たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

日々のあれこれ

2013年02月12日 15時38分14秒 | 大学

早くも今年も2月も半ばにさしかかって、時間を押しとどめる法などなく、もうこうなると、ただただだらだらと流れに身を任せるほかないのであるが、何かを書こう書こうと思っていながら何も書かけないでいるのもそれはそれでいいのかもしれないが駄文でも書こうとふと思い立ち、はて、年初は、『マイトレイ』という、ずっと読みたいと思っていた、ミルヒャ・エリアーデの若き頃の、インドの留学時代の烈しい恋愛の官能を描き、彼の失意の追放をめぐって書かれた、深く心を揺さぶられる自伝的小説を読み、ああ、いいなあと思ったその流れで、

グレアム・グリーンの『情事の終わり』を読み、ちょうどそのころ、直木賞の受賞の発表を聞いて、ミーハー心が首をもたげて、安部竜太郎の『等伯』上下2巻ものを読み、文字の間を漂う感覚のなかで、不世出の絵師の内面の葛藤や達成感などに触れ、つづいて、芥川賞受賞史上最高齢という黒田夏子の『abさんご』を、ひらがなの多さに、「なんか分け分からんなあ」と思いつつ、そう言えば、われわれはひごろ漢字の意味というか、文字のみために支配されているだけなのかもしれないとおもひなおし、蓮見重彦がいうとおり、これはすごい作品かもしれないとかんがえなおしたところで、つづいて、ずっと前に読んだことがあるが、その時はその良さがいまひとつよく分からなかった、レイモンド・カーヴァーの『ぼくが電話をかけている場所』を読んで、長編を書きあげることができなかったのか、はたまた、長編という文学の一般的なスタイルに抗するためなのか、とにかく、村上春樹に見いだされたカーヴァーの短編の絶妙さに改めて驚き、その先に今度は何の脈絡もなく、長嶋有の『猛スピードで母は』にそっと手を伸ばし、「なんなんだろう、ストンと落ちてゆく長嶋の文学というのは」、本を読み飽きたら、読み疲れたら長嶋の本にすべしと思い、2013年1月には7冊も読んで、これならば、1年間に100冊の小説の読破も無理ではないと思ったのだが(編集長のNさんは、なんと昨年は120冊読んだらしい)、2月になると、一冊も読んでいないことに、今のいま気づいたのであるが、ふりかえれば、「動物殺し。」に関して、昨年末のおおざっぱ過ぎた感がある京都での研究会以降、不勉強、日頃のいい加減さを猛省しつつ、動物殺しに関わるトピックの整理検討を開始し、霊長類の動物殺しの文献などを幾つか読みながら、殺すとは何ぞやという根本的な問題について思いをめぐらし、京都学派の生態人類学の動物をめぐる初期の調査を読み、改めて、「供犠」についても思い起こし、「首狩り」も、そういえば「人という動物により人という動物殺し。」ではないかと妄想し、象牙細工や漢方薬などのために動物が人によって殺されきたという、野生動物をめぐるグローバルな問題の広がりに踏み込み、野生動物のブラック・マーケットを考え、

ある研究会のなかで、ある人から教えてもらった、人間に寄生しながら人間を殺していく得体の知れない生き物が扱われた、岩明均のマンガ『寄生獣』を4巻まで読んだところで、今朝、「寄生獣」のようなものがふいに現れるという恐ろしい夢を見たのであるが、その第3回目となる研究会というか、「○○を語る会」は、参加者は芸能、学問などなど様々なバックグラウンドながら、ゆるやかに語り合う、しかもいつも日曜の午後遅く、というサロン的な雰囲気の会で、なかなかに心地よく感じているのであるが、八王子から横浜へ通じる街道筋には、古くは群馬などからの踊念仏の時宗の影響がみられたというのは、かなり興味をそそられる話であったのだが、話は転じて、来週から、プナン人たちといっしょに遠出をしてハンティングに行くという約束を、昨年の8月に行ったときにしてきたのだけれども、

いまだに電話連絡が一向に来ないなあと思いつつ、で、そのために、マラリア予防薬メファキンを先週末から飲み始めたのだが、

他方では、1月の末頃に京都で出席した研究会のキーワードである「バイオマス社会」という用語がここのところひじょうに気にかかっているのであるが、それは、樹木などの植物相に依存しながら生態系がつくられれているありかたのことであり、いわば、熱帯に位置するボルネオ島はバイオマスに高度に依存する「ハイ・バイオマス」であり、その生態を利用しながら暮してきたのは、たんにそこに住む人たちだけではなく、ボルネオ島のハイ・バイオマス社会は、地球規模の交易ネットワークと接続しながら、あるいはグローバルな経済に巻き込まれながら存続してきたようであり、そのあたりの生態面や経済面をこれまで顧みなかったことをやや悔いながら、今後、本質主義的なプナン像を提示するだけになりそうだ、それはまずいということを思いつつ、バイオマス社会はことによると新たな社会モデルの提起になるのかもしれないと夢想しつつ、他方で、ジャレッド・ダイアモンドの新著は、比較文化の復権ではないかという噂を聞き、そうこうしている間に、

大学の授業期間は終了し、採点・成績評価もなんとか終え、入試も無事に終了したし、それに応じて、大学生たちは潮が引くようにキャンパスからいなくなって、先週末、本年度の締めくくりとして、学生たちに集まってもらって、ゼミ論発表会をやったところであり、同時に、2年生にも来てもらって、勉強してもらったのであるが、

そういうと、あと幾つか頼まれた仕事が残っているが、いや、残っているというような生易しいものではないのだが、最近、「男の娘」にも関心を抱いていて、女装についていったいどのように書いたらいいのだろうか、社会とか老いとかトーテムとか、まだまだ考えなければならない課題があるのだが、最近、なにげなく買ったサンバのCDをすごく気に入っていて、O Bêbado e o Equilibrista (JOÃO BOSCO)がなかなかいい、「酔っ払いと綱渡り芸人」という意味らしいのだが