たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

すべての実在を引き受ける不在への態度

2007年12月29日 22時57分40秒 | 文献研究

私用でここ数日関西に留まったが、今日は少しだけ時間があったので、雨のさなか、宇治の平等院に足を伸ばした(写真は鳳凰堂)。極楽浄土をイメージした鳳凰堂の仏教芸術の素晴らしさとその展示の巧さについてはとりあえず置いておくとして、平等院の鳳凰堂が、今から954年前の永承8年(西暦1053年)に建立されたという歴史的事実について、あるいは、その事実の時間了解について、以下、できの悪い覚書。

浄土教の影響を受けて、平安時代の仏師・定朝によって、阿弥陀仏坐像が作られ、さらに、壁には、天女のような雲中供養菩薩像52体が掲げられているという、拝観時の解説者の説明を、わたしは、納得しながら聞き入ったのであるが、はたして、わたしは、どのような態度において、わたしが直接には想起しえないような、そのような歴史的な事実を承認したのだろうか。いいかえれば、わたしは、わたし自身が直接観察したことがない事柄を承認したことになるのだ。

そういうふうに考えるのは、わたしが最近読んだ『「時間」を哲学する:過去はどこへ行ったのか』(中島義道、講談社現代新書、1996)のまったくの受け売りである。

中島義道は、そのようなわたしが直接知覚しえない過去の事実を承認する態度について、以下のような語り口で説明しようとする。

 現実世界のほとんどをあなたは現に知覚していない。しかし、その不在を含めてそれが実在していると了解している。なぜ、こんな了解ができるのか。それは、・・・(中略)・・・あなたが現在するものではなく現在しないもの・不在のものを通して、すなわち「不在への態度」を通して実在性という概念を了解しているからです(151ページ)。

 「ああ今日は暑かった」とふと語るそのときに移行がなされるのです。昼間の暑い体験を過去形の文章でとらえることによって、それが「もはやない」ことを言い表している。つまり、涼しいという現在体験に加えて不在としての暑さの体験をそこに現出させているのです(158ページ)。

 たしかに、数百億年昔のビッグバンを私は想起できませんが、過去とは何であるかを思い起こしてみると、それは同時に「不在への態度」が開かれる場であり・・・(中略)・・・ビッグバンが「あった」ことを私が承認することは、昨日起こったはずの直接経験しない膨大な事象を私が承認することとまったく変わらないのです(167ページ)。


本を読んだときには分かったような気がしたけれど、抜書きしてみると、なんだかハッキリとしない。その「不在への態度」とは、いったいどのようなものであるのだろうか。

それは、例えば、男女が恋愛する過程で、お互いの過去について、虚飾や嘘や思い違いも含めて、話し合う。二人はお互いに、間接的に聞いたことだけを承認するのではなくて、まだ見ていない聞いていない過去の事柄について、必要であればいつでも承認しようとする態度をもっている。つまり、そのような「間接的にさえ私が体験しなかった事象に対しても、それが過去に実在したということをいつでも承認する態度」(121ページ)こそが、「不在への態度」だという。わたしたちは、そのような「不在への態度」を介して、すなわち、「自分が体験したことと並んで自分が体験したのではない膨大な事象が過去に実在したことを、いつでも受け入れるような態度」をもって、過去を経験する、時間を了解するのだという。つまり、そのような「不在への態度」をもって、わたしは、平等院の建立という過去時間を了解したのである!(へ~)。

そのような中島の哲学的な時間論の観点からは、時間を運動する一本の線のようなイメージで捉える物理学の時間論は批判されることになる。時間は、過去に、未来にわたって、どこかにあるわけではない。
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/89fbb126046408689404d6d26075e93e
さらには、そのような物理的時間を括弧に入れて、現象学的な態度に基づいて、過去・現在・未来を捉える立場も同様に批判される。「不在への態度」こそが、時間了解の基礎だという。

