たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

フィールドワークを終えて

2007年03月30日 12時50分04秒 | フィールドワーク

今夜の便で帰国する前に、この一年間のフィールドワークとは、どのようなものだったのかについて、自問してみたいと思う。

わたしは、2006年の4月に、現代日本社会のありようとは大きくことなる暮らしをする人びとの只中に暮らして、「人間とは何かという」、何の変哲もないが、これこそが人類学のテーマであるというべき問いを追及したい、という思いを抱いて、
マレーシアのサラワク州にやって来た。いくつかの偶然が重なって、いまから40年ほど前に、ジャングルのなかで移動しながら、動物を狩り、植物を採集して生きるという暮らしから、部分的に、川沿いの村に住所をもち、稲作によって、米を生産するという生業を取り入れるようになった、B川のプナン人のセトルメントにたどり着いた。

このフィールドワークを始めるにあたって、わたしには、
ひとつには、この10年ほどの間に、現代日本の制度、枠組みのなかに身を置き、それを知らず知らずのうちに前提として語るというように、そこにどっぶりと浸かってしまった自分自身を見つめなおし、相対化したいという思いがあった。大学教員に与えられた学外研修という、稀有な制度を利用してのことであるが。

もうひとつには、表象の問題の泥沼に入ってしまった人類学が、その泥沼から抜け出すあがきを続けるなかで、身近な他者や
現代社会の構造的な問題に取り組んだり、開発や医療などの面で、社会にコミットできることをアピールして、コンテンポラリーな学問へと変身していくのとは裏腹に、まさに、そのことによって、人類学がくだらないものになっていくように感じられていたので、このフィールドワークをつうじて、「未開のスペシャリスト」としての人類学へと先祖返りした上で、ふたたび、起爆力あふれる人間観を発信しよう、少なくとも、そのような人類学者の一部でありたいという願いがあった。

それらが達成できたかどうかは、とりわけ、第二の点については、いまの段階では心許ない。かなり実際的な問題として、ひとつには、言語の問題がある。プナン語は、一年の滞在を終えるにあたって、ようやく分かり始めてきた。ことばがわかるとは、人名、地名などの固有名詞を含めて、その背後にある文化(的行動様式)が分かるということにほかならない。わたしの他の民族調査の経験からいえば、1年を過ぎたころから、自在にことばを操ることができるようになる。その意味で、もうしばらくフィールドを続けていたかった、と思う。

もうひとつには、当初の研究テーマの設定からの、漸進的な、あるいは、曲がりくねった、
とでもいうようなテーマの変貌がある。フィールドワークでは、研究テーマは、経験をつうじて、弁証法的に深化する。当初わたしは、他の狩猟民における「感覚」の編成の興味深さから、感覚の問題の調査を始めた。しばらくの後、それに、特に、面白いものがないことに気づき、しだいに、ハンティングの実践と知識の領域へと向かった。ハンティングの実践の場への参与は、わたしを、人間と動物(自然)の関係というテーマへと向かわせた。狩猟民プナンの想像力は、人間と動物の間の複雑な関係のなかで養われる。わたしは、神話や語りを蒐集して、ようやく、プナンの宗教的実践のありようを解読する手がかりを得ることができたように思う。それと並行して、時の観念の希薄さ、備蓄や計画性の欠如などを観察することで、人類史における狩猟民社会の再構成というテーマへと至った。それらの問題を、今後、たんなる環境決定論的な観点からではなく、他の狩猟民との比較検討をつうじて、考えていきたいと思っている。

しかし、そのようにして見出されたテーマを、わたしが、どのように書いていくのか、
というとてつもなく大きな問題が残っている。記述し、議論するために、わたしは、プナン社会で暮らしたのだと割り切っていうことは、今の段階では、できない。プナン社会には、人間について考えるための手がかりのようなものがあったのかもしれないと、いうくらいのことならいえるのかもしれない。その上で、どういう書き方ができるのか、考えなければならない。

