもまた気持ちが昂っているのが分かる。
その興奮を静かに自制して、獲物に狙いを定め狙撃する。
前足の付根のあたりに弾が命中すればその場で斃れる。
イノシシが斃れた場から今度は人びとの元へ運び出す。
腹を裂いて内臓を取出し、性器、胃腸の消化物を捨てる。

一人で担げない場合一頭を胴体の辺りで真っ二つにする。
木の皮をイノシシの皮に器用に通して背負えるようにする。
何度か背負ったが、膨れたダニたちが咬みついてくる。
一週間位は腫れ痒いが、彼らにとってはどうってことない。
果実の季節にはイノシシが集まり人が狙って大猟となる。
子を産んだ母イノシシは暫くの間子イノシシを連れて歩く。
母イノシシを射撃すると、子イノシシが数匹一緒に斃れる。

子イノシシのは肉質が柔らかで、この上ない絶品である。
久しぶりに獲れたイノシシの肉で人びとは俄かに華やぐ。
プナンは腸内消化物、性器と骨以外全てをむさぼり食う。
肉は、広範囲の人に分け与えられ、一気に消費される。

あればあるだけ食べて、
腹痛、下痢などが一時蔓延する。


プナンの動物誌

2011年04月15日 10時31分12秒 | 人間と動物

 狩猟キャンプ、深夜、私は眠っていた。
油ヤシのプランテーションの猟に行ったハンターたちが戻ってきたようだった。
プナン語で、カーン・モレム(kaan merem)、「夜の動物」という言葉が聞こえた。
寝ぼけまなこで、蚊帳から出て見ると、そこには、二頭の美しい動物が横たえられていた。
淡い黄色の毛並みに、全身にわたって太い縞模様が付いている。
夜の動物というのは、その動物の名前を直接的に言ってはいけないというプナンの習慣によって用いられたものであった。
プナンは、その動物に、これまた優しげな響きで、なぜか二文字のパナン・アルット(panang alut)という名を付けていた。
それは、ジャコウネコ科の食肉類、
タイガーシベット(Hemigalus derbyanus)であった。
プナンは、タイガーシベットは、夜に森のなかを歩いているのだと言った、だから、夜の動物なのである。
調べてみると、「国際自然保護連合」のレッドリストで、それは、「絶滅危惧II類」になっていた。
 


 

 プナン語でララック(Larak)と呼ばれる ボルネオヤマアラシ (Hystrix crassispinis)。
商業的な森林伐採後に植えられた油ヤシの木になる実を食べにやってくる動物は、イノシシとこのヤマアラシである。
夜の狩猟でイノシシ猟をしているとき、夜の闇のなかからふいに、ヤマアラシが近くまでやってきたことがあって、驚いたことがあった。
プナン曰く、ヤマアラシは、強い動物である。
なぜなら、それは、背中に捕食者に対する攻撃のための針を備えているからである。
後ろ向きになって、針を発射すると、それは、動物の身体に突き刺さるという。
森のなかを歩いていて、ヤマアラシの針が地面に落ちているのに出くわしたことがある。
プナンは私に、その針を指さして、ほら、戦い(喧嘩)があったようだと呟いたことがある。
写真は、油ヤシの実を食べに来て、捕獲されたメスの身重だったヤマアラシ。
ヤマアラシの肉は、けっこうイケル、うん、私は好きだ。


↑ プナン語で、バナナリス(Callosciurus notatus)はプアン(Puan)と呼ばれる。
リスは、プナンにとっては、セクシュアルな動物である。
動物学の文献を幾つか調べてみても、よく分からないのだが、とにかく、プナンがいうには、リスは森のなかで交尾ばかりしているという。
あっちに行っては交わり、こっちに行っては交わり、木の枝でも、地面の上でも、と彼らは言う。
ちなみに、YouTube に「リス、交尾」と入れて検索してみるとたくさん出てくるので、リスの交尾は目撃されやすいということかも。



↑ 偶蹄目のホエジカMuntiacus muntjak)は、テラウ(telau)と呼ばれている。
英語ではBarking Deer、メーティングや危険時に吼えるからその名がついたらしい。
猟では、ホエジカをおびき寄せるために、プナンは、草笛を使う場合がある。
それは、吼え声を真似ているというが、もっと物悲しい響きがする。

肉の味は、シカよりもコクがあって臭いがきつい。



↑ プナン語では、サウォ(sawe)と呼ばれるミズオオトカゲVaranus salvator)。
一般には、爬虫類に分類されるが、プナンの分類では、上の動物たちと同じカアン(kaan:動物)の仲間。
川のなかを泳いだり、ときには、木の上にも登る。
プナンは川に網を張って魚を獲るが、ミズオオトカゲは、網にかかった魚を食べに来る。
網がぼろぼろにされることもあるが、プナンは、ミズオオトカゲが
魚を食べに来るところを、槍で、場合によっては素手で捕まえる。
日々、川の内外で、人を含めた、生存のための戦いが繰り広げられている。
 