中島義道の時間論が面白いのは、物理学や現象学が前提としているような客観的な時間の次元あるいは秩序に対する特有の視点である。それは、「時間が速く過ぎ」たり、「遅く過ぎ」たりすることに対することへの説明に端的に表れているような気がする。

 一般に、過去の客観的「遠さ」とその感じにはいつでもずれがあるのです。三年前のことが一年前のことより「近くに」感じられたり、二〇年前のことが三〇年前のことより「遠く」に感じられたりすることは
しょっちゅうです。われわれは、じつのところカレンダー・日記・新聞・写真・テープ・他人の証言などさまざまな証拠によって、さらに因果関係を適用し推理をたくましくして、実感にさからって客観的順序をつけるのです。
 ここに見えてくることは、実感にさからって客観的順序をつけるからこそ、実感にもとづいて「もうそんなに経ってしまったのか!」という詠嘆が生まれる、ということです。つまり、時間の速度とは過ぎ去った過去時間の客観的長さと主観的長さ(実感される長さ)との「ずれ」を表現するさいに登場してくるらしい(66ページ)。

過去の時間は、必ずしも、客観的な線の上にはない。実感として、つねに、ぼんやりと感じられたり、間近に感じられたりするものである。それを、わたしたちは、客観的な時間の秩序の上に位置づけた上で、それとの距離の「ずれ」を語っている。人間の時間経験のなんたる「過剰」なことか!

ところで、わたしが、時間の問題に特大の関心を抱いたのは、サラワクのプナンの時間感覚に大きな驚きを感じたことに由来する。
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/d87380cfa38c8884cb317393612e757c
はたして、上のような哲学的な考察が、わたし自身が抱えている、「時間の起源」「時間観念の発生」をめぐる問題にどのような方向を与えてくれるかという点について、いまだに整理できていないが、中島義道は「時間という不在に対する態度」という言い方で、以下のようなことを述べているので、そのことを、最後に書き留めておきたい。

 農業が可能であるためには膨大な「認識」が必要です。かつての試行錯誤における太陽や気温や水や害虫との関係を憶えていなければならない。「いつ」種を蒔き、「いつ」水をやり、「いつ」除草し、暴風雨のときにはコレコレ、害虫が発生したさいはコレコレ、日照りの場合はコレコレ・・・・・という膨大な経験則の上に、はじめて稲作は可能です。眼前のチョロチョロ生える稲は、これから来るべき害虫や疫病や日照りや台風といったおびただしい「不在のもの」への態度に裏打ちされて収穫に至らねばなりません。それは、人間が過去の気象状況や害虫発生状況などを記憶していることであり、またそれを未来に向けて予期することでもあります。つまり過去のデータを未来に延ばすことです。・・・(中略)・・・
 思い切り具体的に語りますと、われわれ(個体や種)を生かすものや殺すものこそ実在であり、しかもそれに関する不在への態度、つまりただちに飛びかかったり逃げたりするのではなく、時間的空間的距離をおいて熟慮してそれに迫る態度が「認識」なのです。こうした態度で時間に対することが、とりもなおさず客観的時間を「認識」することなのです(46ページ)。

中島義道を援用すれば、間接的にでさえわたしが経験しえなかった事柄についても、それが過去に、さらには未来において実在した(するであろう)ことについてじっくり考えた上で、日常の暮らし(=生業)のなかへと経験的に組み込んでいくようなことが、客観的な時間を認識し、了解することへとつながるということになるのかもしれない。


肥大化する自己、人類学の低迷、時間の物理学

2007年12月26日 14時03分55秒 | 文献研究

竹沢尚一郎先生は『人類学的思考の歴史』(2007年、世界思想社)のなかで、物理学を修め、海水中の色の知覚について博士論文を書いたフランツ・ボアズの関心は、事象を一般法則のなかに還元しようとするものから、個別事象に対する愛着をベースとして、地理学に対してひきつけられていった、というようなことを述べている(211ページ)。20世紀初頭のアメリカにおいて、経験主義的なフィールドデータを重視し、進化主義的な思潮に反対して、文化相対主義を唱えたボアズ。その弟子たちには、ベネディクトやミードがいた。彼女たちは、異文化研究において、「他者」を、肥大化したアメリカ的な「自己」をやしなうための一手段にまで切り下げてしまった(238ページ)。文化人類学は、アメリカの政治状況と結びつくことによって、安っぽい「アメリカ文化論」へと成り下がったのである。ひじょうに興味深い見解である。

