たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

ボルネオ民族誌研究会

2011年11月30日 11時50分25秒 | エスノグラフィー


ボルネオ民族誌研究会案内

 

【日時】
20111216日(金) 

14:3016:30


【場所】
桜美林大学町田キャンパス

崇貞館B335

http://www.obirin.ac.jp/access/machida/index.html

 

【発表1】

奥野克巳

桜美林大学 リベラルアーツ学群 文化人類学専攻 教授

 

森のなかの不在と実在の民族誌

ボルネオ島狩猟民プナンにおける人と自然

 

概要

プナンは、森のなかに実在する痕跡(uban)から、不在となった動物や死者を探索したり、想起したりする。
「いまとここ」の不在の時点から、過去の実在を想うとき(tawai)
、彼らの感情は揺さぶられ、乱される。
さらに、プナンは、消え去ってしまって、今や存在することがない人間や事物に対して控えめで、慎み深い表現(ngeluin)
を与える。
本発表をつうじて、プナンが人と人だけでなく、人と自然の景観や事物の間にも深い情緒的な絆を築いていることが示されるであろう。

 

【発表2】

長谷川悟郎

桜美林大学 基盤教育院 非常勤講師

 

称号化される模様意匠

―ボルネオ島イバンの染織模様の命名体系を考察―

 

概要

イバンの染織模様には書き記せば数行から数ページにもおよぶ長文の題名が付される。
そしてそれはイバンの間で差別化され広域に知れ渡る称号となる。
染織布はおよそ1960年代から国際市場に流通し始め注目されてきたが、その題名についてはGavin1996, 2003
)の研究までほとんど知られてこなかった。
これまで通説化されてきたイバン社会の平等主義とイバン女性の機織りにおける階層制度は相反する議論であったが、本発表は、むしろ功績主義やメリトクラシーといった側面から、フィールドデータと合わせて染織模様の命名体系を考察する。

 

【問い合わせ先

奥野克巳 

okuno@obirin.ac.jp

 

主催:桜美林大学・リベラルアーツ学群・文化人類学専攻

共催:科研費研究基盤S「東南アジア熱帯地域におけるプランテーション型バイオマス社会の総合的研究」(代表者:京都大学・東南アジア研究所・石川登)

http://biomasssociety.org/2011/11/%e3%80%8c%e3%83%9c%e3%83%ab%e3%83%8d%e3%82%aa%e6%b0%91%e6%97%8f%e8%aa%8c%e7%a0%94%e7%a9%b6%e4%bc%9a%e3%80%8d%e9%96%8b%e5%82%ac%e3%81%ae%e3%81%8a%e7%9f%a5%e3%82%89%e3%81%9b/
自然と社会研究会

*注記*

なお、この研究会は、卒業論文やゼミ論文作成の追い込みのために開かれています。

文化人類学やその隣接学問では、現地調査で得られたフィールドデータをうまく組み入れて、オリジナリティー溢れる論文に仕上げることが大切です。

この研究会では、学生向けには、調査研究をめぐって討論を参考にしながら、論文執筆にあたっての参考にしてもらえればと思っています。

この点に関する質疑と指導なども行う予定です。

また、ボルネオ人類学に関心を寄せる若手の方々の参加も歓迎します。
 


談志が死んだ

2011年11月29日 15時23分19秒 | 宗教人類学

桂米朝『地獄八景亡者戯』を取り上げようと思っていたのを、談志師匠の訃報を受けて、再び、『らくだ』に戻して、本日、宗教人類学の授業内で上映した。
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/6df63dcab9ac78ca28f331768bfdfeeb