 ビントロングあるいはクマネコArctictis binturong)。
プナン語では、パスイ(pasui)と呼んでいる。
ネコ目(食肉目)ジャコウネコ科のビントロング属。
小さなクマといった見かけである。
プナンは、夜行性の動物であると言っている。
たしかに、夜に捕まえられることが多かった。



 プナンは、スリアット(seliat)と呼んでいた。
ジャワジャコウネコviverra tangalunga)だと思われるが、図鑑とはちょっと違うが、その一種なのだろうか。
夜、油ヤシのプランテーションの猟から狩猟キャンプに戻るときに、見かけたので、撃ち殺された。
夜に行動する動物だと、彼らは言っていた。
動物の右下に落ちているのが、弾丸がいっぱい詰まった散弾。



↑ ナミヘビ科のマングローブヘビBoiga dendrophila)。
夜に水浴びに行ったプナンが、樹上にいるところを捕まえた。
ヘビを捕まえるときには、彼らは、ふつうは、頭を叩いて脳震盪を起こしたり、頭を叩き切ったりする。
黒に黄色い帯があり、写真では、歯から毒を出すということを説明している。
料理して、翌朝食べた。

 ヒメヘビcalamaria sp.) の一種だろうか、同定できていない。
油ヤシのプランテーションを歩いているとき、前方を横ぎろうとしたとき、プナンは、刀の背で頭を叩き潰した。
毒があると言っていたし、食用とせず、そのまま放置した。


鳥たちへの挽歌

2011年04月14日 09時08分00秒 | 人間と動物

トリは、プナン語で、ジュイット(juit)という、なんか詩的な響きだ。
トリは、かつては、ほとんどが予兆の鳥とされた。
現在でも、部分的に、トリの声の聞きなしが行われている。
雨が降るだの、晴れるだの、珍しい人が訪ね来るだの・・・
トリの肉は、食べるところがあまりないのだが、プナンは時々獲って来る。
以下のトリたちも、すでにお亡くなりになった(なりつつある)ものたちである。

セイラン(Argusianus argus)。 →
プナン語では、クアイ(kuai)。
セイランは、森のなかの平坦地を踏みならして、糞などを取り除いて綺麗に掃除をしてから、そこに座るのだとプナンはいう。
だから、糞のクアイとも呼ばれている、あるいは「糞(anyi)」という別名で呼ばれたりする。
正式な別名は、「座るトリ(juit mekeu)」。

動物図鑑によると、地面を綺麗にするのはオスで、鳴き声を上げて、メスを誘うのだという。
翼を広げたさいの眼状の模様が美しい。

 

 

 

 

 

  サイチョ(Buceros rhinoceros)、プナンは、ブレガン(belengang)と呼ぶ。
頭部の角質の真っ赤な冠が印象的である。
英語ではホーンビル(hornbill)、マレーシアの国鳥でもある。
このときは、狩猟小屋のすぐ近くの木に止まっていたところを銃で撃ち殺した。


シワコブサイチョウ(Rhyticeros undulatus)。 
プナンは、モトゥイ(metui)と呼んでいる。
「お亡くなりになった後」は、赤い目(bale aten)と呼ばなければならない。
木の上で見つけたときも、そうだ。
眼の周りの赤い瞼が美しい。

 



ムジサイチョウAnorrhinus galeritus)ではないかと思われる。 

プナン語は、ルカップ(lukap)。

 

 

 

 

 

 

 




 プナンは、ダター(datah)と呼んでいる。
ヤケイ(野鶏)だと思っていたが、コシアカキジLopura ignita)だ。
プナンのなかには、ニワトリが野生化したという人もいる。
コシアカキジをニワトリ(dek)と間違えて呼ぶことは、たいへん危険である。
コシアカキジの魂が怒って天へと駆け上がり、雷を起こすとされる。

だいたいこのトリは、罠猟で捕まえる。
味は、ニワトリよりも、野生の味がする。
キジだから当たり前といえば当たり前かも。

 プナン名、プラグイ(peragui)。
ウォーレスクマタカSpizaetus nanus)。
吹き矢で仕留めた。 




カケスの一種だろうか? 
同定できてないが、低空飛行しているところを毒矢で射た。
スゴイ、プナンの吹き矢術は。
この後、すぐに絶命した

 

 

 

 

 


プナンのサルたち

2011年04月13日 16時10分57秒 | 人間と動物

私が撮影した動物の写真は、ほとんどが「お亡くなりになった」後(狩猟で仕留められた後)の動物の写真である。
プナンは、サルという分類を持たないが、
樹上に住む動物として、以下の4種を認めている。

← ブタオザル(Macaca nmestrina)。
プナンは、モドック(
Medok)と呼んでいる。
森の奥の方に獲りに行かなければならない。
昼行性で、夜は樹上で眠るとされる。
骨が太く、そのまわりに肉が付いていて、噛んでいるとジューシー。
ブタオザルの母は、胸のところで子を抱いていて、母を射撃すると子が獲れる。
子の肉は、「抱いている(tekivap)」と呼ばれ、絶品。
こんな旨い肉は、まず私たちの周りにはないだろう。
ゆえに、ブタオザルの肉を食べるのが、私には楽しみになっている。
プナンいわく、4種の「サル」のなかでは、もっとも強いという。