ベネディクトやミードがリードした前世紀半ばのアメリカの文化人類学。それは、どこか、わたしたちの時代、特に、日本の文化人類学を取り巻く状況に似ていないだろうか。肥大化した日本の文化の現在をやしなうために、他者は対象化される。結果として、他者は、わたしたちの視界から消えてしまう。紛争状況のなかで生命の危機にさらされ、貧困や飢餓にあえぐ他者たちは、現代日本の若者のヒロイックな自己実現のための対象や道具となっている。地球温暖化問題は、バイオエタノールの生産や削減電力の企業間トレードなどを介して、千載一遇のビジネスチャンスと捉えられて市場化され、気候変動の影響を受ける他者たちは置き去りにされて、どんどんと活動だけが肥大化していく。文化人類学も、基本的には、そういった現代の思潮におもねったかたちで他者に接近している。そのために、悲しいことに、文化人類学は、現在、時代をリードする学問であるという状況にはない。

いったい、なぜ文化人類学は、こんなにも、ダメ学問になってしまったのだろうか。第一に、学問そのものに、ワクワク感がなくなってしまっていることがある。文化人類学をやっている人たちのなかには、ほんとうに楽しいからやっているのか、疑問に思えるようなうような人たちがたくさんいるように思えたりする。
それは、文化人類学が、学問の内部に逼塞してしまったことに一因がある。自らの立ち位置をこそ問うという、ワケの分からない学問になってしまったのである。

しかし、本来的には、文化人類学は、けっして、そういった学問ではなかった。他の学問領域に、開かれていた。他の学問領域のいいとこ取りをしてきたのが、文化人類学だった。その意味で、科学や文学の研究や成果から、ヒューと抜け出して、文化人類学にスライドしてきたという、かつての文化人類学者たちの出自のありようを思い起こしてみる価値は、大いにあるのではないだろうか。例えば、ボアズの物理学への関心が、どのようにして、文化人類学の関心を生み出したのだろうか、と。

ボアズの固有の関心はとりあえず傍らにおいて、一般に、物理学は、世界をどう捉えるのか、という問いに支えられている。それは、他者を介して、文化人類学がもっている問いと同様のものである。わたしは、いま、余剰次元に関するリサ・ランドールの本(『ワープする宇宙』2007年、NHK出版)を読んでいる。この本は、門外漢の者にとっては、すんなりと理解できないところがところどころあるが、じつにワクワクする本である。余剰次元の発見の予感に、じつは、著者自身が、一番ワクワクしているのではないかと思える。ワクワク感の点で、いま、文化人類学は、
物理学とたたかったなら、対戦成績は2勝13敗くらいで負けるだろう。

線的な移動を可能にする一次元。平面的な移動を可能にする二次元。二次元に上下が加われば三次元となる。わたしたちは、三次元に住んでいるため、四次元、五次元・・・というより高次の次元については、単純なかたちで、想像することができない。逆に、ふつう、三次元より低次のものについては、捉えることができる。影絵の三次元的な人形が壁に射影された場合、二次元的な影となるし、わたしたちは、三次元的な世界にいながらにして、サム・ロイドの「15パズル」をして、文字を並びかえて語=意味をつくり出す。そのことによって、プラスチックの囲いのなかに二次元世界を閉じ込める。遠くに見える
山々は三次元のつらなりであるが、夕日に照らし出されて、それらが重なり合ったときに、二次元的に、ひとつのかたまりとして見えることがある。