談志は、落語を主語に語る噺家である。人類学を主語に語る~人類学はこうだああだ~我々人類学者にとっての鏡ではないか。いや、人類学に限らない。あらゆる分野、領域の求道者の鏡だ。
子どものころから落語に取り憑かれ、落語を勉強し、落語を解剖した挙句、落語を全く新しいものにつくりかえたといっても過言ではない。彼の求道精神の現れの一つが、『立川談志ひとり会第三期第23集・談志の五大落語家論』。そのなかで、談志師匠は、志ん生、文楽、三木助、圓生、そして、彼の師匠である小さんを解剖し、じつに饒舌に語っている。30歳のときの録音だ。志ん生、文楽、圓生のものまねが色っぽい。それぞれの師匠たちになりきっている。はは~ん、ここまでして、先達そのものの内側に入り込み、そこから落語に近づこうとしているのだなあと思う。

『立川談志のゆめの寄席』では、往年の噺家や芸人の録音の前に、談志の解説が付いている。その第6集第3夜「鈴々舎馬風」。本名、色川清太郎、二枚目風の名前だとさ。談志は、噺家の本名を全部諳んじることができたという。彼の解説で、馬風を聞く。馬風が、スゴイ!と思える。第8集第4夜。寄席のモンスター・林家三平の解説、「源平盛衰記」に続いて、三平急逝直後の高座
「立川談志『三平さんの思いで』」が収録されている。談志も言うように、これがすごくいいのだ。三平の思い出とものまね、最後に涙を誘う。談志が凄いのは、談志が死んだとしても、『談志の思いで』をできるような噺家がいないことかもしれない。誰かやってほしいね。

『談志百席第1期第10集「慶安太平記」』。談志師匠最晩年の仕事。悪声だな。でも、う~ん、唸るな。

寂しいな、合掌。


霊性と世俗のハイブリッド

2011年11月28日 22時27分20秒 | 宗教人類学

ほんの弾みで、高崎の白衣観音を見に(拝みに)行った。今から20年以上前に、Nくんと連れ立って、その県の向こうにいるある人を訪ねて行く途中に、遠くから眺めたことがあったが、真下から見るのは初めてだった。デカかった。おおっきいねという声が、辺りに飛び交っていた。高さは41.8メートルあるという。大人の男の25倍ほどか。昭和11年に建立されたという。間近で見ると、柔和な顔をされている。子どもの頃、会うといつも驚くほどのお小遣いをくれた伯母に似ていると思った。観音様、観世音菩薩像。それは、日本の至る所に祀られている。大船にも大きな観音様がいらっしゃる。観音信仰は、日本人の精神の襞に深く染みついている。観音様は、凡夫に、現世利益をもたらすとされる。白衣観音の大きさは、人びとの世俗的な欲望・願望の大きさと深く結びついている気がした。

 


今年もぼちぼち聞いてこましたろかいな

2011年11月15日 22時14分34秒 | 音楽

・・・急に寒うなって、そんな時季になりました、ベートーベンマスクのダニエル・バレンボイムの第九(1992年12月、ベルリン、イエス・キリスト教会、2000 ワーナー・ミュージック)で、どうでっしゃろ、この曲を聴くと年末(終末?)に向かって急き立てられ、追い込まれてゆく感じがする、そんで、そこんところがなかなかええんやな


リボルバー

2011年11月14日 22時04分04秒 | 音楽

古川日出男の新作を読んだら、作中にビートルズの曲が出てきたので、なんだか聞きたくなった、そうだ、俺は、『リボルバー』が好きだった、と思って買って聞いたらよかった、泪がこぼれ落ちそうなくらいよかった、初めてビートルズを聞いたのは小学校5年か6年生のとき、ともだちのSくんの家まで遊びに誘いに行ったら、二階の解き放たれた窓から爆音で流れていた、「ヘイ・ジュード」、最近おにいちゃんがしょっちゅうアレかけてるって言ってた、その後、ビートルズを聞くようになった、なんだか大人になった気じがした、ビートルズ世代じゃない、ポスト・ビートルズ世代だ、みながビートルズを聞いていた、競うように、その頃には、ジョージが"You"を、その少し前には、ポールが"Band on the Run"を、ジョンは"Woman"をヒットさせていた、リンゴにも何かあったっけ?、想い出せない、で、リボルバー、そこにはこれと言ってスゴイ曲はない、けど、"Good Day Sunshine"から"And Your Bird Can Sing"へと続いて、次に"For No One" ↓に行くくだり、たまらなくいい。
http://www.youtube.com/watch?v=J6iAykoKLog

