たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

文化人類学の原液

2008年02月27日 23時30分22秒 | フィールドワーク

大学院生や研究所の所員でもないかぎり、大学で職をもつ文化人類学の教員がフィールドに出かける時間は、ごく限られたものにとどまらざるをえない。わたしが今回予定している1ヶ月のフィールドワークを含めた海外旅行は、人類学者からだけでなく、同僚の教員からを含めて、多くの人たちから羨望のまなざしでながめられているように思う。よくそれだけ行けるものだと。個人的には、そのことを実現するためには、その期間のさまざまな仕事の前後への振り分けを含めて、並々ならぬ手続きにあたらなければならないのだが。しかし、わたし自身は、一ヶ月ほどの「はした時間」では、まったく不十分だと思っている。

今日、フィールドワークは、途切れ途切れになってしまわざるをえない。海外渡航ができなかった時代から比べれば、それでもいいかもしれないが、一時期に比べて、大学を取り巻く日本の社会状況が変化して、学務と雑務に追いまわされて、
人類学者のフィールドワークに費やす時間はますます短くなっているのではないだろうか。それが、今日の大学の文化人類学者の抱えている現状ではないかと思う。

わたしは、いまさらながら、フィールドワークの大きさを感じる。テーマなど、何もなくてもいいのではないかと思う。その場に身を置きながら、発見できることのなんと多いことかと思う。そういった「未開」に、フィールドワークに行かなければならないと言うのは、極端すぎるであろうか。いずれにせよ、
人類学のフィールドワークは、テーマ研究などではなくて、そこに身を置くことによって、経験し、考えることなのだったのかと、わたしは改めて感じている。

最近、池田光穂先生が、「医療人類学を学ぶこと/教えること」という、第42回日本文化人類学会で予定している分科会のホームページを立ち上げてくださった。

http://cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/080224LT_med.html

その分科会で、わたしのテーマは、「医療人類学の原液」なのだけれども、わたしとしては、それは、「文化人類学の原液」の問題でもある。薄まった文化人類学の原液を、どうしたら、どろどろの濃い原液にできるのか。質の悪い比喩を使って、わたしが表現しようとしているのは、フィールドワークをつうじて、ふたたび、文化人類学を、ワクワクするような学問へと組み替えることができるのかどうかということである。

(写真は、プナン人居住地のロギングロードを通る木材運搬車)


所有の起源

2008年02月26日 18時56分29秒 | 起源人類学

わたしが、「Aくん、いま、1万円ある?あったら出しておいて」というとき、その後に、「あとで、すぐに返すから」と加えれば、その行為は、Aくんからお金を「借りる」という行為になる。しかし、わたしが、「Aくん、いま、1万円ある?あったら出しておいて」とだけ言って、「あとで、すぐに返すから」という文言を付け加えなければ、たとえ、Aくんに1万円の持ち合わせがあったとしても、その場で、Aくんがお金を出すかどうか分らないだろう。Aくんにとっては、1万円を、たんにわたしに与えることになるかもしれないのだから。そのような場合、Aくんはふつうわたしに聞き返すだろう。「いつ返してくれるの?」と。その返答があって、そのやりとりは「貸し借り」のやりとりとなる。わたしたちにとっては、きわめてあたりまえのことである。

しかし、プナンの人びとのやりとりは、そうしたわたしたちの「貸し借り」のやりとりを無効化するほど、ちがっている。プナン人同士では、上で見たようなかたちでの「貸し借り」のやりとりはなされない。つまり、「あとで、すぐに返すから」というようなことばが、付け加えられるようなことは、ひじょうに少ない。付け加えられなくても、だいたいの場合、持ち合わせがあれば、頼まれたほうは、お金を支払う。場合によっては、
「お金ちょうだい、明日返す(=戻って行く)(akeu manii rigit sagam mulie)」という言い方がなされることがある。
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/63bec4cffeb9c58ef2c493004870de63


そもそも、プナン語には、基本的には、「借りる」「返す」ということば自体がないのである。マレー語から借用して、「お金を借りたい(mau minjam)」というような言い方をする場合もある。細かいことを言えば、プナン人が置かれている社会環境の変化を背景として、いろいろ厄介なことがあるが、とりあえず、ここで確認しておきたいのは、プナンは、そうした「貸し借り」の概念をもたないということなのである。