クアラルンプール、チャイナタウンにて


反省する文化の誕生

2007年03月29日 12時07分30秒 | エスノグラフィー

フィールドワークをつうじて、その初期段階で感じていた違和、心地悪さみたいなものが、しだいに、すこしずつであるが溶解し、理解可能なものとなるとき、それに対する理解からわたし自身を遠ざけていたものとはいったい何であったのか、わたしを呪縛していた文化的な背景とはどんなものであるのかについて、考えてみるようになる。

わたしがフィールドワークの初期段階で抱えていた違和のひとつは、「プナンは現実を生きているだけで、反省のようなことをしない」、というものであった。バイクを貸しても、パンクさせて、何もいわずそのまま返してくることや、バイクのポンプを貸しても、トレーラーに引かれてペチャンコになったまま、何もいわずに返却してくることなどなど、さまざまな個人的な体験が、そのベースにはある。

酒を買うために人の持ち物(チェーンソーの刃、銃弾、現金など)を盗む性癖のある男は、妻や家族にその行為を咎められると、彼は、より以上に、酒を買ってがぶ飲みするようになった。彼は、まったく反省していないように見えた。プナンには、反省するという内容にズバリ対応する言葉はない。
人びとは、その男がいないときに、話し合い(petok)の場をもった。その場では、当の男の責任を追及するのではなく、話し合いの参加者が、それぞれの持ち物について、盗まれることがないように、つねに注意を払うようにということになった。

ビッグマンは、新しく購入した四輪駆動車でイノシシ猟にハンターたちを連れ出し、獲れたイノシシの肉を売って得た現金を、車のローンの支払いに当てる計画を立てた。イノシシが獲れたとき、それらをしとめたハンターたちが、木材伐採キャンプまで売りに行く。売りに行って狩猟キャンプに戻ってきたハンターたちは、いくらで売れたのか、全メンバーに対して報告するが、ビッグマンには、いつも売上金の10分の1ほどの金額しか手渡されなかった。何に金を使ったのかは明らかにされなかったし(酒の消費に消えたことが噂された…)、ビッグマンも、そのことをあえて問うようなことはなかった。話し合いが開かれた。その場で、個々のハンターに責任追及が及ぶようなことはなかった。その後、車のドライバーが、主に売上金の管理する役を担うということになった。

プナン人は、狩猟や漁労に出かけたり、さまざまな用事で出かけたりするとき、
失敗や不首尾、問題の発生について、個人に責任が求められたり、「個人的に」反省するようなことはないように見える。失敗や不首尾は、個人の責任というより、場所や時間、道具、人材などについての共同体の集団的な方向づけの問題として取り扱われる。いいかえれば、失敗や不首尾があれば、話し合いの機会をもつが、そこで、個人の力量や努力などが問題とされることはなく、ましてや責任の追及が行われるようなことはなく、長い長い話し合いの後に、今後の方策のようなものが立てられるだけである。

ひるがえって、わたしたち現代日本社会に、このやり方を照らして見るならば、われわれのやり方の行き過ぎにつき当たるように思われる。営業・学業成績の停滞は個人の怠慢であり、目標の未達は個人の努力不足であり、場合によっては、その様態は、おせっかいにも数値化されることで、個人の内面へと反省を強いることが、ますます増えてきているように思う。わたしは、そのことによって、現代日本は、ますます住みにくく、生きにくくなってきているのではないかと感じている。

個人へと責任を帰着させるならば、個人は、精神的にも身体的にも、大きなダメージを受けることになるのではないだろうか。個人の能力や技量が独立的に個人に帰属するものであるとみなされ、個人に責任が帰され、その責任が追及されるような文化は、どのようにして生み出されたのであろうか。