それとは逆に、わたしたちはどのように、次元を上がることができるのだろうか。ベビーベッドのなかで、幼児は二次元的世界から立ち上がって、上下の方向を知り、三次元世界を自ら体験するようになる。
上下だけに二次元的な移動をするエレベータ。「ウォンカベータ」なるものは、想像上で、あらゆる方向に行くことができる三次元的なエレベータである。一次元が巻き上げられて二次元となり、同じように、二次元が巻き上げられて三次元となるという。はたして、三次元を超えた四次元とは、どのようなものなのだろうか。

わたしは、時間の問題を考えているうちに、消化不良ではあるが、余剰次元を含む、物理学の課題へとたどり着いた。中国人とイヌイットが(見た目)よく似ているということは、そもそも、二次元的な空間移動の問題である(イヌイットの祖先が、ベーリング海峡を渡って、アジアから新大陸へたどり着いた)。しかし、そのような空間移動は、移動する時間を内在化させている。その意味で、伝播とは、たんに、二次元的な空間移動だけでなく、時間であり、行動の歴史なのである。

いいかえれば、時間とは、空間的な次元(=三次元)に加えられる、もうひとつの次元でもある。
「時空は空間よりも次元の数が一つ多い、『上下』、『左右』、『前後』に加えて、時間を含めたのが時空である」(157ページ)。要は、わたしたちは、じつは、<時空>(=三次元空間+時間)のなかにいる。

そのような<時空>の感覚こそが、時を刻むこと、そのための機械である時計の発生のベースにあるのかもしれない。
他方で、時間感覚を身に着けることがなかったような、サラワクのプナンのような人たち。三次元空間における二次元的な移動、遊動のさいに、狩猟採集民は、<時空>の奥深くから突如として立ち昇るかのようにして現れる時間の次元だけを、<時空>から分離して、抽出したいというような衝動に向き合うようなことがなかった。それは、仮説的に述べれば、狩猟採集民が、時だけを飼い慣らし、管理するというような必要がなかったためなのではないだろうか・・・

(写真は、車に載って、狩猟に出かけるプナンの人たち)


倫理の起源

2007年12月20日 22時19分20秒 | 起源人類学

狩猟した動物を遊び道具にしてはいけない。そういうことを、とりわけ、プナン人の子どもたちは、得てして、しがちである。だからこそ、そういった「してはいけない」というタイプの命令がなされるのではないだろうか。同時に、プナン社会では、狩猟した動物は、すぐさま解体して、料理して、食べなければならないともされる。そのようなプナン人たちの日常の態度は、わたしにとっては、モノトーン的で、趣に欠けるように感じられた。なぜならば、人間を生かしてくれる恵(=動物)に対する感謝の気持ちというようなものが、プナン人の暮らしをつうじて、どこにも見当たらならなかったからである。それらは、純粋な心をもって(=見返りのようなものを期待せずに)、贈られたモノに対して、何の感情表出も示すことなく、それを平然と受け取るだけの、<倫理>的ではない行動であるように思えたからである。

ところが、プナン人が感謝のことばを持たず、感謝をめぐる固有の表現を持たないということがしだいに分かってくると、逆に、そのように、与えられた恵(=動物)に対して、感謝を表明することがない平明な態度こそが、いつしか、プナン人たちの<倫理>のようなものなのではないかと思えるようになってきた。

与えられたものに対して、何の返礼もしないこと。それは、与えてくれた相手の「心」に、見返りを期待する気持ちがない、清廉さみたいなものを際立たせる。それこそが、見返りを期待することによって、人を交換の関係図式へと立ち入らせる「俗なる」贈与ではなく、一方的に、人間に対して与えられるという、自然からの「聖なる」贈与の意味、つまり有難さを余計に浮き立たせるのではないだろうか。ひるがえって、礼も述べなければ、返礼もしないで、黙々とそれを消費するということこそが、見返りを期待せずに、純粋なかたちで与えられた恵(=動物)に対して、じつは、何ごともなしえない、ちっぽけなる存在である人間ができる唯一のことだったのである。そのように考えたからこそ(意識的に考えているとは思えないが)、
「狩猟した動物を遊び道具にしてはいけない」「解体してすぐに食べなければならない」というような、<倫理>を作動させたのではないだろうか。