 


景観との情緒的な絆

2011年11月13日 22時02分10秒 | 自然と社会

吐息が白くなるほど寒く、冷たい雨が降り、全国的に、今年になって一番冷え込んだ11月初旬の一日。その翌日、一転して、初秋の陽気に逆戻りした。最近では、年に一度か二度しか訪れる機会のない、高校卒業まで住んでいた、関西の故郷の町を歩いてみた。習字を習っていた書道の教室。その場では先生の名が浮かんでこなかったが、いま思い出した、N川先生だった。確か、その辺には印刷業を営むUくんの家があったはずだが、すでに跡形なく、建て替えられている。今は亡き父が、40歳代の後半だったのだろうか、夜半にトイレで斃れて救急車で運ばれて入院した病院。運び込まれたとき、意識がなかったことが想い出された。中学3年生の時、クイーンのレコードを買いに行ったレコード店は、確かそのあたりにあるはずだったがない。それは、もはや追憶のなかにしかない。小学校の頃、放課後、暗くなるまで、友達と缶蹴りやドッヂボールなどをして遊んだ神社(写真)。祭神は、豊受比売命とあった。へえ、ちっとも知らなかった。5月には祭がおこなわれ、神輿を担いだこともあったな。そこで、ある秋の日の夕暮れに、あまり知らない子から、今で言うコクられたことも思い出した。それは、中学生の頃だ。鎮守の森の裏手に回ると、小学校の5,6年のときに、Mくんたちと、カエルの肛門に爆竹を突っ込んで、吹っ飛ばして遊んだ想い出が、ふと甦った(アニマルライツ派のみなさん、ごめんなさい)。風景のなかに、個人的な記憶がくっきりと刻まれている。それが、深い情緒的な絆を、そうした故郷の景観のなかに感じる所以なのだろう。


短いの、でも、す・ご・い・の

2011年11月02日 09時31分03秒 | 文学作品

川上未映子『わたくし率 イン 歯ー、または世界』講談社文庫★★★★(11-46)



タイトルのこのきわめて不思議な言語感覚:わたくし率 イン 歯ー、または世界は、話の内容を聴覚的に・視覚的に的確に表している。
歯医者の助手になった「わたしは奥歯であるのやと、云うてもええんとちやうのん、わたしは奥歯であってもいいのですと、そういうことにしたのでした。」と、わたしとは奥歯であると観念する。
彼女には、どうやら青木という恋人がいるが、しばらく忙しくて会ってもらえないこともあり、妊娠もしていないのに、未来に生まれてくる子どもに向けて毎日手紙をしたためる。
このあたりから、この主人公の行動が、怪しく感じられてくる。
やがて青木が彼女の勤める歯医者に患者としてやってきて、主人公は、治療後に彼を追いかけ家に乗り込むが、そこには、別の女がいて、青木宅では見知らぬ女の突然の訪問によって騒ぎが起きる。
当然である、青木は、奥歯に自分を見出す女のことなんか、とっくの昔に忘れ去っていて、何の関係もないからである。
どうやら、青木と奥歯の女は中学の同級生で、いじめにあっていた時代に、青木が優しく語りかけたようなのである。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」には主語がないということを教えてくれて、主人公である奥歯の女は、その後、そのことをずっと覚えていて、その青木宅への訪問時のやりとりで、一気呵成にぶちまける。
「あの雪国の、あの主語にその秘密のちょっとが隠されているような気がしたん、あの文章は、どこ探しても、わたしはないねん、私もないねん、主語はないねん、それじたいがそれじたい、なあなあなあなあ素敵やろ、主語がないねん、こんな美しいことがあるやろか!」。
私のわたくし率についての文学的・哲学的な考察。
大阪弁で語られる言葉がつぶつぶして魅力的に感じられる。

