たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

トーキョータワー

2013年05月31日 08時21分47秒 | 大学

 

4月から、東京都内のK大で、木曜の夕方に非常勤で講義をしている。
午後6時に授業が終わって外に出ると、近くに東京タワーが目に飛び込んでくる。
4月2週目に最初行ったときには、夕闇に映えるイルミネーションがきれいだった(上写真)。
GW明けになると、6時は夕暮れ前となり、車のライトを点灯する時間となった(中写真)。
昨日(5月末)は、小雨が降っていたが、まだ辺りは明るかった(下写真)。


「来たるべき人類学」Vol.2.

2013年05月30日 12時12分21秒 | 文献研究

「来たるべき人類学」の投げ込み冊子の第2号が出ました。小田マサノリさん、片岡樹さん、大石高典さん、三者三様、それぞれの人類学に寄せる思いがつづられていて、愉しい仕上がりです。お三方には、この場を借りて、寄稿に対して謝意を表します。スキャンした冊子の歪み具合が素人っぽくて微妙ですが、第3号が出るかどうかも、予算の関係で、いまのところ微妙です。
来たるべき人類学・第2号
写真はネパールのポカラから見たヒマラヤですが、この本文と何ら関係がありません、念のため。

 


これでようやく28冊目

2013年05月29日 09時42分22秒 | 文学作品

年に50冊文学作品を読むという目標を掲げて4年目、なかなか本を読む余裕がないので「苦肉の策」として、いやいや、そうではなく、「教育上の新しい試み」として、4月から始まった1年生のセミナー・クラスで、メンバーの15人を4班に分けて、各班ごとにブック・オフに行かせて、105円のセール本のなかから読めそうなものを3冊ずつ買って来させ、週一冊ずつ読んだ上で、班ごとに集まってディスカッションさせ、そのうちもっとも面白かった本について、最終的にプレゼンテーションさせるという授業内容にしたのだが、今週の金曜がその第3週目にあたっており、3冊×4班=12冊のところ、重なりのある1冊を引いて、担当教員として、11冊を昨日までに読み終えたのであるが、それらは私がブックオフに行ったらチョイスしない本が多く、その意味で、選ばれた本は、なかなか新鮮なラインナップだったのであるが(写真:学生たちが選んだ11冊)、それらは、まずは、エピソード単位では知っていたが、初めて読んで、ストーリーの展開がなかなか奇抜だと感じた、ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』、月が語る物語として、表現にひじょうに味わいがある、アンデルセン『絵のない絵本』、7つの星をめぐった王子様による物語である、サン=テグ・ジュペリ『星の王子様』という3冊の外国文学に加えて、こうしたタイプの小説が増えたためか、あるいは、登場人物にストレートに共感できないためか、いま読むとそれほど魅力的だとは感じられない、吉本ばなな『キッチン』、恋人が逝ってしまった交通事故をめぐる主人公の記憶を取り戻そうとするプロセスと、事故時の真実が明かされる、河原れん『瞬』、ゲームのなかの世界なのか現実なのか分からないという仕立てで、二つの世界を交差させた、山田悠介『Aコース』、小学生との奇妙なネット上の共同バイトのさまを描いた、なんと、17歳のときに描いた小説だという、才能あふれまくりの、綿矢りさ『インストール』、息子・岳に対する情愛をつづった小説またはエッセイ、椎名誠『岳物語』西のほうで、自然との調和しながら暮していた、「魔女」のようなイギリス人の祖母との日々をつづった、梨木香歩『西の魔女が死んだ』、未亡人である遠い親戚のおばあさんとの奇妙な共同生活と、主人公の悩める現実を描いた、青山七恵『ひとり日和』、80分で記憶がなくなってしまう、数学博士の老人の世話をする家政婦の日常のなかから、数学の味わい深さを感じさせ、なんと比喩表現がうまい作家なのかと感じさせる、小川洋子『博士の愛した図式』の計11冊であったが、さて、学生たちが、それぞれの班で、どれを、どういう理由で、1位に挙げるのか、いまからけっこう楽しみであるが、私の読書の話に戻れば、これらとは別に、次々に人民を逮捕して、収容所へとぶち込むというソ連邦のスターリン以降の時代の混乱を描いていて、個々のエピソードが無類に面白いのだが、6冊本を全部読もうと思ったが、1巻目で挫折してしまった、ソルジェニーツィン『収容所群島1』、「一寸法師」などの、ちょっとエッチな話などが含まれている、倉橋由美子『大人のための残酷物語』、さらには、小説家の主人公と玉乃井の娼婦との出会いから別れまでを、昭和の初めの東京の風景と季節の変化とともに描いた、永井荷風『濹東綺譚』も読んだので、今年に入って、これでようやく今年28冊となったが、まだまだ目標には届かない。