 

 

 

 

↑ ミューラーテナガザル(Hylobates muelleri)。
手が長い、プナン語では、クラヴット(kelavet)って呼んでいる。
腕を使って木々を渡り(ブラキュエーションという)、地上にはあまり降りてこない。
ウワウワウワウワッツという、印象的な大きな鳴き声を発する。
プナンの民話では、クマに動物たちが尻尾をもらいに行ったとき出遅れて、テナガザルが行ったときには尻尾が残っていなかった。
だから、テナガザルには尻尾がないのだとされる。
肉の味は、私としては、まあ、食べられる許容範囲。



↑ 動物図鑑を見ると、ホースリーフモンキー(Prebytis hosei)ではないかと思われる。
別名、ベッカム・ヘアー??
プナン語では、バガット(bangat)、お亡くなりになった後は、ニャキット(nyakit)と呼ばれる。
(動物を前にして、その動物の本当の名前を呼んではいけない)

なせリーフモンキーかというと、若い葉っぱや種子、蔓植物などを餌としているから。
腸内の消化物は煮出した場合薬になるとプナンは考えている。
ポトック(potok)という、リーフモンキーの腸内消化物のスープは、「
便」の匂いがする。
5メートルくらい近づくと、強烈な臭いがただよって、
いまだに私には飲めない。
肉の味は、他に食べるものがなければ、まあ、食べてもいいかなあというほどのもの。

カニクイザル(Macaca fascicularis)。 
川のそばの樹上にいることが多く、比較的、たくさん獲れて、食卓に上る機会が多い。
プナンは、クヤット(kuyat)って呼んでいる。
プナンは知らないが、道具を使うサルらしい。

これが獲れたら、しばらくどこかに逃げたい、あるいは、ソースを買いに行こうと思ったりする。
私にとっては、できれば食べたくない肉だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こちらは、ついでに霊長類として。

 

 

 


狩猟浄土

2011年04月12日 11時53分52秒 | エスノグラフィー

筆者 :それは何?
ウダウ:「赤い目」だ。(=シワコブサイチョウ(metui: Rhyticeros undulatus)という鳥の別名)*1
筆者 :いつ獲ってきたの?
ウダウ:ああ、さっきさ。
筆者 :たしか、昨日、銃弾がないって言ってたよね。
ウダウ:ああ、そうさ。吹き矢を持って出かけたのさ。木の上にいたので、狙いを定めて、それに毒矢を放った。でも、すぐに飛び立ったさ。それを追いかけ追いかけて、ようやくそれは地上に落ちた。
筆者 :どれくらい追いかけたの?
ウダウ:一時間くらい。
筆者 :たいへんだね。
ウダウ:そうさ、ライフル銃だと一発でしとめられるのさ。*2

*1)しとめてきた獲物を前にして、その名前を言ってはいけない。別名に言い代えなければならない。シワコブサイチョウは赤い目をしているので、赤い目と呼ばれている。
*2)獲物は、吹き矢の毒が回るまで絶命しないが、ライフル銃であれば、一発でしとめられる。そのため、ライフル銃が普及した。
 


 

スタイは、森からイノシシをかついで狩猟キャンプに戻って来ると、その獲物を地面に降ろし、沸いていたコーヒーを飲んでから、小な声で話し始めた。

 

スタイ :塩なめ場*3から少し登ったところで、昨日ニュアが足跡がたくさんあると言っていたあたりで、ガサガサという音がしたので、立ち止まって静かにしていると、音が近づいてきたので、ライフル銃を構えたのさ・・・
一同 :おお。
スタイ :姿は見えなかったが、今度は少し離れたところで、ガサガサと音がした。銃口をそっちに向けると、音がしなくなったのさ。匂いを嗅ぎつかれたのかもしれない。
一同 :おお。
スタイ :音がした方に少し近づいてみることにした・・・すると、左手の藪のほうに逃げていくのが見えたのさ。あわてて撃ったのだが、うまく命中しなかった。そいつは走り去ったのさ。見ると、血が滴り落ちている。血の量からすると、そんなに遠くには逃げられないはずだった。
一同 :急所に中ったんだな。
スタイ :ああ、血の跡を追っていくと、そいつは川の前で倒れていたのさ。メスだった。(イノシシと戯れている子どもたちに向かって)おい、そんなことするでない*4。

*3)動物たちが、沸いている塩水をなめるために集まって来る場所のこと。
*4)動物と戯れることが、にわかに天がかき曇り、雷鳴がとどろき、落雷や大水の原因になるとされる。