いったい「貸し借り」が成立するとは、どういうことなのだろうか。それは、「所有」することに関わる問題である。「貸し借り」が成立するためには、財が、誰かに「所有」されていることが、まずは、前提とされなければならない。でないと、貸したり、借りたりできない。プナン社会では、そういった財の「所有」が、どうやら、前提とはされていないのである。

大庭健は、「所有」について、以下のように整理している。

所有は、原理的に、(1)他者による承認を必要とし、(2)「私」であることと「排他的」であることの関係に関わる、人間的な概念である。のみならず・・・(中略)・・・(3)私たちは、自分が生きている・自分がいるという「存在」の事実を、自分「の」生命・能力等々をもっている、という形で「所有」の事実に回収してしまう思考回路から、いまだ自由ではない(大庭健『所有という神話:市場経済の倫理学』岩波書店、2004年、98ページ)

よく分かる気がする。「所有」とは、要するに、財をめぐる人と人の間の組織のされ方の問題なのである。

大庭の「所有」の観念を手ががりとすれば、プナン社会は、何らかの財を、排他的に、私的に所有するものであるということを、他者および共同体が承認することが、あまりないような社会であるということができるのかもしれない。別の角度から言えば、プナン社会では、そのようにして、財を、排他的に、私的に所有されるものとして、お互いに主張し合いながら、人間関係の組織化がなされていないのである。プナン社会では、財を、排他的に、私の意のままに用益し処分していいという考え方は、育まれてこなかったように思われる。

土地所有権だけではなく、知的所有権にいたるまで、所有者の権益は守らなければならないし、そうした考えをベースに組み立てられている社会のなかで生まれ育ったわたしにとって、プナン人のモノに対する態度は、長らく、驚きや不思議さ以上の、何が何だかわからない、つかみどころがない事柄であった。ことによると、商業的な森林伐採に対するプナン人たちによるジャングルの所有権の主張は、州政府とプナン社会の歴史的・政治的な交渉の場面において、出現したものなのかもしれないとも思う。

いまから思い起こせば、わたしが難渋したことは、フィールドワークをはじめて間もないころ、プナン人たちは、マレー語を用いて、「お金を貸してほしい」とわたしのところにやってきたことである。貸したお金の回収率は、ほとんどゼロに近い。プナン人には、マレー語の「貸す」「借りる」という語を用いても、「返す」という意識がなかったのではないだろうか。

さらに、より丁寧な人たちは、「いまお金がないので、助けてくれないか」とわたしのところにやってきた。このことばには、「貸し借り」の原理が、まったく組み込まれていない。この種の文言は、日常的に、わたしがプナン語で会話をするようになった後でも、プナン人たちはよく使ってくる。つまり、最初から「貸してほしい」ではなくて、「あったら融通してほしい」ということなのである。

さらに、プナン社会の人間関係の網の目のなかに組み込まれていくにしたがって、わたしの所持金、所有物(サンダルや長靴、カバンなど)は、わたしが排他的に私有しているのではどうやらなくて、人びとは、他に使えるものがない場合には、いつのまにか、わたしの所持金、所有物を原則的にはみなで用いているということに、わたしは、しだいに気づくようになった。

プナン人たちは、「所有」に関して、そういった原理・原則をどのようにして持つようになったのかという問いは、わたしたちが、どのように、現代社会における「所有」観を持つようになったのかということを問うのと同じように、重要であると思う。そのことこそが、人類学が問わなければならない問題のひとつであるわたしはと思っている。

「所有」の起源は、いったいどのあたりにあるのか。

ところで、稲葉振一郎・立岩真也の『所有と国家のゆくえ』(NHKブックス、2006年)の「所有論」に決定的に欠けているのは、わたしたちの外部に位置する人びとの「所有」をめぐる行動や考えに思い至ろうとはしないという点にあるように思える。つまり、わたしたちの「所有」を、徹頭徹尾、議論考察の対象としている点にある。

「『ものが落ちている、拾ってラッキー』じゃないんですね。ものが落ちているときに『誰の?』って考えちゃうような主体なんです。そこにあるものを『ラッキー、あった、拾った』ってことが、本当に自明で無前提な議論なのか。そうではないんじゃないか。「なんかあるんだけど、これって誰の?」っていうふうな立て方で議論が進められるんじゃないか」(前掲書、24ページ)というのは、基本的にはそのとおりだと思う。しかし、立岩が、「所有に対して所有のない状態とか、私有に対して私有じゃない共有であるとか、そういうふうに考えなくてもいいんじゃないか」(前掲書、27ページ)と言いながら、「ぼくが批判しているのは、われわれの社会における私有のあり方です」(前掲書、28ページ)と述べるとき、「われわれの社会」以外の「所有」の地平へと向かう想像力の欠如を感じる。