はたして、そのようなものを<倫理>と呼んでいいのかどうか、いくぶん心許ない。ではあるが、ここしばらく、<倫理>について考えている。考えれば考えるほど、分からなくなってきている。諸々の厄介な問題は、すっ飛ばした上で、将来の考察のために、とりあえず、以下で、その一部にことばを与えておきたい(
先達の智慧を借りてであるが)

「人間という生物に社会を作らせようとする根本のものは、自然よりほかにはないだろう。自然が人間に群れを作らせるために与えたものは、本能ではなく、知性だった。・・・知性は何とか努力して、共同体の維持につとめる。法律、道徳、神話はこうして発明される。・・・共同体に向かって知性の活動全体に染み透るような倫理への根源の欲求が、自然そのものによって植え付けられていなくてはならない。そうでなければ、人間社会は、つまり人間そのものは、自滅してしまうだろう。自然はそれ(=倫理)を植えつけたのである。・・・私たちは知っている。私たちの身近で磨かれる無数の技術が、倫理への隠れたひとつの欲求によって、強く、深く動かされて組織されることがあるのを。日常のこうした技術がなかったなら、私たちの社会はもっとはるかにすさんだものになっているに違いない」(前田英樹『倫理という力』91ページ)。日々のあらゆる技術の研磨・研鑚の過程のなかに、<倫理>が宿っていたのである。
<倫理>は、そのように、共同体のなかに、知性によって生み出されたものでありながら、人間に社会をつくらせようとする自然を出自とする。要は、<倫理>の起源は、われわれ人間の内側にあるのではなくて、自然にあるということだろうか。

そのような論点は、マルク・キルシュ編『倫理は自然の中に根拠をもつか』という学際的なシンポジウムの成果をまとめた本の流れにシンクロする。そこでは、「我々の行動のあるものが、独自の道徳的な根拠をもっていると考えられていたのに、実は生物学的な土台、自然的な基盤をもっているということが示される」(13ページ)。その書のなかで、<倫理>の進化論的な説明が、大きくクローズアップされる。「倫理とは、ある種に属する生物体が、その生存の様式を、その生き残りと適応度を確保する形式だということだ。ヒトという種は、生物が進化の途上でとっている形の一つでしかなく、これも一般法則に従う。倫理は、我々を通じて、生命の役に立っているのだ」(8ページ)。そのような進化論的な<倫理>への接近は、ドーキンスの「利己的な遺伝子」に対して、それだけでは説明できない、生物の<倫理>行動のありようを捉えようとした、マット・リドレーの『徳の起源~他人を思いやる遺伝子』に深く関わっているように思える。

<倫理>に関して、人類学がなしえるのは、山の向こうとこちら側で、<倫理>行動とそれに対する考えが異なっているということを示すことだけでは、おそらく、ない。人類学は、<倫理>と呼ぶべきものが、人間社会においてどのように現れたのか、という問いに対して、議論を重ねて、上で見た諸説に対抗しうるような見方を提示することができるのではないだろうか。
<倫理>の起源が、人間の行動や思考の内側にあるのではなくて、生物学的な土台、自然のなかにあるのではないかという仮説は、いたって興味深い。<倫理>の起源に関して、いまのところ、わたしが言えることは、あまりに少なすぎる。

(写真は、ロンドンのビッグベン:2005年撮影)


宗教の起源~ドーキンスによる~

2007年12月18日 22時24分15秒 | 宗教人類学

「宗教と呼ばれるべきものが、どのように人間社会に出現したのだろうか」。それは、昨年サラワクの(元)狩猟民プナンを調査をしたおりに、宗教的な儀礼とでも形容すべきものが一つだけしかなく、プナン人たちが、きわめて萌芽的なかたちでしか、「宗教的実践」をおこなっていないことに気づいたときに、わたしの心に浮かんだテーマである。