戻ってきた、兄弟よ、獲物はまったく獲れなかった、何も狩ることができなかった。(嘘を言えば)父と母が死ぬことになるだろう。ブタの大きな鼻、かつてイノシシだったマレー人、トンカチの頭のようなブタの鼻、大きな目のシカ。夜に光るシカの目、ワニ、ブタ、サイチョウ、ニワトリが泣いてやがる。獲物が獲れなかった。ブタの大きな鼻、かつてイノシシだったマレー人、トンカチの頭のようなブタの鼻、大きな目のシカ。夜に光るシカの目。獲物はまったく取れなかった。夜に光るシカの目、ワニ、ブタ、サイチョウ、ニワトリが泣いてやがる・・・  

 

あたりが暗くなる少し前に、ラーは、狩猟小屋の手前にやって来ると、<ピア・プサバ>*5を唱えながら戻ってきた。それは、獲物が何もなかったときに発せられる、動物に対する怒りの言葉である。ラーは、ライフル銃と籐籠を小屋のなかに降ろすと、一日動き回った後の喉の渇きと空腹を満たすべく、コーヒーを二杯飲み干し、冷や飯を皿に盛ってかき込むと、その日の猟について、ぽつりぽつりと話し始めた。

ラー :出かける途中で川のそばでカニクイザルを見つけた。撃とうにも散弾がなかった。森に入ると、(イノシシの)足跡は古いものばかりだった。ヌタ場*6で腰を降ろしてしばらく待ったが、(イノシシは)来なかった。そのうち、雨になったのさ。そのうち本降りになって、音がまるで聞こえやしなかった。雨が上がる頃、フタバガキの実を齧るコッコッコッという大きな音が聞こえてきた。そっと近づいてみたところ、姿は見えなかったが、匂いか足音に気づいたのか、齧る音が聞こえなくなって、(イノシシの)逃げてゆく音が聞こえた。今日はその一回限り、イノシシに会ったのは。傍まで見に行くと、真新しい足跡がたくさんあった。明日はあのあたりに行けばいいと思う。
ドム :え、どこ?
ラー :ほら、ヌタ場の左に行った上の方の、フタバガキの木のあたりさ。

*5)
狩猟に出かけて獲物がないときに、ハンターたちによって唱えられる言葉。これによって、人びとは、獲物がなかったことを知る。 
*6)イノシシが水浴びをする場所。


『苦海浄土』

2011年04月11日 09時48分56秒 | 文学作品

石牟礼道子『苦海浄土』河出書房新社(11-13 池澤夏樹=個人編集 世界文学全集)★★★★★★★

私は、池澤夏樹が、彼の世界文学全集30巻のなかに、戦後日本文学のなかから唯一選出した文学作品として、750頁を越えるこの大部の長編を読んだ。まずは、池澤の文学案内人としての傑出した才能に脱帽したい。『苦海浄土』には、
第一部「苦海浄土」、第二部「神々の村」、第三部「天の魚」が全て収められている。私が、昨年から今年にかけて読んだ約50冊の文学作品のなかで群を抜く傑作であり、(民族誌的)事実と方言の力、詩的想像力を組み合わせることで、「神殺し」の文学(バルガス=リョサ)たりえている、日本文学の金字塔であり、この作品自体がひとつの事件だと思う。こんな度肝を抜くすごい文学があったとは、私にとって驚きである。

しかし、事の始まりとして、これは、文学作品などではなく、ルポルタージュであったはずだ。主題としては、チッソ水俣工場が垂れ流した有機水銀が、魚を経由して、周辺住民の中枢神経系に作用して引き起こした水俣病の実態と、患者住民たちが会社を相手取って起こした補償闘争のいきさつを扱っている。ちょうど、水俣病が取り沙汰された時代、私は小学生だった。水俣病、チッソ、有機水銀という言葉は、よく覚えている。『苦海浄土』の凄いところは、水俣病の社会科学たる、たんなるノン・フィクション作品だけでは終わっていない点にある。それは、水俣病患者の家族へのインタヴュー・データ、一主婦として闘争にかかわった作者の観察記述録と、患者たちと会社との交渉データや公文書などの資料の提示から構成されている。しかし、それらを、年代やトピックに沿って整えるだけでは、水俣病の概説書にさえもならなかったであろう。石牟礼道子は、郷土への、そこに暮らす漁民たちへの深い愛に基づく物語を、それらに対比的かつ効果的に埋め込むことによって、この書を一気に、これまで誰も書くことができなかったような文学作品にまで昇華させている。その力量たるや並大抵のものではない。神の領域の仕事である。

これは、作者・石牟礼道子の出身地でもあり、日本人の原風景である不知火海で魚を取って、神々とともに暮らす人びとの人間的真実の崩壊である奇病の蔓延に対する石牟礼の哀切の思いから沸き起こる、「水俣死民」への鎮魂の物語であり、産業を基盤とした現代文明に対する大いなる異議・申し立ての書であり、さらには、彼女が、水俣病患者の死に様に対する共感から、彼らととともに地を這って動き回ったなかで見えてきた、苦海の果てに仄かに見える浄土への道しるべのような書である。水俣病罹患の地獄とは、患者とその家族にとって、いかなるものだったのだろうか。患者・杢太郎少年の祖父は語る。石牟礼道子は、水俣の方言を、そのままに綴って、力強く人びとの抱く現実を浮かび上がらせる。私は、現実の一端に触れ、ただ落涙するほかなかった。