わたしは、個人的には、集団・共同体による目標と方向づけを、メンバーがゆるやかに共有し、不首尾や失敗を、誰のせいにするのでもなく、反省せず、次の方策へと進んでいくような、一見すると責任放任主義のように見える
プナン式のやり方を、好ましく思う。プナン社会には、そのせいであろうか、自死や精神的なストレスというものがない。わたしも、プナンにならい、現代日本社会で、反省しないで生きる努力をしてみたいと思う。あるいは、深く反省しているように見せておきながら、実は、なんとも思っていないというような、裏技を使えるようにしたい、とも思う。


動く住まいあるいは始原の小屋

2007年03月28日 19時11分25秒 | エスノグラフィー

3月になって、ジャングルで寝泊りして狩猟することを目的として、L川の流域に出かけた。わたしたち一行20人ほどが到着したとき、そこには、すでに10人ほどのプナン人たちが狩猟キャンプを設営していた。そこに寝泊りするのかと、わたしが尋ねると、わたしたちのリーダーはそうだと答えた。どうみてもそのキャンプは、30人もの人を収容できるとは思えず(15~20人がせいいっぱい)、わたしは心配になった。夕方になると、数人の男たちが、木を切り出して、それを地面に直接並べて、屋根にはプラスチックのシートをかけて、急ごしらえで、寝場所をひとつしつらえた。わたしには、もともとあった高床の場所に寝床が与えられた。

プナン語で、そのような小屋は、ラミン(lamin)と呼ばれる。それは、周辺の定住民のことばウマ(uma)から借用したと思われる家、ウモゥ(umeu)よりも、簡易なつくりの小屋のことを指す。プナンの小屋の床(lego)には、できるだけまっすぐな木(直径5センチほど)が、敷き詰められる。寝るときには、その上に、木の皮あるいはプラスチックのマットを敷く。最初は、硬くて寝心地が悪いが、そのうち慣れてくると、水分を含んだ木は、身体にピッタリとフィットしてくるように感じる。木の節もツボにあたるとじつに気持ちがいい。

狩猟キャンプ宿泊初日の夜、雨が降った。雨漏りした屋根の部分には、翌日、葉が詰められた。また、前夜は、プナン人たちは、スペース不足で窮屈な思いをしたらしく、大勢の人びとを収容するために、小屋をつくることが決められた。寝床は、そのまま、そのことを話し合うための議場となる。男たちは、木を切り出しに行き、あっという間に、かまどの裏とわたしの寝床の隣に、それぞれ、二人用、家族用の寝場所をつくった。

プナンの建築は、木の二股になった部分(pibung)を巧みに利用する。二股になった木の他方の端を地面に突き刺して、地上の二股の部分に横木を渡す。それと平行に、同じようなものをつくって、横木と垂直に木々を敷き詰めて、床をつくっていく。
必要があれば、籐の繊維で、木と木を結わえる。プナンの建築は、シンプルな力学から成り立っている。どの方向に力がかかるのかを瞬時に読み取って、適当に、ゆわえながら組み立てていく。

ところで、プナン人にとって、木を切ったり、木を削ったり(、動物を解体したり)するための「刀」は、重要である。刀には二種類ある。山刀マラット(malat)と、小刀ペナート(penaat)である。その二つを上手に使い分けながら、作業する。プナン人は、集まると、刀の見せ合いをする。プナン人は、古くから、すぐれた鍛冶技術を持っていたことでも知られる。現在でも、その技術は、周辺の民族からも高く評価されている。クニャー人たちは、プナンの村に鉄を持ち込んで、鍛えてもらって、木材伐採や細かな作業、動物肉解体などにすぐれた刀を手に入れる。

さて、その翌日、イノシシがたくさん獲れて、それを木材キャンプに売りに帰るメンバーが出てきた。子どもが病気だという知らせを受けて、狩猟キャンプのメンバーのうち、数人が離れた。30人ほどいた狩猟キャンプのメンバーは、その日、20人弱に減った。その翌日になると、今度は、入れ替わりに、別のメンバーが狩猟キャンプにやってきた。そのようにして、狩猟キャンプのメンバー構成は、固定的なものではなく、つねに流動的である。そのような流動性にあわせて、狩猟キャンプの小屋のスペースは、柔軟なかたちで利用され、人数が増えると、周辺のジャングルから木が切り出されて、新たなスペースが生み出される。木のしなやかさが利用されるとともに、プナンの住まいも、状況に応じて、しなやかにつくり変えられるのである。