思えば、宗教人類学は、宗教の合理性をめぐる議論や、近代化過程における宗教の変化に頓着するあまり、19世紀の人類学者たちが、アニミズムやアニマティズムを持ち出して考えた壮大なテーマを放ったらかしにしてきた(いる)のではないだろうか。その意味で、リチャード・ドーキンスの『神は妄想である』には、1章分を「宗教の起源」に割いている点で、ひときわ興味をそそられた。

いったいどんな議論をしているのだろうか。進化論にベースを置くドーキンスの宗教起源論は、一風変わっている。

ロウソクの炎に飛び込み、焼身自殺をするガ(蛾)。しかし、それは、偶然の事故ではない、とドーキンスはいう。人工的な光が登場したのは、最近のことである。それまで夜間に光といえば、月と星だった。ガをはじめとして昆虫たちは、光学的に無限の彼方にある天空の物体から来る光をコンパスとして利用して、進路を取る。「ロウソクの近くで、それをあたかも、光学的に無限の彼方にある月であるかのように、30度(あるいは定まった角度であれば何度でもいいのだが)という経験則を適用している神経系は、らせん状の飛跡を描きながら突入するような方向へとガを導くことになる」(『神は妄想である』、早川書房、255ページ)。ガの焼身自殺とは、ふだん役に立つコンパスが「誤作動」した副産物なのだと、ドーキンスは考える。

その上で、人間の宗教とは、ガの「焼身自殺行動」と同じであると、と推論する。「実証可能な科学的事実にはっきりと矛盾するような信念、すなわち信仰を抱き、また競合する他の宗教もほかの人々に同じように信望されているということが観察される。人々はそうした信念を熱狂的な確信をもって支持するだけでなく、その信仰を抱くがゆえになさなければならない負担の大きい活動に、時間と資源をささげるのである。彼らは信仰のために死に、信仰のために人を殺す」(同256ページ)。

それが、ガのコンパス航法の「誤作動」のようなものであるならば、宗教が人間に対して利益をもたらすような特性とはいったい何なのだろうか。ドーキンスは、そのように議論を進めた上で、「子供に関する」仮説にたどり着く。

「人間はほかのどんな動物よりも、先行する世代の 蓄積された経験によって生きのびる強い傾向をもっているのであり、その経験は、子供たちの保護と幸福のために、子供に伝えられる必要がある。理屈の上では、子供は自らの実体験によって、あまり崖っぷち近くまで行かないよう、食べたことがない赤い実は食べないように、ワニの潜む川では泳がないように学ぶことができると言うことができるかもしれない。しかし、どんなに控えめに言っても、『大人が言うことは、疑問をもつことなく信じよ、親に従え。部族の長老に従え、とくに厳粛で威圧的な口調で言うときには』という経験則をもっている子供の脳に淘汰上の利益があるはずだ」(257ぺージ)。宗教は、特に、子供に対して「疑いをもたず服従する」という行動を生み出す。それがゆえに、生存上の価値がある、とドーキンスは考える。

このようなドーキンスの「宗教の起源」をめぐる進化論的な説明には、やや、がっかりである。ドーキンスは、非=科学的に世界の創造を説く宗教(とりわけ、キリスト教)が、科学を目の敵にし、その教育研究の進展を阻んできた(いる)状況に業を煮やすことに躍起になりすぎているように(=冷静でないように)、わたしには思える。
宗教が「誤作動」しているという考え方は、前出のプナンの萌芽的な宗教の形態に照らしてみた場合、妥当ではないように思われる。宗教のために、プナン人は、時間と資源を捧げたり、信仰のために死んだり、人を殺すというようなことはない。それに対して、宗教には生存上の価値があるという、ドーキンスの見解は魅力的に思える。宗教的な実践について言えば、人間は、なぜそうしなければならないのかについて問うことなく、その行動に盲従することが多いからである。そして、そのことは、それらに付き従う人たちに利益を与える。