 


セデック・バレ

2013年05月28日 15時21分12秒 | 文献研究

最近、2週つづけて、公開中の台湾映画『セデック・バレ』(前編・後編)を観にでかけた。日本統治時代の1930年(昭和5年)10月に、台中州能高郡の霧社で、原住民セデック族によって企てられ、134人の日本人が殺害された抗日暴動、いわゆる「霧社事件(ムシャジケン)」が扱われいる。その事件の顛末が、セデック族の側から描かれている、見応えのある映画である。個人的には、狩猟民セデックの描かれ方に強い関心がある。首草して、首を手に入れて顔に刺青を入れ、一人前の男となり、ようやく、死後に、虹の橋を渡っていくことができるという、セデックの男の理想が、一連の暴動の背景に丹念に描かれる。それらは、民族誌的な事実であるのかどうか分からないが、狩りや首狩り、入れ墨の習慣があることなど、ボルネオ島の諸民族とじつによく似ている。言葉の響きも、同じオーストロネシア語族ゆえ、似ているのであろう。狩り場である森を裸足で駆ける姿は、私の調査地で見かけるものと差はない(写真は、パンフレットから)。眩いばかりの緑の森の映像もまた、素晴らしかった。モーナが、頭目として、マヘボ社の行動を決める前に、虹のかかる滝で、死んだ親と交信して、かけあいの歌を歌うスピリチュアルなシーンがいい。


丸石神

2013年05月27日 15時35分02秒 | フィールドワーク

ちょこっと足を伸ばして、山梨県・山梨市、甲州市(一部旧・塩山市)に、「丸石神」または「丸石道祖神」を見に出かけた。家々が続く細い道路に入ってゆくと、石碑や石仏の類がたくさんあり、あちこちに、丸い石が置かれていた。写真は、甲州市七日市場の丸石道祖神。大きい丸石が真ん中に、小さな丸石がそのまわりに置かれている。山梨県下に、六百ヶ所も、丸石神が祀られているらしい。それはいったい何であるのか、不思議である。中沢厚によれば、「人々は、神といってもたかが知れた丸石ではないかといいますが、それがかえって不思議なこととして心をとらえ、自然石の丸石がなんで神なのか、なんで道祖神に祀られるのか、その問題は念頭から離れません」(『石にやどるもの』、60頁)。甲州を後にして東京に戻ると、風景を眺めていても、丸石がなくて、なんだか物足りないような気がした。丸石神は神そのものではないのだろう、たぶん。この石の信仰、あるいは石を用いた信仰の広がりは、たいへん興味深い。


歩きまわれ、梅雨がくる前に

2013年05月24日 14時50分54秒 | フィールドワーク

タイトルのごとく、時間を見つけて、歩いている。これが、なかなか楽しいのだ。大学キャンパスから歩いて、20分くらいのところにある「小山田神社」(だと思う:写真)。田んぼのあぜ道を抜けたところに鳥居があって、小山田神社とも何とも書かれていないし、サインボードがあって、由緒が分かるわけもない。氏子によって、祀られている、素朴な神の社である。境内の一角には、その周辺にあったものが、開発によって(?)集められたのか、石の神の像や祠が並べられていた。刻まれた字は、ほとんど読みとれない。神社のなかに、神社の神とそうではないマイナー・ゴッズたちが、共存しているのだとも言えるかもしれない。雨が降って出かけられなくなるまでに、あとどれくらい歩きまわれるだろうか。
OSSCAブログ