こやつは家族のもんに、いっぺんも逆らうちゅうこつがなか。口もひとくちもきけん。めしも自分で食やならん、便所もゆきゃならん。それでも目はみえ、耳は人一倍ぼけて、魂は底の知れんごて深うござす。一ぺんくらい、わしどもに逆ろうたり、いやちゅうたり、ひねくれたりしてよかそうなもんじゃが、ただただ、家のもんに心配かけんごと気い使うて、仏さんのごて笑うとりますがな。それじゃなからんば、いかにも悲しか瞼ば青々させて、わしどもにゃみえんところば、ひとりでいつまでっでん見入っとる。これの気持ちがなあ、ひとくちも出しならん、何ば思いよるか、わしゃたまらん。・・・あねさん、こいつば抱いてみてくだっせ。軽うござすばい。木で造った仏さんのごたるばい。よだれ垂れ流した仏さまじゃばって。あっはっは、おかしかかい杢よい。爺やんな酔いくろうたごたるねえ。ゆくか、あねさんに。ほおら、抱いてもらえ。

杢太郎は、生きながらにして、仏のような存在なのである。一方で、胎児性水俣病患者の記述。

山本富士夫・十三歳。胎児性水俣病。生まれてこの方。一語も発せず、一語もききわけぬ十三歳なのだ。両方の手の親指を同時に口ぶつかり合いに含み、絶え間なくおしゃぶりし、のこりの指と掌を、ひらひら、ひらひら、魚のひれのように動かすだけが、この少年の、すべての生存表現である。

石牟礼道子は、「水俣病は文明と、人間存在の意味への問いである」という。会社の補償交渉の手ぬるさに業を煮やした患者たちは、支援者たちの資金カンパによって、大阪まで赴き、ついには、チッソの東京本社ビルにまで乗り込んでゆく。そこで、不知火海の漁民たちによる日本の土着の精神性と、東大出のエリート会社人間たちの文明が激突し、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトがぶつかり合う。水俣病患者たちは、社長と直接交渉とするために、オフィスの一角を占拠する。持ち込んだ炬燵のなかに、会社の専務を迎え入れようとする患者たち。それに対して、専務は、患者の立ち退きを一方的に申し入れる。しかし、患者たちは、会社の人間に対して、全面対決というよりも、水俣病を患った身内に対する慈愛に近いような感情を抱いて、大らかに包み込んでいこうとしているように思える。彼らは、対決ではなく、保護を願い出る。それは、近代文明の行き過ぎに対する、ゲマインシャフトの側からのゲゼルシャフトへのひそやかな抗議であり、静かなる戒めであるようにも読めるのだ。

汚染された排水が流された海で獲れた魚を食べた人たちが、さらには、その人たちから生まれた胎児が、中枢神経を冒されて、言語障碍、難聴、運動障碍、精神障碍に陥り、なかには、劇症化して死んでいった者たちもいたという、それだけで狂乱の域に達する驚くべき事実を、いったいどのように、私たちの時代の教訓とすべきであろうか。私には、この公害事件が、昨今の東日本震災の原発の放射能汚染水の海への放出という東電の措置に重なり合って見えるからだ。その惨状を、わが事として引き受け、そうでなければいつまでも続いていたであろう不知火海の美しき景色を重ねながら、当事者の心の襞に分け入り、これほどまでに傑出した文学作品にまで高めた作家が、私たちと同じ風土のなかに暮らしていたことに勇気づけられる思いがする。こうした民族誌が書かれなければならない。これは、以下のインタヴューで、石牟礼道子が言うように、美しい物語だと思う。

