たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

フィールドの内側

2006年12月01日 11時15分58秒 | フィールドワーク

今年の4月に、プナン社会でフィールドワークをはじめて、半年ほどの間、わたしは、そこに居心地の悪さを、つねに感じていたように思う。最初の数ヶ月は、わたしにひんぱんに資金援助をもとめる人たち、わたしの所持金や所持品を借りても返すことがない人びと、わたしの所持品を使いまわしたり、壊してもそのまま何も言わず放っておく人たちなどなど…に対して、いらだたしい気持ちを押さえつけ、戸惑う気持ちや、信じられない思いを、フィールドノートいっぱいに書きつづっていた。わたしは、40年ほど前に、ジャングルのノマド生活から近代へと新規参入したプナン社会は、社会環境の激変によって、深い構造的な問題を抱えているのではないかと、いつも、感じていたように思う。プナンは、政府の環境保護政策のために狩猟ができなくなり、くわえて旱魃で食べるものが無くなり、人間らしさや思いやりをもはや忘れ去って、「喰うものをくれ!」と、外からやって来た人類学者にいきなりねだる、ウガンダのイク社会の人びとのようだ、と(コリン・ターンブル、ブリンジ・ヌガグ、1974年)。わたしは、逃走しようかと、何度も思い悩んだが、狩猟に同行することやインタヴューを進めることで、かろうじで、プナン社会にとどまっていた。その後、住み始めてから半年以上経って、ようやく最近になって、わたしは、プナン社会の端に、わたし自身の居場所を見い出し、いまでは、反対に、心地よささえ感じるようになってきている。その転機はいったい何だったのだろう、と自問してみる。

その転機は、わたしが、彼らのハンティングについて調査に行くという、このフィールドワークのそもそものテーマをめぐる活動のなかに、ひそんでいた。ハンティングについていく前に、わたしは、ハンターたちの求めに応じて、銃弾を数発買って、ハンティングに行くメンバーに配っていた。ハンティングに行くと、運がよければ、イノシシが捕れる。その場合、ハンティングに行ったメンバーは協力して、その肉を、ロギング・キャンプやクニャー人が経営する店に売りに行く。そして、売って得たお金を、ハンティングに行ったメンバー全員の間で、均等に分配するのである。たとえば、50キロの猪肉がキロ当たり6リンギット(約180円)で売れた場合、販売金の300リンギット(約9000円)は、ハンティングに出かけた3人の間で均分する。一人当たり、100リンギット(約3000円)を受け取ることになる。ハンターたちは、調査者であるわたしも、ハンティングのメンバーの員数に数えようとした。わたしは、自分が受け取ると、このような活動以外ほとんど現金収入がない彼らの取り分が減ることになるのと、金を受け取ることが、わたしの目的ではなく、ハンティングに同行して、調査をすることが目的なので、分配金を受け取らないことを、最初のときに明言していた。ところが、プナン人は、猪肉が売れると、いつも、わたしに分配金を手渡そうとした。そうするのが、プナンのやり方なのだといって。これまで、所持品や所持金にたかって、わたしを悩ました人たちは、まるで別人のように、かたくなに、猪肉販売の分配金を受け取るように、わたしに強く求めたのである。最初のころ、受け取りを断っていたわたしは、共同体のリーダーのすすめもあって、やがて、彼らのやり方に身をゆだねて、猪肉の販売金の分配金を受け取るようにした。

そのようなお金の均等分配は、じつは、たんに、ハンティングだけに限られたことではなかった。11月の1ヶ月のうち3週間を、わたしは、誘いにしたがって、木材の切り出し作業グループのキャンプに同行した。彼らは、かつて、木材会社による商業的な森林伐採活動において切り倒されたが、切り倒されただけで、そのまま放置され、現在、ジャングルのあちこちに埋もれてしまっている鉄木を、見つけ出し、チェインソーで切り出して、販売して現金を得ようとしていた。わたしは、3人の成人男性とその家族、総勢約10名とともに、ジャングルのなかのキャンプで暮らした。そこで、わたしは、男たちが、獣を探しに行くのに同行し、雷神に対する祈願文などを録音、トランスクライブし、インタヴューなどをおこなったりして、調査を遂行した。最初、3人のプナンの男たちは、キャンプ生活に必要な物品を買うために、木材を買い上げてくれることになっているカヤン人の商人から、100リンギット(約3000円)を前借りした。それを、わたしも含めて4人の成人男性に、均等分配したのである。そのとき、わたしは、25リンギットを受け取った。さらに、遅々として進まない木材の切り出し作業であったが、今度は、切り出し終えた木材をカヤン人の商人に売った代金の4分の1を、彼らは、わたしに分け与えたのである。わたしは、チェインソーを使って、切り出し作業をやったこともなければ、その手伝いさえしたことがなかったので、そのような分配金を受け取るのは、いくぶん気が引けた。たしかに、わたしは、そのキャンプのために、わたしのバイクを提供したり、米や塩、砂糖などの食料品を買い出して、キャンプに持っていったりしたので、それなりに、前借り金や利益の分配を受ける権利があったのかもしれない。いずれにせよ、わたしは、それまでの経験をふまえて、ことのなりゆきに任せて、それらの分配金を受け取ることにした。彼らがいうように、それが、プナンのやり方なのである。

共同作業としての木材の切り出し作業に同行したとき、いつのまにか、わたしは、その一端を担うメンバーの一人として、数え上げられていたのである。それに応じて、プナンのやり方に身をゆだね、フィールド状況のふところへと入りこむことによって、わたしには、そこで暮らすことが、しだいに、心地よいものとして感じられるようになっていった。高くそびえる木々に囲まれているがゆえに、熱帯の暑熱が遮断される、涼やかなジャングル。そこで暮らすことが、ひじょうに快適であるということも、わたしの心境変化におおいに関係しているのかもしれない。わたしは、そのようにして、人びとの暮らしの外側にいて、いつも資金援助を求められ、所持品を使い果たされたるような存在から、人びとの暮らしの内側へともぐり込み、参加メンバーがおこなう作業のかたわらに寄り添いながら、わたしと一体化したメンバーの共同の目的達成のために、状況に応じて、直接的・間接的に、その外側にいる他者に資金援助を求めたり、所持品を借りる側の一人となった。それが、調査者としてのわたしが、フィールドにおいて自らの居場所を見つけるまでの道のりだったように思える。それは、また、わたしにとって、プナン人に染みついた共同性(状況に依存しながら、共同で生きてゆくための活動をすること)というノマド時代からのエトースのようなものを、頭で理解するだけでなく、経験をつうじて受肉化するための道程であったのかもしれない。同時に、そのことによって獲得した居心地のよさは、わたしに、生き地獄たる現代日本社会へと帰着せずとも、わたし自身の残りの人生を、ここで、プナンととともにあってもいいのではないか、というような、これまで感じたことがなかった、新たな気持ちの芽生えをもたらしたのである。