絲山秋子『イッツ・オンリー・トーク』文春文庫★★★★(11-47)

上の川上の本の女主人公と違って、現代日本の日常のありうる情景として、読者はす~っと、主人公の橘優子にシンクロすることができる。
優子は、精神病を患って入院して、会社に復帰すると仕事がなくなっていて、今は貯金を切り崩しながら、絵描きとして暮らしている。
彼女は、男に振られて蒲田に引っ越すが、そこで大学時代の友人・本間に再会する。
優子は、誰とでも「してしまう」女である。
本間と飲んで家に連れ帰って、彼には淡い恋心を抱きながらも、勃起障害だと分かって、できない。
メンタル系の病気サイトで知り合った安田とは、時々会うだけの関係である。
女のヒモをやっていて、自殺予告メールを送ってきた、いとこの福岡在住の祥一を、一時、蒲田の家に引き受ける。
議員に立候補している本間の事務所で働いている、同じく大学時代の友人・バッハ。
それぞれと性的な関係が発生し始めたり、最初からそういう気がなかったりするような経緯が描かれる。
もう一人の登場人物は、出会い系サイトのバイトをしていた時に知り合った、40代の痴漢kさんである。
「痴漢に名前は要らないだろう。彼は私のことをuちゃんと呼び、私はkさんと呼んでいる」「垂れ目で頭が少しさびしい四十代だが、私が好きなタイプの禿げ方だ」。
優子と痴漢の関係がなかなかに興味深い。
「私と痴漢の出会いは常に指が触れている『点』のイメージであって、プロフィールのある『面』であってはならなかった。ましてや時間軸の設定された『立体』などは論外だった。私はそういうイメージでしか男をとらえられなかった。」
主人公・優子の日常のムダ話(イッツ・オンリー・トーク)であるが、秀逸である。

モブ・ノリオ『介護入門』文春文庫★★★★(11-48)

現代社会の周縁的現実。
金髪で、無職で、小学生相手の家庭教師をしている大麻常習者の主人公・29歳が、痴呆症を患い、庭先の石畳で頭蓋を割って快復した祖母・85歳を、母と交替しながら介護している。
夜は、祖母のベッドの脇に寝て、夜中に二回起きて、祖母の股を拭いてオムツ替えをする。
 昼はぐったりとしているだけなので、親戚である祖母の実子たちからは、「穀つぶし」だと見られている。
実の親が介護ベッドで横たわる部屋の隣室で、「人間もこないなったら終わりやなあ、私やったら死んだほうがましやわ」としゃあしゃあと口にする祖母の実子たちに
内心猛反発したり、手抜きをする介護士に対する反感が、小説のなかでは、呪詛として綴られる。
「知識、知恵、技術は魂の力となる。記憶は思考への固有の資源だ。思考は魂を鍛え上げるためにある。魂は、俺を動かす。俺はヘルパー達の顔を思い浮かべ、介護を職業とする者の存在でこの俺を励まし続けよう」
「日々俺死ぬ、故に我あり。わが人生に価値なし。これがおれの生活になった。他の二人分も濃い祖母の血を持つ祖母の実子らは、ねぎらいの言葉すらお穢らわしいと撥ねつけたくなる俺の心を知らない・・・」
フェルデイナン・セリーヌばりに、次から次に吐き散らされる呪詛の言葉言葉言葉。
しかし、そうした呪詛の言葉の向こう側に、祖母に対する深い愛情が透けて見えてくる。
「俺はいつも、«オバアチャン、オバアチアン、オバアチャン»で、この家にいて祖母に向き合う時にだけ、辛うじてこの世に存在しているみたいだ」。
その語りに、一筋の救いの光があるような気がする。

西村賢太『寒灯』新潮社★★★★(11-49)