石牟礼道子『苦海浄土』刊行に寄せて
水俣病の実態についてのフィルム
土本典昭の水俣病のドキュメンタリー


2011年04月10日 20時32分08秒 | エスノグラフィー

遠くの空の下へお嫁に行かれたその方と初めて会ったのはいまからおおよそ四半世紀も前のことであるが、歴史と由緒のある日本の地方都市から志を立て、アメリカ留学して、その後、ある航空会社の国際線のフライト・アテンダントをしておられたのだが、学生時代に、ジャーナリズムを専攻していて、アフリカやアジアを旅して、ナイジェリアのキクユなどアフリカの諸民族のことや、レヴィ=ストロースの『野生の思考』だの、川田順造の『無文字社会の歴史』などの著作について、文化人類学の原液を最初に私に注ぎ込んだ、築地に住むわが友が、外遊中にお金がスッカラカンに無くなってしまって、パンツを買うお金もないとのことで、とある外地で、その方にお金を借りたのがきっかけで、わが友が借りたそのお金を返すのに付き添って、都内の某所でお会いしたのであるが、大学を出て一応の職を得る一方で、酒を飲み無益な言葉を吐き流し無駄に本を読み、その後に進むべき道を懊悩煩悶しながら考えあぐね、いくぶん停滞乱調気味であった私(たち)の前に現れたその方は、凛としていて、颯爽としていて、先見的で、頭脳が明晰で、経歴と職業柄、「世界」について知っていて、わが理想のずいぶん先を行っていることによって、わが身の凡庸さが際立つような気がしたが、その意味で、いまから思い返せば、その方の振る舞いに、その後曲折することになるわが行動は大いに励起鼓舞されたのであるが、やがて税理士へと転ずることになるわが友・例の「パンツ氏」とよりも、いくぶん言葉少なめの私のほうと波長が合ったのかどうか分からないが、フライトで成田空港に降り立ち、ふいに、山手線内にあるわが庵としてのトイレ付、風呂なしの築30~40年の木造アパートの二階の部屋に来られたりして、そこに荷を置くなり、銭湯に行ってきま~す、というような闊達な行動が、その方の軽やかなる自由人的な気質の片鱗を表していたはずであり、その方の進取の気性とともに、私は念を心深くに抱いていたのであるが、いったいどんな話をしていたのかは、いまとなってははっきりしないが、そうこうしているうちに、その方は、ある国の首都に、仕事で駐在することになり、その間、たったの数か月くらいの出来事であったが、これまた、詳しくは覚えていないのだが、インターネットやケータイなどの便利がなかった時代、後々、手紙の文通という奥ゆかしい交信を続けていたのであろう、それから暫くして、その方から、その国のさる御曹司との結婚が決まったという外国郵便が手元に届けられ、私もその婚礼の宴の席に並ぶために、いまだ一度も訪ねたことがなかったその国へと飛び、一友人として婚儀に参加するとともに、彼女の嫁ぎ先の家族が所有する首都にそびえる大ホテルのスイート・ルームに宿泊させてもらっていたく感じ入り、その後には、そのころ勤めていた海外貿易を生業とする会社を退職し、無為なる放浪の旅をしばらく続けたこともあり、他家に嫁入りされたその方と密に連絡を取るということもなくなり、音信はぷっつりと絶えることになったのだが、時は荒々しく過ぎてゆき、最近になって、20数年ぶりに、ひょんなことから、SNSでその方の足跡を見つけて交信するようになり、このたび帰国された機会にお会いしたのだが、新宿の雑踏のど真ん中にある待ち合わせの場所で、ある昼下がり、その20数年という時の隔たりは、一瞬、たしかに消えてなくなったかのようであり、その方の来し方の幸福と、語るに難い受難と激動と、その果てに残った大切なる宝物をめぐる獲得とその現在の物語に漂う言葉に耳を傾けながら、そうしたその方の軌跡は、はるか20数年前のあのころから、あらかじめ、当時の行動のなかにすでに深くくっきりと孕まれ、刻まれていたのではないかと感じたが、そうした運命論に浸っていると、私は、自分がいまの時代から当時を顧みているのか、20数年前の時代からそのことを予想しているのか、あるいは、その両方の時代のどこかにいるのかはっきりしなくなり、神秘的な感覚のくろぐろとした海を漂っているかのような気分になったのであるが、同時に、海外放浪を経て大学院に行き文化人類学を学び大学で教えるようになったと、わずか30数文字で、とりあえずまとめられるであろう、ちっぽけで、何の社会的役割も担っていない罪深き自分史がふいに浮かんできて、今度は、この20年間のわが出来の戯言を話しながら、それでも、あのころから、ずっと人間の根源の姿を求め続けているというようなことを述べると、その方は、ロマンティックなのねえと一言評したのであるが、まさに、それは日頃感じている、人類学者=ロマン主義者であるという、わが自己評価にほぼ等しく、その間、長い時を経て培われたものであっても、必ずや、その根や種が、あらかじめ、どこかにあったり、播かれているのだという断定調のイメージが、行きつ戻りつ波打ちながら私に打ちつけていたのだが、そのようにして、我々の間にじっと押し黙ったまま置かれている時の経過は、何ほどでもないものとしてことごとく消え去るとともに、同時にずっしりと重く、取り返しのつかない何かとして、わが身とわが心に圧し掛かっていたのであり、その日は、車で、町田から新宿に出かけてきていたが、都内の襤褸たるアパートと、まだ何者でもなく何になるのかも定かでなかった時代のことが懐かしくほのかに思い出され、その方には、桜の開花を見るかたわら町田にあるわがオフィスへとその方を案内し、私的な現在の破片を見せたいという思いにしだいに心が傾いてゆき、それならば、そうしようということになり、桜の美しい林は、いままさに満開のころあいであったのに、例年よりもボリュームに欠けており、そのくぐもった咲き様は、なんとなく憂いを含んでいたように感じられたのであるが(写真)、桜の並木道をくぐりぬけ、オフィスにはほんの一瞬立ち寄っただけであったが、その後に、近年、しばしば出かけることがある、豪奢なたたずまいのカフェにも足を伸ばし、私は熱帯に暮らすある人びとの原始的な暮らしを激烈な文体でつづりたいと願っているのだが、なかなか思うように筆が進まないというような、取るに足らないわが物書き計画とその現在の頓挫について話すと、その方からは、あら、インディー・ジョーンズのようね、という感想が漏れ、彼は考古学者だけど、そういえば、しょっちゅう海外の僻地に出かけているし、それは、なんだか宝物探しにも似ているなと感じながら、ふたたび、そこから一路新宿まで取って返し、道々、その方の興に応じて、性の誕生秘話から発情徴候を失ったヒトの性、トロブリアンド・アイランダーズの驚くべき性観念に至るまで、「セックスの人類学」を講し、その日は、「ヨーヨー人間」(ピンチョン)のごとく、中央フリーウェイを二往復突っ走ることになったのであるが、夜には、震災後、節電のためやや暗くなったように感じられる新宿で、若きFtM(おなべ)たちに、男性ホルモン注射について恋情について玄妙なる話を聞き、新宿に古くからある老舗のラーメン屋に腹ごしらえに行き、夜になって、急に冷え込んだ靖国通りを御苑まで歩いて、そのせいで、翌日、私は風邪をひいてしまったのだが、最後には、その方が、故郷に戻るための夜行バスに乗るのに間に合うように、西口のターミナルまで出向き、バス待ちの群れをかき分けてツアー会社の集合場所にたどり着き、別れたちょうどそのとき、11時32分、久しぶりに、大きな地震が東日本を襲ったのであるが、歩行中だったせいか、ニュースで聞くまで、私にはその揺れはまったく感じられなかったのであるが、人と人との出会いが醸し出す陰影をめぐって、それ以降、わたしの心は激しく揺さぶられたままなのである。