大山信仰

2013年05月21日 17時52分00秒 | 大学

足の痛みがようやく引いた気がする。先週の水曜(15日)に、3年ゼミの実習で、大山の阿夫利神社の「下社」から「本社」の往復と、「女坂」の下り道を歩いた。けっこうたいへんだった。いかに日ごろ、運動をしていないかが現れた。下りの道で、足がもげそうで、どうにかなりそうだったが、木曜以降、足をしばらく引き摺って、今週の月曜くらいまで腫れがあった。ふくらはぎに重い痛みがあった。筋肉痛というよりも、炎症を起こしているような。というわけで、今年のゼミの春学期の最初のテーマを、秋に熊野に行く前段階として、「大山信仰」としたのである。文献で大山の下調べをした上で、実際に、足を運んでみたということである。大山は、富士山と並んで、関東周辺地域の人びとに、霊山として信仰されてきたという。大山詣りは、大山山麓に住んだ「御師」によって広められたらしい。落語『大山詣り』では、江戸時代の町人の大山詣でのゴタゴタが描かれている。大山詣りは、崇神や巡礼というよりも、物見遊山の色合いの濃い習俗だったのかもしれない。藤沢の女郎買いに寄って帰るのが、楽しみの一つだったというようなことが、落語の枕のなかで描かれることがよくある。その意味で、「聖」と「俗」が一体化していた。下社から本社へ登る道では、にわかに天候が変じ、霧がでて急に寒くなり、小雨が降った。それは、まごうかたなき登山道で、岩場などもあり、登るのも降りるのも、けっこうハードなのである。石が敷かれた石段を降りながら、いにしえの大山詣りを思った。いずれにせよ、その山登りのハードさを抜けたところに、ようやく祈願が叶うというような要素が、大山詣りにはあったのではないだろうか。その意味で、信仰と娯楽を同時に与え、とんでもない秘境や急峰でもなく、行くのにちょうどいい「お山」が、相州大山だったのかもしれない。中高年の集団登山者が多かったように見えた。今でも、そのちょうどよさは変わらないのではないか。


人類社会の「事実」を更に探求しよう

2013年05月01日 09時26分21秒 | フィールドワーク

「来るべき人類学構想会議」では、2013年6月15日(土)に、長島信弘先生をお招きして、お話をうかがいます。ご関心あるみなさまのご参加をお待ちします。

【タイトル】
人類社会の「事実」を更に探求しよう(仮題)

【話題提供者】
長島信弘

【概要】
1.「他」と「自」、現代人類学の底流:自分たちではない人たちへの関心。近代史では西欧人にとっての「非西欧人」。
19世紀の「人類学」は差別主義人種学の名称。人道主義「民族学」が形成された。「社会進化論」の衝撃と功罪。

2.私の研究経緯:学部で文化人類学、大学院でアフリカ研究・英国社会人類学を追い、オックスフォード大3年留学後2年間ウガンダで調査。
ウガンダ、ケニア、タンザニア、トリニダード・トバゴで通算10年調査。事実と言葉の関係を考え続けた。「何が本当か」。

3.現在の問題点:過度の一般化、「理論」概念について不十分な知的検討、職業としての人類学の肥大化。
安易な流行概念/フィールドワークの質的低下。

4.望ましい未来像:自然現象と異なり社会・文化現象にはそれを表現する言葉とともに確定不能性が伴う。
「人類の事実」とは何かを再検討すべきだろう。

【日時】
2013年6月15日(土)14:00~17:30

【場所】
桜美林大学四谷キャンパスY406教室
http://www.obirin.ac.jp/access/yotsuya/index.html

【参加申し込み】
・参加費:無料
・参加申し込み先:okuno@obirin.ac.jp
(事前の人数把握のため、お名前とご所属を併記して、メールを送信して下さい。)

【関連URL】
http://anthropology.doorblog.jp/

【問い合わせ先】
奥野克巳(桜美林大学)
okuno@obirin.ac.jp