では、いったいどう考えればいいのか。「所有」についても、わたしたちは、またしても、中沢新一の人類学的な想像力に頼ることになる。

農耕以前の狩猟を生業とする社会では、財は、確たるものではなく、不安定なものであった。人間は、自然のなかに生きる動物を偶然に与えられ、生きながらえてきたのである。そのことを踏まえて、中沢はいう。

すべての財産は、物質性をもたない『無』の領域から『有』の世界に贈り物としてやってくる。だから、その出現も、喪失も、神と人とのあいだのデリケートな関係に左右された。すべてが壊れやすく、安定した財産は少ないかわりに、人間には自然にたいする、深い倫理観が成長できた(中沢新一『純粋な自然の贈与』せりか書房、1996年、22ページ)

財は、だれそれの排他的な私有物というのではなくて、自然からの贈り物として、共同体のメンバーが生きながらえるために、共有されたのである。そして、財の不安定性をベースとする、そのような「所有」観が崩れるのは、農業革命以降のことではあるまいか。

狩猟採集社会における「糧」とは、じつに不思議なものである。同時に、ひじょうに不安定なものである。それは、自然に対する働きかけから生まれるのではなく、つまり、「有」が「有」を生み出すのではなく、自然そのものが生きるための糧を生み出すという、「無」が「有」を生み出す仕組みのなかに、立ち現れてくるものである。逆に、農業革命以降のわたしたちの社会では、自然に対する働きかけという「有」が食糧という「有」を生み出すという仕組みをベースにしている。それはまた、貨幣がもつ、「有」が「有」を生み出す仕組みにフィットする。

そういう(=狩猟を生業とする)世界では、地上の富の発生も不安定だし、保存も不安定だ・・・(中略)・・・そこに、農業革命が生まれたのだ。農業は『死への恐れ』を反映している。繊細な倫理の関係によらなければ、気まぐれな贈与の霊は、豊かな富を与えることを拒否するかもしれないし、財産は貯蔵の効くかたちをもっていない。それに恐れをいだく人々のなかから、農業は発達したのだ(前掲書、22ページ)

人類は、『死への恐れ』につきうごかされて、農業をはじめた。財産はたしかなものとなり、所有は堅固な形式をもつようになった。そして、そのかわりに、自然との契約の精神を失いはじめた。農業には『死への恐れ』、所有の喪失の恐れが潜在している(前掲書、23ページ)

ここで、中沢は、「所有」の起源について、じつにクリアーに語っているように思える。狩猟民社会における「所有」の喪失への恐れこそが、農業を生み出した源であり、農業革命をつうじて、安定的に手に入れることができるようになった財を「所有」することによって、「所有」の観念が、その後、しだいに発達を遂げたのではないだろうか。「所有」の淵源は、「所有」を失うことに対する恐れにあったのだ。

残された課題は、現存する狩猟民社会の「所有」のエトースをよりきめ細かく観察した上で、「所有」の起源をめぐるそのような見通しに対して、実証的なデータを積み上げていくことである。