計画停電に思う

2011年04月04日 21時03分05秒 | フィールドワーク

帰国して6日、日本の状況がようやくわかってきた。
その間、計画停電は一度もないが、想定外の自然災害だったとはいえ、電気に慣れた
我々にとっては厄介なことである。

3月に調査地のプナンを訪ねたとき、高台の上に、マレーシア連邦政府の巨額の資金援助によって、かわいらしいピンクの家が建てられていた(写真)。
水道はパイプから敷き、電気は発電機で起こすのだという。

出来上がったら、キリスト教式の礼拝をやってから引っ越すので、そうだ、ブラユン、今度来るときには、薄型テレビを持ってきてくれよ、と言われた。
一方で、現在のところ、発電機は壊れていて、現在住んでいるロングハウスには、この数か月ずっと、電気はなかった。
わたしの知る限り、中国製の発電機はすぐに壊れるし、木材企業から無償で提供されるガソリンもすぐに無くなり、電気のある夜は、年にトータルで数週間程度である。
それでも、なんら人が生きてゆくのに支障はなく、
夜にはランブや蝋燭を灯して、話をし、眠くなったら蚊帳のなかに潜り込んで眠るという暮らしをしていた。

電気は、あればあるで、その快適さに慣れっこになってしまい、急に無くなると、困ってしまうようなものであるにちがいない。

日本の夏の計画停電というのは、想像してみただけで、汗が噴き出てきて、ぶっ倒れそうである。
道が舗装されていて、ヒートアイランド化するので、
電気があって、エアコンがなければ、日本の家屋は、暑熱を乗り切れないのではあるまいか。
だいたいにおいて、この国では、電気が公的に安定的に供給されるという前提の上に、建物・家屋は設計されてきた。

我々文明人は、いまから、電気のない生活などに戻れやしないのだろうな。
いっそ、プナンのような藁葺やビニールシートをかけただけの小屋に住むならば、地震で倒壊した
としても、それほどの怪我をしないのだが。
陽が昇れば起きて、沈めば寝るというような
原始に戻れやしない、だから、エネルギーを安定的に供給することだけにしがみつくしかない。
ああ、なんと憐れな、悲しき、我々文明人よ。

でも、余所では、こんなことは、あまり言わないようにしよう。


対象そのものについて語らないこと

2011年04月03日 21時33分36秒 | 人間と動物

ジュラロン川のプナンにおいて顕著な実践は、「対象そのものについて語らない」傾向があるということであるような気がする。
気がするというようなあやふやな言い方をするのは、今回、話を聞いたのが、わすかな人たちからだからである。
対象そのものについて語らないことは、聞き手に対する衝撃を避けるために、否定的な意味を含む語句を他の語句に置き換える、「婉曲法」に似ている。
婉曲法は、'substitution for an expression that may offend or suggest something unpleasant to the receiver, using instead an agreeable or less offensive expression, or to make it less troublesome for the speaker'という意味では、ユーフェミズム(euphemism)である。
日本語で、婉曲的な表現といったときに、結婚式で、別れるとか割れるという表現を避けることも、その範疇に入るのかもしれない。
そうした言葉を使うと、言われたことがそのうちに実現すると考えられて、「
忌み言葉」として避けられるのである。
なぜだろう、言葉そのものに、物事を実現する力のようなもの、すなわち言霊のようなものが認められていることと関わるのだろうか。
このあたりのことについて詳しいことは知らないが、プナンの実践は、超自然的という意味では、
日本語の「忌み言葉」の実践に少しだけ似ている。