プナンの住まいを見て感じるのは、彼らの住まいとは、基本的に、雨風暑さ寒さをしのぐためのものだということである。同時に、そこでは、人が集い、食事をし、眠り、(幼いこどもたちは)糞便をし、話をし、情報と意見を交換する。その空間は、そのすべてを行う場となる。
プナンの住まいは、熱帯雨林という周囲の自然環境に応じて、仮の住まいとして、シンプルだが頑丈で、最小限の機能を担っている。それは、あくまでの仮のものであり、人は、その小屋あっさりとを捨てて、じつに安易に移動する。

素材は、ジャングルに豊富にあるし、住まいをつくるのは、彼らにとって、煩わしいことではない。ひるがえって、現代社会の住まい、建物は、収容人数が増えても、簡単には継ぎ足すことなどできないし、電気やガスなどのインフラが埋め込まれていて、それが利用可能であれば快適であるが、それらがいったん寸断されると、個人にそれらを回復する力がない。プナンのような住まいが始原であるかどうかははっきりしないが、われわれはいずれにせよ、住宅の建築に関しては、後戻りができないほど、ずいぶんと遠くに来てしまったような気がする。

プナンの神話では、かつて、プナン人は洞窟に住んでいたことになっている。口頭伝承は、いつごろからプナンが、小屋がけするようになったのかについて、何も語らない。小屋に関しては、奇抜で、かつわたしの想像力では理解するのが困難な、以下のような、口頭伝承がある。

昔、小屋は一人で歩いていた。クリアップ(ヤモリの一種)には、子がいた。クリアップが子どもに水浴びをさせているときに、小屋がやって来て、踏みつぶして、死なせてしまった。怒ったクリアップは、小屋の柱を殴った。それ以降、小屋は、動かなくなったのである。

住まいは、かつては、しなやかな生物のような存在であったのかもしれない。


物惜しみしない熊のように

2007年03月27日 13時21分16秒 | エスノグラフィー
昔、熊(buang)だけに尾があった。ほかの動物には尾がなかった。シカやマメジカたちは、自分たちにも尾があれば、さぞ見栄えがいいだろうと思って、次々に、熊に尾を分けてくれるようにねだりに行った。熊は来る動物来る動物に尾を分け与え、最後にテナガザル(kelevet)がやって来たときには、熊には分け与える尾が残っていなかった。それで今日、熊とテナガザルだけに尾がないのである。

熊とテナガサルだけに尾がないことの起源を語るプナンの口頭伝承(suket) 。熊は、プナン人そのものでもある。プナン人は誰でも、物をねだられると、よほどのことがない限り、それを分け与える。わたしがプナンからねだられて分け与えた、時計、ラジオ、サングラス、ライター、リュックサック、シャツなどの日本製品は、ほとんどが、その日か次の日には、当のプナン人から別のプナン人に所有権が移っていた。その後、わたしは、そのうちの幾つかに、遠く離れた別のプナン人居住地ででくわすことになった。プナン人は、ねだられるとすぐに物品を分け与え、そのようにして、昔話の熊のように、自分の物がなくなってしまうのである。

所有欲、そして、その反対の気前のよさが、プナン社会では、奇妙に同居している(それに対して、物を大切にする気持というのが、少し欠けている)。プナンの共同体のリーダーであるビッグマン(lake jaau, lake=man, jaau=big) は、その頂点に君臨する存在である。彼は、金や物をはるばる持ち帰っても、ねだられて、それらを、すぐに、人びとに分け与えてしまう。金や物品は、たんに、彼を通過するだけであるかのようである。そのため、ビッグマンは、自分のためには、ほとんど何ももたない。彼は、惜しみなく人びとに分け与えるため、熊のように、何もなくなってしまう。そのような自己犠牲の見返りとして、彼は人望を得ることになる。上の熊の話は、熊に自らを重ね合わせるビッグマンによって語られたものである。