(誰のものでもないヤシの木に実を取りに登るプナン人の男性


森の足跡学

2008年02月04日 12時04分09秒 | 人間と動物

昨日、降雪があり、多摩地方は、今朝まだ雪が残っていた。雪の上に残る無数の足跡。ふと、プナンの森の足跡学なるものを思い出した。狩猟に出かけると、プナンのハンターたちは、まず最初に、足跡(uban)に目を凝らす。イノシシの真新しい足跡が見つかる。一頭か、複数頭か。それは、どこからどこへと向かっているのか。瞬時に探索する。その場所が風下であれば、動物に人の匂いが届かないから、そのイノシシは、やがて戻ってくるのではないか。そのときに仕留めることができるのではないか。しばらく、ここで待ってみよう・・・という具合に。人によって、探索の程度にちがいがある。足跡を入念に分析をして、待ち伏せる場所をきわめて論理的に組み立てるハンターがいる。かと思えば、直感的に、足跡を追ってゆくハンターもいる。彼らは、動物の糞には、ほとんど注意を向けることはない。イノシシの真新しい足跡を追っていくと、その先に、泥水のたまりに出た。そこで、イノシシは水浴びをしたのだ。イノシシの心持ちのようなものが伝わってくるように感じる。ハンターはいう。「そこでやつは水浴びをしたのさ(ia meru situ)」プナンの足跡学は、動物の足跡だけを見きわめるのではない。先に狩猟に入ったハンターたちの足跡を見て、誰某のものであると特定する。同じところには行かないで、別の猟場へと向かうために。足跡は、ズック靴の場合もあれば、裸足の場合もある。プナン人は、近しい人の足、足元につねに注意を払っているということか。ハンターは、人の足跡を見て、ゆっくり歩いているなと思う。急いでいるときには、歩幅が大きくなる。ズック靴が脱ぎ捨てられている。音を立てないようにして、裸足で獲物に近づこうとしたのかもしれない。脱ぎ捨てられたズック靴から、持ち主の高まる心を読み取る。するとどうだろう、しばらく行くと、足跡の持ち主であったハンターが、イノシシを担いで現れたことがあった。逆に、プナンは、だれのだかわからない足跡があれば警戒心を示す。森の足跡学とは、プナンにとって、足跡を手がかりとして、世界の成り立ちを見るための入り口である。

(写真は、くっきりと残るイノシシの足跡)


鮭塚

2008年02月03日 10時50分18秒 | 人間と動物

先週の金曜日、鮭塚を見に出かけた。ひとつには、人間と動物の関わりのありようの探究の一環として。ひとつには、なぜ、横浜に鮭の墓があるのかということを知りたくて。JR磯子駅から歩いて15分くらいの場所に、金蔵院があった。その駐車場の一角にそびえる巨大ないしぶみ(写真)。石碑の裏には、いまから79年前にこの碑が建立された云われが記してあった。

建碑擔當者 組合長 畑川大作
      
副組合長 中田伴平
曠古の盛儀を挙けさせ給ふ今年は偶本組合の設立弐拾周年に相當せり隆運に會いし協和協和輯穆各志を伸へ業務の順調なるは幸慶禁ナる能はさるなり仍て同志相議り建碑を企て盬魚中最も重要品たる鮭の名に因みて鮭塚を命し以って一は記念となし一は一層結束を固うするの資となさんとせるか幸いに有吉横濱水産會長の揮毫を辱うしたるは本組合の幸榮之に過ぎたるはなし乃ち之か由来を記して他日に傳ふと云爾

昭和三年十一月
横濱市盬魚商組合
陸前石巻 石井敬三郎

これを読むと、水産組合二十周年を記念して(明治期末に設立のようである)、その間業務も順調であり、取り扱い品目のうち、最も重要な鮭の名にちなんで記念碑を建てて、組合の結束を固め、さらなる発展を祈るというようなものであったように思われる。どうやら、鮭や魚に対する供養のためというよりも、大正・昭和期の産業の発展を背景として、組合の振興を記念し、さらなる発展を祈願するための碑であったような印象を受ける。その並外れた大きさを誇るいしぶみは、当時の水産業の勢いのようなものを示しているように感じられる。

しかし、その石碑は、最初からそこにあったのではない。それ
は、新杉田にある牛頭山(ごづさん)妙法寺にあったものが、建立50周年を機に、現在の金蔵院に移設されてきたらしい。石碑の向かって右前にある、小さな石碑の裏面に、その旨が記してあった。「魚塚(鮭塚)の由来」が書かれた小さな石碑は、写真では、右前の灯篭の後ろに隠れてみえない。その大きさのちがいは、水産組合の財力=勢力の変遷を示しているように感じられる。以下は、その小さなほうの石碑に書かれていた文言である。

魚塚(鮭塚)の由来
この題字は当時の市長有吉忠一氏の揮毫になるもので昭和三年塩干商業組合が牛頭山妙法寺の中央小島に建立し爾来五十年の永きに亘り業界発展の願いを込めて毎年十一月に供養を続けて来た
大戦後は中央市場水産部自治会が此の碑の維持管理に当たって来たが此の度建立五十周年を期し当海向山金蔵院の境内に移転改修をすることとした
爾今は魚類全般の象徴として子々孫々魚介類の供養を行い水産関係者の繁栄を祈願する
昭和五十年十一月
横浜市中央卸売市場
本場水産部自治会
南部水産部自治会