ジュラロンのプナンは、狩猟に出かけて、動物がいたらその動物の名前を呼ばないし、必要であれば、動物の名を別のものに言いかえる。
マメジカ(pelano)なら「細い足首(sik beti)」と言い、シカ(payau)なら「長い太もも(buat pakun)」、赤毛リーフモンキーなら「赤毛(nebara bulun)」と言いかえるのだという。
また、料理をしているときに、料理をする(matok)という言葉を使ってはいけないとされる。
魚を似ているときに、そのことを言ったら、
魚はいつまでたっても煮えないのだと言う。
プナンは、だいたい、以下のように説明する。
本当の動物の名や、料理するという語句が、ウガップ(ungap)=邪霊に聞かれたならば、邪霊によって、人間の意図が阻まれるのだ。
ウガップは、一般に、人間の行いの成就を阻む存在として、恐れられている。

すると、対象そのものについて語らないという言語実践は、わたしたちが心得ているような
婉曲法とは、かなり異なるものであるということになる。
婉曲法は、基本的に、人が人に配慮するものであるが、プナンの「婉曲法」は、人が霊に対して配慮するものでもある。
この点は、きわめて重要であると思う。
プナンにとって、世界は、人と人によって成り立っているのではなくて、人と人、人と霊(目に見えない存在)、さらには、人と動物も含めて成り立っていることを示しているからである。

人の行動や人の意図を読み取ろうとする邪霊に聞かれることがないように、プナンは、対象そのものものについて語ることがない。
つまり、そこでは、世界は、人間存在と人間以外の存在から成り立っている。
おそらくは、それは、長い間に人類社会で培われたふつうの考え方であったと思う。

ひるがえって、実証的な合理主義によって葬り去られたのは、人間と非・人間からなる
世界ではなかったのか。
人と人の間だけの「社会」が、わたしたちの世界の中心に位置づけられている。
覚書として。

(ジェラロン川にムカパン川が注ぎ込むところにあるプナンのロングハウス。ここに3泊した。)


作業日誌

2011年04月02日 18時21分25秒 | 大学

ふたたび、文化人類学の授業のWEB構築について。
1~7回,17~22回、24回,26回,29回の計16回分のアップ作業完了。
1回分におおよそ3時間かかり、1日3回分が限界、3日オフィスに閉じこもって9回分か。
作業そのものは、教え方をいろいろと考えながら、映像の選択を楽しむことができる。
こうしてみると、文化人類学ってのは、やわらかい頭の学問って感じがして、愉しいと思う。
YouTubeには著作権の問題で消去される映像もあり、映像の管理が課題かもしれない。
著作権の問題を考えて、これから、鍵をかけることなどの方策を考えねばならない。
これで履修学生の関心を高め、
学習効果が上がるという保証はまったくない。
壮絶な失敗、徒労だけに終わるかもしれないなあとも思ったりする。
ま、いっか、そんな命ををか
けるようなもんでもないし、ある種の実験として。
文化人類学そのものというよりも、私の経験や発想に大きく色塗られている。
地獄の黙示録やカルチャークラブなどはいらないかもしれない。

授業のことを考えると、計画停電のことなど視野に入れていないが、大丈夫だろうか。
全体としては、文化人類学として貫くべき軸が、いまひとつユルイような感じがする。
私たち現代日本人の感覚の延長線上で物事を考えないという点なのであるが。
以前作ったページを見ると、内容が練られてない感じもする。
画面とその作成を、有志の文化人類学者で共有してもいいのかもしれない。
より適切な授業づくりに向けて、相互に意見・情報を交換しながら作っても。
同じようなことを考えている文化人類学教員は、どうか研究会などで声をかけてください。
以上、作業日誌。
写真は、ボルネオ先住民の仮面。

 

 

 

 


d'Bagindas

2011年04月01日 00時00分10秒 | 音楽

Akeu aleu 2 CD Indon, jah ineh d'Bagindas jian lan!・・・U, piah Penan.
Aku terus dua hari ini dengar CD d'Bagindas yang dijudul "C.I.N.T.A". 
Senag hati semua lagu dalam CDnya dapat didengar melalui YouTube. 
Aku paling suka "Tak Serindah Malam Kemarin" yang no.4 sekarang. 
Lagu terutama pun bagus sekali!

インドネシアのCDを2枚買った、そのうちの一枚ドゥバギンダスのものがメチャイケ、ありゃ、プナン語だ。
 C.I.N.T.Aと いうタイトルのドゥバギンダスのCDを二日間ぶっ続けで聞いている。
そのCDのなかの全曲がユーチューブで聞けるのはうれしい。
4曲目の"Tak Serindah Malam Kemarin"が、今のところ一番好きだ。
最初の曲もかなりいい。
     

Apa yang terjadi
C.I.N.T.A
Empat Mata
Tak Serindah Malam Kemarin
Dimana Sumpahmu
Kumenunggu
Buktikan
Setia

Kangen
Suka Sama Kamu
SayangDihatiku Ada Namaku