対称性の実践的哲学

2007年03月26日 14時32分22秒 | 人間と動物

対称性の人類学は、各項の間の圧倒的な非対称の関係(人間と動物、ある人間集団と別の人間集団などのそれ)の始原にまでさかのぼって、人類における<一>ではない、<多>の潜在を示そうとしている点で、レヴィ=ストロースの「野生の思考」の流れを汲む、しなやかな文明批判になっている。エスノグラファーが挑むことのひとつは、その壮大な構想を、ある社会集団の観察に照らして、考えてみることである。

プナン社会には、人間の行為の愚直さ、動物の起源などの示す豊富な神話群がある。しかし、人間と動物が溶け合って暮らしながら、対称性のなかで生きることを語るような神話は存在しない。プナン社会では、人間と動物の対称性は、神話とはことなる領域において現前する。

そこでは、動物をからかってはいけない、動物をさいなむべからずという規範が、人間と動物の間の対称性を保持するための実践的な哲学として存在する。獲れたての動物肉を解体する際、子らは、解体者のまわりで、肉の破片や身体のパーツを遊びの道具としたり、もて遊んだりしようとする。すると解体者や大人たちは、子らのそのような不作法を厳しく戒める。わたしたちがそれらによって生を永らえている動物を貶めるとみなされる行為は、つねに咎められなければならないのである。

そのような不作法が行われたならば、動物の魂 (balewen)は、雷神 (balei gau)のもとへと向かうことになる。雷神は、怒り狂って、洪水を引き起こし、ときには、人を石化させる。動物をさいなんではならないという規範は、雷神による強い制裁を発効させないためにあるのだといえる。

そのような実践は、人間と動物の間の対称的な関係を維持するためのものではないだろうか。その実践は、プナン人が、動物に対する人間の側の絶対的な優越、いいかえれば、人間中心主義に陥ることを、結果的に防いでいる。いったん人間の動物に対する圧倒的な非対称を認めるならば、人は動物をたんなる食材としてしか見なくなり、一元的な原理に支えられた資本主義社会へと転が(り落ち)るだけだからである。


ジャングルの猟

2007年03月25日 12時18分31秒 | 人間と動物

3月に入ってから、狩猟キャンプで暮らした。そこでは、12日間に15頭のイノシシ、6頭の子イノシシ、1頭のシカ、1匹の大蛇が獲れた。イノシシについていえば、1日に1頭強の割合で獲れたことになる、わたしたちは、来る日も来る日も、飽きるまで猪肉を食べつづけた。人びとは、毎日狩猟に出かけるのではないので、出かけると、ハンターたちは、2、3頭のイノシシをジャングルから持ち帰った。その大部分は、木材伐採キャンプに運んで、売られた。

興味深いのは、子イノシシがたくさん獲れたことである。それらは、みな生後1ヶ月くらいのものであった。撃ち殺された母イノシシの乳房からは、大量の乳が出た。プナンは説明する。昨年の末頃から、そのあたりのジャングルには、たくさんの果実が実っている。それを目当てに、イノシシがやって来たのだ。そこで、イノシシは交尾をする。しばらくすると、同じ時期に、雌イノシシが、それぞれ数頭ずつ出産する。

プナンのハンターは、この時期、ジャングルに集うイノシシを狙うのである。他方で、この時期、油ヤシのプランテーションには、イノシシはいない。イノシシは、果実を求めて、すべてジャングルに戻っているからである。わたしたち人間もまた、来る日も来る日も、かわるがわる、幾種類もの果物を食べた。

果実の季節(daun buwe)は、プナンにとって、重要な季節である。自然が生み出す実りに合わせて/を求めて、プナンは暮らしている。その意味で、プナン人は時間意識が希薄だという、わたしのこれまでの印象は、補正が必要となるかもしれない。