最後の文に、「爾今は魚類全般の象徴として子々孫々魚介類の供養を行」うとある。爾今=今から後には、鮭塚は、魚類全般の象徴となり、それゆえに、鮭塚は魚塚でもあるということだろうか。さらには、その魚塚(鮭塚)をつうじて、それ以後、
魚介類の供養を行うということではないか。そこには、思想の転換みたいなものがあったようにも感じられる。この石碑に限っていうならば、魚類の供養というのは、組合の隆盛に煽られて、横浜市長の肝いりで碑が建てられた半世紀の後に、新たに出てきた考え方であるようにも思える。そのことが正しいのかどうか分からない。もしそうだとすれば、その背景には、いったい何があったのだろうか。謎は深まるばかりである。何ゆえ、石碑を移設したのだろうか。毎年11月に供養祭が開かれるという。そういった機会に出かけていって、考えてみたいと思っている。


拝啓、ソニー・ロリンズさま

2008年02月02日 21時35分38秒 | 音楽

昨夜は、Nさんの家にお邪魔して、たっぷりと時間をかけて話すことができた。すぐれたオーディオ機械から響き渡るモダン・ジャズによって生み出された音の快楽空間。50年代後半に、モダン・ジャズは、その頂点をきわめた。わたしは、もう20年以上も前に、モダン・ジャズに一時期狂っていたことがあった。あちこちのディスク・ユニオンで、中古レコードを買いあさった。Nさんのコレクションに刺激されて、あぶりだされる、わたしのモダン・ジャズの記憶のかけら。ソニー・ロリンズの"Sonny Rollins"があった。A面の3曲目"How are Things in Glocca Morra(グロッカ・モラを思う)"。この曲を高く評価するジャズ批評家にお目にかかったことはなかったように、わたしは記憶している。ドナルド・バードの短いトランペットから始まり、ソニー・ロリンズが重厚なメロディーを奏でる。とろけそうだ、とでも表現できそうな、聴覚のなかに現れる触覚。ウィントン・ケリーのピアノ・ソロにつづいて、ソニー・ロリンズによるサビから、ふたたび、ドナルド・バードの絶妙な短い締めくくりへ・・・2回聴いた。いったい、なぜその時代に、ジャズは、そんな高みへとたどり着いたのだろうか。Nさんのコレクションのなかから、ふと手にした「ハーヴァード・スクウェアのリー・コニッツ」の本人によるライナー・ノーツに、その手がかりを見つけることができたように思う。4人の演奏者は、毎晩毎晩演奏しつづけて、人まねはだめだと言い合って、ようやくのことで頂上に達したのだという。そこには、妥協を許すことなく、あくことなく探究をつづける、刺激しあう仲間と空間があったのではないか。ふと思う。人類学は、ある意味、モダン・ジャズではないのかと。反省へと無限に後退し、わけが分からなくなって、しょんぼりとした学問に対する、若手の側からの内破の胎動を、最近聞きにいった社会学系の講演会で、Nさんは感じたという。そのような道行きは、われわれの「来るべき人類学」というプロジェクトに、シンクロするのではないだろうかとも思う。楽観的すぎるだろうか。話題は、プナン人が反省しないことについて。Nさんから、またしても、たくさんの貴重なヒントを与えてもらうことになった。ドゥルーズは、スピノザを再解釈して、倫理を個人の内面の問題として捉えたのだという。他方で、道徳とは、西洋哲学においては、社会が与える道筋のようなものとして捉えられてきたのだという。さらには、キリスト教を経由せずに道徳について考えようとした、ニーチェの『道徳の系譜』。キリスト教の告解は、反省であり、善悪の内面化を促した。酔っ払ったせいで、わたしの理解は、まちがっているかもしれない。いずれにせよ、それらの思考の系譜を辿りながら、反省することやしないこと、倫理や道徳という問題について考えてみたいと思っている。さらに、Nさんからは、日本の右翼思想が、アニミズム的なものに根拠を求めたということを書いている本を読んでいるということを耳にした。これは、宗教を考える上でほうっておくことができないテーマである。今後の課題として、備忘のために。家に帰って、ジャズのレコードを引っぱり出した。あった、ロリンズのブルーノート1542番が。装置が貧弱で音に迫力はないが、繰り返して聞いている。

(写真: Sonny Rollins Blue Note 1542, Recorded December 16, 1956)