最後に、「宗教の起源」を探究する場合、科学が目指すべきなのは、ドーキンス的な進化論的な説明ではなくて、より実証的な、例えば先史考古学(認知考古学)が挑んでいるような説明なのではないかと、わたしには思える。とりあえず、そのことを書き留めておきたい。

(ロンドンのテムズ川:2005年撮影)
 


時間の先史考古学

2007年12月11日 22時35分03秒 | エスノグラフィー

昨日聞きに行ったシンポジウム(第4回総合人間学国際シンポジウム『開放知としての科学と宗教』、東京外大AA研、日本パスツール協会、笹川日仏財団共催)の講演のなかで、京都大学の山中一郎教授の話題提供において、<ヒトの時間の獲得>について考えるための興味深い話があったので、その概略を記して備忘録としたい。

いまから150万年前に出現した原人は、石器を作製するようになった。50万年前になると、ヒトは、石材を石で叩き、ハンマーを作りだした。そのころに、ヒトの祖先は、叩くジェスチャーや叩かれる石材の保持のしかたの違いによって、石片の割れ方が異なることを認知したのだという。

山中先生は、そのころになると、ヒトの祖先が、「命題的推理(proposiional reasoning)」と呼びうるような頭脳の使い方を発達させたのではないかという。つまり、石を叩いたらどうなるか分からずにたんに石を叩くというのではなくて、
別の角度から言えば、石を叩いて、割れた結果を見て、次に叩き方を考えるというようなやり方ではなくて、あらかじめ、出来上がりの石器の「設計図」のようなものを想定した上で、どう叩いたら、その設計図のとおりに仕上げることができるのかを考えて、石器づくりをしていたのではないかというのである。

それは、わたしたちが、母親を午前9時半の病院の診察に間に合わせるためには、9時には病院に到着していなければならないし、そのためには、8時半に家を出なければならない、さらには、朝食を食べて用意をするために7時には起きていなければならない・・・などというふうに推論するのと同じような脳の使い方である。

山中先生は、ハンドアックスを作製した原人たちは、「時間の流れの上に、行うべき動作を想定して、作業を行っていたのではないだろうか」と考えているようだった。話は、道具製作だけでなく、あらゆる事柄において、
予測できないような事態が出てくることがあり、その不安を克服するために、宗教や科学が出てきたのではないかという仮説のようなものの披瀝へと移っていった。

わたしが特大の関心を抱いたのは、道具の製作過程において「命題的推理」が行われるためには、その前提として、「時間」の流れが意識されていなければならなかったということである。時間は、「命題的推理」型の思考が可能になるような、何らかの作業や行為とともに出現したのではないか。それは、<ヒトの時間の獲得>をめぐる魅力的な仮説であるように思える。先史考古学の研究は、「時間」について考える大きな手がかりを与えてくれるような予感がする。 http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/d87380cfa38c8884cb317393612e757c

(写真は、本文とはまったく関係がないが、ロンドンのハロッズ本店:2005年撮影)


文化人類学講演会

2007年12月04日 22時25分38秒 | 大学

以下、今週金曜日(12月7日)の講演会のお知らせです。

桜美林大学・文化人類学専攻 第2回講演会
<<演題>>
フィールドワークに学ぶ
~メキシコ、スペイン、アメリカ・カナダでの経験から~
黒田悦子先生(国立民族学博物館・総合研究大学院大学・名誉教授)をお招きして、先生のこれまでの豊富なフィールドワークのご経験について、お話をうかがいます。

<<日時>>
2007年12月7日(金)16:10~17:40
<<
場所>>
桜美林大学町田キャンパス明々館 A408教室
アクセスは以下のページへ。
http://www.obirin.ac.jp/001/030.html

関連URL:
http://www.obirin.ac.jp/headline/0501.html

(写真はまったく関係ないけれど、邪術師を暴き出すために、ボルネオ島カリス社会でおこなわれた神明裁判の様子)