『苦役列車』は、中卒で女もいないし、何をやってもうまくいかない男・貫多の話だったが、この本では、西村の分身である貫多が30歳半ばくらいで、秋恵という女と恋仲になり、ウキウキしながら同棲生活を始めるのだが、一年くらいで破局を迎える
貫多は女性から見れば、さぞ細かくてジコチュウで最低の男だろうな。
貫多と秋恵のやり取りは、外から見るとたんなる口喧嘩である。
同居し始めて最初の正月を迎えるにあたって、秋恵の母が送ってきた帰省のための新幹線のチケットをめぐっての諍い。
秋恵が帰省しないことになり、大晦日、秋恵が年越し蕎麦のおつゆ作りに失敗し、貫多は怒声を浴びせ、癇癪を起こし、秋恵は嗚咽する。
彼の口癖は、何事にも「慊(あきたら)ない」という言葉。
ペン皿という誕生日のプレゼントにも慊ない。
「無論、貫多とて女には、自分に対する善意もあれば愛情もあるのを他面では充分に理解していた。だが、根がどこまでも駄々っ子気質にできている彼は、それならば尚と一層に、息せき切ってデパートに駆け込み、彼の為に精一杯の品を購めて綺麗にラッピングまでしてもらった女の厚意を、そして眼前に並ぶ心づくしの手料理を、思いきりケチをつけたうえで足蹴にしてやりたくてたまらなくなってくる」。
貫多は、堪え性がないのだ。
この本を読んだ後味はかなり悪い。
なぜなのか。
それは、男女を越えて、
貫多の振る舞いのなかに、他ならぬ自分=「潜在的な自己」を見出すからではないだろうか。
すると、そうした「自分」を私小説のなかに曝け出せる西村は恐るべしである。

笙野頼子『母の発達』河出文庫★★★★★(11-50)

 

うわっ、何じゃこの問題作は、でも好き。
全編これ、母の物語。
母は命を生み育む源、母は偉大なり、母は太陽である・・・という神話のこっぱみじんの解体ではないか、この小説は!
でも何が書いてあるのかよく分からない。
論文でいえば、時々まわってくるリジェクト査読論文を読んだときのような感覚。
いや、この小説は文字面を丁寧に追っていくと分からないけど、斜め読み的に文字を追うと、母の「はは」性という私(たち)が疑うことがなかった自明性を壊していることに気づく。
そもそも「母の縮小」という第一章のタイトルからして頭をひねってしまう。
しかし、これは、私自身が体験した私の母なるものの原像にぴったりと重なる。
おそらくまだ小学校に上がる前の頃だと思うが、二段ベッドの上からテレビを観ている母を見ていると、いや、遠くへ行って小さくなってしまったことがある。
「その母を私は指でつまみ上げて、ディスプレイの上に叩きつけた。そのままその上を掌で強く押し続けると、急に抵抗してくる厚みがなくなってしまった。見ると、母はヤブカのようにぺしゃんこになり、デゥスプレイのなかでインベーダーのような、小さな記号のようになって点滅していた。母という文字ですらなくなっていた。」
文字を流すだけで、真剣に意味を考えない方がいいのだろう。
やがて主人公ヤツノは母を殺す。
死んだはずの母が言う。
「ちがうわ。あのな。おかあさんな、まず、お母さんらしいおかあさんを、センメツすんのや。それからあるべきお母さん白書をソウカツするのや、どれでな、もともとからあったお母さんを全部カイタイするのや。」
これが、この小説の核心部分ではないか。
ヤツノは、アイウエオ順に、母が「落ち」になるような小噺をつくりだす。
「『れ』の母は連立政権の母やった。物語のないところがこれがみそやった。『ろ』の母はロリータの母やった。ナボコフに言うた。--へへんあてに振られたからてなんちゅうあてつけがましい。あーあ、あきまへんわいなあ、あーんな小娘。」
意味はよくわからないものの、
母が母でなくなっていく。
母とは、たんなる女であり、人間であるということに気づいて、母を相対化することになるやもしれぬ。